第1章 年〜年

リガク・ホールディングス:理学電機の設立と自動記録式X線回折装置の開発

志村義博の市場選択から高槻への分社へ

1951年〜医療用を外して選んだ研究用X線装置の市場

理学電機は、1951年12月に東京都千代田区有楽町で、国産のX線装置の製造と販売を事業目的として設立された。創業者の志村義博氏は自ら100件余りの特許を取得した技術者で、1954年に自動記録式X線回折装置を国産化した。X線回折装置は、材料にX線を当てて散乱の角度を測り、その構造と組成を読み取る装置であり、買い手は大学の研究室と大企業の研究所にほぼ限られた。研究用であるから、装置には何より性能と機能を満たすことが求められた。設立の翌1952年には回転対陰極型X線発生装置を、1957年には自動記録式熱分析装置を開発している。創業から数年で回折・発生・熱分析という三つの系列を持ったことが、以後数十年の製品構成の骨格になった。

  • リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年12月、東京都千代田区有楽町に国産のX線装置の製造・販売を事業目的とした理学電機株式会社を設立した
    • [5]1952年に回転対陰極型X線発生装置、1957年に自動記録式熱分析装置を開発した
  • 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
    • [2]先代の志村義博社長は自ら特許を100件余り取得し、昭和29年に初めて自動記録式X線回折装置を国産化して理学電機を創業した
    • [3]X線回折装置は超電導材料の構造と組成などを分析する装置で、ユーザーは大学の研究室や大企業の研究所が中心だった
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [4]東京の製品は各大学の研究室や公立・大企業の研究所で使う研究用のX線装置で、性能・機能を満足させるところに重点が置かれていた

医師が選ぶのは、組織も資金も一点に注ぎ込める有名な大企業の製品に決まっている。医療用に手を出していたら理学電機という会社はなかった、という判断が社内で共有されていた。そのため志村義博氏は、同じX線を扱いながら医療用のレントゲンには踏み込まなかった。志村義博氏が持論としたのは、大量生産にも普通の売り方にもなじまない製品に絞れば、経営者が自ら開発を直接率いることができるという、小さな会社ならではの利点だったという。二代目社長の志村晶氏は、これをナポレオンの戦い方に重ねた。広い平原で総合力の上回る敵とぶつかれば負けるが、戦場を狭く限れば打つ手はいくらでも考え出せる、という説明である。戦い方の理屈を市場の選び方にそのまま持ち込んだ点に、この会社らしさがある。

  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [6]組織と資金を一時に集中でき、ネームバリューに勝る大企業の商品を一般の医者が選ぶのは当然であり、医療用レントゲンを作っていたら今日の理学電機は存在しなかった
    • [7]研究用・工業用のX線装置を作ったのはナポレオンの用兵術を教訓としたもので、医療用レントゲンには進まなかった
  • 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
    • [8]量産・並販しにくい製品に特化すれば大企業に負けず、プロジェクトをトップが自ら指揮できる中小企業の有利さが出る、というのが先代社長の口ぐせだった
    • [9]志村晶社長は、中小企業は大市場では大企業にかなわないが、戦場をごく狭い地域に限定すれば戦法はいくらでも工夫できると述べた

専門分野に絞る構えは、利益の配分にも表れた。1968年の時点で、利益の70%を研究開発に充て、株主配当は3%程度にとどめていた。大企業では利益の3割から4割が株主に渡るのに対し、中小企業だからこそ大半を開発に注げるという説明が、社内で採用の場にも使われた。配分を開発へ寄せたのは、先発の優位が長く続かなかったためである。特異な分野で技術水準を上げ続けることが、そのまま高いシェアを支える根拠だった。新製品を出しても、大企業は半年から1年で同種の製品を追って出してくる。だからその半年のうちにもう一段上の製品を準備しておかないと、その分野で他社を圧倒し続けることはできなかった。社員に求める姿も、日々改善を重ね、絶えず一歩ずつ前へ進む人とされた。

