理学電機の創業は、何を作るかではなく、何を作らないかを決めることだった。志村義博氏はX線の技術を持ちながら医療用レントゲンには進まず、大学の研究室と大企業の研究所という、買い手の数が限られた市場を選んだ。量産の効かない市場では、資金力と知名度で勝る大企業が本気で来ない。装置一台ごとの性能が取引のほぼ全部になり、技術者が経営を兼ねる小さな会社に分がある。1968年に利益の70%を研究開発へ回し、株主配当を3%に抑えていた配分は、この選択の裏返しである。先発の優位が半年しか続かない市場では、次の一台を用意し続けることだけが条件だった。医療用へ進まなかったこの判断が、以後半世紀にわたって製品の並びを規定した。
もう一つの選択は、会社を分けたことにある。1960年から1961年の賃上げ闘争で会社が当初回答を撤回した経験は、東京の職場に長くしこりを残した。装置が研究室を出て工場の生産ラインへ入れば、売った後に人を張り付ける保守の体制が要り、それは職場の安定を前提とする。東京を作り直す代わりに、1961年、大阪府高槻市へ理学電機工業という別の会社が置かれた。新しい会社は1967年に760名の応募から8名しか採らず、定着率を毎年90%以上に保っている。人を増やす速さよりも、入れた人が辞めない構造を先に作ったのである。東京と大阪の二社は、以後、同じX線技術の別々の顔を担うことになった。
理学電機は、1951年12月に東京都千代田区有楽町で、国産のX線装置の製造と販売を事業目的として設立された。創業者の志村義博氏は自ら100件余りの特許を取得した技術者で、1954年に自動記録式X線回折装置を国産化した。X線回折装置は、材料にX線を当てて散乱の角度を測り、その構造と組成を読み取る装置であり、買い手は大学の研究室と大企業の研究所にほぼ限られた。研究用であるから、装置には何より性能と機能を満たすことが求められた。設立の翌1952年には回転対陰極型X線発生装置を、1957年には自動記録式熱分析装置を開発している。創業から数年で回折・発生・熱分析という三つの系列を持ったことが、以後数十年の製品構成の骨格になった。
医師が選ぶのは、組織も資金も一点に注ぎ込める有名な大企業の製品に決まっている。医療用に手を出していたら理学電機という会社はなかった、という判断が社内で共有されていた。そのため志村義博氏は、同じX線を扱いながら医療用のレントゲンには踏み込まなかった。志村義博氏が持論としたのは、大量生産にも普通の売り方にもなじまない製品に絞れば、経営者が自ら開発を直接率いることができるという、小さな会社ならではの利点だったという。二代目社長の志村晶氏は、これをナポレオンの戦い方に重ねた。広い平原で総合力の上回る敵とぶつかれば負けるが、戦場を狭く限れば打つ手はいくらでも考え出せる、という説明である。戦い方の理屈を市場の選び方にそのまま持ち込んだ点に、この会社らしさがある。
専門分野に絞る構えは、利益の配分にも表れた。1968年の時点で、利益の70%を研究開発に充て、株主配当は3%程度にとどめていた。大企業では利益の3割から4割が株主に渡るのに対し、中小企業だからこそ大半を開発に注げるという説明が、社内で採用の場にも使われた。配分を開発へ寄せたのは、先発の優位が長く続かなかったためである。特異な分野で技術水準を上げ続けることが、そのまま高いシェアを支える根拠だった。新製品を出しても、大企業は半年から1年で同種の製品を追って出してくる。だからその半年のうちにもう一段上の製品を準備しておかないと、その分野で他社を圧倒し続けることはできなかった。社員に求める姿も、日々改善を重ね、絶えず一歩ずつ前へ進む人とされた。
1960年2月、東京都昭島市松原町に拝島工場が新設された。この頃、X線装置の用途は研究用の分野から工業用へと広がる時期に入っていた。研究室に納める装置と、工場の現場に置く装置とでは、求められる性質が違う。研究用は性能と機能を満たすことに重点があるのに対し、現場の品質管理に使う装置は第一線の作業者が操作するため、扱いが容易であることと高い信頼性が要る。用途が現場へ広がるほど、納入後の保守を担うサービス体制をどこに置くかが経営上の問題になった。装置が研究室を出て生産ラインに入ることは、売り先が変わるだけでなく、売った後に人を張り付ける事業へ移ることでもあった。
