DCMホールディングス:石黒金物店・かがみ薬局・大亀商事のホームセンター転換
1919年〜釧路の金物店、名古屋の薬局、松山のタイル商
DCMホールディングスを構成した3社のうち最も古い店は北海道にあり、1919年に石黒信市郎氏が釧路市で金物の卸と小売を営む石黒金物店を出店したことに始まる。戦後の1951年12月、この店は釧路市北大通に株式会社石黒商店として法人格を得た。金物を問屋から仕入れて地域の商店や工事業者へ流し、あわせて店頭でも売り、取り付け工事を伴う商品も多く扱っている。当時の日本には住まいに関わる商品を一つの店で揃える売り場がなく、家具は家具店とデパートの家具売場、家電は家電店とスーパーの家電売場、建材は建材店、工具と金物は金物店、塗料はペンキ店へと業種ごとに分かれていた。
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(石黒靖尋社長講演要旨)
- [1]1919年 石黒信市郎氏が釧路市で金物の卸・小売を営む石黒金物店を創業
- [2]1951年12月 釧路市北大通に株式会社石黒商店を設立
- [3]工事付きの商品を多く扱ってきた金物商としての蓄積
- [4]住関連商品は家具店・デパート家具売場・家電店・スーパー家電売場・建材店・金物店・ペンキ店に分かれた業種店で売られていた
中部の1社は薬局から始まり、1947年10月に鏡味順一郎氏が名古屋市でかがみ薬局を個人で開いて医薬品の小売に乗り出した。事業の拡大に合わせて1960年4月に合資会社クスリのかがみ、1969年6月に株式会社かがみを設立し、1970年2月にはカーマの前身となる大高商事株式会社を設立、翌1971年8月に株式会社カーマへ商号を変更している。1972年6月には牧清氏の株式会社花園、原博和氏の原商事株式会社、サンケイ薬品株式会社と、鏡味氏が経営する他の2社を合併した。社名は3氏の姓の頭文字を組み合わせたもので、合併の狙いは愛知県を中心にドラッグストア176店舗のチェーンを作ることにあった。
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- [5]1947年10月 鏡味順一郎氏が名古屋市でかがみ薬局を創業し医薬品の小売を開始
- [6]1960年4月 合資会社クスリのかがみ・1969年6月 株式会社かがみ・1970年2月 大高商事・1971年8月 カーマへ商号変更
- [7]1972年6月 株式会社花園・原商事・サンケイ薬品と鏡味順一郎氏の経営する他2社を合併
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- [8]社名カーマはオーナー3氏の姓の頭文字に由来・当初は愛知県中心にドラッグストア176店舗を目標
四国の1社はタイルを売る店から始まり、1958年に大亀孝裕氏が松山市でタイルと衛生機器を扱う大亀商事を創業した。1959年に有限会社、1962年に株式会社へ改組し、建築資材と住宅設備機器の販売と施工を中核に据えている。水回りの改修には貼る職人が要り、ダイキは1企業として最大数のタイル職人を抱えて職業訓練校まで設けた。1990年代前半には、四国で扱う東陶機器製品の売上が同社四国支社の販売額の34パーセントに達している。創業当時から分社経営をとり、建築資材の卸と浄化槽の設計施工を別々の会社が担う形は、1989年10月に主要3社を合併するまで続いた。
- 証券 1997年1月号(第49巻第1号)
- [9]昭和33年 大亀孝裕氏が愛媛県松山市でタイル・衛生機器等の住宅機器販売を行う大亀商事を創業
- [10]昭和34年 大亀商事有限会社へ・昭和37年 大亀商事株式会社へ組織変更
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- [11]1企業として最大数のタイル職人を擁し職業訓練校を設置
- [12]四国でダイキが扱う東陶機器製品の売上が東陶機器四国支社の販売額の34%に相当
- [13]創業当時からの分社経営
- [14]1989年10月 主たる3社が合併
参考文献[1]-[14]
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(石黒靖尋社長講演要旨)
- [1]1919年 石黒信市郎氏が釧路市で金物の卸・小売を営む石黒金物店を創業
- [2]1951年12月 釧路市北大通に株式会社石黒商店を設立
- [3]工事付きの商品を多く扱ってきた金物商としての蓄積
- [4]住関連商品は家具店・デパート家具売場・家電店・スーパー家電売場・建材店・金物店・ペンキ店に分かれた業種店で売られていた
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- [5]1947年10月 鏡味順一郎氏が名古屋市でかがみ薬局を創業し医薬品の小売を開始
- [6]1960年4月 合資会社クスリのかがみ・1969年6月 株式会社かがみ・1970年2月 大高商事・1971年8月 カーマへ商号変更
- [7]1972年6月 株式会社花園・原商事・サンケイ薬品と鏡味順一郎氏の経営する他2社を合併
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- [8]社名カーマはオーナー3氏の姓の頭文字に由来・当初は愛知県中心にドラッグストア176店舗を目標
