日清製粉グループ本社:館林製粉の創立と旧日清製粉の合併による社名継承
1900年〜上州の麦で興した館林製粉と、資本金160万円で東京へ出た日清製粉への合併
1900年10月27日、正田貞一郎氏は群馬県館林町で館林製粉の創立総会の議長を務め、専務取締役に就任した。資本金3万円、製粉機械の能力日産50バーレルでの出発。正田貞一郎氏は1891年に東京高等商業学校を卒業した直後、親族の急死により本家の醤油醸造を継いだ。ただ自身は分家の立場にあり、本家の家業とは別に自前の事業を持つ考えを捨てなかった。上州は小麦の産地で、館林の周辺では水車を使う製粉が盛んだったことが着想の元である。1899年、高商時代の恩師の土子金四郎博士に石臼に代わるローラー・ミルの構想を相談し、賛同を得て創業を決めた。当時の国内消費は水車粉と輸入粉で9割を占め、機械で挽いた粉は1割未満だった。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「二章 創業時代」
- [1]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [3]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [4]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [5]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [6]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [2]館林製粉は正田貞一郎が設立、資本金3万円・日産50バーレル。当時は水車粉と輸入粉が消費の9割、機械粉は1割未満
- [7]館林製粉は正田貞一郎が設立、資本金3万円・日産50バーレル。当時は水車粉と輸入粉が消費の9割、機械粉は1割未満
館林製粉が工場の運転を始めたのは1901年5月3日で、日清製粉は後年この日を創立記念日に定めた。機械は専務取締役の正田貞一郎氏が高商の同窓で三井物産サンフランシスコ支店長の小田柿捨次郎氏に頼み、米国アリス・チャルマー社の日産50バーレル機を取り寄せた。据え付けの技術者がおらず、正田貞一郎氏がカタログや原書を読み込み、社員の生明伊之助氏と組み立てた。挽いた粉は白さで評判を得たものの、歩留まりは70%を下回り採算に合わなかった。1901年8月末の第1回決算は、借入金7,500円を抱えての379円の損失計上。第2回決算から利益を出して1割配当を続け、合理的な経営を社是としたことで不況下も持ちこたえた。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「二章 創業時代」
- [8]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [9]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [10]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [11]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [12]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [13]創業以来合理的経営を社是とし、不況時にも耐えて発展した
旧日清製粉は1907年3月1日、神奈川の資産家の加藤八郎右衛門氏らが資本金100万円で横浜に設けた会社で、港に面した立地は原料の搬入と製品の輸出に利点をもつ。工場の建設中に日露戦後の反動不況が来て、先行きは見通せなくなった。取締役の田口禮五郎氏は正田貞一郎氏と高商の同窓で、三井物産の平田篤次郎氏を介して引き受けを持ちかけた。専務取締役の正田貞一郎氏は館林では地方に偏りすぎると考えて東京への進出を望んでおり、1907年10月22日に合併契約を結んだ。資本金は160万円となり、社名は館林の名を捨てて日清製粉を継ぎ、1908年2月8日に本社を東京・日本橋小網町へ移した。合併時の能力は500バーレルで、大手6社の中で最も小さかった。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「二章 創業時代」
- [14]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [16]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [17]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [18]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [19]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [15]日露戦後の反動で新設製粉会社の多くが経営難となり、旧日清製粉もその一例。1908年館林製粉が合併し日清製粉の名を継承、本社を東京へ
参考文献[1]-[19]
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「二章 創業時代」
- [1]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [3]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [4]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [5]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [6]館林製粉は1900年10月27日に創立総会、正田貞一郎が専務取締役。分家として自分の事業を望み、麦産地・水車粉の素地から製粉に着眼、1899年土子金四郎の賛成で決心
- [8]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [9]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [10]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [11]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [12]1901年5月3日運転開始(創立記念日)。小田柿捨次郎経由でアリス・チャルマー社の50バーレル機を輸入、正田と生明伊之助が据付け。歩留り70%未満で採算合わず。第1回貸借対照表(1901年8月31日)借入金7,500円・損金379円、第2回から利益計上で1割配当
- [14]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [16]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [17]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [18]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- [19]旧日清製粉は1907年3月1日横浜で創立(資本金100万円、社長加藤八郎右衛門)。田口禮五郎・平田篤次郎経由で合併談、正田は館林が地方的すぎ東京へ出たいと考え1907年10月22日合併契約。資本金160万円、日清製粉の名を継承、1908年2月8日本社を小網町へ。1908年頃日清製粉は500バーレルで6大社中6位
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [2]館林製粉は正田貞一郎が設立、資本金3万円・日産50バーレル。当時は水車粉と輸入粉が消費の9割、機械粉は1割未満
- [7]館林製粉は正田貞一郎が設立、資本金3万円・日産50バーレル。当時は水車粉と輸入粉が消費の9割、機械粉は1割未満
- [13]創業以来合理的経営を社是とし、不況時にも耐えて発展した
- [15]日露戦後の反動で新設製粉会社の多くが経営難となり、旧日清製粉もその一例。1908年館林製粉が合併し日清製粉の名を継承、本社を東京へ
