ジャストシステム:「KTIS」と「一太郎」による日本語処理への一点集中
東芝系オフコン代理店から一太郎の標準獲得へ
1979年〜親を養うために選んだ独立と、漢字処理への集中
浮川和宣氏は1949年5月に愛媛県で生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業して船舶用電機メーカーの西芝電機に入社した。在職中は船舶用クレーンの制御を通じてコンピュータに触れ、この先で最も伸びる産業はコンピュータ関連だという確信を得ていた。6年間勤めたのち、いずれ自分と妻の双方の親を養う必要があり、それには勤め人では足りないと考えて退職した。1979年7月、妻の初子氏の実家の応接間を改造した事務所で、東芝系のオフィスコンピュータ販売代理店としてジャストシステムを興した。東芝の機種を扱うと決めたのも、漢字処理の機能が当時最も進んでいたからであった。1981年6月に株式会社として設立し、浮川氏が社長、初子氏が専務に就任した。
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- [1]浮川和宣氏は1949年5月生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業し、4月に西芝電機へ入社した
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [2]西芝電機では船舶用クレーンの制御を通じてコンピュータに触れ、この先最も伸びる産業はコンピュータ関連だとの確信を持っていた
- [3]浮川和宣氏は西芝電機に6年間勤めた後、親の扶養を理由に勤め人をやめて独立した
- [4]1979年7月、初子夫人の実家の応接間を改造した事務所で東芝系オフコン販売代理店として創業した
- [5]東芝のオフコンを扱うと決めたのは、漢字処理機能が当時最も進んでいたためであった
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [6]1981年6月に株式会社ジャストシステムを設立し、浮川和宣氏が社長、浮川初子氏が専務取締役に就任した
浮川初子氏は1951年3月に徳島県で生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した。コンピュータ関係なら新しい分野で、卒業後も女性がこなせる仕事がありそうだという見通しからの進学であった。1973年に卒業して外資系計算機メーカーの高千穂バロースに入り、オフィスコンピュータのソフトウェア開発に携わった。1975年1月に同級生だった和宣氏と結婚し、姫路市のコンピュータ販売会社でシステムエンジニアを務めたのち、1979年に徳島へ戻って創業に加わった。創業には、結婚前から基本ソフトの開発に携わってきた初子氏の力添えがあった。創業の年に手がけたのは、促成栽培用ビニールハウスのフィルム販売管理システムであった。初子氏はその後の半年間、発注元の吉成種苗へ手弁当で通い詰めて細かな要望を聞き取り、出来上がったソフトは機器の性能が上がっても7年間は手直しなしで使われた。
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [7]浮川初子氏は1951年3月20日徳島県生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した
- [8]浮川初子氏は、コンピュータ関係なら新しい分野で卒業後も女性がこなせる仕事がありそうだと考えて電子工学科へ進んだ
- [9]浮川初子氏は1973年に卒業後、外資系コンピューターメーカーの高千穂バロースでオフコンのソフトウェア開発に従事した
- [10]1975年1月に大学の同級生だった浮川和宣氏と結婚し、姫路市在住でコンピューター販売会社へ転職してシステムエンジニアを務め、1979年に徳島へ帰郷して創業した
- [12]創業当初の1979年に作ったのは促成栽培用ビニールハウスに使うビニールフィルムの販売管理システムであった
- [13]浮川初子氏は半年間にわたり発注元の吉成種苗へ手弁当で通い詰め、完成したソフトはハードの性能が向上しても7年間手直しなしで使われた
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [11]創業には、結婚前に高千穂バロースでミニコンの基本ソフト開発に携わっていた初子夫人の力添えがあった
ジャストシステムは1980年代初め、酪農家の飼料配合管理のような業種を限ったオフィスコンピュータ向け受託ソフトを作っていたが、浮川和宣氏はこれを多数の一般利用者に売る商品へ切り替えると決め、対象に日本語ワープロを選ぶ。漢字処理の市場が手つかずだったのは、コンピュータに携わる技術者なら英語を使えれば足り、日本語を扱う必要はないとする考えが当時強かったからである。漢字を処理できる16ビット機のパソコンが現れると、和宣氏は、パソコン事業の先行きを危ぶむ初子氏を口説いて開発に踏み出した。口説き方は、プログラムを書く初子氏の隣で漢字変換を実演し、技術者としての関心をかき立てるというものだった。受託では顧客の数だけ仕様が増えるが、パッケージなら一つの仕様を複製して売れる。
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [14]ジャストシステムはそれまで酪農家向けに飼料配合を管理するソフトなど、オフコンを使った特定業種向けの業務用ソフトを作っていた
- [15]浮川和宣氏には不特定多数のユーザーを相手にするソフトに挑戦したいという考えがあり、それがワープロであった
- [18]浮川和宣氏はプログラムを組む初子氏のわきでパソコンによる漢字変換をしてみせ、技術者としての関心を誘う形で説得した