- 証券 1997年1月号(第49巻第1号)
- [9]昭和33年 大亀孝裕氏が愛媛県松山市でタイル・衛生機器等の住宅機器販売を行う大亀商事を創業
- [10]昭和34年 大亀商事有限会社へ・昭和37年 大亀商事株式会社へ組織変更
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- [11]1企業として最大数のタイル職人を擁し職業訓練校を設置
- [12]四国でダイキが扱う東陶機器製品の売上が東陶機器四国支社の販売額の34%に相当
- [13]創業当時からの分社経営
- [14]1989年10月 主たる3社が合併
1973年〜渡米とオイルショックと創業20周年が呼んだ転換
176店舗のドラッグストアチェーンという構想は、着手して1年で行き詰まった。もろもろの法規制により出店は年に1店ほどしか進まないと判明し、1973年10月にホームセンター事業へ移っている。転換を決めたのは視察旅行で、流通業を研究するために渡米した鏡味順一郎氏が米国でのホームセンターの隆盛を目撃し、日本での将来性に着目したためである。同年10月、カーマは名古屋市にホームセンターの1号店を出店した。以後、1976年7月に岐阜県、1978年10月に静岡県、1980年11月に三重県へと出店先を広げている。出店を加速できた理由は一つではなく、住宅関連商品を総合的に売る店舗形態の新しさ、オイルショックを契機とした節約意識の高まり、余暇の増大、自動車の普及が同じ時期に重なった。
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- [15]愛知県中心にドラッグストア176店舗を展開する当初構想
- [16]法規制により年1店ほどしか出店できず1973年10月にホームセンター事業へ進出
- [17]鏡味順一郎氏が渡米して米国のホームセンターの隆盛を目撃し将来性に着目
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- [18]1973年10月 名古屋市にホームセンター1号店を出店
- [19]1976年7月 岐阜県・1978年10月 静岡県・1980年11月 三重県へ出店
- [20]出店拡大の背景は店舗形態の新しさ・オイルショックによる節約意識・余暇の増大・自動車の普及の4点
釧路の金物商を小売の側へ押し出したのは原油価格で、1973年のオイルショックを機に低成長の時代に入ったと見た石黒商店は、もっと川下へ行かなければならないと考えた。2年ほどの試行錯誤を経て1976年4月に釧路市へ1号店の中園店を出店している。滑り出しは順調で、それまでの小売業の経験がそのまま使え、工事付きの商品を長く扱ってきた蓄積は顧客にDIYの手ほどきをするのに役立ち、粗利も卸や工事より高かった。1978年1月には営業本部を釧路市から札幌市へ移し、道内最大の市場に近い場所で仕入と出店を決める体制に変えた。
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(石黒靖尋社長講演要旨)
- [21]1973年のオイルショックを契機に低成長時代に入ったと判断し川下への進出を決断
- [22]2年ほどの試行錯誤の末 1976年4月に釧路市へ第1号店の中園店を出店
- [23]小売業の経験の活用・工事付き商品の蓄積・卸や工事より高いマージン
- [24]1978年1月 営業本部を釧路市から札幌市へ移管
ダイキがホームセンターを始めたのは創業20周年にあたる1978年で、メーカーである環境機器部門と卸である住宅機器部門に次ぐ第三の事業を立てるという動機による。大亀孝裕氏は、銀座四丁目のソニービルの外にあった1坪あまりのソニースクェアが正月は雪割草、2月は菜の花と道行く人に四季を教えていたことに感動し、田舎のホームセンターでも玄関に花や木を置きたいと考えて、園芸とペットを扱うナーサリー併用型の店を国内で初めて開いた。出発点が住宅関連機器の販売と施工であったため関連商品を厚く揃え、取付・増改センターを開設して取付工事と増改築工事の注文も受けている。
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- [25]1978年 創業20周年にホームセンター事業を開始・メーカーと卸に次ぐ新事業
- [26]大亀孝裕社長が銀座のソニースクェアの四季の展示に感動し花と木を柱に据えた
- [27]園芸とペットを扱うナーサリー併用型店舗を国内で初めて開設
- [28]住宅関連機器の販売・施工を出発点とし取付・増改センターで取付工事と増改築工事を受注
参考文献[15]-[28]
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- [15]愛知県中心にドラッグストア176店舗を展開する当初構想
- [16]法規制により年1店ほどしか出店できず1973年10月にホームセンター事業へ進出
- [17]鏡味順一郎氏が渡米して米国のホームセンターの隆盛を目撃し将来性に着目
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- [18]1973年10月 名古屋市にホームセンター1号店を出店
