第1章 年〜年

伊藤園:フロンティア製茶の設立と緑茶ルートセールスの開始

1964年〜日産系の販売会社を退社した本庄正則氏の日本ファミリーサービスと、利益2割の包装茶

本庄正則氏は1964年、29歳で埼玉県川口市に資本金300万円の日本ファミリーサービスを設立した。本庄正則氏は1959年に早稲田大学法学部を卒業し、東都日産モーターで自動車のセールスマンになった。幼稚園に送迎用のマイクロバスを提案する営業での販売台数は、1962年から1963年に407台。勤め先は日産自動車に吸収合併され、本庄正則氏は昇進の見込みを失った。幹部は親会社の部長級が派遣される人事で、生え抜きは専務や社長になれなかった。本庄正則氏は顧客の援助を得て、実弟の本庄八郎氏ら6人で食品の卸業に転じた。1972年の取材で本庄正則氏は独立の経緯を『脱サラなどというカッコいいものではございませんので、敗北ですね』と振り返った。華やかな起業ではなく、昇進の道が閉じた末の転身だったとみられる。

  • 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
    • [1]1964年、29歳で川口市に資本金300万円の日本ファミリーサービスを設立。1962〜63年にマイクロバス営業で407台を販売
    • [3]1964年、29歳で川口市に資本金300万円の日本ファミリーサービスを設立。1962〜63年にマイクロバス営業で407台を販売
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [2]1959年早大法学部卒、東都日産モーターを経て1964年に創業
  • 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
    • [4]勤務先が日産に吸収合併され出世の望みを絶たれ、顧客の援助を得て弟や仲間6人で食品卸に転じた
    • [6]勤務先が日産に吸収合併され出世の望みを絶たれ、顧客の援助を得て弟や仲間6人で食品卸に転じた
    • [8]勤務先が日産に吸収合併され出世の望みを絶たれ、顧客の援助を得て弟や仲間6人で食品卸に転じた
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
    • [5]販売会社の専務・社長はメーカーの部長級が派遣され、生え抜きはなれなかった
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [7]弟は本庄八郎(1998年時点の社長)

日本ファミリーサービスは食品の置き売りと卸売に相次いで失敗し、利益率の最も高い茶に事業を絞った。最初の事業は富山の配置薬に倣い、団地の家庭に乾物や缶詰を置いて使った分を集金する方式である。団地の主婦は買い物を息抜きとしてスーパーへ通い、置き売りは約3カ月で行き詰まった。森泰男常務は後年、価格でスーパーに劣り、補充品の配送も回らなかったことを敗因に挙げた。続く食料品の卸販売も利益が薄く、扱う品のうち包装茶だけが約20%の利幅を残した。本庄正則氏はこの利幅を根拠に、茶の専業へ切り替えた。損失が小さいうちに撤退を決めた速さが、茶専業の出発点になったと考えられる。

  • 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
    • [9]団地向けの富山方式の食品販売が失敗し、出血の浅いうちに利益率の最も高い茶一本に絞った
  • 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
    • [10]富山の薬売りの食品版は団地の主婦がスーパーに通うため約3カ月で頓挫。包装茶だけが20%の利益
    • [11]富山の薬売りの食品版は団地の主婦がスーパーに通うため約3カ月で頓挫。包装茶だけが20%の利益
  • 事務と経営 26(312) 1974年「企業探訪 お茶の伊藤園 独自の販売チャネルで急成長」志村嘉門 p62-64
    • [12]森常務はファミリーボックスの失敗要因を価格面の劣位と補充配送の不調と説明。約3カ月で見切り
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [13]食品卸は失敗したが、包装茶のマージンは約20%で、茶専業に切り替えた
    • [14]食品卸は失敗したが、包装茶のマージンは約20%で、茶専業に切り替えた

本庄正則氏は茶問屋の流通を通さず、包装茶をスーパーや食料品店に置く販路を選んだ。仕入れは静岡の農協と契約したものの、既存の茶屋には販売ルートが固まっていて卸せなかった。緑茶の販売は1965年夏に始まり、計り売りをやめて種類と量をそろえた包装茶を茶屋以外の店に置いた。1966年8月には前身のフロンティア製茶を設立。セールスマンは1人で約200〜300の店を受け持ち、陳列から在庫管理、販売促進までを担った。店は売り場を設ければ売れた分の利益を得て、会社は店頭で消費の動きをつかんだ。販路は川口市内から赤羽へと地区単位で広がった。本庄正則氏は後年、この営業組織を日産で教わった方法の応用と説明した。