工場の拡張と同じ時期に、労使関係は行き詰まっていた。1960年から1961年にかけての賃上げ闘争では、支払能力を主張する会社と、従業員の生活と世間相場を主張する組合との間で紛争が長期化し、最後は会社が当初回答を撤回して世間並みの額を支払うことで妥結した。紛争の渦中に労務を担ったのは、1932年に宮城県で生まれ、1961年に理学電機へ入社した山形昌宏氏である。東京の会社の創立の経過に照らせば、紛争の責任の一端は会社の側にもあった。妥結の後も、長い紛争は労使双方にしこりを残した。研究者と技術者の手で一台ずつ仕上げる精密装置の事業では、職場の不安定がそのまま納期と品質に響く。
紛争を経て、労務の扱い方そのものが改められた。労務関係を処理する基準として合理主義・客観主義・相互主義の労務三原則が定められ、あわせて相互理解・相互尊重・相互信頼の労使三原則が掲げられた。人事制度も、相互信頼と協力に裏づけられた職場に創造と努力を生かすことを基本とし、この三つを運用の柱に据えた。ただし原則を掲げることと、それが職場に根づくこととは別だった。工業用への用途拡大にはサービス体制の確立が要り、そのためには労使関係を安定させねばならなかったが、東京の職場は紛争の記憶を抱えたままだった。打開の途は、既にある職場を作り直すことではなく、別の土地に会社をもう一つ作ることに求められた。原則は東京で掲げられ、それを制度の形にする場は大阪へ移された。
1961年5月、大阪府高槻市赤大路町に理学電機工業が設立された。分社の理由は三つあった。第一に、東京が作る研究用の装置と、大阪が担う現場の品質管理用の装置とでは要求が異なり、研究所的な生産手法のままでは後者がうまく作れなかったこと。最も大きいのは第三の点で、東京の労使関係を持ち込まずに済む土地で、高能率高賃金を柱とする近代的な関係を一から築くことだった。第二の点は、工場が東京にしかなければ保守も営業も東京から出向くしかなく、西日本一帯の顧客への対応が後手に回ることである。新会社は三つの社是を掲げた。社会の役に立つものを作ること、会社が栄えることで社員の生活を高めること、企業での生活を通して社会に祝福される人になることである。
大阪の会社は、東京とは別の労使関係を作るために置かれ、人を増やしながら入口で選び抜いた。設立から数年で在籍者数は3倍に増えたが、新規学卒者だけでは成長の速度に追いつかず、経験者の中途採用が全体の53%を占め、新規学卒者は32%にとどまった。1967年には新聞広告を4回出して760名の応募を集めたが、採用は8名で採用率は0.9%、学卒は38名の応募に対し4名の採用だった。人事調査に興信所を使わず、人事担当者が応募者の家庭と学校を自ら訪ねた。1963年度から1967年度の定着率は毎年90%を超え、在籍者の学歴は高卒が50%、大卒が40%、中卒が10%を占めた。
人を選ぶ一方で、働く時間は早くから縮められた。1964年5月、週6日・週45時間だった就業時間から月8時間を減らし、隔週の土曜半休を試験的に始めた。組合との協定で1年間を試験期間とし、生産性と出勤率が落ちないことを確かめたうえで、1965年5月に隔週土曜半休を正式な制度とした。1969年5月には毎週土曜を半休にしている。この間に規模も変わり、1968年には東京の理学電機が400名余り、大阪の理学電機工業が160名を数えた。両社で研究用・工業用X線装置の国内需要の約8割を占め、残りを国内の大企業2〜3社と輸入品が分け合った。この分野を専業とする会社は国内に他になく、大企業は二つか三つの分野で同種の製品を作るにとどまった。
理学グループが1986年4月期に売上200億円へ届いたとき、特化という構えの限界は既に見えていた。X線回折装置で90%余り、蛍光X線分析装置で80%というシェアは、市場が年40億〜50億円台しかないことの裏返しでもある。市場が伸びる間、特化は最も効率の良い形だった。伸びが止まれば、シェアを上げる余地はもう残っていない。1987年4月期に理学電機の売上高が12.4%減り、グループ経常利益が33億円から15億円へ落ちた局面で、志村晶氏が問題としたのは、円高やフィリップス、シーメンスの参入よりも、成長を市場の伸びに預けてきたことだった。小さな池の大きな魚であり続けることは、池が広がらなくなった時点で成長を止める。
分社もまた同じ理屈の産物である。X線回折装置は理学電機、蛍光X線分析装置は理学電機工業、熱分析装置は理学計測と、品目ごとに会社を分けたのは、他部門の高シェアに寄りかかる甘えをなくすためだった。ところがそれは、同じ大学の実験室へ三社の営業が別々に通い、回折現象の相談さえ出向者を経由する状態を生んだ。1986年9月に三社の営業部門を束ねたリガクの設立は、売り方を製品別から顧客別へ替える試みであり、創業以来の縦割りを自ら畳む作業の入口だった。特化で強くなった会社が、特化の単位のほうを組み替え始めたのである。1987年に掲げた5年後400億円という目標が、その組み替えに求めた規模を示している。