- [19]1976年7月 岐阜県・1978年10月 静岡県・1980年11月 三重県へ出店
- [20]出店拡大の背景は店舗形態の新しさ・オイルショックによる節約意識・余暇の増大・自動車の普及の4点
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(石黒靖尋社長講演要旨)
- [21]1973年のオイルショックを契機に低成長時代に入ったと判断し川下への進出を決断
- [22]2年ほどの試行錯誤の末 1976年4月に釧路市へ第1号店の中園店を出店
- [23]小売業の経験の活用・工事付き商品の蓄積・卸や工事より高いマージン
- [24]1978年1月 営業本部を釧路市から札幌市へ移管
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- [25]1978年 創業20周年にホームセンター事業を開始・メーカーと卸に次ぐ新事業
- [26]大亀孝裕社長が銀座のソニースクェアの四季の展示に感動し花と木を柱に据えた
- [27]園芸とペットを扱うナーサリー併用型店舗を国内で初めて開設
- [28]住宅関連機器の販売・施工を出発点とし取付・増改センターで取付工事と増改築工事を受注
1979年〜店を増やす前に組み直した、発注と物流と商圏の設計
カーマが店舗数を伸ばす前に手を付けたのは、店ではなく発注と配送の側だった。1973年10月に名古屋市へ1号店を出した後、1976年7月に岐阜県、1978年10月に静岡県、1980年11月に三重県へと出店先を広げている。扱う品目は木材や園芸用品から家庭電気製品にまで及んだ。1980年6月、カーマは業界に先駆けて発注業務の電算化に踏み切った。翌1981年9月には、業務の効率化を目的として物流センターを開設している。出店を中部圏に集中させたことが物流費と管理費を低く抑える条件になっており、商圏の外へ出たのは裏側を固めた後の1983年8月だった。富山、石川、福井の3県でホームセンターを営む株式会社オスカーと手を組み、北陸へ出店地域を広げている。
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- [29]1973年10月 愛知県名古屋市にホームセンターの1号店を出店
- [30]1976年7月 岐阜県・1978年10月 静岡県・1980年11月 三重県へ出店
- [31]取扱商品は木材・園芸用品・工具・金物などのDIY用品と日用品・家庭電気製品等の家庭用品
- [32]1980年6月 業界に先駆けて発注業務の電算化を実施
- [33]1981年9月 業務の効率化を目的に物流センターを開設
- [35]1983年8月 北陸3県(富山・石川・福井)でホームセンター事業を営む株式会社オスカーと資本提携
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- [34]出店を中部圏に集中させることで物流コストと管理コストを低く抑制
ダイキが店を出す範囲を決めたのは1983年で、創業25周年にあたり、ホームセンターを始めて5年目の年だった。この年、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の架橋工事が始まっている。大亀孝裕氏は幹部を岡山県の鷲羽山へ連れて行った。橋が架かった後に四国の経営者として何を考えるべきか、中国地方の側から四国をどう攻めるかが、そこでの議論だった。決まったのは、愛媛、香川、広島、岡山の4県を主体に68店舗を置く瀬戸内ドミナント・エリア構想である。広島と岡山への出店は、この議論から出た。実際に広島県へ出たのは1988年、香川県へ出たのは1989年である。四国の内側で店を増やす代わりに、橋の向こう側を先に自社の商圏として数えた。
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- [36]1983年 創業25周年・ホームセンター開始5年目に瀬戸内ドミナント・エリア構想を提示
- [37]瀬戸内ドミナント・エリア構想を打ち出した時期に瀬戸大橋の架橋工事が着工
- [38]大亀孝裕社長が幹部を岡山県の鷲羽山へ同行
- [39]架橋完成後に四国側・中国側それぞれの経営者の立場から四国市場をどう見るかを議論
- [40]愛媛・香川・広島・岡山の4県を主体に68店舗の出店を目指す瀬戸内ドミナント・エリア構想
- [41]鷲羽山での議論の結果として広島・岡山への出店を決定
- 証券 1997年1月号(第49巻第1号)
- [42]昭和63年 広島県・平成元年 香川県へ出店
1983年、石黒商店は10店舗で年商100億円に達したが、その期の決算は増収減益に終わった。石黒靖尋氏は原因を店の運営ではなく、北海道という市場の条件に求めている。本州から海を渡る流通上の隘路があるため、問屋は商品をコンテナ単位でしか動かさず、運賃の上乗せを求めてきた。青森までは問屋が商品をばら単位で補充していたのに対し、北海道では問屋の補充が薄く、仕入価格もそのぶん高くなっていた。同じころ、カーマは物流センターを開いて発注を集約し、ダイキは瀬戸内4県への集中を決めている。三社が別々の地域で突き当たったのは、店の数ではなく店へ商品を届ける経路の設計だった。