  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [15]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立
    • [16]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立
    • [18]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立
    • [21]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立
  • 事務と経営 26(312) 1974年「企業探訪 お茶の伊藤園 独自の販売チャネルで急成長」志村嘉門 p62-64
    • [17]1965年夏に緑茶販売を開始。種類と量を標準化し茶屋以外に販路。1人200〜300店のテリトリー制で店頭管理を担う
    • [19]1965年夏に緑茶販売を開始。種類と量を標準化し茶屋以外に販路。1人200〜300店のテリトリー制で店頭管理を担う
    • [20]1965年夏に緑茶販売を開始。種類と量を標準化し茶屋以外に販路。1人200〜300店のテリトリー制で店頭管理を担う
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
    • [22]本庄正則は営業組織を日産で教わった方法の応用と説明(練馬区・豊島区などのテリトリー制)
参考文献[1]-[22]
  • 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
    • [1]1964年、29歳で川口市に資本金300万円の日本ファミリーサービスを設立。1962〜63年にマイクロバス営業で407台を販売
    • [3]1964年、29歳で川口市に資本金300万円の日本ファミリーサービスを設立。1962〜63年にマイクロバス営業で407台を販売
    • [10]富山の薬売りの食品版は団地の主婦がスーパーに通うため約3カ月で頓挫。包装茶だけが20%の利益
    • [11]富山の薬売りの食品版は団地の主婦がスーパーに通うため約3カ月で頓挫。包装茶だけが20%の利益
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [2]1959年早大法学部卒、東都日産モーターを経て1964年に創業
  • 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
    • [4]勤務先が日産に吸収合併され出世の望みを絶たれ、顧客の援助を得て弟や仲間6人で食品卸に転じた
    • [6]勤務先が日産に吸収合併され出世の望みを絶たれ、顧客の援助を得て弟や仲間6人で食品卸に転じた
    • [8]勤務先が日産に吸収合併され出世の望みを絶たれ、顧客の援助を得て弟や仲間6人で食品卸に転じた
    • [9]団地向けの富山方式の食品販売が失敗し、出血の浅いうちに利益率の最も高い茶一本に絞った
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
    • [5]販売会社の専務・社長はメーカーの部長級が派遣され、生え抜きはなれなかった
    • [22]本庄正則は営業組織を日産で教わった方法の応用と説明(練馬区・豊島区などのテリトリー制)
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [7]弟は本庄八郎(1998年時点の社長)
    • [13]食品卸は失敗したが、包装茶のマージンは約20%で、茶専業に切り替えた
    • [14]食品卸は失敗したが、包装茶のマージンは約20%で、茶専業に切り替えた
  • 事務と経営 26(312) 1974年「企業探訪 お茶の伊藤園 独自の販売チャネルで急成長」志村嘉門 p62-64
    • [12]森常務はファミリーボックスの失敗要因を価格面の劣位と補充配送の不調と説明。約3カ月で見切り
    • [17]1965年夏に緑茶販売を開始。種類と量を標準化し茶屋以外に販路。1人200〜300店のテリトリー制で店頭管理を担う
    • [19]1965年夏に緑茶販売を開始。種類と量を標準化し茶屋以外に販路。1人200〜300店のテリトリー制で店頭管理を担う
    • [20]1965年夏に緑茶販売を開始。種類と量を標準化し茶屋以外に販路。1人200〜300店のテリトリー制で店頭管理を担う
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [15]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立
    • [16]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立
    • [18]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立
    • [21]静岡の農協と契約して仕入れたが茶屋に卸せず、包装にしてスーパー・食料品店へ。ルートセールスで川口から赤羽へ。1966年8月にフロンティア製茶設立

1966年〜4000万円の取り込み詐欺で得た伊藤園の商号と、牧ノ原の南の相良工場

フロンティア製茶は1969年、上野の老舗茶屋から「伊藤園」のブランドを200万円で取得した。茶の業界は老舗の看板がないと売り手も買い手も敬遠する業界である。旧伊藤園は借財を抱えており、ほぼ無償に近い条件で商号を譲渡した。同じころ本庄正則氏は4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため妻の着物まで売った。本庄正則氏は後年、商号は詐欺の弁済を進める過程で取得できたと振り返った。看板を得ても茶の小売店には入りにくく、販路はスーパーと食品店が中心だった。売上高は1967年度の2億6000万円から、1971年に35億円へ増えた。新参の会社にとって、老舗の名は茶の信用を補う手段だったのだろう。