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [16]当時は「コンピューターの専門家なら英語ができて当然、日本語など必要ない」という雰囲気が支配的であった
- [17]漢字が扱える16ビットパソコンが登場すると、浮川和宣氏はパソコンにしり込みする初子夫人を説き伏せて日本語ワープロソフトの開発に乗り出した
参考文献[1]-[18]
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- [1]浮川和宣氏は1949年5月生まれ、1973年3月に愛媛大学工学部を卒業し、4月に西芝電機へ入社した
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [2]西芝電機では船舶用クレーンの制御を通じてコンピュータに触れ、この先最も伸びる産業はコンピュータ関連だとの確信を持っていた
- [3]浮川和宣氏は西芝電機に6年間勤めた後、親の扶養を理由に勤め人をやめて独立した
- [4]1979年7月、初子夫人の実家の応接間を改造した事務所で東芝系オフコン販売代理店として創業した
- [5]東芝のオフコンを扱うと決めたのは、漢字処理機能が当時最も進んでいたためであった
- [11]創業には、結婚前に高千穂バロースでミニコンの基本ソフト開発に携わっていた初子夫人の力添えがあった
- [16]当時は「コンピューターの専門家なら英語ができて当然、日本語など必要ない」という雰囲気が支配的であった
- [17]漢字が扱える16ビットパソコンが登場すると、浮川和宣氏はパソコンにしり込みする初子夫人を説き伏せて日本語ワープロソフトの開発に乗り出した
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [6]1981年6月に株式会社ジャストシステムを設立し、浮川和宣氏が社長、浮川初子氏が専務取締役に就任した
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [7]浮川初子氏は1951年3月20日徳島県生まれ、1969年4月に愛媛大学工学部電子工学科の開設1期生として入学した
- [8]浮川初子氏は、コンピュータ関係なら新しい分野で卒業後も女性がこなせる仕事がありそうだと考えて電子工学科へ進んだ
- [9]浮川初子氏は1973年に卒業後、外資系コンピューターメーカーの高千穂バロースでオフコンのソフトウェア開発に従事した
- [10]1975年1月に大学の同級生だった浮川和宣氏と結婚し、姫路市在住でコンピューター販売会社へ転職してシステムエンジニアを務め、1979年に徳島へ帰郷して創業した
- [12]創業当初の1979年に作ったのは促成栽培用ビニールハウスに使うビニールフィルムの販売管理システムであった
- [13]浮川初子氏は半年間にわたり発注元の吉成種苗へ手弁当で通い詰め、完成したソフトはハードの性能が向上しても7年間手直しなしで使われた
- [14]ジャストシステムはそれまで酪農家向けに飼料配合を管理するソフトなど、オフコンを使った特定業種向けの業務用ソフトを作っていた
- [15]浮川和宣氏には不特定多数のユーザーを相手にするソフトに挑戦したいという考えがあり、それがワープロであった
- [18]浮川和宣氏はプログラムを組む初子氏のわきでパソコンによる漢字変換をしてみせ、技術者としての関心を誘う形で説得した
1982年〜商標を持たない会社が自社ブランドを取り戻すまで
1982年10月、ジャストシステムは日本語処理システム"KTIS"を発表した。日本語は論理で割り切れない言語なので、かな漢字変換では例外の処理が次々に連なり、一つを片づけると別の例外が手つかずになる。浮川初子氏はこの連なりを一件ずつ根気よく解いていった。日本語は文化として丁寧に扱うべきものだというのが初子氏の考えだった。米国製の開発ツールに不具合があれば、納得がいくまで米国に電話をかけて問いただした。一太郎の前身となる"JSワード"はこうした作業の末に1983年にでき上がり、編集メニューをワンタッチで呼び出せる作りを備えていた。1985年春、日本アイ・ビー・エムのパーソナル・コンピュータ事業開発本部長が徳島の事務所を訪ねた。文節単位の変換さえ難しかった時代に長い文を一度に変換してみせられ、本部長は地方にいる天才には太刀打ちできないと感嘆している。
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [19]1982年10月に日本語処理システム「KTIS」(現「ATOK」)を発表した
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [20]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
- [21]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
- [22]浮川初子氏は使用していた米国製の開発用ソフトの問題点に気付くと、納得するまで米国へ電話で問い合わせた
- [23]1983年に一太郎の前身である「JSワード」が生まれ、編集メニューをワンタッチで呼び出せる設計を備えていた
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [24]1985年春に同社を訪問した日本アイ・ビー・エムのパーソナル・コンピュータ事業開発本部長は、文節単位の変換がやっとの時期に長い入力文を一発で変換してみせられ、「街の天才にはかなわない」と舌を巻いた
