Umios:1880年創業の運搬業から漁業直営への垂直統合
発動機船新生丸から捕鯨母船日新丸への事業領域拡大
1880年〜押送船から発動機船への転換で得た明石大阪間の速度
のちの商号の林兼は、林屋兼松という人名から取ったものである。明石の魚商林屋では戸主が代々利兵衛を名乗るのが習いだったが、幾次郎から見て祖父にあたる代に林屋兼松を称するようになった。その林屋の次男として、播磨灘に面した明石で中部幾次郎が生まれたのは慶応2年1月である。8歳で兄が亡くなり家督相続人となった幾次郎は、明治13年頃から父を手伝って押送船に乗った。明石近海の活魚・鮮魚や、遠く土佐・五島のマグロを買い付け、大阪の雑喉場まで届けるのが家の商いだった。当時は氷がまだ広く使われず、発動機船もなかったので、魚は櫓櫂や帆で動かす和船で運ばれ、鮮度が落ちたぶん値を叩かれた。家督を名実ともに継いだのは明治19年で、姉婿が急に亡くなったためである。この商売では、天候の見立てと魚相場の読みの上手下手がそのまま成績に表れた。そのため幾次郎は床に就く前に必ず空を見上げ、雨が降れば器に雨水を集めて量を測った。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [1]林屋の戸主は代々利兵衛を名乗ったが幾次郎の祖父の代から林屋兼松と称し、林兼の商号はこの名に由来する
- [2]中部幾次郎は慶応2年1月4日、明石の魚商・林屋の次男として生まれた
- [4]氷の使用が普及せず発動機船もなかった時代、魚の輸送は櫓櫂か帆をあやつる和船・押送船によって行われた
- [5]明治19年、姉婿の急逝により中部幾次郎が名実ともに林兼の家督相続者となった
- [6]中部幾次郎は就寝前に空を眺め、雨の日は容器に雨水をためて雨量を測るなど天候の研究を日課とした
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [3]中部幾次郎は兄の死により家督相続人となり、明治13年頃から押送船で明石近海の活魚・鮮魚や五島のマグロを大阪の雑喉場へ運ぶ家業に従事した
明石大阪間の運搬を縮めたのは、明治30年に幾次郎が思いついた方法だった。淡路島へ通う約100トンの小蒸汽船淡路丸に、押送船を曳かせたのである。汽船に運搬船を曳かせる試みは日本でこれが初めてで、活魚は鮮度を落とさずに届き、4、5割高く売れた。荒天で押送船が港を出られない日でも、淡路丸は走った。とはいえ船が他人のものである以上、速さを自分で決めることはできない。幾次郎が巡航船に目を留めたのは、明治36年に大阪で催された第5回内国勧業博覧会においてである。船体は明石の船大工小杉松五郎に、発動機は大阪の鍛冶職に造らせ、38年の暮れに8馬力・12トンの新生丸ができあがった。日本最初の石油発動機付鮮魚運搬船である。所用時間は従来の半分以下の4、5時間に、積載量は約2倍になった。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [7]明治30年、中部幾次郎は小蒸汽船淡路丸を押送船の曳船として利用することを考案した
- [8]汽船を鮮魚運搬船の曳船に利用したのは日本で最初の試みであった
- [9]淡路丸の曳船利用により林兼は運搬時間を短縮し、新鮮な活魚は4、5割の高値で売れた
- [10]押送船が出港できない荒天でも淡路丸は航行した
- [11]中部幾次郎は船大工小杉松五郎に船体を、大阪の鍛冶職に発動機を作らせ、明治38年暮れに8馬力・12トンの新生丸を完成させた
- [13]新生丸により明石から大阪雑喉場への所用時間は従来の半分以下の4、5時間に短縮され、積載量は約2倍になった
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [12]新生丸は日本で最初の機動鮮魚運搬船であった
朝鮮沿岸では魚が獲れすぎて始末に困るほどだと聞き、鮮魚のまま大量に内地へ運べると見込んだ幾次郎は、明治40年の春、周りの反対を押し切って新生丸で玄海灘を渡り、釜山に入った。慶尚南道のサラン島には内地船が出漁しており、幾次郎はその船を相手にハモを仕入れ、生簀に入れたまま大阪へ運んだ。これまで帆船なら3日を要した下関までの航程は、新生丸で25、6時間になった。操業は春の漁期が南鮮多島海、秋の漁期が東岸の方魚津となり、根拠地もやがてサラン島から羅老島へ移った。大正2年、朝鮮から京阪神の市場へ直送するだけでは足りないと判断した林兼は、下関竹崎町に本拠を置き、海と陸の輸送が交わるこの地で荷を受けて全国へ配った。責任者には長男兼市を当て、現地では次男謙吉を補佐役に据えている。外部からの資本参加に頼らない同族の陣容が、この時に形づくられた。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [14]中部幾次郎は豊漁で処理に悩むほどだと聞いた鮮海の魚を発動機船なら鮮魚のまま大量に内地へ運搬できると考え、朝鮮進出を思い立った