1909年〜大戦景気で名古屋・水戸・岡山・神戸に展開した工場と、800万円の鶴見工場
専務取締役の正田貞一郎氏は1913年1月28日に欧米の製粉業の視察へ発ち、5月20日に帰国した。出発時の日清製粉は館林・横浜・宇都宮の3工場で計1,800バーレルを持ち、日本製粉に次ぐ位置にあった。休みなく働くだけでは会社を大きくできず、先を行く欧米の実情を詳しく調べる必要があると考えたことが動機である。米国の大量生産型より、原料を輸入に依存する点で日本と条件の近い欧州式の精密な機械が合うという結論を持ち帰った。欧州の工場が実験室で原料と製品を分析する姿も見て、1913年9月に農芸化学出身の宇野正雄氏を採用し、1914年2月から本社地下で小麦と小麦粉の分析を始めた。この外遊を境に、経営の改革が順に進んだ。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「三章 拡張時代」
- [20]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [21]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [22]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [23]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [24]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [25]1913年正田は先進国に範を求めて外遊し、その後経営の改革が進んだ(鶴見の真空吸上機構想も一例)
帰国後の正田貞一郎氏はまず名古屋に工場を置き、1914年10月にドイツのアンメ社の機械で400バーレルの運転を始めた。商圏が関東だけだったため関西方面に拠点が要り、国内の製粉でドイツ式の機械を使うのはこれが初めてだった。第1次大戦で交戦国が東洋へ輸出できなくなると、日本の小麦粉は南洋や欧州へ渡り、全国の輸出は1913年の1,700袋から1917年に439万袋へ増えた。専務取締役の正田貞一郎氏はこの需要を受け、1917年8月に水戸、1920年2月に岡山、1925年1月に神戸の工場を順に動かした。1914年から1925年までに4工場の新設と4社の合併を重ね、総能力は1,800バーレルから10,800バーレルへ拡大。資本金は1925年3月に1,230万円となった。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「三章 拡張時代」
- [26]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [27]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [28]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [29]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [30]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [31]大正年間に名古屋・水戸・岡山・神戸・鶴見を新設、資本金は1925年3月に1,230万円
鶴見工場は1923年末に着工し、1926年2月に第1期工事を終えた。建設費800万円は資本金1,200万円の会社には重い負担で、専務取締役の正田貞一郎氏が熟慮の末に着手を決めた。理由の1つは、1913年の外遊中にマンチェスターの工場で、岸壁に着けた大型船から空気ポンプで小麦を吸い上げる荷役を見たことである。もう1つは日本の製粉業の拡大に輸出が欠かせないという判断で、外国と競うには設備と技術で世界の水準を上回る必要があった。敷地は同窓で大阪商船東京支店長の深尾隆太郎氏の紹介により、浅野総一郎氏の手がける鶴見の埋立地に決めた。第2期工事を終えた1928年に日産7,000バーレルとなり、輸入小麦の受け入れに適した国内最大の臨海工場が完成した。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「三章 拡張時代」
- [32]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [33]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [34]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [35]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [36]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [37]鶴見工場は1928年完成時7,000バーレル、国内最大で輸入小麦受入れに便な海工場
参考文献[20]-[37]
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「三章 拡張時代」
- [20]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [21]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [22]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [23]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [24]正田貞一郎は1913年1月28日〜5月20日に初の欧米視察。当時3工場1,800バーレルで日本製粉に次ぐ。結論は欧州式経営・機械の採用。1913年9月宇野正雄を採用し1914年2月から本社地下の化学実験室で原料・製品を分析
- [26]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [27]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [28]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [29]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [30]名古屋工場は1914年10月1日運転開始、400バーレル、国内初のドイツ式(アンメ社)。大戦で小麦粉輸出が1913年1,700袋→1917年439万袋。水戸1917年8月(700バーレル)、岡山1920年2月(1,000バーレル)、神戸1925年1月(1,500バーレル)。1914〜1925年に4工場新設・4社合併で1,800→10,800バーレル
- [32]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [33]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [34]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [35]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- [36]鶴見工場は1923年末起工、1926年2月第1期完成、1928年第2期で日産7,000バーレル・総能力19,400バーレルで全国1位。建設費800万円(資本金1,200万円)。動機はマンチェスターの岸壁吸揚げ荷役と輸出の必要。深尾隆太郎の紹介で浅野総一郎の埋立地
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [25]1913年正田は先進国に範を求めて外遊し、その後経営の改革が進んだ(鶴見の真空吸上機構想も一例)
- [31]大正年間に名古屋・水戸・岡山・神戸・鶴見を新設、資本金は1925年3月に1,230万円
- [37]鶴見工場は1928年完成時7,000バーレル、国内最大で輸入小麦受入れに便な海工場
1927年〜能力の半分近くを失った鶴見工場の火災と、小麦粉輸出の最盛期に設けた朝鮮製粉