  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [10]中小企業である故に利益の70%を研究開発に注ぐことができ、株主配当は3%そこそこだった
    • [11]大企業では利益の3〜4割を株主が持って行くが、中小企業は利益の70%を研究開発に注げると新入社員・中途採用者に説明していた
    • [13]新製品の発表から6か月あるいは1年で大企業の製品が出るため、その6か月の間に次のより高度な製品を作らなければ、その分野で他を圧倒できなかった
    • [14]期待する社員像は、毎日毎日が改善であり常に一歩前進すること、積極性を持ち創意に満ち個性の発揮できる人とされた
  • 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
    • [12]特異な分野で独自技術を積み上げてシェアを高める戦略が、理学グループの成長の大きな要因だった
参考文献[1]-[14]
  • リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1951年12月、東京都千代田区有楽町に国産のX線装置の製造・販売を事業目的とした理学電機株式会社を設立した
    • [5]1952年に回転対陰極型X線発生装置、1957年に自動記録式熱分析装置を開発した
  • 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)
    • [2]先代の志村義博社長は自ら特許を100件余り取得し、昭和29年に初めて自動記録式X線回折装置を国産化して理学電機を創業した
    • [3]X線回折装置は超電導材料の構造と組成などを分析する装置で、ユーザーは大学の研究室や大企業の研究所が中心だった
    • [8]量産・並販しにくい製品に特化すれば大企業に負けず、プロジェクトをトップが自ら指揮できる中小企業の有利さが出る、というのが先代社長の口ぐせだった
    • [9]志村晶社長は、中小企業は大市場では大企業にかなわないが、戦場をごく狭い地域に限定すれば戦法はいくらでも工夫できると述べた
    • [12]特異な分野で独自技術を積み上げてシェアを高める戦略が、理学グループの成長の大きな要因だった
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [4]東京の製品は各大学の研究室や公立・大企業の研究所で使う研究用のX線装置で、性能・機能を満足させるところに重点が置かれていた
    • [6]組織と資金を一時に集中でき、ネームバリューに勝る大企業の商品を一般の医者が選ぶのは当然であり、医療用レントゲンを作っていたら今日の理学電機は存在しなかった
    • [7]研究用・工業用のX線装置を作ったのはナポレオンの用兵術を教訓としたもので、医療用レントゲンには進まなかった
    • [10]中小企業である故に利益の70%を研究開発に注ぐことができ、株主配当は3%そこそこだった
    • [11]大企業では利益の3〜4割を株主が持って行くが、中小企業は利益の70%を研究開発に注げると新入社員・中途採用者に説明していた
    • [13]新製品の発表から6か月あるいは1年で大企業の製品が出るため、その6か月の間に次のより高度な製品を作らなければ、その分野で他を圧倒できなかった
    • [14]期待する社員像は、毎日毎日が改善であり常に一歩前進すること、積極性を持ち創意に満ち個性の発揮できる人とされた

1960年〜拝島工場の拡張と1960年の賃上げ紛争

1960年2月、東京都昭島市松原町に拝島工場が新設された。この頃、X線装置の用途は研究用の分野から工業用へと広がる時期に入っていた。研究室に納める装置と、工場の現場に置く装置とでは、求められる性質が違う。研究用は性能と機能を満たすことに重点があるのに対し、現場の品質管理に使う装置は第一線の作業者が操作するため、扱いが容易であることと高い信頼性が要る。用途が現場へ広がるほど、納入後の保守を担うサービス体制をどこに置くかが経営上の問題になった。装置が研究室を出て生産ラインに入ることは、売り先が変わるだけでなく、売った後に人を張り付ける事業へ移ることでもあった。

  • リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1960年2月、東京都昭島市松原町に拝島工場を新設した
  • 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
    • [16]昭和35年から36年にかけての時期は、X線装置が研究用の分野から工業用へと応用分野が拡大する時期に当たっていた
    • [18]工業用への応用拡大にはサービス体制の確立が必要だった
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [17]東京の製品は研究用のX線装置で性能・機能を満たすことに重点があり、大阪で扱う現場の品質管理用の装置は操作が容易で信頼性が要求された

工場の拡張と同じ時期に、労使関係は行き詰まっていた。1960年から1961年にかけての賃上げ闘争では、支払能力を主張する会社と、従業員の生活と世間相場を主張する組合との間で紛争が長期化し、最後は会社が当初回答を撤回して世間並みの額を支払うことで妥結した。紛争の渦中に労務を担ったのは、1932年に宮城県で生まれ、1961年に理学電機へ入社した山形昌宏氏である。東京の会社の創立の経過に照らせば、紛争の責任の一端は会社の側にもあった。妥結の後も、長い紛争は労使双方にしこりを残した。研究者と技術者の手で一台ずつ仕上げる精密装置の事業では、職場の不安定がそのまま納期と品質に響く。

