Umios:漁業から商事への主力交代
日新丸船団の再開から商事7割へ至る収益構造の転換
1946年〜漁船の先行建造で取り戻した生産力
終戦の翌月、大洋漁業は戦後初の重役会でトロール船16隻と機船底曳漁船30隻(15組)の建造を決議した。敗戦で日本の漁業は、オホーツク海から南洋に至る国際漁場の大半を失い、漁船も隻数で2割、トン数で5割を上回って失われていた。造船所がどこも仕事をなくして遊んでいる今こそ船を造る好機であり、林兼を立て直すにはまず漁船を強くすることだと、中部幾次郎は断じた『いま造船所はどこも仕事がなくて遊んでいる。船を造るのはいまだ。林兼の再建は漁船の強化から着手せよ』。そのうえで、蓄えてきた資本を漁船の建造に注ぎ込んだ。翌21年1月末までに、以西底曳船とトロール船184隻、カツオ・マグロ船10隻、捕鯨船14隻など合わせて209隻の追加新造も決めている。大量に建造した結果、22年の漁船建造許可のうち約3割を林兼1社で占め、所有する漁船はその年のうちに戦前並みの規模を取り戻した。
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [1]昭和20年9月、大洋漁業は戦後初の重役会でトロール船16隻・機船底曳漁船30隻(15組)の建造案を決議した
- [2]敗戦により日本漁業は国際漁場の大半を失い、漁船の減少率は総隻数で20%、総トン数で50%を超えると推定された
- [3]大洋漁業はこれまで蓄積してきた資本を第一に漁船建造へ投入する方針を採った
- [4]昭和21年1月末までに以西底曳船およびトロール船184隻、カツオ・マグロ船10隻、捕鯨船14隻、運搬船1隻の計209隻の追加新造を決めた
- [5]大量の漁船建造により大洋漁業は昭和22年中の漁船建造許可総数の約3割を占め、自社所有漁船はその年すでに戦前の規模に達した
再建は、経営陣を欠いたまま進んだ。昭和21年5月19日、中部幾次郎が下関市長府の自邸で他界する。南氷洋捕鯨の再開をGHQと日本政府へ強く要請しながら、3カ月後の正式許可を待たない死であった。翌22年8月には中部兼市社長、中部謙吉と中部悦良の両副社長、伊東猪六専務が公職追放を受け、25年10月の解除まで、事業は有吉京吉・丸尾信一・山崎喜之助らによって守られた。会社の側も、21年8月に会社経理応急措置法による特別経理会社、22年7月に制限会社、23年2月には過度経済力集中排除法の指定企業者とされている。25年5月には、持株会社に指定されて清算中だった林兼商店を吸収合併した。
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [6]昭和21年5月19日、中部幾次郎は下関市長府の自邸で死去した
- [7]中部幾次郎は南氷洋捕鯨の再開をGHQと日本政府に要請したが、3カ月後の1船団正式許可を待たずに他界した
- [8]昭和22年8月、中部兼市社長・中部謙吉副社長・中部悦良副社長・伊東猪六専務が公職追放を受けた
- [9]昭和25年10月の追放解除まで事業は有吉京吉・丸尾信一・山崎喜之助らによって守られた
- [10]大洋漁業は昭和21年8月に特別経理会社、22年7月に制限会社、23年2月に過度経済力集中排除法の指定企業者となった
- [11]昭和25年5月1日、大洋漁業は持株会社に指定され清算中であった林兼商店を吸収合併した
昭和20年秋、遠洋漁業がまだマッカーサー・ラインで封じられていた時期に、大洋漁業は小笠原近海の捕鯨事業の許可をGHQへ出願した。11月30日付で許可が下りたものの陸上基地の使用は認められず、21年2月、軍艦を改造した小型母船式操業を敢行している。南氷洋捕鯨の再開許可は21年8月6日。戦時標準型の油槽船を改造して第1日新丸(1万1,737トン)とし、捕鯨船6隻を新造して、11月24日、戦後の復活第1陣として長崎から出漁した。目標白換600頭に対し540.5頭を捕獲し、頭数では計画の9割にとどまったが生産は計画を上回った。戦後初の正式決算では、売上高238億4,437万円の3割をこの南氷洋捕鯨が占めている。
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [12]昭和20年秋、大洋漁業は小笠原近海の捕鯨事業の許可をGHQへ出願し、11月30日付で許可された