商標の"JSワード"は契約でアスキーの持ち物とされていた。そのため、社員が10人にも届かない1984年夏に苦心して仕上げた最初のワープロソフトは、雑誌などではアスキー製品として取り上げられた。1985年春の時点でもワープロの開発要員は4人しかおらず、中核のかな漢字変換は若手技術者1人の肩にかかっていた。製品の発表を心待ちにしていた社員の失望は深かった。創業以来の片腕で開発リーダーを務めた取締役でさえ、気持ちが荒れて仕事に身が入らなかったと後年語っている。初子氏は見かねて、月曜を半ば強引に休みにし、週末と合わせた2泊3日の高知への社員旅行を仕立てた。社内の空気が一変したのは、旅館で輪になって語り合ったのがきっかけだったという。
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [25]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
- [26]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
- [28]創業当時からの初子氏の片腕で一太郎の開発リーダーを務めた取締役は、商標の一件の当時を「反抗的になって仕事をやる気もしなかった」と振り返った
- [29]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
- [30]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [27]1985年春の時点でワープロ開発に従事していたのは4人で、かな漢字変換は若い技術者が1人で手がけていた
アスキーとの関係は、初子氏がかけた1本の電話から始まっている。マイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトを商品として販売できるかどうかを問い合わせたところ、日曜に出社していた古川享氏が受けた。当時そこまで細かく気を配る利用者はおらず、古川氏は著作権への意識の高さに感心したという。二人は意気投合し、アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ。パソコン向けソフトの流通はまだ整っておらず、ソフトバンクの孫正義社長が若くしてその道を開いた時期にあたる。商標の一件で落胆した若手社員は、高知への旅行のあとIBMのパソコン向けに"JXワード"の開発へ入り、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を仕上げた。商標と引き換えに販路を得た関係は、ここで自社の名前を取り戻す側へ一度巻き戻された。
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [31]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
- [32]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
- [33]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
- [34]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
- [36]高知旅行の後、若手社員はIBMのパソコン向けに「JXワード」の開発に乗り出し、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を完成させた
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [35]ソフトバンクの孫正義社長は若くしてパソコンソフト流通に道を開き、一太郎の成功にも一役買った
参考文献[19]-[36]
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [19]1982年10月に日本語処理システム「KTIS」(現「ATOK」)を発表した
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [20]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
- [21]日本語は論理的に構築されていないため例外処理の連続になり、一つの例外を解決すると他の例外が処理できなくなったが、浮川初子氏は日本語を文化として尊重するという信念のもとで根気強く克服した
- [22]浮川初子氏は使用していた米国製の開発用ソフトの問題点に気付くと、納得するまで米国へ電話で問い合わせた
- [23]1983年に一太郎の前身である「JSワード」が生まれ、編集メニューをワンタッチで呼び出せる設計を備えていた
- [25]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
- [26]JSワードの商標は契約上アスキーが持っており、1984年夏、社員10人未満の時期に作った最初のワープロソフトはアスキーの商品として雑誌などに紹介された
- [28]創業当時からの初子氏の片腕で一太郎の開発リーダーを務めた取締役は、商標の一件の当時を「反抗的になって仕事をやる気もしなかった」と振り返った
- [29]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
- [30]商標問題で落胆した社員のため、浮川初子氏は月曜を休みと決めて週末2泊3日の高知旅行に出かけ、旅館では車座になって話し、旅行後に社内の気分が一新した
