リガク・ホールディングス:Rigaku USAの法人化と販売・サービス子会社の設立
志村晶の輸出拡大からリガク設立による再編へ
1971年〜二代目志村晶の継承と完全週休二日制
理学電機の主力は、X線回折装置やX線分析装置、ミクロフォトメーターといった精密科学機器である。生産の工程に研究開発が必ず入るため、社員のほぼ半数が研究部門にいた。その理学電機が完全週休二日制に踏み切ったのは1972年である。社長は創業者の長男の志村晶氏で、資本金4,800万円、従業員570名の規模だった。人間の力量がそのまま生産性を左右する点で機械化された工場とは異なり、時短に際しても大がかりな設備投資や具体策はとられず、職場ごとに合理化を進めよとの指示だけが出た。同じ頃、東京の理学電機は創立から20年を越えて約600名、大阪の理学電機工業は創業から10年足らずで298名を抱えていた。
- 「ケース2・八年間の“時短努力”が結実――理学電機(株)」(近代中小企業 1973年 第8巻第7号)
- [1]主要製品はX線回折装置、X線分析装置、ミクロフォトメーター等の精密科学機器で、生産過程に必ず研究開発が含まれるため社員の半数近くが研究部門に従事していた
- [2]理学電機は昭和47年に完全週休二日制を実施した
- [3]1973年時点の理学電機は社長が志村晶、資本金4,800万円、従業員570名だった
- [4]機械化された工場と違い人間の能力が生産性に反映するため、時短への対策として大きな手は打たず、職場ごとに合理化を進めよと指示するにとどめた
- 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
- [5]1972年時点で理学電機工業(大阪)は創業以来10年足らずで人員約300名、姉妹会社の理学電機(東京)は創立20年を越え人員約600名だった
出発点は、時代に先んじて進もうとする経営の理念と、組合が出し始めた労働時間短縮の要望だった。1964年5月の隔週土曜半休、1969年5月の毎週土曜半休と段階を踏み、1971年には趣旨の説明とアンケート調査を社員に対して3回実施した。問うたのは時短への要望、出勤・退社時刻の希望、平日の労働時間延長の可否などで、一日の労働時間がいくらか延びても土曜が休みになる方を望む声が強かった。そのため隔週の週休二日制を挟まず、一気に完全実施へ移った。完全実施までに要した積み上げは9年に及ぶ。時間短縮による生産性の低下は起こらず、管理者を通じた時間配分の指導がそれを支えた。時短は労使協議会でも社員側から提起される議題の一つだった。
- 「ケース2・八年間の“時短努力”が結実――理学電機(株)」(近代中小企業 1973年 第8巻第7号)
- [6]常に時代の先を歩もうという経営理念と、組合から出始めた時間短縮の要望を背景に、月8時間の短縮を決定した
- [7]昭和46年の1年間に3回のアンケート調査を実施し、社員に週休二日制の趣旨を伝えた
- [8]隔週週休二日制の段階を踏まず完全週休二日制に踏み切ったのは、アンケートで一日の労働時間を若干増やしても毎週土曜が休みの方が良いという声が強かったためである
- [9]時間短縮による影響は生産性低下という形では表われず、社員に対する合理的時間配分の指導が管理者を通じて徹底されたことが理由だった
- 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
- [10]労使協議会では社員側代表から賃金制度・安全衛生・住宅問題・企業年金・利益平等分配の立案・福利厚生予算・残業処理・時短などの議題が提起された
労使関係の作り直しも制度の形を取った。1970年に労使協議会が設けられ、労使双方の役員全員を構成員として、経営計画の遂行状況、期末決算の結果、人事、賃金、職場環境、安全衛生、時短、福利厚生予算までを議題に載せた。あわせて利益平等分配制度が始まり、昇給と賞与は同種同規模企業の上位数社の平均妥結額を経営状態にかかわらず確保したうえで、税引後利益を内部留保50%、社員還元25%、株主配当25%の割合で分けた。東京の理学電機も1970年からこの制度を採り入れた。1972年の昇給では年功賃金から離れ、職位の決定にあたって年齢・勤続・学歴を一切外し、職務と能力の両面から格づけすることとした。
- 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
