本庄正則
経歴1959〜1988年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1959年主要役職の状況(推定含む目安)1988年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 自動車販売会社(東都日産モーターの前身) | 1959 | 入社 | ||
| 日本ファミリーサービス株式会社(伊藤園の前身) | 1964 | 設立 社長 | |||
| フロンティア製茶株式会社(現・伊藤園) | 1966 | 設立 | |||
| 1969 | 株式会社伊藤園に商号変更 | ||||
| 1988 | 社長 退任 | ||||
| 1988 | 会長 |
社長就任までの出自
出自
1934年4月に神戸市で生まれ、1959年に早稲田大学法学部を卒業して、東都日産モーターの前身にあたる販売会社で自動車のセールスを担当した。1964年に伊藤園の前身となる日本ファミリーサービスを設立して社長に就任した。元手は自動車の販売で蓄えた資金で、資本金は300万円だった。1966年8月には同社と合資会社ビーエー商会の共同出資で、現在の伊藤園の法人であるフロンティア製茶を静岡市に設立した。
社長に選ばれた経緯
在任中の主な施策
施策
1966年8月に小売店へ直接届ける緑茶のルートセールスを始め、1968年2月に支店の第1号として神奈川支店を開設した。1969年5月に商号を伊藤園へ改め、翌6月に緑茶事業の営業譲渡を受けて生産部門を確保した。1974年5月には静岡相良工場を建て、1977年6月に直営小売店の第1号「茶十徳・日吉店」を出した。1979年8月にウーロン茶の輸入代理店契約を結び、1981年3月に無糖の缶入りウーロン茶を全国で売り出して缶飲料に参入した。1985年2月には缶入り煎茶の全国販売へ進んだ。
創業ストーリー
創業ストーリー
本庄正則氏の独立の出発点は、学生時代に生家が傾いたことにある。父親が知人の連帯保証を引き受けて家と財産を失い、早稲田大学在学中から港湾の夜勤で学費と生活費を稼いだ。検察官の志望は断念し、1959年に自動車販売会社へ入って歩合給のつくセールスで家族を養った。都庁で幼稚園の名簿を調べて園児の多い園から送迎用のマイクロバスを提案して回り、1962年から1963年に407台を売った。それでも勤め先の幹部は親会社から送られ、会社が日産自動車に吸収合併されると昇進の道は閉じた。
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [16]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
- [17]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
- 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
- [18]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- [19]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
- [20]勤めていた会社が日産に吸収合併され出世の望みが絶たれた。顧客の援助を得て弟や仲間たち六人で食品の卸業へ転向。進出した昭和四十年の年商一千五百万円が本年末には約三十億円の見込み。出発当時は社長とも六人、今や四百人
1964年8月、本庄正則氏は埼玉県川口市に資本金300万円で日本ファミリーサービスを設立した。顧客の援助を受け、実弟の本庄八郎氏ら6人で食品の卸に転じた事業である。事務所は川口市のはずれのバラックで、2階を社員寮にして全員で朝食をとってから営業に出た。団地の家庭に乾物を預けて使った分だけ代金を集める置き売りは、主婦がスーパーでの買い物を好んだため約3カ月で行き詰まった。続けた食料品の小売も薄利で、扱った品のなかで約20%の利幅を残した包装茶に事業を絞った。
- 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
- [21]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- [25]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- [27]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- 伊藤園 有価証券報告書 第60期(2025年7月23日)【沿革】
- [22]1964年8月 日本ファミリーサービス設立/1966年8月 日本ファミリーサービスとビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡市に設立、緑茶のルートセールス開始/1969年5月 伊藤園に商号変更/1974年5月 静岡相良工場を建設/1979年8月 中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶輸入代理店契約/1981年3月 缶入りウーロン茶の全国販売開始、缶飲料業界に本格的に進出/1992年5月 日本証券業協会に店頭登録/1996年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
- [23]勤めていた会社が日産に吸収合併され出世の望みが絶たれた。顧客の援助を得て弟や仲間たち六人で食品の卸業へ転向。進出した昭和四十年の年商一千五百万円が本年末には約三十億円の見込み。出発当時は社長とも六人、今や四百人
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [24]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
- [26]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
茶の業界は数百年続く問屋の流通が固く、新参者が茶の小売店に入る余地は小さかった。そこで量り売りが当たり前だった茶葉をパックに詰め、伸び始めたスーパーや食料品店へ卸した。1966年8月には日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡市に設け、小売店へ直接届けるルートセールスを始めた。茶に参入した1965年に1500万円だった年商は、1972年末に約30億円が見込まれ、6人で出発した会社の従業員は400人に増加した。1969年5月に商号を伊藤園へ改めたが、このころ本庄正則氏は4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるために妻の着物まで売却した。1970年に銀行が融資を渋ると、早稲田大学の後輩で国会議員になったばかりの小渕恵三氏が500万円を出資した。
- 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
- [28]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [29]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
- [32]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
- [34]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
- 伊藤園 有価証券報告書 第60期(2025年7月23日)【沿革】