- [13]陸上基地の使用が認められなかったため、昭和21年2月に軍艦改造による小型母船式操業を敢行した
- [14]南氷洋捕鯨の出漁許可は昭和21年8月6日に下りた
- [15]戦時標準型の油槽船を改造した第1日新丸(1万1,737トン)と新造捕鯨船6隻の船団が昭和21年11月24日に長崎から南氷洋へ出漁した
- [16]第1日新丸船団は目標白換600頭に対し540.5頭を捕獲し、頭数は計画の90%だったが生産は計画を上回った
- [17]戦後初の正式決算(昭和21年8月11日〜25年8月31日)で売上高238億4,437万円のうち3割を南氷洋捕鯨が占めた
参考文献[1]-[17]
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [1]昭和20年9月、大洋漁業は戦後初の重役会でトロール船16隻・機船底曳漁船30隻(15組)の建造案を決議した
- [2]敗戦により日本漁業は国際漁場の大半を失い、漁船の減少率は総隻数で20%、総トン数で50%を超えると推定された
- [3]大洋漁業はこれまで蓄積してきた資本を第一に漁船建造へ投入する方針を採った
- [4]昭和21年1月末までに以西底曳船およびトロール船184隻、カツオ・マグロ船10隻、捕鯨船14隻、運搬船1隻の計209隻の追加新造を決めた
- [5]大量の漁船建造により大洋漁業は昭和22年中の漁船建造許可総数の約3割を占め、自社所有漁船はその年すでに戦前の規模に達した
- [6]昭和21年5月19日、中部幾次郎は下関市長府の自邸で死去した
- [7]中部幾次郎は南氷洋捕鯨の再開をGHQと日本政府に要請したが、3カ月後の1船団正式許可を待たずに他界した
- [8]昭和22年8月、中部兼市社長・中部謙吉副社長・中部悦良副社長・伊東猪六専務が公職追放を受けた
- [9]昭和25年10月の追放解除まで事業は有吉京吉・丸尾信一・山崎喜之助らによって守られた
- [10]大洋漁業は昭和21年8月に特別経理会社、22年7月に制限会社、23年2月に過度経済力集中排除法の指定企業者となった
- [11]昭和25年5月1日、大洋漁業は持株会社に指定され清算中であった林兼商店を吸収合併した
- [12]昭和20年秋、大洋漁業は小笠原近海の捕鯨事業の許可をGHQへ出願し、11月30日付で許可された
- [13]陸上基地の使用が認められなかったため、昭和21年2月に軍艦改造による小型母船式操業を敢行した
- [14]南氷洋捕鯨の出漁許可は昭和21年8月6日に下りた
- [15]戦時標準型の油槽船を改造した第1日新丸(1万1,737トン)と新造捕鯨船6隻の船団が昭和21年11月24日に長崎から南氷洋へ出漁した
- [16]第1日新丸船団は目標白換600頭に対し540.5頭を捕獲し、頭数は計画の90%だったが生産は計画を上回った
- [17]戦後初の正式決算(昭和21年8月11日〜25年8月31日)で売上高238億4,437万円のうち3割を南氷洋捕鯨が占めた
1953年〜北洋再開と3船団体制による漁撈の頂点
昭和27年、講和条約の発効とともにマッカーサー・ラインが撤廃され、待望の北洋サケ・マス漁業が再開した。許可の出願は殺到したが、この年は試験操業として大洋漁業・日本水産・日魯漁業の3社に限られ、大洋漁業は第3天洋丸(3,689総トン)を母船として出漁した。29年には永仁丸(7,456総トン)を冷蔵・冷凍母船に改造して缶詰機械2ラインを設備し、調査船8隻・仲積船9隻・独航船32隻を配した船団で出漁し、缶詰生産も始めている。母船式カニ漁業の再開は1年遅れ、28年に大洋漁業・日本水産・日魯漁業の3社共同経営でベーリング海へ1船団が出た。日魯漁業も同じ28年、明晴丸が独航船34隻を率いて280万2,000尾を水揚げしている。
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [18]昭和27年の講和条約発効によりマッカーサー・ラインが撤廃され、北洋サケ・マス漁業が再開した
- [19]昭和27年は試験操業として3社に許可が下り、大洋漁業は第3天洋丸(3,689総トン)を母船として出漁した