理学電機の主力は、X線回折装置やX線分析装置、ミクロフォトメーターといった精密科学機器である。生産の工程に研究開発が必ず入るため、社員のほぼ半数が研究部門にいた。その理学電機が完全週休二日制に踏み切ったのは1972年である。社長は創業者の長男の志村晶氏で、資本金4,800万円、従業員570名の規模だった。人間の力量がそのまま生産性を左右する点で機械化された工場とは異なり、時短に際しても大がかりな設備投資や具体策はとられず、職場ごとに合理化を進めよとの指示だけが出た。同じ頃、東京の理学電機は創立から20年を越えて約600名、大阪の理学電機工業は創業から10年足らずで298名を抱えていた。
出発点は、時代に先んじて進もうとする経営の理念と、組合が出し始めた労働時間短縮の要望だった。1964年5月の隔週土曜半休、1969年5月の毎週土曜半休と段階を踏み、1971年には趣旨の説明とアンケート調査を社員に対して3回実施した。問うたのは時短への要望、出勤・退社時刻の希望、平日の労働時間延長の可否などで、一日の労働時間がいくらか延びても土曜が休みになる方を望む声が強かった。そのため隔週の週休二日制を挟まず、一気に完全実施へ移った。完全実施までに要した積み上げは9年に及ぶ。時間短縮による生産性の低下は起こらず、管理者を通じた時間配分の指導がそれを支えた。時短は労使協議会でも社員側から提起される議題の一つだった。
労使関係の作り直しも制度の形を取った。1970年に労使協議会が設けられ、労使双方の役員全員を構成員として、経営計画の遂行状況、期末決算の結果、人事、賃金、職場環境、安全衛生、時短、福利厚生予算までを議題に載せた。あわせて利益平等分配制度が始まり、昇給と賞与は同種同規模企業の上位数社の平均妥結額を経営状態にかかわらず確保したうえで、税引後利益を内部留保50%、社員還元25%、株主配当25%の割合で分けた。東京の理学電機も1970年からこの制度を採り入れた。1972年の昇給では年功賃金から離れ、職位の決定にあたって年齢・勤続・学歴を一切外し、職務と能力の両面から格づけすることとした。
国内の受注増が当分望めないと見て、販路は海外へ向かった。1971年10月に米国マサチューセッツ州へ営業所 Rigaku USA を開き、1972年3月に支店へ格上げ、同年7月に Rigaku USA, Inc. として法人化している。1974年には理学USAを現地法人に切り替え、あわせて西ドイツに理学西独を設立した。共産圏との貿易には最も早く着目し、中国とソ連にはまとまった輸出の実績を持った。1975年の時点で装置は世界の約60か国へ渡り、各地の見本市と展示会への出品が続けられた。国内の市場にも産業間・企業間の差と国家予算の重点があり、公害分析・省力化・省資源・品質向上を強く求める相手を選んで働きかける方針が採られた。
1974年からの総需要抑制策は、受注と売上に直に表れた。設備投資の繰り延べによって当初計画の修正を迫られ、伸びは対前年比20%程度にとどまる見込みとなった。前年の大幅な昇給を吸収しきれず、人件費の伸び率が付加価値の伸びを上回った。合理化は、時間外手当・消耗備品費・通信費・事務用消耗品費など27の勘定科目を統制経費とし、総額を対前年比10%削減する形で進められた。単位作業ごとに目標工数を定めて所定時間外の作業を対前年比30数%減らし、事務用消耗品は購入価格を見直して2割近い値下げに至った。受注の段階では顧客の狙いを把握して市場を予測し、ある程度の数量をまとめて生産することで工期の短縮と在庫回転の改善を図った。1975年7月には東京都西多摩郡羽村町に理学流通サービスセンターを設け、物の流れを本体から切り出している。
不況期には開発の的も移った。省力化・高速化・高精度化・省資源を狙って作ってきた装置は、公害を含む幅広い用途へ向けられた。鉱山の浮遊選鉱で回収率を高めつつ汚染を工程の段階で抑えるオンライン装置、鉄鉱・セメント・非鉄金属の工場で全工程の無人化を図る全自動分析装置、石油のイオウ濃度を測るオンラインSメータが並んだ。水道水や魚貝類、食品、毛髪、血液に含まれる微量水銀を、試薬を使わず0.1ppbオーダーで測る専用装置も作られた。1975年には工業用・研究用・公害用の分析システムで国内需要の約90%を占めた。1978年には超強力X線発生装置RU-1500を開発している。測る対象を産業の外へ広げたことが、装置の用途を研究室と生産ラインの二つに限らせなかった。