  • 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
    • [19]昭和35年から36年にかけての賃上げ闘争は、企業の支払能力を主張する会社と従業員の生活と世間相場を主張する組合の間で長期間の紛争となり、最終的に会社が当初回答を撤回し世間並みを支払うことで妥結した
    • [22]長い紛争は労使相互にしこりを残した
  • 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
    • [20]山形昌宏は昭和7年宮城県生まれ、昭和36年に理学電機へ入社し、昭和42年に理学電機工業総務課長、昭和46年に理学電機総務部次長を兼務した
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [21]東京の会社の創立の経過を見れば、労使関係がうまくいかない状態について会社にも責任の一端があったことは否定できない

紛争を経て、労務の扱い方そのものが改められた。労務関係を処理する基準として合理主義・客観主義・相互主義の労務三原則が定められ、あわせて相互理解・相互尊重・相互信頼の労使三原則が掲げられた。人事制度も、相互信頼と協力に裏づけられた職場に創造と努力を生かすことを基本とし、この三つを運用の柱に据えた。ただし原則を掲げることと、それが職場に根づくこととは別だった。工業用への用途拡大にはサービス体制の確立が要り、そのためには労使関係を安定させねばならなかったが、東京の職場は紛争の記憶を抱えたままだった。打開の途は、既にある職場を作り直すことではなく、別の土地に会社をもう一つ作ることに求められた。原則は東京で掲げられ、それを制度の形にする場は大阪へ移された。

  • 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
    • [23]紛争の教訓から、会社は労務関係を合理主義・客観主義・相互主義の労務三原則で処理することとし、相互理解・相互尊重・相互信頼の労使三原則を打ち出した
    • [25]工業用への応用拡大にはサービス体制の確立と労使関係の安定が必要だった
    • [26]打開の途を大阪に別会社を設立し、これを成長させることに求めた
  • 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
    • [24]人事制度は相互信頼と協力に裏づけられた職場に創造と努力を生かすことを基本とし、運用にあたって合理主義・客観主義・相互主義を貫くこととした
参考文献[15]-[26]
  • リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1960年2月、東京都昭島市松原町に拝島工場を新設した
  • 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
    • [16]昭和35年から36年にかけての時期は、X線装置が研究用の分野から工業用へと応用分野が拡大する時期に当たっていた
    • [18]工業用への応用拡大にはサービス体制の確立が必要だった
    • [19]昭和35年から36年にかけての賃上げ闘争は、企業の支払能力を主張する会社と従業員の生活と世間相場を主張する組合の間で長期間の紛争となり、最終的に会社が当初回答を撤回し世間並みを支払うことで妥結した
    • [22]長い紛争は労使相互にしこりを残した
    • [23]紛争の教訓から、会社は労務関係を合理主義・客観主義・相互主義の労務三原則で処理することとし、相互理解・相互尊重・相互信頼の労使三原則を打ち出した
    • [25]工業用への応用拡大にはサービス体制の確立と労使関係の安定が必要だった
    • [26]打開の途を大阪に別会社を設立し、これを成長させることに求めた
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [17]東京の製品は研究用のX線装置で性能・機能を満たすことに重点があり、大阪で扱う現場の品質管理用の装置は操作が容易で信頼性が要求された
    • [21]東京の会社の創立の経過を見れば、労使関係がうまくいかない状態について会社にも責任の一端があったことは否定できない
  • 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
    • [20]山形昌宏は昭和7年宮城県生まれ、昭和36年に理学電機へ入社し、昭和42年に理学電機工業総務課長、昭和46年に理学電機総務部次長を兼務した
    • [24]人事制度は相互信頼と協力に裏づけられた職場に創造と努力を生かすことを基本とし、運用にあたって合理主義・客観主義・相互主義を貫くこととした

1961年〜高槻への分社と応募760名から8名を採る採用

1961年5月、大阪府高槻市赤大路町に理学電機工業が設立された。分社の理由は三つあった。第一に、東京が作る研究用の装置と、大阪が担う現場の品質管理用の装置とでは要求が異なり、研究所的な生産手法のままでは後者がうまく作れなかったこと。最も大きいのは第三の点で、東京の労使関係を持ち込まずに済む土地で、高能率高賃金を柱とする近代的な関係を一から築くことだった。第二の点は、工場が東京にしかなければ保守も営業も東京から出向くしかなく、西日本一帯の顧客への対応が後手に回ることである。新会社は三つの社是を掲げた。社会の役に立つものを作ること、会社が栄えることで社員の生活を高めること、企業での生活を通して社会に祝福される人になることである。

  • リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1961年5月、大阪府高槻市赤大路町に理学電機工業株式会社を設立した
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [28]大阪で扱う装置は現場の品質管理に用いるもので、東京で生産しているような研究所的な生産手法ではうまく行かないことから、東京と大阪の二つに分ける考え方が出た
    • [29]三番目が一番大きい理由で、東京のうまく行かない労使関係から、住みよい会社・高能率高賃金を軸とした近代的労使関係を作り上げることを創業の考えとした
    • [30]東京だけに工場があるとアフターサービス等を一切東京で行わねばならず、その不便を解消し西日本一帯を強化するために大阪に会社を設立した
    • [31]社是は、社会に役立つものを作る/会社の繁栄を通じて社員の生活を向上する/企業生活を通じて社会から祝福される良い人になる、の三つだった

大阪の会社は、東京とは別の労使関係を作るために置かれ、人を増やしながら入口で選び抜いた。設立から数年で在籍者数は3倍に増えたが、新規学卒者だけでは成長の速度に追いつかず、経験者の中途採用が全体の53%を占め、新規学卒者は32%にとどまった。1967年には新聞広告を4回出して760名の応募を集めたが、採用は8名で採用率は0.9%、学卒は38名の応募に対し4名の採用だった。人事調査に興信所を使わず、人事担当者が応募者の家庭と学校を自ら訪ねた。1963年度から1967年度の定着率は毎年90%を超え、在籍者の学歴は高卒が50%、大卒が40%、中卒が10%を占めた。

  • 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
    • [32]大阪では労務三原則を利益平等分配制度として具体化し、労使三原則を労使協議会として実現を図った
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [33]創業時を100とすると1968年4月には308%となり、中途採用者が53%、新規学卒者が32%を占めた
    • [34]1967年の1年間に新聞広告を4回出して760名の応募があり採用は8名(0.9%)、学卒は38名の応募に対し採用4名(1.06%)だった
    • [35]人事調査に興信所などの外部機関は利用せず、人事担当者が自ら家庭・学校を訪問した
    • [36]昭和38年度から42年度の定着率は94.7%、91.9%、97.2%、93.2%、92.9%と毎年90%以上を維持し、階層別人員構成は大卒40%・高卒50%・中卒10%だった

人を選ぶ一方で、働く時間は早くから縮められた。1964年5月、週6日・週45時間だった就業時間から月8時間を減らし、隔週の土曜半休を試験的に始めた。組合との協定で1年間を試験期間とし、生産性と出勤率が落ちないことを確かめたうえで、1965年5月に隔週土曜半休を正式な制度とした。1969年5月には毎週土曜を半休にしている。この間に規模も変わり、1968年には東京の理学電機が400名余り、大阪の理学電機工業が160名を数えた。両社で研究用・工業用X線装置の国内需要の約8割を占め、残りを国内の大企業2〜3社と輸入品が分け合った。この分野を専業とする会社は国内に他になく、大企業は二つか三つの分野で同種の製品を作るにとどまった。