- [15]明治40年春、中部幾次郎は周囲の反対を押し切って新生丸で釜山へ向かった
- [16]新生丸は慶尚南道のサラン島で出漁中の内地船からハモを買い入れ、生簀で大阪へ運搬した
- [17]発動機船により帆船で3日かかった下関までの航行時間は25、6時間に短縮された
- [18]林兼は根拠地をサラン島から羅老島へ移し、春漁期は南鮮多島海、秋漁期は東岸の方魚津を根拠とした
- [19]大正2年、林兼は西日本の海陸運輸交通の中心地である下関竹崎町に本拠を置き、搬入した魚を全国へ送り出した
- [20]下関の責任者に長男兼市を任命し、現地では次男謙吉を中部幾次郎の補佐役とした
- [21]中部幾次郎を中心とした同族経営は外部からの資本参加に頼らず、のちの大洋漁業の敷石となった
参考文献[1]-[21]
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [1]林屋の戸主は代々利兵衛を名乗ったが幾次郎の祖父の代から林屋兼松と称し、林兼の商号はこの名に由来する
- [2]中部幾次郎は慶応2年1月4日、明石の魚商・林屋の次男として生まれた
- [4]氷の使用が普及せず発動機船もなかった時代、魚の輸送は櫓櫂か帆をあやつる和船・押送船によって行われた
- [5]明治19年、姉婿の急逝により中部幾次郎が名実ともに林兼の家督相続者となった
- [6]中部幾次郎は就寝前に空を眺め、雨の日は容器に雨水をためて雨量を測るなど天候の研究を日課とした
- [7]明治30年、中部幾次郎は小蒸汽船淡路丸を押送船の曳船として利用することを考案した
- [8]汽船を鮮魚運搬船の曳船に利用したのは日本で最初の試みであった
- [9]淡路丸の曳船利用により林兼は運搬時間を短縮し、新鮮な活魚は4、5割の高値で売れた
- [10]押送船が出港できない荒天でも淡路丸は航行した
- [11]中部幾次郎は船大工小杉松五郎に船体を、大阪の鍛冶職に発動機を作らせ、明治38年暮れに8馬力・12トンの新生丸を完成させた
- [13]新生丸により明石から大阪雑喉場への所用時間は従来の半分以下の4、5時間に短縮され、積載量は約2倍になった
- [14]中部幾次郎は豊漁で処理に悩むほどだと聞いた鮮海の魚を発動機船なら鮮魚のまま大量に内地へ運搬できると考え、朝鮮進出を思い立った
- [15]明治40年春、中部幾次郎は周囲の反対を押し切って新生丸で釜山へ向かった
- [16]新生丸は慶尚南道のサラン島で出漁中の内地船からハモを買い入れ、生簀で大阪へ運搬した
- [17]発動機船により帆船で3日かかった下関までの航行時間は25、6時間に短縮された
- [18]林兼は根拠地をサラン島から羅老島へ移し、春漁期は南鮮多島海、秋漁期は東岸の方魚津を根拠とした
- [19]大正2年、林兼は西日本の海陸運輸交通の中心地である下関竹崎町に本拠を置き、搬入した魚を全国へ送り出した
- [20]下関の責任者に長男兼市を任命し、現地では次男謙吉を中部幾次郎の補佐役とした
- [21]中部幾次郎を中心とした同族経営は外部からの資本参加に頼らず、のちの大洋漁業の敷石となった
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [3]中部幾次郎は兄の死により家督相続人となり、明治13年頃から押送船で明石近海の活魚・鮮魚や五島のマグロを大阪の雑喉場へ運ぶ家業に従事した
- [12]新生丸は日本で最初の機動鮮魚運搬船であった
1914年〜仕込金の焦げ付きを断つための漁業直営と多角配置