1980年代の前半、理学グループは頂点に達した。4社合計の売上高は1981年4月期に100億円を超え、ハイテクブームに乗った5年後の1986年4月期には200億円を上回った。X線回折装置での理学電機のシェアは90%余り、生産工程の品質管理に使う蛍光X線分析装置で理学電機工業が80%、材料開発に使う熱分析装置で理学計測が約40%を占めた。いずれも買い手は大学の研究室と大企業の研究所が中心で、市場そのものは年40億〜50億円台にとどまった。X線は非破壊検査の一手法でもあり、鋼管の製造ラインでは超音波・渦流・磁粉探傷と組み合わせて品質保証を担った。小さな市場で高いシェアを占める構えは、その市場が伸び続ける間、最も効率の良い形だった。
1985年4月、理学瑞穂製作所は東京都武蔵村山市伊奈平へ移された。1986年4月期を境に、業績は下降へ転じた。理学電機は10年以上途切れず売上を伸ばしてきたが、1987年4月期の売上高は112億6,000万円と前期を12.4%下回り、理学電機工業も11.6%減った。グループの経常利益は、前期の33億円から翌期は15億円へ縮む見通しとなった。原因の一つは円高で、売上の約15%に当たる欧米への輸出が伸び悩んだ。加えて、それまでほぼ独占状態にあった国内市場へ、オランダのフィリップスと西ドイツのシーメンスが攻め込んできた。さらに半導体業界で設備投資の盛り上がりが一段落した。国内の生産高はX線回折装置が1985年度58億円から1986年度54億円に、蛍光X線分析装置が78億円から57億円に縮んだ。
志村晶氏が問題と見たのは、市場の変化よりも自らの構えだった。限定した市場に特化して技術を高度化するほど、その市場の伸びが鈍ったとき身動きが取れなくなる。品目ごとに別会社を置いた分社も、他部門の高シェアに寄りかかる甘えをなくす狙いから来ていたが、開発と製造を担う3社の壁は研究の効率を落とした。1986年9月、東京都昭島市松原町にリガクが設立された。グループ中核3社の営業部門を統合したこの販社は、製品別に縦割りだった販売組織を市場・顧客別へ組み替えることに狙いがあり、翌1987年には事務所の統合、グループ役員会、合同の製品展示場、予算の共通化が相次いだ。同年9月には、5年後400億円、10年後1,000億〜1,200億円を掲げる長期経営戦略プロジェクト21が始まった。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/268A/company.json https://the-shashi.com/api/268A/history.json https://the-shashi.com/api/268A/ceo.json https://the-shashi.com/api/268A/financials.json https://the-shashi.com/api/268A/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/268A/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/268A/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/268A/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/268A/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/268A/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/268A/financials.csv https://the-shashi.com/api/268A/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1951〜1970年研究用X線装置への特化 | 志村義博 | 国産X線装置の製造販売を目的に東京・有楽町で理学電機を設立 | ★★★ | |
| 志村義博 | 回転対陰極型X線発生装置を開発 | ★★ | ||
| 志村義博 | 自動記録式X線回折装置を開発 | ★★ | ||
| 志村義博 | 自動記録式熱分析装置を開発 | ★★ | ||
| 志村義博 | 東京都昭島市松原町に拝島工場を新設 | ★ | ||
| 志村義博 | 大阪府高槻市赤大路町に理学電機工業を設立 | ★★ | ||