  • 「ケース2・八年間の“時短努力”が結実――理学電機(株)」(近代中小企業 1973年 第8巻第7号)
    • [37]昭和39年5月、生産部門8時30分から17時、事務部門9時から17時30分の週6日・週45時間から月8時間を短縮し、隔週土曜半休を決定した
    • [38]1年間を完全なテスト期間とすることを組合との協定で取り決め、生産性維持向上と出勤率維持向上の2点を試したうえで昭和40年5月に隔週土曜半休制を正式に取り入れた
    • [39]昭和44年5月に毎週土曜日半休制を実施した
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [40]1968年時点で東京の理学電機は創業16年・人員400人余り、大阪の理学電機工業は従業員160名だった
    • [42]理化学機器(X線)の専門メーカーはこの1社のみで、他は二、三の分野で中小・大企業が同種の製品を作っていた
  • 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
    • [41]日本の需要の約8割を占め、残りを国内の大企業2〜3社と海外からの輸入品で分け合っていた
参考文献[27]-[42]
  • リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1961年5月、大阪府高槻市赤大路町に理学電機工業株式会社を設立した
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
    • [28]大阪で扱う装置は現場の品質管理に用いるもので、東京で生産しているような研究所的な生産手法ではうまく行かないことから、東京と大阪の二つに分ける考え方が出た
    • [29]三番目が一番大きい理由で、東京のうまく行かない労使関係から、住みよい会社・高能率高賃金を軸とした近代的労使関係を作り上げることを創業の考えとした
    • [30]東京だけに工場があるとアフターサービス等を一切東京で行わねばならず、その不便を解消し西日本一帯を強化するために大阪に会社を設立した
    • [31]社是は、社会に役立つものを作る/会社の繁栄を通じて社員の生活を向上する/企業生活を通じて社会から祝福される良い人になる、の三つだった
    • [33]創業時を100とすると1968年4月には308%となり、中途採用者が53%、新規学卒者が32%を占めた
    • [34]1967年の1年間に新聞広告を4回出して760名の応募があり採用は8名(0.9%)、学卒は38名の応募に対し採用4名(1.06%)だった
    • [35]人事調査に興信所などの外部機関は利用せず、人事担当者が自ら家庭・学校を訪問した
    • [36]昭和38年度から42年度の定着率は94.7%、91.9%、97.2%、93.2%、92.9%と毎年90%以上を維持し、階層別人員構成は大卒40%・高卒50%・中卒10%だった
    • [40]1968年時点で東京の理学電機は創業16年・人員400人余り、大阪の理学電機工業は従業員160名だった
    • [42]理化学機器(X線)の専門メーカーはこの1社のみで、他は二、三の分野で中小・大企業が同種の製品を作っていた
  • 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
    • [32]大阪では労務三原則を利益平等分配制度として具体化し、労使三原則を労使協議会として実現を図った
  • 「ケース2・八年間の“時短努力”が結実――理学電機(株)」(近代中小企業 1973年 第8巻第7号)
    • [37]昭和39年5月、生産部門8時30分から17時、事務部門9時から17時30分の週6日・週45時間から月8時間を短縮し、隔週土曜半休を決定した
    • [38]1年間を完全なテスト期間とすることを組合との協定で取り決め、生産性維持向上と出勤率維持向上の2点を試したうえで昭和40年5月に隔週土曜半休制を正式に取り入れた
    • [39]昭和44年5月に毎週土曜日半休制を実施した
  • 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
    • [41]日本の需要の約8割を占め、残りを国内の大企業2〜3社と海外からの輸入品で分け合っていた

筆者考察

理学電機の創業は、何を作るかではなく、何を作らないかを決めることだった。志村義博氏はX線の技術を持ちながら医療用レントゲンには進まず、大学の研究室と大企業の研究所という、買い手の数が限られた市場を選んだ。量産の効かない市場では、資金力と知名度で勝る大企業が本気で来ない。装置一台ごとの性能が取引のほぼ全部になり、技術者が経営を兼ねる小さな会社に分がある。1968年に利益の70%を研究開発へ回し、株主配当を3%に抑えていた配分は、この選択の裏返しである。先発の優位が半年しか続かない市場では、次の一台を用意し続けることだけが条件だった。医療用へ進まなかったこの判断が、以後半世紀にわたって製品の並びを規定した。

もう一つの選択は、会社を分けたことにある。1960年から1961年の賃上げ闘争で会社が当初回答を撤回した経験は、東京の職場に長くしこりを残した。装置が研究室を出て工場の生産ラインへ入れば、売った後に人を張り付ける保守の体制が要り、それは職場の安定を前提とする。東京を作り直す代わりに、1961年、大阪府高槻市へ理学電機工業という別の会社が置かれた。新しい会社は1967年に760名の応募から8名しか採らず、定着率を毎年90%以上に保っている。人を増やす速さよりも、入れた人が辞めない構造を先に作ったのである。東京と大阪の二社は、以後、同じX線技術の別々の顔を担うことになった。

理学電機工業の定着率 1963年度〜1967年度(%)

94.7 1963 91.9 1964 97.2 1965 93.2 1966 92.9 1967
  • 昭和38年度から42年度の各年度値。大阪の理学電機工業の数字で、東京の理学電機は含まない。

出典・参考

6件
出典・参考
  • リガク・ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 山形昌宏「年少労働者の採用管理と定着性」(月刊労働 1968年 第238号)
  • 山形昌宏「中小企業の人間管理」(関西経協 1972年 第26巻第10号)
  • 「ケース2・八年間の“時短努力”が結実――理学電機(株)」(近代中小企業 1973年 第8巻第7号)
  • 荒川清・山形昌宏「不況下におけるわが社の合理化推進策」(関西経協 1975年 第29巻第3号)
  • 「理学電機「小市場、高シェア」戦略の転機」(日経ビジネス 1987年12月7日号)

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