  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [23]1969年に上野の老舗から「伊藤園」ブランドを200万円で取得。同時期に4000万円の手形詐欺に遭い妻の着物まで売った
    • [26]1969年に上野の老舗から「伊藤園」ブランドを200万円で取得。同時期に4000万円の手形詐欺に遭い妻の着物まで売った
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [24]上野で100年近く続いた茶屋・伊藤園の廃業に際し暖簾を譲り受けた。老舗でないと売りにくい業界
  • 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
    • [25]旧伊藤園は借財があり、ただ同然で商号を買い取れた
  • 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
    • [27]4000万円の取り込み詐欺の弁済の過程で商号を得た。食品店・スーパーに卸し、売上は1967年度2億6000万円、1971年35億円
    • [28]4000万円の取り込み詐欺の弁済の過程で商号を得た。食品店・スーパーに卸し、売上は1967年度2億6000万円、1971年35億円
    • [29]4000万円の取り込み詐欺の弁済の過程で商号を得た。食品店・スーパーに卸し、売上は1967年度2億6000万円、1971年35億円

伊藤園はスイス製の包装機を導入し、空気を抜いて窒素を詰める真空パックで茶の変質を防いだ。従来の茶は新茶の時期と終わりで味が大きく異なり、同じ時期でも品質にばらつきがあった。本庄正則氏が目標に置いたのは、四季を通じて全製品の味をそろえることである。包装機は1分間に100本の真空パックを製造し、各支店へ輸送車で送られた。1972年時点で支店は全国に12あり、セールスマン1人に1台のライトバンを配した。新製品は約6000人のモニターに試させ、60〜70%の好評価がなければ量産しなかった。1976年の取材は、店頭で計る手間を省いた真空包装を、持ち回りの販売と並ぶ事業基盤に数えた。

  • 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
    • [30]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [31]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [32]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [33]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [34]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [35]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [36]持ち回りの販売方法と店頭で計る手間を省く真空包装が事業の基盤

伊藤園は1974年、静岡県相良町に自前の茶工場を新設し、茶の生産から販売までを自社で担うようになった。相良町は牧ノ原という茶の大産地の南にあり、安い工場用地があった。本庄正則氏が埼玉銀行板橋支店長に用地の話をすると、約1カ月で融資が決まった。本庄正則氏は1〜2年先の着工を考えていたため、予定を早めて用地を取得し鹿島建設と工事契約を結んだ。契約の直後に石油危機が起こり、物価は2倍、3倍に上がった。同じ支店長は借入金の返済期間を3年から7年に改め、資金繰りを支えた。工場建設による借入金は50億円で、売上高70億円に比べて重い負担である。1979年の工場は敷地約1万坪、建坪約5000坪で、ほぼ全工程をコンピュータで自動化した。

  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [37]1974年に静岡県に茶工場をつくり、生産・販売の一貫体制を取った
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [38]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
    • [39]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
    • [40]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
    • [41]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
  • 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
    • [42]支店長が返済期間を3年から7年に切り替え。工場建設で借入金50億円、売上高70億円
    • [43]支店長が返済期間を3年から7年に切り替え。工場建設で借入金50億円、売上高70億円
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
    • [44]工場は約1万坪、建坪約5000坪、コンピュータで自動化
参考文献[23]-[44]
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
    • [23]1969年に上野の老舗から「伊藤園」ブランドを200万円で取得。同時期に4000万円の手形詐欺に遭い妻の着物まで売った
    • [26]1969年に上野の老舗から「伊藤園」ブランドを200万円で取得。同時期に4000万円の手形詐欺に遭い妻の着物まで売った
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [24]上野で100年近く続いた茶屋・伊藤園の廃業に際し暖簾を譲り受けた。老舗でないと売りにくい業界
    • [38]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
    • [39]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
    • [40]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
    • [41]牧ノ原の南の相良町の安い用地。旧埼玉銀行板橋支店長が約1カ月で融資を出し、用地取得と鹿島建設との契約直後にオイルショック
  • 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
    • [25]旧伊藤園は借財があり、ただ同然で商号を買い取れた
    • [30]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [31]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [32]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [33]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [34]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
    • [35]スイス製包装機で真空にし窒素を充填、1分間100本。四季を通じ同じ味に。支店12、1人1台のライトバン、モニター約6000人で60〜70%の評価を量産条件に
  • 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
    • [27]4000万円の取り込み詐欺の弁済の過程で商号を得た。食品店・スーパーに卸し、売上は1967年度2億6000万円、1971年35億円
    • [28]4000万円の取り込み詐欺の弁済の過程で商号を得た。食品店・スーパーに卸し、売上は1967年度2億6000万円、1971年35億円
    • [29]4000万円の取り込み詐欺の弁済の過程で商号を得た。食品店・スーパーに卸し、売上は1967年度2億6000万円、1971年35億円
    • [42]支店長が返済期間を3年から7年に切り替え。工場建設で借入金50億円、売上高70億円
    • [43]支店長が返済期間を3年から7年に切り替え。工場建設で借入金50億円、売上高70億円
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [36]持ち回りの販売方法と店頭で計る手間を省く真空包装が事業の基盤
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [37]1974年に静岡県に茶工場をつくり、生産・販売の一貫体制を取った
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
    • [44]工場は約1万坪、建坪約5000坪、コンピュータで自動化