- [31]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
- [32]浮川初子氏がマイクロソフトの基本ソフトを組み込んだ応用ソフトの販売可否を問い合わせた電話を、日曜に出社していたアスキーの古川享氏が受けた
- [33]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
- [34]古川享氏は浮川初子氏の著作権に対する高い意識に感動し、その後アスキーからワープロソフトを販売する話が進んだ
- [36]高知旅行の後、若手社員はIBMのパソコン向けに「JXワード」の開発に乗り出し、わずか3カ月で初の自社ブランド商品を完成させた
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [24]1985年春に同社を訪問した日本アイ・ビー・エムのパーソナル・コンピュータ事業開発本部長は、文節単位の変換がやっとの時期に長い入力文を一発で変換してみせられ、「街の天才にはかなわない」と舌を巻いた
- [27]1985年春の時点でワープロ開発に従事していたのは4人で、かな漢字変換は若い技術者が1人で手がけていた
- [35]ソフトバンクの孫正義社長は若くしてパソコンソフト流通に道を開き、一太郎の成功にも一役買った
1985年〜半値の値付けで取った事実上の業界標準
漢字の処理こそ、誰もがコンピュータを扱うようになる世の中で壁になると浮川和宣氏は早くから見定め、そこに的を絞っていた。その答えとして1985年8月、日本電気のPC-9801向けに世に出た日本語ワードプロセッサが一太郎で、一般の利用者まで行き渡るよう従来製品の半値に抑えた価格と先端的な機能とが相まって、売れ行きは大きかった。国内ワープロソフトの首位の座は、発売から途切れることなく一太郎が占めた。会社の規模も膨らみ、発売翌期にあたる1986年4月期に9億円だった売上高は1991年4月期の見込みで約97億円となり、28人だった社員は約500人を数えるまでになった。
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [37]浮川和宣氏は、日本人一人ひとりがコンピューターを手足のように扱う時代が来ると考え、その時にネックとなる漢字の扱いに早くから的を絞った
- [39]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
- [40]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
- [42]一太郎発売の翌期にあたる1986年4月期に9億円だった売上高は1991年4月期見込みで約97億円となり、社員は28人から約500人に増えた
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [38]1985年8月に日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売した
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [41]一太郎は1985年8月の発売以来、国内のワープロソフトでナンバーワンの製品として支持された
営業と製品の構想は和宣氏が、技術と開発は初子氏が受け持ち、両氏は一日中そばにいて激しく言い合った。この体制があったから、半年に一度機能を強める一太郎の開発は、求められる速さに追いつけた。和宣氏の説明は筋が通っているように聞こえても、その裏にあいまいな点が隠れていることがある。初子氏はそこを鋭く突き、疑問が晴れるまで議論を引かなかった。ソフトバンクの孫正義社長は、夫婦のあいだで議論を尽くし事実上24時間体制で開発しているのだから製品の質が高いのは当然だと評した。創業後まもないころから交友のあった徳島大学工学部の赤松則男教授も、構想の担い手と一流のソフト技術者が夫婦で組んだ組み合わせの妙に成功の理由を見ている。徳島市郊外に建てた本社には社長自らショールームを回って集めた机と椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が設備の形で表れていた。
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [43]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
- [44]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
- [45]浮川初子氏は和宣氏の理路整然とした言葉に潜むあいまいさを敏感に察知し、疑問を解消するまで徹底的に議論を交わした
- [47]創立後間もないころから交友のある赤松則男・徳島大学工学部教授は、コンセプトメーカーである浮川社長と一流のソフト技術者である初子専務が組んだ夫婦の組み合わせの妙が成功の秘密だと分析した
- [48]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
- [49]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [46]ソフトバンクの孫正義社長は、夫婦の間で議論を尽くし事実上24時間体制で開発しているジャストシステムの製品が高品質なのは当然だと評した