- [11]昭和45年に労使対等の原則に沿った労使協議会を設け、利益計画・期末決算・人事・賃金・安全衛生・時短・福利厚生予算などを議題とした
- [12]利益平等分配制度は、昇給・賞与を同種同規模企業の上位数社の平均妥結額を基準に経営状態にかかわらず確保し、税引後利益を内部留保50%・社員還元25%・株主配当25%で分配するものだった
- [14]昭和47年の昇給に際し従来の年功賃金からの離脱を明らかにし、職位決定にあたって年齢・勤続・学歴を一切無視して職務と能力の両面から評価することとした
- 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
- [13]東京の理学電機も昭和45年からこの制度を実施した
参考文献[1]-[14]
- 「ケース2・八年間の“時短努力”が結実――理学電機(株)」(近代中小企業 1973年 第8巻第7号)
- [1]主要製品はX線回折装置、X線分析装置、ミクロフォトメーター等の精密科学機器で、生産過程に必ず研究開発が含まれるため社員の半数近くが研究部門に従事していた
- [2]理学電機は昭和47年に完全週休二日制を実施した
- [3]1973年時点の理学電機は社長が志村晶、資本金4,800万円、従業員570名だった
- [4]機械化された工場と違い人間の能力が生産性に反映するため、時短への対策として大きな手は打たず、職場ごとに合理化を進めよと指示するにとどめた
- [6]常に時代の先を歩もうという経営理念と、組合から出始めた時間短縮の要望を背景に、月8時間の短縮を決定した
- [7]昭和46年の1年間に3回のアンケート調査を実施し、社員に週休二日制の趣旨を伝えた
- [8]隔週週休二日制の段階を踏まず完全週休二日制に踏み切ったのは、アンケートで一日の労働時間を若干増やしても毎週土曜が休みの方が良いという声が強かったためである
- [9]時間短縮による影響は生産性低下という形では表われず、社員に対する合理的時間配分の指導が管理者を通じて徹底されたことが理由だった
- 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
- [5]1972年時点で理学電機工業(大阪)は創業以来10年足らずで人員約300名、姉妹会社の理学電機(東京)は創立20年を越え人員約600名だった
- [10]労使協議会では社員側代表から賃金制度・安全衛生・住宅問題・企業年金・利益平等分配の立案・福利厚生予算・残業処理・時短などの議題が提起された
- [11]昭和45年に労使対等の原則に沿った労使協議会を設け、利益計画・期末決算・人事・賃金・安全衛生・時短・福利厚生予算などを議題とした
- [12]利益平等分配制度は、昇給・賞与を同種同規模企業の上位数社の平均妥結額を基準に経営状態にかかわらず確保し、税引後利益を内部留保50%・社員還元25%・株主配当25%で分配するものだった
- [14]昭和47年の昇給に際し従来の年功賃金からの離脱を明らかにし、職位決定にあたって年齢・勤続・学歴を一切無視して職務と能力の両面から評価することとした
- 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
- [13]東京の理学電機も昭和45年からこの制度を実施した
1971年〜60か国への輸出と1975年の合理化
国内の受注増が当分望めないと見て、販路は海外へ向かった。1971年10月に米国マサチューセッツ州へ営業所 Rigaku USA を開き、1972年3月に支店へ格上げ、同年7月に Rigaku USA, Inc. として法人化している。1974年には理学USAを現地法人に切り替え、あわせて西ドイツに理学西独を設立した。共産圏との貿易には最も早く着目し、中国とソ連にはまとまった輸出の実績を持った。1975年の時点で装置は世界の約60か国へ渡り、各地の見本市と展示会への出品が続けられた。国内の市場にも産業間・企業間の差と国家予算の重点があり、公害分析・省力化・省資源・品質向上を強く求める相手を選んで働きかける方針が採られた。
- 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
- [15]国内での大幅な受注増は当分望めないため、企業が生存し繁栄を続けるには海外に市場を求めざるを得ないとした