- [20]昭和29年、大洋漁業は永仁丸(7,456総トン)を冷蔵・冷凍母船に改造して缶詰機械2ラインを設備し、独航船32隻を配した船団で出漁して缶詰生産を始めた
- [21]母船式カニ漁業は昭和28年に大洋漁業・日本水産・日魯漁業の3社共同経営でベーリング海へ1船団が出漁した
- 会社銀行八十年史 1955年「日魯漁業」
- [22]昭和28年、日魯漁業の明晴丸は独航船34隻を率いて280万2,000尾の水揚高を記録した
昭和32年5月、大洋漁業は南アフリカ連邦のユニオン・ホエーリング社から総額32億7,500万円でアブラハム・ラーセン号船団を購入し、第2日新丸と命名した。これで南氷洋は日新丸・錦城丸と合わせて3船団となり、かねてからの宿願を果たす。前年には極洋捕鯨もパナマから船団を買い入れて10年ぶりに南氷洋へ復帰しており、日本水産の2船団と合わせて日本の船団は6つに増えた。この間、28年3月に中部兼市社長が急逝し、副社長の中部謙吉が社長に就任している。34年2月から35年1月までの期でみると、漁撈部門の売上は209億6,000万円、うち捕鯨が83億9,400万円を占め、その大半にあたる72億2,400万円は南氷洋であった。
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [23]昭和32年、大洋漁業は南ア連邦のユニオン・ホエーリング社から総額32億7,500万円でアブラハム・ラーセン号船団を購入し第2日新丸と命名した
- [24]ラーセン号船団の購入により大洋漁業の南氷洋捕鯨は3船団となり、かねてからの宿願を果たした
- [25]前年に極洋捕鯨もパナマから船団を買い10年ぶりに南氷洋へ復帰し、日本水産の2船団と合わせて日本船団は6船団に増えた
- [27]第15期(昭和34年2月〜35年1月)の漁撈部門売上は209億6,000万円で、うち捕鯨業83億9,400万円、南氷洋はそのうち72億2,400万円であった
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [26]昭和28年3月に中部兼市社長が急逝し、中部謙吉副社長が社長に就任した
売上の伸びは、漁撈の外側でも生まれていた。34年2月から35年1月までの期の売上高は523億9,500万円に達している。同じ期までの商事貿易部門は、31年度126億5,000万円、32年度154億7,000万円、33年度177億9,000万円、34年度240億7,000万円と急上昇を示している。冷凍工場は長崎・青森・焼津・福岡と各地に建ち、33年4月に竣工した東京食品工場を機に、原料の大量供給にともなう食品加工の強化が全国で進められた。資本金も、20年12月の6,000万円から8回の増資を経て35年11月に75億円となった。獲った魚を売る会社から、獲らない魚も扱う会社へ、売上の作り方が変わり始めていた。
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [28]1960年1月期(第15期)の売上高は523億9,500万円であった
- [29]商事貿易部門の売上は31年度126億5,000万円、32年度154億7,000万円、33年度177億9,000万円、34年度240億7,000万円と推移した
- [30]長崎漁港冷凍工場・青森第2冷凍工場・焼津冷凍工場・福岡冷凍工場が昭和31年から33年にかけて相次いで完成した
- [31]昭和33年4月に東京食品工場が竣工し、原料の大量供給にともなって全国的に食品加工の強化が進められた
- [32]資本金は昭和20年12月の6,000万円から8回の増資を経て35年11月に75億円となった
参考文献[18]-[32]
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- [18]昭和27年の講和条約発効によりマッカーサー・ラインが撤廃され、北洋サケ・マス漁業が再開した
- [19]昭和27年は試験操業として3社に許可が下り、大洋漁業は第3天洋丸(3,689総トン)を母船として出漁した
- [20]昭和29年、大洋漁業は永仁丸(7,456総トン)を冷蔵・冷凍母船に改造して缶詰機械2ラインを設備し、独航船32隻を配した船団で出漁して缶詰生産を始めた