| 1971〜1995年専門特化の限界と販売統合 | 志村晶 | 米国マサチューセッツ州に営業所 Rigaku USA を開設 | ★★ | |
| 志村晶 | Rigaku USA を支店に格上げ | ★ | ||
| 志村晶 | Rigaku USA を法人化し Rigaku USA, Inc. を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 東京都西多摩郡羽村町に理学流通サービスセンターを設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 超強力X線発生装置 RU-1500 を開発 | ★★ | ||
| 志村晶 | 東京都文京区本郷に日本インスツルメンツを設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 東京都西多摩郡瑞穂町に理学瑞穂製作所を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 大阪府高槻市赤大路町に理学サービスを設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 理学瑞穂製作所を東京都武蔵村山市伊奈平へ移転 | ★ | ||
| 志村晶 | 東京都昭島市松原町にリガクを設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 東京都昭島市松原町に理学メカトロニクスを設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 山梨県北杜市須玉町に須玉工場を新設 | ★ | ||
| 志村晶 | 東京都昭島市松原町にリガクX線研究所を新設 | ★ | ||
| 1996〜2020年買収による要素技術の内製化とグループの一本化(1996〜2020) | 志村晶 | 米国テキサス州の Molecular Structure Corporation を買収 | ★★ | |
| 志村晶 | 米国の Osmic, Inc. を買収 | ★★ | ||
| 志村晶 | Rigaku USA が MSC を統合し Rigaku/MSC に商号変更 | ★ | ||
| 志村晶 | 理学電機がリガクを統合し社名をリガクへ変更 | ★★★ | ||
| 志村晶 | Osmic を Rigaku Innovative Technologies に商号変更 | ★ | ||
| 志村晶 | チェコ・プラハに Rigaku Innovative Technologies Europe を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | リガクが理学電機工業を統合 | ★★ | ||
| 志村晶 | 中国北京市に理学電企儀器(北京)を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 米国テキサス州に Applied Rigaku Technologies を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 理学瑞穂製作所をリガク山梨に商号変更し山梨工場内へ移転 | ★ | ||
| 志村晶 | 米国の Newton Scientific を買収 | ★ | ||
| 志村晶 | 中国香港に Rigaku Asia and Pacific を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | ドイツ・ベルリンに Rigaku Europe SE を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 米国カリフォルニア州に Rigaku Raman Technologies を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | ブラジル・サンパウロ市に Rigaku Latin America を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | 米国テキサス州に Rigaku Americas Holdings Company を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | ポーランド・ヴロツワフに Rigaku Polska を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | アジレント・テクノロジーズのX線回折事業を買収 | ★★ | ||