- [17]前年に理学USAの現地法人化と理学西独の設立を行い、アメリカ・ヨーロッパへの進出の足場を固めた
- [18]共産圏貿易には当社が一番早く目をつけ、中国・ソ連に相当まとまった輸出の実績を持っていた
- [19]理学の装置は世界の約60か国に輸出され、海外販売拡大のため世界各地の見本市・展示会に積極的に出品した
- [20]不況下でも産業間・企業間で大きな違いがあり国家予算にも重点指向があるため、公害分析・省力化・省資源・品質向上・事前保守開発を強く要請する市場へ積極的に働きかけるとした
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [16]1971年10月に米国マサチューセッツ州に営業所Rigaku USAを設立し、1972年3月に支店化、同年7月にRigaku USA, Inc.として法人化した
1974年からの総需要抑制策は、受注と売上に直に表れた。設備投資の繰り延べによって当初計画の修正を迫られ、伸びは対前年比20%程度にとどまる見込みとなった。前年の大幅な昇給を吸収しきれず、人件費の伸び率が付加価値の伸びを上回った。合理化は、時間外手当・消耗備品費・通信費・事務用消耗品費など27の勘定科目を統制経費とし、総額を対前年比10%削減する形で進められた。単位作業ごとに目標工数を定めて所定時間外の作業を対前年比30数%減らし、事務用消耗品は購入価格を見直して2割近い値下げに至った。受注の段階では顧客の狙いを把握して市場を予測し、ある程度の数量をまとめて生産することで工期の短縮と在庫回転の改善を図った。1975年7月には東京都西多摩郡羽村町に理学流通サービスセンターを設け、物の流れを本体から切り出している。
- 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
- [21]総需要抑制策の影響を大きく受け、受注・売上げは設備投資の繰り延べ等により当初計画の修正を余儀なくされ、対前年比20%程度の伸びに止まる見込みとなった
- [22]前年の大幅昇給を吸収しきれず、人件費の伸び率が付加価値の伸びを上回った
- [23]時間外手当・消耗備品費・通信費・事務用消耗品費等27の勘定科目を統制経費とし、総額を対前年比10%節減することを目標とした
- [24]単位作業ごとに目標工数を設定して所定時間外の作業を対前年比30数%減らす見込みとし、事務用消耗品等は購入価格の見直しで20%近い値下げを可能にした
- [25]受注段階で顧客の狙いを的確に把握してマーケットを予測し、ある程度の数量をまとめて生産することで工期短縮とコストダウン、在庫回転率の改善につなげた
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [26]1975年7月、東京都西多摩郡羽村町に株式会社理学流通サービスセンターを設立した
不況期には開発の的も移った。省力化・高速化・高精度化・省資源を狙って作ってきた装置は、公害を含む幅広い用途へ向けられた。鉱山の浮遊選鉱で回収率を高めつつ汚染を工程の段階で抑えるオンライン装置、鉄鉱・セメント・非鉄金属の工場で全工程の無人化を図る全自動分析装置、石油のイオウ濃度を測るオンラインSメータが並んだ。水道水や魚貝類、食品、毛髪、血液に含まれる微量水銀を、試薬を使わず0.1ppbオーダーで測る専用装置も作られた。1975年には工業用・研究用・公害用の分析システムで国内需要の約90%を占めた。1978年には超強力X線発生装置RU-1500を開発している。測る対象を産業の外へ広げたことが、装置の用途を研究室と生産ラインの二つに限らせなかった。
- 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
- [27]従来は省力化・高速化・高精度化・省資源で産業に役立つ装置を開発してきたが、公害を含めた幅広いものへ変わってきた
- [28]鉱山の浮遊選鉱用オンライン装置、鉄鉱・セメント・非鉄金属工場の全工程無人化を図る全自動分析装置、石油のイオウ濃度を測るオンラインSメータを開発した
- [29]水道水・魚貝類・食品・毛髪・血液などに含まれる微量水銀を、試薬を使わず0.1ppbオーダーで測定する水銀測定専用装置を開発した
- [30]1975年時点で工業用・研究用・公害用のX線機器を中心にした分析システムの市場は日本の需要の約90%を占めた