- [21]母船式カニ漁業は昭和28年に大洋漁業・日本水産・日魯漁業の3社共同経営でベーリング海へ1船団が出漁した
- [23]昭和32年、大洋漁業は南ア連邦のユニオン・ホエーリング社から総額32億7,500万円でアブラハム・ラーセン号船団を購入し第2日新丸と命名した
- [24]ラーセン号船団の購入により大洋漁業の南氷洋捕鯨は3船団となり、かねてからの宿願を果たした
- [25]前年に極洋捕鯨もパナマから船団を買い10年ぶりに南氷洋へ復帰し、日本水産の2船団と合わせて日本船団は6船団に増えた
- [27]第15期(昭和34年2月〜35年1月)の漁撈部門売上は209億6,000万円で、うち捕鯨業83億9,400万円、南氷洋はそのうち72億2,400万円であった
- [28]1960年1月期(第15期)の売上高は523億9,500万円であった
- [29]商事貿易部門の売上は31年度126億5,000万円、32年度154億7,000万円、33年度177億9,000万円、34年度240億7,000万円と推移した
- [30]長崎漁港冷凍工場・青森第2冷凍工場・焼津冷凍工場・福岡冷凍工場が昭和31年から33年にかけて相次いで完成した
- [31]昭和33年4月に東京食品工場が竣工し、原料の大量供給にともなって全国的に食品加工の強化が進められた
- [32]資本金は昭和20年12月の6,000万円から8回の増資を経て35年11月に75億円となった
- 会社銀行八十年史 1955年「日魯漁業」
- [22]昭和28年、日魯漁業の明晴丸は独航船34隻を率いて280万2,000尾の水揚高を記録した
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [26]昭和28年3月に中部兼市社長が急逝し、中部謙吉副社長が社長に就任した
1961年〜獲る場の縮小と昭和44年1月期の無配転落
昭和40年代に入ると、獲る場そのものを外へ出す動きが強まった。資源保護の立場から漁獲規制が厳しくなり、諸外国が領海の拡大を主張して日本船の締め出しにかかったためである。大洋漁業は発展途上国に合弁会社を設立して現地の漁業者に漁獲させ、あるいは現地で水産物を買い付けて輸入する方法へ移った。合弁会社は昭和42年から43年にかけて43社にのぼっている。売上高はその間も伸び続け、40年1月期998億円、41年1月期1,097億円、43年1月期1,553億円と、7年で倍を超えた。伸びていたのは、しかし漁撈ではなかった。
- 日経ビジネス 1973年3月19日号
- [33]資源保護の立場から漁獲規制が厳しくなり、諸外国が領海の拡大を主張して日本船の締め出しにかかるなど漁業環境が悪化した
- [34]大洋漁業は発展途上国に合弁会社を設立して現地人に漁獲させ、現地で水産物を買い付け輸入する方法を中心に据えた
- [35]大洋漁業の海外合弁会社は昭和42〜43年には43社にのぼった
- 会社年鑑 1971年版・1976年版
- [36]大洋漁業の売上高は1965年1月期999億円、1966年1月期1,097億円、1968年1月期1,553億円と推移した
拡大は利益を伴わなかった。昭和44年1月期は9%の増収で売上高は約1,700億円に達したが、南氷洋捕鯨とトロール事業の漁獲不振を主因として3億3,800万円の損失を計上し、配当に至らなかった。本業の漁業が好調だった20年代、スーパーとホテルから始めた副業は、分譲マンション、食堂、レストラン、インスタントラーメン、マヨネーズ、アイスクリームへと多角化していき、参入しては退くという出入りが何度も続いた。事業の数がピーク時のおよそ半分にまで減ったのは、43年に配当を出せなくなったのをきっかけに多角化部門を大きく削ったためである。45年1月期からは、償却額を上限に設備投資を絞り、手持ちの設備をより稼働させつつ経営の仕組みを簡素化する方針へ切り替えた。
- 日本企業要覧 1969年版「大洋漁業株式会社」
- [37]昭和44年1月期は9%の増収で売上高約1,700億円となったが、南氷洋捕鯨・トロール事業の漁獲不振により3億3,800万円の損失を計上し無配となった