- [30]1964年8月 日本ファミリーサービス設立/1966年8月 日本ファミリーサービスとビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡市に設立、緑茶のルートセールス開始/1969年5月 伊藤園に商号変更/1974年5月 静岡相良工場を建設/1979年8月 中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶輸入代理店契約/1981年3月 缶入りウーロン茶の全国販売開始、缶飲料業界に本格的に進出/1992年5月 日本証券業協会に店頭登録/1996年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
- [33]1964年8月 日本ファミリーサービス設立/1966年8月 日本ファミリーサービスとビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡市に設立、緑茶のルートセールス開始/1969年5月 伊藤園に商号変更/1974年5月 静岡相良工場を建設/1979年8月 中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶輸入代理店契約/1981年3月 缶入りウーロン茶の全国販売開始、缶飲料業界に本格的に進出/1992年5月 日本証券業協会に店頭登録/1996年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 近代中小企業 7(16) 1972年 鈴木均
- [31]勤めていた会社が日産に吸収合併され出世の望みが絶たれた。顧客の援助を得て弟や仲間たち六人で食品の卸業へ転向。進出した昭和四十年の年商一千五百万円が本年末には約三十億円の見込み。出発当時は社長とも六人、今や四百人
1974年5月には静岡相良工場を建てた。融資は取引銀行の支店長が先回りして申請し、建設会社と契約した直後に石油危機が来た。同じ支店長は借入金の返済期間を3年から7年へ延ばした。工場の借入金を抱えた本庄正則氏は人員を削らず、若手への権限移譲と実力主義で組織を組み替え、1980年ごろに経営を安定させた。ウーロン茶を扱う発端は、静岡の工場を見学した中国の食品使節団の副団長が、地元の福建省のウーロン茶の販売を勧めたことにある。1979年8月に中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶の輸入代理店契約を結び、1981年3月の缶入りウーロン茶の発売で缶飲料に本格参入した。
- 伊藤園 有価証券報告書 第60期(2025年7月23日)【沿革】
- [35]1964年8月 日本ファミリーサービス設立/1966年8月 日本ファミリーサービスとビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡市に設立、緑茶のルートセールス開始/1969年5月 伊藤園に商号変更/1974年5月 静岡相良工場を建設/1979年8月 中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶輸入代理店契約/1981年3月 缶入りウーロン茶の全国販売開始、缶飲料業界に本格的に進出/1992年5月 日本証券業協会に店頭登録/1996年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
- [40]1964年8月 日本ファミリーサービス設立/1966年8月 日本ファミリーサービスとビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡市に設立、緑茶のルートセールス開始/1969年5月 伊藤園に商号変更/1974年5月 静岡相良工場を建設/1979年8月 中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶輸入代理店契約/1981年3月 缶入りウーロン茶の全国販売開始、缶飲料業界に本格的に進出/1992年5月 日本証券業協会に店頭登録/1996年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
- 石垣 1990年5月「創業者ストーリー (株)伊藤園会長 本庄正則」
- [36]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- [37]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- [38]幼稚園の名簿から園児百人以上の園を調べマイクロバスを売り込み、37年から38年に407台。勤め先は社長以下幹部役員が親会社からの天下り。資本金三百万円で川口市に日本ファミリーサービスを設立。団地向けの富山の薬売りの食品版は約3カ月でダウン、食料品小売も3カ月ほどでやめ、包装茶だけが20%の利益。古い業界で小売店に入れず、包装茶を食品店やスーパーに卸した。支店長が工場建設の融資を申請し、建設会社と契約直後にオイルショック。人をやめさせず若手抜てきと権限移譲・実力主義で再編し、五十五年ごろ経営が安定
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [39]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
1988年、本庄正則氏は会社を興したころから右腕だった本庄八郎氏に社長を譲り、会長に就任した。株式は1992年5月に日本証券業協会へ店頭登録し、1996年9月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [41]大学2年で父親が知人の連帯保証人となり家も財産も失い、毎晩港湾労働者として働く。検察官の夢をあきらめ59年に自動車販売会社に入社、歩合給で家族を養う。食品卸は失敗、包装茶は約20%のマージンでお茶専業へ。量り売りの時代にスーパー・食料品店向けにパック詰めの包装茶を売る。4000万円の手形詐欺に遭い、不渡りを避けるため奔走し妻の着物まで売った。88年に実弟の八郎氏に社長を譲り会長に就任。弟は川口のバラックで会社を起こしたころから右腕。川口市のはずれのバラックが事務所で2階が社員寮、みんなで朝飯を食べて営業に行く共同生活。70年、手形詐欺の後遺症で銀行が融資を渋るなか、早大の後輩で国会議員になりたての小渕恵三が500万円を出資。中国の食品使節団が静岡の製茶工場を訪れ、副団長から福建省のウーロン茶の販売を勧められた
- 伊藤園 有価証券報告書 第60期(2025年7月23日)【沿革】
- [42]1964年8月 日本ファミリーサービス設立/1966年8月 日本ファミリーサービスとビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡市に設立、緑茶のルートセールス開始/1969年5月 伊藤園に商号変更/1974年5月 静岡相良工場を建設/1979年8月 中国土産畜産進出口総公司とウーロン茶輸入代理店契約/1981年3月 缶入りウーロン茶の全国販売開始、缶飲料業界に本格的に進出/1992年5月 日本証券業協会に店頭登録/1996年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
参考文献2件
参考文献
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「本庄正則会長 伊藤園 常識に逆らい「缶入りだ」」略歴
- 日経ビジネス 1998年9月14日号「本庄正則氏[伊藤園会長]ひと 事業失敗、詐欺、胃ガン乗り越え成功」
事実根拠:出所(伊藤園)