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [31]1978年に超強力X線発生装置(RU-1500)を開発した
参考文献[15]-[31]
- 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
- [15]国内での大幅な受注増は当分望めないため、企業が生存し繁栄を続けるには海外に市場を求めざるを得ないとした
- [17]前年に理学USAの現地法人化と理学西独の設立を行い、アメリカ・ヨーロッパへの進出の足場を固めた
- [18]共産圏貿易には当社が一番早く目をつけ、中国・ソ連に相当まとまった輸出の実績を持っていた
- [19]理学の装置は世界の約60か国に輸出され、海外販売拡大のため世界各地の見本市・展示会に積極的に出品した
- [20]不況下でも産業間・企業間で大きな違いがあり国家予算にも重点指向があるため、公害分析・省力化・省資源・品質向上・事前保守開発を強く要請する市場へ積極的に働きかけるとした
- [21]総需要抑制策の影響を大きく受け、受注・売上げは設備投資の繰り延べ等により当初計画の修正を余儀なくされ、対前年比20%程度の伸びに止まる見込みとなった
- [22]前年の大幅昇給を吸収しきれず、人件費の伸び率が付加価値の伸びを上回った
- [23]時間外手当・消耗備品費・通信費・事務用消耗品費等27の勘定科目を統制経費とし、総額を対前年比10%節減することを目標とした
- [24]単位作業ごとに目標工数を設定して所定時間外の作業を対前年比30数%減らす見込みとし、事務用消耗品等は購入価格の見直しで20%近い値下げを可能にした
- [25]受注段階で顧客の狙いを的確に把握してマーケットを予測し、ある程度の数量をまとめて生産することで工期短縮とコストダウン、在庫回転率の改善につなげた
- [27]従来は省力化・高速化・高精度化・省資源で産業に役立つ装置を開発してきたが、公害を含めた幅広いものへ変わってきた
- [28]鉱山の浮遊選鉱用オンライン装置、鉄鉱・セメント・非鉄金属工場の全工程無人化を図る全自動分析装置、石油のイオウ濃度を測るオンラインSメータを開発した
- [29]水道水・魚貝類・食品・毛髪・血液などに含まれる微量水銀を、試薬を使わず0.1ppbオーダーで測定する水銀測定専用装置を開発した
- [30]1975年時点で工業用・研究用・公害用のX線機器を中心にした分析システムの市場は日本の需要の約90%を占めた
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [16]1971年10月に米国マサチューセッツ州に営業所Rigaku USAを設立し、1972年3月に支店化、同年7月にRigaku USA, Inc.として法人化した
- [26]1975年7月、東京都西多摩郡羽村町に株式会社理学流通サービスセンターを設立した
- [31]1978年に超強力X線発生装置(RU-1500)を開発した
1981年〜シェア90%の頂点と分社の限界
1980年代の前半、理学グループは頂点に達した。4社合計の売上高は1981年4月期に100億円を超え、ハイテクブームに乗った5年後の1986年4月期には200億円を上回った。X線回折装置での理学電機のシェアは90%余り、生産工程の品質管理に使う蛍光X線分析装置で理学電機工業が80%、材料開発に使う熱分析装置で理学計測が約40%を占めた。いずれも買い手は大学の研究室と大企業の研究所が中心で、市場そのものは年40億〜50億円台にとどまった。X線は非破壊検査の一手法でもあり、鋼管の製造ラインでは超音波・渦流・磁粉探傷と組み合わせて品質保証を担った。小さな市場で高いシェアを占める構えは、その市場が伸び続ける間、最も効率の良い形だった。
- 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
- [32]理学グループ4社の売上高は昭和56年4月期に100億円を突破し、5年後の昭和61年4月期には2倍の200億円を上回った
- [33]X線回折装置で理学電機のシェアは90%余り、蛍光X線分析装置で理学電機工業が80%、熱分析装置で理学計測が約40%のシェアを持っていた