一太郎の第4版への切り替えは1989年に開発が遅れ、出荷予定日が2度延びた。浮川和宣氏は、発売の時期を読み違えた責任は全面的に自分にあると認めている。出荷後に欠陥が判明して交換したものの、交換品も動作が遅いと苦情を集め、回収は最終的に16万本に達した。この間はほかの開発がまったく進まず、報道もそれまでの称賛から批判へと調子を変えた。社員は300人近くに増えており、同氏は彼らとともにこの局面をしのいだ。回収の年にあたる1989年6月には東京支社を開設して営業網を広げ続け、騒ぎが収まったとき、その年の売上は前年を上回っていた。誠実な対処と改訂内容の先進性から「一太郎」の評価はむしろ上がり、1991年5月末までに累計約88万本が売れ、不正コピーを含めた利用者は200万人を超えるとみられて、事実上の業界標準と呼ばれた。回収の規模そのものより、非を自分の判断へ帰して表に出した対応が、標準としての信用を固めた。
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [50]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
- [51]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
- [52]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
- [53]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
- [55]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
- [56]1991年5月末までの一太郎の累計販売は約88万本で、不正コピーを含めれば国内の利用者は200万人以上と見られ、事実上の業界標準と呼ばれた
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [54]1989年6月に東京支社を開設した
参考文献[37]-[56]
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- [37]浮川和宣氏は、日本人一人ひとりがコンピューターを手足のように扱う時代が来ると考え、その時にネックとなる漢字の扱いに早くから的を絞った
- [39]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
- [40]1985年8月に日本電気のパソコンPC-9801向けに発売された一太郎は、先端を行く機能と、一般大衆に広めるため従来製品の半値に設定した価格が受けて大ヒットした
- [42]一太郎発売の翌期にあたる1986年4月期に9億円だった売上高は1991年4月期見込みで約97億円となり、社員は28人から約500人に増えた
- [43]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
- [44]一太郎の開発では半年ごとの機能強化など常にスピードが要求され、製品づくりの鍵を握る2人が四六時中行動を共にして白熱した意見交換を行ったことでそれが可能になった
- [45]浮川初子氏は和宣氏の理路整然とした言葉に潜むあいまいさを敏感に察知し、疑問を解消するまで徹底的に議論を交わした
- [47]創立後間もないころから交友のある赤松則男・徳島大学工学部教授は、コンセプトメーカーである浮川社長と一流のソフト技術者である初子専務が組んだ夫婦の組み合わせの妙が成功の秘密だと分析した
- [48]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
- [49]徳島市郊外の本社には社長自らショールームを回って集めた机や椅子が並び、儲けた分は社員に還元するという経営姿勢が表れていた
- [50]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
- [51]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
- [52]一太郎を第4版へ移行する際に開発の遅れから出荷が2度延期され、出荷後に欠陥が判明して交換に応じたが交換品にも苦情が相次ぎ、最終的な回収本数は16万本に上り、その間ほかの開発は完全に止まり報道は一転して批判に回った
- [53]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
- [55]浮川和宣氏は騒動を「発売時期を巡る私の判断ミス」として非を認め、当時300人近くになっていた社員とともに危機を耐え、その年も増収を確保した
- [56]1991年5月末までの一太郎の累計販売は約88万本で、不正コピーを含めれば国内の利用者は200万人以上と見られ、事実上の業界標準と呼ばれた
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- [38]1985年8月に日本語ワードプロセッサ「一太郎」を発売した
- [54]1989年6月に東京支社を開設した
- 日経ビジネス 1998年3月9日号
- [41]一太郎は1985年8月の発売以来、国内のワープロソフトでナンバーワンの製品として支持された
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- [46]ソフトバンクの孫正義社長は、夫婦の間で議論を尽くし事実上24時間体制で開発しているジャストシステムの製品が高品質なのは当然だと評した
出典・参考
5件
- ジャストシステム 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1991年7月15日号
- 日経ビジネス 1993年9月13日号
- 日経ビジネス 1995年12月4日号
- 日経ビジネス 1998年3月9日号