鮮魚の仲買と運搬は、水物といわれる漁業の世界にあって、危険が比較的小さく割に合う商売と見られていた。ところが商いが大きくなるにつれ、仕込みを施す漁船も漁場も増え、不漁となれば資金を取り戻せないうえに、燃料や食糧から漁夫の小遣銭まで追加で貸さざるをえなかった。大正4年には淡路島室津と小豆島の縛網・巾着網を10統ほど仕込み、方魚津から九竜浦にかけて大がかりな出漁に出したが、空前の不漁にコレラの流行が重なった。1,000人からの漁夫を抱えたうえ、網10統に投じた仕込金70万円も背負い、林兼は倒産寸前に追い込まれた。危険を負うのが同じなら、漁業そのものを自分で営んで運搬業とつなげたほうが安全だ、と幾次郎は考えた。こうして大正5年、朝鮮方魚津でサバ縛網と巾着網を直営で始めた。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [22]鮮魚仲買運搬業は水物といわれる漁業のなかで比較的危険率の少ない割のよい仕事とみられていた
- [23]不漁年には仕込資金の回収ができないうえ、燃料・食糧・漁業者の小遣銭まで追い貸しする必要があった
- [24]大正4年、空前の不漁とコレラの蔓延により林兼は1,000人の漁夫を抱え、網10統の仕込金70万円と合わせて倒産の瀬戸ぎわまで追い詰められた
- [25]中部幾次郎は同じ危険を負担するなら自分で漁業を経営して運搬業に直結させたほうが安全だと考えた
- [26]大正5年、林兼は方魚津でサバ縛網と巾着網の直営を実現した
直営は漁撈だけでは終わらなかった。漁夫の食糧を自前でまかなうため、4年には朝鮮金海の未開墾地350町歩を買い入れて農場を開いた。5年には下関に中部鉄工場を起こし、漁船の発動機や漁業用機械を造らせた。これがのちの林兼造船である。捕鯨に入ったのは大正7年で、土佐捕鯨の株を過半数買い取った。9年からは下関を根拠地に、機船底曳網漁業と汽船トロール漁業も営んだ。冷蔵庫の建設も同じ年に計画し、13年に彦島冷蔵庫を完成させた。ブライン式としては日本で最初のものである。冷蔵庫は置き場所で役割を分け、生産地では貯蔵能力の割に冷凍能力を大きくし、集散地では貯蔵能力をなるべく大きく取った。この方針で5年の間に彦島第2・清津・青森・羅老島・郡山の5カ所を加えた。冷凍魚の運搬船も自社で持つことにし、大正11年から小型の播州丸を続けて造った。多角経営による危険の分散が、その意図であった。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [27]大正4年、林兼は食糧の自給のため朝鮮慶尚南道金海に350町歩の未開墾地を買収して農場経営に踏み出した
- [28]大正5年に下関へ創設された中部鉄工場は彦島へ移転し、のちに林兼造船株式会社として独立した
- [29]大正7年、林兼は土佐捕鯨の株式の過半数を買収して捕鯨業に乗り出した
- [31]大正9年に企画された冷蔵庫は13年に完成し、日本最初のブライン式冷蔵庫となる彦島冷蔵庫と呼ばれた
- [32]林兼は生産地・集散地・消費地で冷蔵庫の性格を分け、5年間に彦島第2・清津・青森・羅老島・郡山の5カ所へ建設した
- [33]大正11年、林兼は第18播州丸などの小型冷蔵運搬船を建造し、播州丸時代を展開した
- [34]林兼の直営は従来の仕込制を全面的に否定したものではなく、多角経営による危険の分散が意図であった
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [30]大正9年、林兼は下関を根拠とする機船底曳網漁業と汽船トロール漁業の経営を開始した
大正13年9月1日、幾次郎は個人事業だった林兼商店を株式会社組織に改組した。3社の内訳は、方魚津に本店を構え朝鮮の漁業を直営する林兼漁業(資本金300万円)、下関で製氷・冷凍・冷蔵を受け持つ林兼冷蔵(200万円)、そして内地の漁船と営業用資産を残らず引き継いだ株式会社林兼商店(500万円)である。大正14年1月には漁業の本拠を方魚津から下関へ移しており、大洋漁業は今もこの日を創立記念日としている。同じ14年の9月、3社は合併し、資本金1,000万円の株式会社林兼商店が発足した。もっとも払込金は全額が中部一家から出ており、会社の形をとっても中身は幾次郎個人の事業のままだった。それでも改組によって総合漁業会社としての陣容が固まり、林兼は共同漁業・日魯漁業とともに3大漁業会社の一つに数えられるようになった。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [35]大正13年9月1日、林兼商店は中部幾次郎の個人事業から株式会社組織へ改組された
- [36]改組により林兼漁業(資本金300万円)・林兼冷蔵(200万円)・株式会社林兼商店(500万円)の3社が創立された
- [37]大正14年1月、林兼は漁業の本拠を方魚津から下関へ移した
- [38]大洋漁業の創立記念日は大正13年9月1日に定められている