- [34]ユーザーは大学の研究室や大企業の研究所が中心で用途は限られ、年間40〜50億円台の市場に過ぎなかった
- 礎野英二「応用広がる非破壊検査システム」(生産と電気 1986年)
- [35]鋼管の製造ラインでは超音波・X線・渦流・磁粉探傷法が組み合わされ、品質保証に大きな役割を果たした
1985年4月、理学瑞穂製作所は東京都武蔵村山市伊奈平へ移された。1986年4月期を境に、業績は下降へ転じた。理学電機は10年以上途切れず売上を伸ばしてきたが、1987年4月期の売上高は112億6,000万円と前期を12.4%下回り、理学電機工業も11.6%減った。グループの経常利益は、前期の33億円から翌期は15億円へ縮む見通しとなった。原因の一つは円高で、売上の約15%に当たる欧米への輸出が伸び悩んだ。加えて、それまでほぼ独占状態にあった国内市場へ、オランダのフィリップスと西ドイツのシーメンスが攻め込んできた。さらに半導体業界で設備投資の盛り上がりが一段落した。国内の生産高はX線回折装置が1985年度58億円から1986年度54億円に、蛍光X線分析装置が78億円から57億円に縮んだ。
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [36]1985年4月、株式会社理学瑞穂製作所を東京都武蔵村山市伊奈平に移転した
- 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
- [37]理学電機と理学電機工業を中核とするグループの業績は昭和61年4月期をピークに下降し始めた
- [38]理学電機の売上高は昭和62年4月期に前期比12.4%減の112億6,000万円、理学電機工業は11.6%減となり、前期33億円のグループ経常利益は15億円まで減少する見込みだった
- [39]売り上げの約15%を占める欧米向け輸出が円高で振るわず、オランダのフィリップスと西ドイツのシーメンスが、理学グループがほとんど独占していた国内市場に攻勢をかけ始めた
- [40]X線回折装置の国内メーカー生産高は昭和60年度58億円から昭和61年度54億円へ、蛍光X線分析装置は昭和60年度78億円から昭和61年度57億円へ減少した
志村晶氏が問題と見たのは、市場の変化よりも自らの構えだった。限定した市場に特化して技術を高度化するほど、その市場の伸びが鈍ったとき身動きが取れなくなる。品目ごとに別会社を置いた分社も、他部門の高シェアに寄りかかる甘えをなくす狙いから来ていたが、開発と製造を担う3社の壁は研究の効率を落とした。1986年9月、東京都昭島市松原町にリガクが設立された。グループ中核3社の営業部門を統合したこの販社は、製品別に縦割りだった販売組織を市場・顧客別へ組み替えることに狙いがあり、翌1987年には事務所の統合、グループ役員会、合同の製品展示場、予算の共通化が相次いだ。同年9月には、5年後400億円、10年後1,000億〜1,200億円を掲げる長期経営戦略プロジェクト21が始まった。
- 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
- [41]小さな市場で圧倒的シェアを持つ製品への依存度が高まると、市場の成長が鈍化し始めたときに身動きがとれなくなるという落とし穴があった
- [42]品目別に別会社化したのは他部門の高シェアにもたれかかる甘えをなくすためだったが、開発・製造を担当するグループ3社の壁が研究効率を悪くした
- [44]1986年にグループ中核3社の営業部門を統合した販売会社リガクを設立し、1987年に一部事務所の統合、グループ役員会、合同製品展示場の開設、予算編成の共通化を進めた
- [45]1987年9月に始まった長期経営戦略「プロジェクト21」はグループ売上を5年後に400億円、10年後に1,000〜1,200億円とする目標を掲げた
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [43]1986年9月、東京都昭島市松原町に株式会社リガクを設立した
参考文献[32]-[45]
- 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
- [32]理学グループ4社の売上高は昭和56年4月期に100億円を突破し、5年後の昭和61年4月期には2倍の200億円を上回った