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(石黒靖尋社長講演要旨)
- [43]昭和58年 10店舗で年商100億円を達成したが同年の決算は増収減益
- [44]増収減益の原因を問屋のフォローが少ないという北海道の特殊事情に帰した
- [45]本州からの流通上のネックにより問屋にコンテナ単位での運賃上乗せを求められ価格も高くなる
- [46]青森までは問屋が商品をバラでフォローしており北海道との差が大きい
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- [47]1981年9月 業務の効率化を目的に物流センターを開設
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- [48]愛媛・香川・広島・岡山の4県を主体とする瀬戸内ドミナント・エリア構想
参考文献[29]-[48]
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- [29]1973年10月 愛知県名古屋市にホームセンターの1号店を出店
- [30]1976年7月 岐阜県・1978年10月 静岡県・1980年11月 三重県へ出店
- [31]取扱商品は木材・園芸用品・工具・金物などのDIY用品と日用品・家庭電気製品等の家庭用品
- [32]1980年6月 業界に先駆けて発注業務の電算化を実施
- [33]1981年9月 業務の効率化を目的に物流センターを開設
- [35]1983年8月 北陸3県(富山・石川・福井)でホームセンター事業を営む株式会社オスカーと資本提携
- [47]1981年9月 業務の効率化を目的に物流センターを開設
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- [34]出店を中部圏に集中させることで物流コストと管理コストを低く抑制
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- [36]1983年 創業25周年・ホームセンター開始5年目に瀬戸内ドミナント・エリア構想を提示
- [37]瀬戸内ドミナント・エリア構想を打ち出した時期に瀬戸大橋の架橋工事が着工
- [38]大亀孝裕社長が幹部を岡山県の鷲羽山へ同行
- [39]架橋完成後に四国側・中国側それぞれの経営者の立場から四国市場をどう見るかを議論
- [40]愛媛・香川・広島・岡山の4県を主体に68店舗の出店を目指す瀬戸内ドミナント・エリア構想
- [41]鷲羽山での議論の結果として広島・岡山への出店を決定
- [48]愛媛・香川・広島・岡山の4県を主体とする瀬戸内ドミナント・エリア構想
- 証券 1997年1月号(第49巻第1号)
- [42]昭和63年 広島県・平成元年 香川県へ出店
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(石黒靖尋社長講演要旨)
- [43]昭和58年 10店舗で年商100億円を達成したが同年の決算は増収減益
- [44]増収減益の原因を問屋のフォローが少ないという北海道の特殊事情に帰した
- [45]本州からの流通上のネックにより問屋にコンテナ単位での運賃上乗せを求められ価格も高くなる
- [46]青森までは問屋が商品をバラでフォローしており北海道との差が大きい
筆者考察
三つの店に共通していたのは、扱う商品ではなく、商品の括り方を自分で決めたことである。釧路の金物商は問屋へ卸し、名古屋の薬局は医薬品を並べ、松山のタイル商は職人とともに現場へ入っていた。どれも業種で区切られた商売で、客の側から見れば、住まいを整えるのに何軒も回らなければならない。鏡味順一郎氏は渡米して米国の隆盛を見、石黒靖尋氏は原油高の先に卸の細りを読み、ダイキは工場移転で空いた土地の使い道を探していた。動機は三者三様だが、出てきた答えは同じ形をしている。業種の垣根を外し、家庭の暮らしという一つの単位で商品を並べ直すことだった。
転換から数年で三社が突き当たったのは、どれも店の外側にある条件だった。北海道では問屋が本州から商品をコンテナ単位でしか運ばず、店を増やすほど仕入価格が重くなる。中部では出店先が県境を越えるほど配送の距離が伸びた。四国では商圏そのものが海で閉じていた。1983年に石黒商店が増収減益を出し、カーマが物流センターを先に建て、ダイキが橋の向こう側を商圏に数えたのは、いずれも同じ問いへの別々の答えである。売り場をどう作るかではなく、売り場へ商品をどう届けるかが、この時期の競争の焦点だった。
出典・参考
5件
- 証券アナリストジャーナル 1989年11月号(石黒靖尋社長講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 1993年10月号(大亀孝裕社長講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 1994年1月号(第32巻第1号)(鏡味順一郎社長 講演要旨・1993年12月14日)
- 証券 1996年1月号(第48巻第1号)
- 証券 1997年1月号(第49巻第1号)