| 志村晶 | シンガポールに Rigaku Asia Pacific を設立 | ★ | ||
| 志村晶 | イスラエル企業の取り込みによる、半導体量産ラインのX線計測への参入 2019年7月、株式会社リガクがイスラエル・ミグダルハエメクのXwinSys Technology Developmentを買収し、X線技術に自動光学の3D・2D検査を組み合わせたハイブリッド計測を取り込んで、半導体の量産ラインで使うプロセス・コントロール機器へ参入した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 志村晶 | Atom Investment が東京・丸の内にアトム・ホールディングスを設立 | ★ | ||
| 2021〜2026年共同出資による事業承継から事業会社株主への交代(2021〜2026) | 志村晶 | ファンドへの株式譲渡と、創業家持分約20%を残す形での資本再編 2021年1月6日、カーライル・グループが株式会社リガクの全発行済株式を新設持株会社を通じて取得することで合意したと公表した。売り手は全株式を保有していた創業家二代目の志村晶氏で、持株会社への出資はカーライル約80%、志村晶氏約20%の共同出資であった。事業会社への完全売却を選ばず、約20%を残して共同出資者として資本にとどまった事業承継である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 志村晶 | 株式交換によるリガクの完全子会社化 | ★★ | ||
| 池田俊幸 | 本社を東京都昭島市松原町へ移転 | ★ | ||
| 池田俊幸 | 志村晶社長が会長へ退き池田俊幸氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 池田俊幸 | オランダの MILabs を買収 | ★★ | ||
| 池田俊幸 | リガクが理学メカトロニクスと理学サービスを統合 | ★ | ||
| 池田俊幸 | 英国マーシーサイド州に Rigaku UK を設立 | ★ | ||
| 池田俊幸 | リガクがリガク山梨を統合 | ★ | ||
| 池田俊幸 | フランス・ストラスブール市に Rigaku France を設立 | ★ | ||
| 川上潤 | 川上潤氏が代表取締役社長に就任 | ★★ | ||
| 川上潤 | Rigaku Latin America を閉鎖 | ★ | ||
| 川上潤 | 中国上海市に理学電企(上海)儀器を設立 | ★ | ||
| 川上潤 | ブラジル・サンパウロ市に Rigaku do Brasil を設立 | ★ | ||
| 川上潤 | インド・ムンバイ市に Rigaku India を設立 | ★ | ||
| 川上潤 | 米国5社を Rigaku Americas Holding へ吸収合併 | ★★ | ||
| 川上潤 | 台湾に支店として理学科技台灣分公司を設立 | ★ | ||
| 川上潤 | 中南米の営業部門を Rigaku do Brasil へ移管 | ★ | ||
| 川上潤 | 東京証券取引所プライム市場に上場 | ★★★ | ||
| 川上潤 | 台湾新竹県に理学股分有限公司を設立 | ★ | ||
| 川上潤 | カーライル系ファンドが保有する株式27%の提携先への移管と、株主構成の入れ替え 2026年4月21日、リガク・ホールディングスは米Onto Innovation Inc.との資本業務提携を開示した。筆頭株主のAtom Investment, L.P.が保有株のうち61,123,436株、議決権比率にして27.00%を同社へ譲渡することで両者が合意し、あわせてリガクとOnto Innovationが業務提携契約を締結した。譲渡の実行は関係当局の許認可取得後、2026年下半期を予定し、本稿の時点では完了していない。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川上潤 | Atom Investment による株式2,958万株の売出し | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(リガク・ホールディングス)