1927年の金融恐慌の後、1928年5月に大手7社の生産制限協定が期限切れで消え、外国産小麦の豊作による安値も重なって小麦粉の市況は沈んだ。同年10月、日清製粉は日本製粉と採算を基準にした販売の申し合わせを結び、2等粉の協定価格は1929年2月に3円95銭まで戻った。1930年1月の金解禁で不況が深まると、社長の正田貞一郎氏は三井物産・日本製粉と協議し、同年4月に製粉販売組合を発足させた。議決権は日清製粉が2、ほか2社が各1で、加盟社の能力は全国の約80%にあたる。当時の日清製粉は1割4分の配当を保つ一方、7,000バーレルの鶴見工場の製品を輸出だけでは売り切れず、販売に苦労した。会社銀行八十年史も、昭和初頭の前半を不況に悩んだ時期に数える。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「四章 海外発展時代」
- [38]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [39]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [40]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [41]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [42]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [43]昭和初頭から日華事変までの前半は不況に悩んだ
1931年5月22日の昼前、鶴見工場の本館から出火し、内部の機械の大半が焼けた。鶴見工場は1930年の増設で8,000バーレルとなり、全社の能力の半分近くを担って北支や関東州への輸出を支えた。火災で10名を超える死者が出て、約150万袋の輸出の未渡し分は関西の工場の輸出設備を広げて積み出した。火災保険は爆発に伴う免責をめぐって交渉が長引き、決着は同年11月、契約額350万円のうち250万円の支払いによる。社長の正田貞一郎氏は1932年5月に一部の機械で運転を再開し、1933年10月には10,000バーレルの運転に戻した。全社の総能力は22,200バーレルとなって火災前を上回り、焼失から2年で復興を遂げた。
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「四章 海外発展時代」
- [44]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [45]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [46]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [47]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [48]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [49]1931年5月鶴見工場焼失、2年後に復興
小麦粉の輸出は1933年に1,500万袋の最高を記録し、国内販売量の半分にあたる。同年に中国が小麦粉へ関税を課して中華民国向けが減少すると、輸出先は満州国と関東州が中心になり、日清製粉は1932年11月に設けた大連出張所から出荷を広げた。ただ満州国政府は現地工場を拡張して自給する方針を崩さず、内地で挽いて輸出する前提は揺らいだ。一方、朝鮮の小麦粉消費400万〜500万袋のうち6割強は内地からの移入で、現地に工場を置けば100万石程度の小麦増産が見込めた。1935年7月の製粉共販組合の解散で内地が自由競争に戻るなか、1936年8月1日に資本金200万円で朝鮮製粉を京城に設立し、社長の正田貞一郎氏が取締役会長に就任した。
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [50]小麦粉輸出は1933年に1,500万袋の最高で国内販売量の半分。1936年朝鮮製粉を設立
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「四章 海外発展時代」
- [51]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
- [52]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
- [53]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
- [54]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
参考文献[38]-[54]
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「四章 海外発展時代」
- [38]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [39]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [40]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [41]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [42]1928年5月に7社の生産制限協定が消滅、外麦安値で市況軟弱。1928年10月日本製粉と正田・安川紳士協定、2等粉協定価格は1929年2月3円95銭。1930年1月金解禁後、三井物産・日本製粉と製粉販売組合(4月営業開始、議決権日清2)。加盟能力は全国の約80%。当時1割4分配当、鶴見の製品の販売に苦心
- [44]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [45]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [46]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [47]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [48]1931年5月22日鶴見工場本館から発火し機械の大部分を焼失。同工場は1930年増設で8,000バーレル、総能力の半分近く。十数名死亡。未渡し約150万袋は関西工場の輸出設備で積出し。保険は1931年11月7日に350万円中250万円で妥結。1932年5月25日一部運転、1933年10月30日1万バーレル運転、総能力22,200バーレル
- [51]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
- [52]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
- [53]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
- [54]1933年中国の関税賦課で対中輸出困難、満州国・関東州向けが増加。1932年11月末大連出張所。満州国は製粉自給の方針。朝鮮の消費400万〜500万袋の6割強は内地から移入、100万石程度の増産見込みが朝鮮進出の理由。1935年7月共販組合解散。1936年8月1日朝鮮製粉設立(資本金200万円、本社京城、会長正田貞一郎)
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」
- [43]昭和初頭から日華事変までの前半は不況に悩んだ
- [49]1931年5月鶴見工場焼失、2年後に復興
- [50]小麦粉輸出は1933年に1,500万袋の最高で国内販売量の半分。1936年朝鮮製粉を設立
出典・参考
4件
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「二章 創業時代」
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「三章 拡張時代」
- 日清製粉株式会社七十年史(1970)「四章 海外発展時代」
- 会社銀行八十年史(1955)「日清製粉」