- [33]X線回折装置で理学電機のシェアは90%余り、蛍光X線分析装置で理学電機工業が80%、熱分析装置で理学計測が約40%のシェアを持っていた
- [34]ユーザーは大学の研究室や大企業の研究所が中心で用途は限られ、年間40〜50億円台の市場に過ぎなかった
- [37]理学電機と理学電機工業を中核とするグループの業績は昭和61年4月期をピークに下降し始めた
- [38]理学電機の売上高は昭和62年4月期に前期比12.4%減の112億6,000万円、理学電機工業は11.6%減となり、前期33億円のグループ経常利益は15億円まで減少する見込みだった
- [39]売り上げの約15%を占める欧米向け輸出が円高で振るわず、オランダのフィリップスと西ドイツのシーメンスが、理学グループがほとんど独占していた国内市場に攻勢をかけ始めた
- [40]X線回折装置の国内メーカー生産高は昭和60年度58億円から昭和61年度54億円へ、蛍光X線分析装置は昭和60年度78億円から昭和61年度57億円へ減少した
- [41]小さな市場で圧倒的シェアを持つ製品への依存度が高まると、市場の成長が鈍化し始めたときに身動きがとれなくなるという落とし穴があった
- [42]品目別に別会社化したのは他部門の高シェアにもたれかかる甘えをなくすためだったが、開発・製造を担当するグループ3社の壁が研究効率を悪くした
- [44]1986年にグループ中核3社の営業部門を統合した販売会社リガクを設立し、1987年に一部事務所の統合、グループ役員会、合同製品展示場の開設、予算編成の共通化を進めた
- [45]1987年9月に始まった長期経営戦略「プロジェクト21」はグループ売上を5年後に400億円、10年後に1,000〜1,200億円とする目標を掲げた
- 礎野英二「応用広がる非破壊検査システム」(生産と電気 1986年)
- [35]鋼管の製造ラインでは超音波・X線・渦流・磁粉探傷法が組み合わされ、品質保証に大きな役割を果たした
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [36]1985年4月、株式会社理学瑞穂製作所を東京都武蔵村山市伊奈平に移転した
- [43]1986年9月、東京都昭島市松原町に株式会社リガクを設立した
筆者考察
理学グループが1986年4月期に売上200億円へ届いたとき、特化という構えの限界は既に見えていた。X線回折装置で90%余り、蛍光X線分析装置で80%というシェアは、市場が年40億〜50億円台しかないことの裏返しでもある。市場が伸びる間、特化は最も効率の良い形だった。伸びが止まれば、シェアを上げる余地はもう残っていない。1987年4月期に理学電機の売上高が12.4%減り、グループ経常利益が33億円から15億円へ落ちた局面で、志村晶氏が問題としたのは、円高やフィリップス、シーメンスの参入よりも、成長を市場の伸びに預けてきたことだった。小さな池の大きな魚であり続けることは、池が広がらなくなった時点で成長を止める。
分社もまた同じ理屈の産物である。X線回折装置は理学電機、蛍光X線分析装置は理学電機工業、熱分析装置は理学計測と、品目ごとに会社を分けたのは、他部門の高シェアに寄りかかる甘えをなくすためだった。ところがそれは、同じ大学の実験室へ三社の営業が別々に通い、回折現象の相談さえ出向者を経由する状態を生んだ。1986年9月に三社の営業部門を統合したリガクの設立は、売り方を製品別から顧客別へ替える試みであり、創業以来の縦割りを自ら畳む作業の入口だった。特化で強くなった会社が、特化の単位のほうを組み替え始めたのである。1987年に掲げた5年後400億円という目標が、その組み替えに求めた規模を示している。
- 日本分析機器工業会の集計による国内メーカー全体の生産高で、理学電機1社の数字ではない。
出典・参考
6件
- リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
- 「ケース2・八年間の“時短努力”が結実――理学電機(株)」(近代中小企業 1973年 第8巻第7号)
- 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
- 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
- 礎野英二「応用広がる非破壊検査システム」(生産と電気 1986年)