- [40]払込金は全部中部一家の出資であり、法人組織といっても中部幾次郎の個人的事業であることに変わりはなかった
- [41]改組により総合的漁業会社の体制ができ、共同漁業・日魯漁業とともに3大漁業会社として数えられるに至った
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [39]3社は翌大正14年9月に合併し、資本金1,000万円の株式会社林兼商店となった
参考文献[22]-[41]
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [22]鮮魚仲買運搬業は水物といわれる漁業のなかで比較的危険率の少ない割のよい仕事とみられていた
- [23]不漁年には仕込資金の回収ができないうえ、燃料・食糧・漁業者の小遣銭まで追い貸しする必要があった
- [24]大正4年、空前の不漁とコレラの蔓延により林兼は1,000人の漁夫を抱え、網10統の仕込金70万円と合わせて倒産の瀬戸ぎわまで追い詰められた
- [25]中部幾次郎は同じ危険を負担するなら自分で漁業を経営して運搬業に直結させたほうが安全だと考えた
- [26]大正5年、林兼は方魚津でサバ縛網と巾着網の直営を実現した
- [27]大正4年、林兼は食糧の自給のため朝鮮慶尚南道金海に350町歩の未開墾地を買収して農場経営に踏み出した
- [28]大正5年に下関へ創設された中部鉄工場は彦島へ移転し、のちに林兼造船株式会社として独立した
- [29]大正7年、林兼は土佐捕鯨の株式の過半数を買収して捕鯨業に乗り出した
- [31]大正9年に企画された冷蔵庫は13年に完成し、日本最初のブライン式冷蔵庫となる彦島冷蔵庫と呼ばれた
- [32]林兼は生産地・集散地・消費地で冷蔵庫の性格を分け、5年間に彦島第2・清津・青森・羅老島・郡山の5カ所へ建設した
- [33]大正11年、林兼は第18播州丸などの小型冷蔵運搬船を建造し、播州丸時代を展開した
- [34]林兼の直営は従来の仕込制を全面的に否定したものではなく、多角経営による危険の分散が意図であった
- [35]大正13年9月1日、林兼商店は中部幾次郎の個人事業から株式会社組織へ改組された
- [36]改組により林兼漁業(資本金300万円)・林兼冷蔵(200万円)・株式会社林兼商店(500万円)の3社が創立された
- [37]大正14年1月、林兼は漁業の本拠を方魚津から下関へ移した
- [38]大洋漁業の創立記念日は大正13年9月1日に定められている
- [40]払込金は全部中部一家の出資であり、法人組織といっても中部幾次郎の個人的事業であることに変わりはなかった
- [41]改組により総合的漁業会社の体制ができ、共同漁業・日魯漁業とともに3大漁業会社として数えられるに至った
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [30]大正9年、林兼は下関を根拠とする機船底曳網漁業と汽船トロール漁業の経営を開始した
- [39]3社は翌大正14年9月に合併し、資本金1,000万円の株式会社林兼商店となった
1931年〜北洋からの総退却と南氷洋捕鯨への資本の振り替え
北洋では、林兼は合同に阻まれ続けた。昭和3年、富山県の針山清三が所有するクルドコワのサケ漁区を譲り受けて網を建て、2ラインの缶詰工場を新設したのが露領漁区経営の始まりであったが、5年にウラジオで開かれた競売でその漁区をソ連側に奪われ、7年3月には農林大臣の通牒で日魯漁業への合同を命じられた。カニ工船博愛丸は昭和2年に西カムチャッカ沖で2万1,959函を製造する好成績を収めながら、わずか1年の操業で昭和工船漁業へ合流させられ、東カムチャッカへ向けた長門丸も7年に日本合同工船へ吸収された。許可を持つ業者を糾合して設立したサケ・マスの沖取合同漁業も、日魯系の太平洋漁業へ合同されている。合同のたびに、獲る場所そのものが手から離れた。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [42]昭和3年、林兼は針山清三所有のクルドコワのサケ漁区を譲り受けて網を建て、2ラインの缶詰工場を新設した
- [43]昭和5年、ウラジオで開催された競売によりクルドコワの漁区はソ連側に奪取された
- [44]昭和7年3月、農林大臣の通牒により林兼の露領漁業は日魯漁業へ合同された
- [45]カニ工船博愛丸は昭和2年に西カムチャッカ沖で2万1,959函を製造したが、1年の操業で昭和工船漁業へ合流させられた