1974年〜ガラス張りの人事考課で立った製茶業界首位と、8億円で買い付けたウーロン茶

伊藤園は製茶業界に参入して11年余りの1976年、業界首位を固めていた。1977年の得意先は全国4万店、従業員は500人、年間売上高は60億円。人事考課は本人・直属の上司・部課長の3段階で採点し、年4回実施した。営業マンは売上の達成率や売掛金の回収率、新規顧客数など140項目で評価された。評価の差は本人に説明され、11月の昇給は全額を査定で決め、1975年は0円から1万5000円まで開いた。本庄八郎専務は、6人で発足した当初から全員で互いの働きを採点して配分を決めたと説明した。1976年時点の社員580人は平均年齢25歳である。年功ではなく成果で処遇する仕組みが、若い営業組織の開拓を後押ししたと推察される。

  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [45]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [47]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [48]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [49]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [50]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [51]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
  • コンピュートピア 11(125) 1977年「システム・マネジメントの展開(1) ヴァンヂャケットと伊藤園」新井進・志村嘉門 p55-61
    • [46]1977年時点で得意先4万店、従業員500人、年間売上60億円

伊藤園は1970年代後半、原料の茶葉を押さえるために産地との契約栽培へ着手した。1976年の取材は、農家との契約栽培を業界に前例のない製販一体の構想として伝えた。1977年の記事が記したのは、契約栽培制で品質と生産性の維持を図る方針である。茶の味はブレンドで決まるため、森泰男常務は配合の組み合わせをコンピュータで分析する構想も示した。小売の店先では1977年に直営店「茶十徳」を始めた。直営店は1993年時点で大型スーパーの中を中心に110店余りを数えた。運営は、出店から1年で一定の売上に達しない店を撤退させる規律による。包装茶の量が増えるほど、原料の質のばらつきが味の統一を揺らすと思われる。

  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [52]農家との契約栽培という業界に前例のない製販一体の作戦を展開しようとしている(1976年)
    • [54]農家との契約栽培という業界に前例のない製販一体の作戦を展開しようとしている(1976年)
  • コンピュートピア 11(125) 1977年「システム・マネジメントの展開(1) ヴァンヂャケットと伊藤園」新井進・志村嘉門 p55-61
    • [53]産地との契約栽培制を新しく指向し品質と生産性の維持を図る。ブレンドの組み合わせのシミュレーション分析を森常務が構想
    • [55]産地との契約栽培制を新しく指向し品質と生産性の維持を図る。ブレンドの組み合わせのシミュレーション分析を森常務が構想
    • [56]産地との契約栽培制を新しく指向し品質と生産性の維持を図る。ブレンドの組み合わせのシミュレーション分析を森常務が構想
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [57]直営店「茶十徳」を昭和52年から開始。1993年に110店余り、大型スーパー内に出店し、1年で一定売上がなければ撤退
    • [58]直営店「茶十徳」を昭和52年から開始。1993年に110店余り、大型スーパー内に出店し、1年で一定売上がなければ撤退
    • [59]直営店「茶十徳」を昭和52年から開始。1993年に110店余り、大型スーパー内に出店し、1年で一定売上がなければ撤退

伊藤園は1979年、中国土産畜産進出口公司と総代理店契約を結び、福建省産ウーロン茶の独占販売権を得た。緑茶は6月から9月の暑い時期に販売が鈍り、屋外で飲まれる需要もなかった。一世帯当たりの緑茶消費量は1973年の2024グラムを頂点に減少を続けた。売上高は100億円に達したものの借入金も増え、利益が出にくかった。1977年11月、相良工場を見学した中国の食品加工技術機械視察団が、懇親の席でウーロン茶の取引を持ちかけた。伊藤園は3年契約で年間2億円分の輸入を始め、本庄正則氏は後年、取引額を当時の8億円と振り返った。1979年秋には中国製ウーロン茶を大々的に販売する予定を立てた。夏に販売できる茶の探索が、次の缶入り飲料の開発へつながったと推測される。