- [41]昭和45年1月期は設備投資を償却の範囲内で厳選し、現有設備の高率稼動と経営機構の簡素化・人材の重点配置に重点を絞った
- 日経ビジネス 1973年3月19日号
- [38]大洋漁業は昭和20年代のスーパー・ホテルに始まり、分譲マンション、食堂、レストラン、インスタントラーメン、マヨネーズ、アイスクリームへ多角化を広げた
- [39]多角化事業は本業の漁業が好調ななかで片手間に始めたものが多く、手を出してはやめる連続だった
- [40]昭和43年の無配転落を機に多角化部門の大整理が断行され、その数は最も多かったときの半分ほどに減った
無配に転じた年、大洋漁業の売上構成はすでに漁業の会社のものではなかった。44年1月期の事業内容は、商品売買業71.19%に対して漁業18.87%、加工業5.81%、海運業2.97%、冷凍業0.95%である。39年1月末には商事56.1%、漁業32.2%、加工9.6%だったから、5年あまりで商事が15ポイント増え、漁業は13ポイント減った。所有船舶は486隻・22万4,570トン、傘下の傍系会社は60社に及び、捕鯨を中心とする水産部門では業界1位のシェアを保っていた。世界一の規模を誇る水産会社と呼ばれながら、収益は魚を獲ることではなく、仕入れて売ることから生まれる構造へ移っていた。
- 日本企業要覧 1969年版「大洋漁業株式会社」
- [42]昭和44年1月期の事業内容は商品売買業71.19%、漁業18.87%、加工業5.81%、海運業2.97%、冷凍業0.95%であった
- [44]昭和44年時点の所有船舶は486隻・22万4,570トン、傘下の傍系会社は60社に及んだ
- [45]捕鯨を中心とする水産部門で大洋漁業は業界1位のシェアを持っていた
- [46]大洋漁業は世界一の規模を誇る水産会社と評された
- 日経ビジネス 1973年3月19日号
- [43]大洋漁業の売上構成は39年1月末に商事56.1%・漁業32.2%・加工9.6%であった
参考文献[33]-[46]
- 日経ビジネス 1973年3月19日号
- [33]資源保護の立場から漁獲規制が厳しくなり、諸外国が領海の拡大を主張して日本船の締め出しにかかるなど漁業環境が悪化した
- [34]大洋漁業は発展途上国に合弁会社を設立して現地人に漁獲させ、現地で水産物を買い付け輸入する方法を中心に据えた
- [35]大洋漁業の海外合弁会社は昭和42〜43年には43社にのぼった
- [38]大洋漁業は昭和20年代のスーパー・ホテルに始まり、分譲マンション、食堂、レストラン、インスタントラーメン、マヨネーズ、アイスクリームへ多角化を広げた
- [39]多角化事業は本業の漁業が好調ななかで片手間に始めたものが多く、手を出してはやめる連続だった
- [40]昭和43年の無配転落を機に多角化部門の大整理が断行され、その数は最も多かったときの半分ほどに減った
- [43]大洋漁業の売上構成は39年1月末に商事56.1%・漁業32.2%・加工9.6%であった
- 会社年鑑 1971年版・1976年版
- [36]大洋漁業の売上高は1965年1月期999億円、1966年1月期1,097億円、1968年1月期1,553億円と推移した
- 日本企業要覧 1969年版「大洋漁業株式会社」
- [37]昭和44年1月期は9%の増収で売上高約1,700億円となったが、南氷洋捕鯨・トロール事業の漁獲不振により3億3,800万円の損失を計上し無配となった
- [41]昭和45年1月期は設備投資を償却の範囲内で厳選し、現有設備の高率稼動と経営機構の簡素化・人材の重点配置に重点を絞った
- [42]昭和44年1月期の事業内容は商品売買業71.19%、漁業18.87%、加工業5.81%、海運業2.97%、冷凍業0.95%であった
- [44]昭和44年時点の所有船舶は486隻・22万4,570トン、傘下の傍系会社は60社に及んだ
- [45]捕鯨を中心とする水産部門で大洋漁業は業界1位のシェアを持っていた
- [46]大洋漁業は世界一の規模を誇る水産会社と評された
筆者考察