- [46]東カムチャッカへ出漁した長門丸は昭和7年に日本合同工船へ合同された
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [47]昭和7年に設立された沖取合同漁業は政府の北洋漁業大合同の方針により日魯系の太平洋漁業へ合同され、林兼の北洋進出は阻まれた
昭和11年、土佐捕鯨に藤村捕鯨と大東捕鯨を合わせて買収合併し、資本金1,600万円の大洋捕鯨が生まれた。北洋で抑えられた力を、幾次郎は南氷洋の捕鯨へ向けたのである。当時の日本には、捕鯨母船を造った例がまだ1隻もなかった。そこで英国ファーネス造船所の図面を取り寄せて神戸の川崎造船所に建造を任せ、1万6,801トンの日新丸が起工から156日で竣工した。同年10月、日新丸は8隻のキャッチャーボートを伴って南氷洋に出漁した。操業は4カ月で、1,116頭を捕り、製油量は1万5,280トンに達した。翌12年には反対を押し切って第2日新丸を建造し、2船団の体制にした。母船に故障があってもキャッチャー以下の附属船をむざむざ引き返させずに済む、というのがその理由であった。
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [48]昭和11年、土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併し、資本金1,600万円の大洋捕鯨が設立された
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [49]北洋漁業で退陣を余儀なくされた林兼は、押さえられた力を南氷洋の捕鯨進出に振り向けた
- [50]捕鯨母船が国内で未建造だったため英国ファーネス造船所から図面を取り寄せ、川崎造船所が起工から156日で1万6,801トンの日新丸を完成させた
- [51]昭和11年10月に出漁した日新丸船団は4カ月間の操業で捕鯨頭数1,116頭、製油量1万5,280トンを収めた
- [52]昭和12年、林兼は第2日新丸を建造して南氷洋捕鯨を2船団に増強した
- [53]第2日新丸の建造には反対があったが、中部幾次郎は母船に故障があった場合に附属船を引き返させないためとして2船団の必要を主張した
昭和12年の日華事変を境に、林兼の事業は外地へ大きく広がった。台湾、北支、中支、海南島、南方各地にも営業所が置かれた。満州には新京に本部を、全満の要地に出張所を設け、冷凍冷蔵庫を整えつつ淡水漁業から畜産・農業まで事業を拡大し、10年間で4,000万円をつぎ込んだ。国内では昭和15年、日水・日魯・林兼のような大企業を合同して一元的な国策会社に強めるという施策が打ち出された。林兼はこれに反対した。理由として挙げたのは、船主と船員のあいだの心のつながりが弱まること、船主の創意や冒険への意欲がそがれること、寄り合い所帯となって事務が込み入ることで、その主張は新体制に取り入れられた。こうして統制会社は複数となり、18年3月には内地の水産部門に大洋捕鯨・遠洋捕鯨を合わせた資本金6,000万円の西大洋漁業統制ができた。終戦の20年8月を迎えたとき、船舶の大半は徴用されたままだった。外地へ20年にわたって広げてきた事業は、この時点で資産として何も残らなかった。
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [54]昭和12年に勃発した日華事変を契機に林兼は活躍の場を海外へ拡げ、太平洋戦争突入後は南方方面にまで進出した
- [56]林兼は昭和9年に新京へ事務所を開設して満州へ進出し、10年にわたり投下した資本は当時の金額で4,000万円にのぼった
- [57]昭和15年、日水・日魯・林兼のような大企業を合同強化して一元的国策会社にすべきだという国家の施策が立てられた
- [58]林兼は船主と船員の結びつきが薄くなる・船主の創意や冒険の情熱が削減される・寄合世帯で事務が煩雑になるなどの理由で一元的統合会社に反対し、主張を新体制へ盛り込ませた
- [60]戦局の悪化により船舶の大部分が徴用されたまま昭和20年8月15日の終戦を迎えた
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [55]林兼商店を中心とする同系会社の事業は朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋の各水域に及んだ
- [59]昭和18年3月、林兼の内地水産部門と大洋捕鯨・遠洋捕鯨を統合した資本金6,000万円の西大洋漁業統制株式会社が設立された