  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [60]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [61]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [63]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [65]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [66]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [62]売上高100億円、借入金増で利益が出ず。緑茶は夏場と屋外需要が弱い。相良工場見学の中国食品使節団から勧められ当時の金額で8億円
    • [64]売上高100億円、借入金増で利益が出ず。緑茶は夏場と屋外需要が弱い。相良工場見学の中国食品使節団から勧められ当時の金額で8億円
    • [67]売上高100億円、借入金増で利益が出ず。緑茶は夏場と屋外需要が弱い。相良工場見学の中国食品使節団から勧められ当時の金額で8億円
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
    • [68]1979年、麦茶・水出し煎茶など夏向け製品に注力し、秋に中国製ウーロン茶を大々的に販売する予定
参考文献[45]-[68]
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
    • [45]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [47]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [48]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [49]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [50]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [51]参入11年余りで首位。人事考課は3段階・年4回、営業140項目。考課を公開し11月昇給は全額査定(1975年は0〜1万5000円)。6人の創業時から全員で採点。社員580人・平均25歳
    • [52]農家との契約栽培という業界に前例のない製販一体の作戦を展開しようとしている(1976年)
    • [54]農家との契約栽培という業界に前例のない製販一体の作戦を展開しようとしている(1976年)
  • コンピュートピア 11(125) 1977年「システム・マネジメントの展開(1) ヴァンヂャケットと伊藤園」新井進・志村嘉門 p55-61
    • [46]1977年時点で得意先4万店、従業員500人、年間売上60億円
    • [53]産地との契約栽培制を新しく指向し品質と生産性の維持を図る。ブレンドの組み合わせのシミュレーション分析を森常務が構想
    • [55]産地との契約栽培制を新しく指向し品質と生産性の維持を図る。ブレンドの組み合わせのシミュレーション分析を森常務が構想
    • [56]産地との契約栽培制を新しく指向し品質と生産性の維持を図る。ブレンドの組み合わせのシミュレーション分析を森常務が構想
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲
    • [57]直営店「茶十徳」を昭和52年から開始。1993年に110店余り、大型スーパー内に出店し、1年で一定売上がなければ撤退
    • [58]直営店「茶十徳」を昭和52年から開始。1993年に110店余り、大型スーパー内に出店し、1年で一定売上がなければ撤退
    • [59]直営店「茶十徳」を昭和52年から開始。1993年に110店余り、大型スーパー内に出店し、1年で一定売上がなければ撤退
    • [62]売上高100億円、借入金増で利益が出ず。緑茶は夏場と屋外需要が弱い。相良工場見学の中国食品使節団から勧められ当時の金額で8億円
    • [64]売上高100億円、借入金増で利益が出ず。緑茶は夏場と屋外需要が弱い。相良工場見学の中国食品使節団から勧められ当時の金額で8億円
    • [67]売上高100億円、借入金増で利益が出ず。緑茶は夏場と屋外需要が弱い。相良工場見学の中国食品使節団から勧められ当時の金額で8億円
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
    • [60]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [61]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [63]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [65]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
    • [66]1977年11月来日の中国食品加工技術機械視察団から工場見学後の懇親会で持ちかけられ、3年契約で年2億円分を輸入。1979年に中国土産畜産進出口公司と総代理店契約。夏(6〜9月)は売れない。一世帯消費量は1973年2024gがピーク
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
    • [68]1979年、麦茶・水出し煎茶など夏向け製品に注力し、秋に中国製ウーロン茶を大々的に販売する予定

出典・参考

9件
出典・参考
  • 日経ビジネス 1976年5月10日号
  • 日経ビジネス 1989年5月22日号
  • 日経ビジネス 1998年9月14日号
  • 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
  • 事務と経営 26(312) 1974年「企業探訪 お茶の伊藤園 独自の販売チャネルで急成長」志村嘉門 p62-64
  • コンピュートピア 11(125) 1977年「システム・マネジメントの展開(1) ヴァンヂャケットと伊藤園」新井進・志村嘉門 p55-61
  • 事務と経営 31(386) 1979年「経営者語録 従業員尊重が企業発展の要諦」本庄正則 p2-5
  • 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
  • あさひ銀総研レポート 1993年「トップインタビュー (株)伊藤園 会長 本庄正則氏」伊治哲

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