戦後の大洋漁業を立て直したのは、漁ではなく船台だった。終戦の翌月、国際漁場の大半を失い漁船の半ばを沈められた会社が最初に決めたのは、トロール船16隻と機船底曳漁船30隻の発注である。造船所が仕事を失って遊んでいる時期に船台を押さえておけば、漁が許される日に真っ先に出られる。実際、昭和22年の漁船建造許可の3割を1社で取り、その年のうちに自社の船腹は戦前の水準へ戻った。創業者を失い、社長以下の首脳が公職追放で不在のあいだも、この先行投資だけは動き続けている。獲る権利が戻る順番を読んで先に設備を置く形は、戦前の朝鮮進出と変わらない。
ところが、戻ってきた漁場は思ったほど長く続かなかった。資源保護を名目とする規制が強まり、各国が領海の拡大を主張して日本船を締め出しにかかると、船を多く持っていること自体が重荷に変わる。大洋漁業が採ったのは、現地に合弁会社を作って外国の漁業者に獲らせ、それを買って売る方式だった。昭和44年1月期、売上のおよそ7割は商品売買業が占め、漁業は2割を切っている。世界一の規模を誇る水産会社と呼ばれながら、同じ期に3億3,800万円の損失を出して無配へ転じた。獲る会社から売る会社への移行は、選ばれた戦略というより、獲る場所を失った末の帰結であった。
1946年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年01月期 | 単体 | 207 | n/a | 12 | n/a | 5 | 2.4% | n/a |
| 1955年01月期 | 単体 | 229 | +10.6% | n/a | n/a | 5 | 2.2% | 久里浜工場で魚肉ソーセージの生産を開始(1955) |
| 1956年01月期 | 単体 | 274 | +19.7% | n/a | n/a | 9 | 3.3% | n/a |
| 1957年01月期 | 単体 | 325 | +18.6% | n/a | n/a | 11 | 3.4% | n/a |
| 1958年01月期 | 単体 | 408 | +25.5% | n/a | n/a | 12 | 2.9% | n/a |
| 1959年01月期 | 単体 | 458 | +12.3% | n/a | n/a | 12 | 2.6% | n/a |
| 1960年01月期 | 単体 | 524 | +14.4% | n/a | n/a | 13 | 2.5% | 広島、山形、札幌工場を完成(1960) |
| 1961年01月期 | 単体 | 640 | +22.1% | n/a | n/a | 14 | 2.2% | n/a |
| 1962年01月期 | 単体 | 797 | +24.5% | n/a | n/a | 23 | 2.9% | n/a |
| 1963年01月期 | 単体 | 870 | +9.2% | n/a | n/a | 25 | 2.9% | アラスカに買付拠点会社を設立(1963) |
| 1964年01月期 | 単体 | 944 | +8.5% | n/a | n/a | 30 | 3.2% | n/a |
| 1965年01月期 | 単体 | 999 | +5.8% | 58 | 26 | 17 | 1.7% | n/a |
| 1966年01月期 | 単体 | 1,097 | +9.8% | n/a | 25 | 17 | 1.5% | n/a |
| 1967年01月期 | 単体 | 1,291 | +17.7% | n/a | 26 | 17 | 1.3% | n/a |
| 1968年01月期 | 単体 | 1,553 | +20.3% | n/a | 26 | 17 | 1.1% | n/a |
| 1969年01月期 | 単体 | 1,698 | +9.3% | n/a | ▲7 | ▲3 | ▲0.2% | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、会社年鑑 1963年版、1967年版、会社年鑑 1971年版、1976年版
出典・参考
6件
- 大洋漁業80年史 1960年「躍進する大洋漁業」
- 会社銀行八十年史 1955年「日魯漁業」
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- 会社年鑑 1971年版・1976年版
- 日経ビジネス 1973年3月19日号
- 日本企業要覧 1969年版「大洋漁業株式会社」