参考文献[42]-[60]
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- [42]昭和3年、林兼は針山清三所有のクルドコワのサケ漁区を譲り受けて網を建て、2ラインの缶詰工場を新設した
- [43]昭和5年、ウラジオで開催された競売によりクルドコワの漁区はソ連側に奪取された
- [44]昭和7年3月、農林大臣の通牒により林兼の露領漁業は日魯漁業へ合同された
- [45]カニ工船博愛丸は昭和2年に西カムチャッカ沖で2万1,959函を製造したが、1年の操業で昭和工船漁業へ合流させられた
- [46]東カムチャッカへ出漁した長門丸は昭和7年に日本合同工船へ合同された
- [49]北洋漁業で退陣を余儀なくされた林兼は、押さえられた力を南氷洋の捕鯨進出に振り向けた
- [50]捕鯨母船が国内で未建造だったため英国ファーネス造船所から図面を取り寄せ、川崎造船所が起工から156日で1万6,801トンの日新丸を完成させた
- [51]昭和11年10月に出漁した日新丸船団は4カ月間の操業で捕鯨頭数1,116頭、製油量1万5,280トンを収めた
- [52]昭和12年、林兼は第2日新丸を建造して南氷洋捕鯨を2船団に増強した
- [53]第2日新丸の建造には反対があったが、中部幾次郎は母船に故障があった場合に附属船を引き返させないためとして2船団の必要を主張した
- [54]昭和12年に勃発した日華事変を契機に林兼は活躍の場を海外へ拡げ、太平洋戦争突入後は南方方面にまで進出した
- [56]林兼は昭和9年に新京へ事務所を開設して満州へ進出し、10年にわたり投下した資本は当時の金額で4,000万円にのぼった
- [57]昭和15年、日水・日魯・林兼のような大企業を合同強化して一元的国策会社にすべきだという国家の施策が立てられた
- [58]林兼は船主と船員の結びつきが薄くなる・船主の創意や冒険の情熱が削減される・寄合世帯で事務が煩雑になるなどの理由で一元的統合会社に反対し、主張を新体制へ盛り込ませた
- [60]戦局の悪化により船舶の大部分が徴用されたまま昭和20年8月15日の終戦を迎えた
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」
- [47]昭和7年に設立された沖取合同漁業は政府の北洋漁業大合同の方針により日魯系の太平洋漁業へ合同され、林兼の北洋進出は阻まれた
- [48]昭和11年、土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併し、資本金1,600万円の大洋捕鯨が設立された
- [55]林兼商店を中心とする同系会社の事業は朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋の各水域に及んだ
- [59]昭和18年3月、林兼の内地水産部門と大洋捕鯨・遠洋捕鯨を統合した資本金6,000万円の西大洋漁業統制株式会社が設立された
筆者考察
中部幾次郎が売っていたのは魚ではなく、時間である。明石から大阪の雑喉場まで、押送船なら10時間以上かかり、その間に下がった鮮度の分だけ値が引かれた。淡路丸を曳船に使い、新生丸に発動機を積んだのは、速度を上げるためというより、速度を自分の手に握るためだった。魚価は毎日動くが、着く時刻を他人の天候任せにしないかぎり、その変動は取りにいける。天候を読み、雨量を測り続けた習慣も、同じ一つの狙いに向いていた。朝鮮へ渡ったのも、豊漁で値の付かない魚が向こう側にあり、こちら側にそれを高く買う市場があったからで、その距離を縮められるのは発動機船だけだった。
だが運ぶだけの商売は、他人の漁に縛られる。仕込んだ漁船が不漁に終われば、貸した金は返らず、燃料も食糧も追い貸しになる。大正4年、1,000人の漁夫と70万円の仕込金を抱えて倒産の瀬戸際に立ったとき、幾次郎が選んだのは仕込みをやめることではなく、自分で獲ることだった。捕鯨、底曳、トロール、冷蔵庫、造船、農場と続く手の広げ方は、事業を増やすためではなく、一つの漁が外れたときに全体が傾かないようにするための配置である。北洋で3度にわたって漁区と工船を取り上げられたあと、その資本が丸ごと南氷洋の捕鯨母船へ向かったのも、同じ配置の考え方に沿っている。
出典・参考
2件
- 大洋漁業80年史 1960年「礎石 林兼商店時代」
- 会社銀行八十年史 1955年「大洋漁業」