マルハ:中部家三代の同族経営と大洋ホエールズの発足
1946年〜218隻の発注から始まった戦後の再建
1945年12月、西大洋漁業統制は水産統制令の廃止に伴って西大洋漁業へ商号を変更し、同じ月にさらに大洋漁業へと改めた。新造船の手配は終戦直後から動き、手繰り船80トン、トロール船270トンという船を、三菱重工の神戸・彦島・長崎・広島、三井造船の玉野、川崎重工の神戸へ20隻30隻と分散して発注した。造船所はいずれも終戦の打撃で仕事が止まっており、資材と人はあっても資金がなかったため、発注はこぞって歓迎された。契約はトン当たり6000円だったが、インフレで諸費用が急増して造船所が負担しきれなくなり、中部謙吉氏は興銀と勧銀に事情を説明して割り増し金の追加を頼んで回った。1年余りで100数十隻が完成し、トン当たりの価格は1万2000円へ上がっていた。
- マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1945年12月に西大洋漁業へ商号変更し同月さらに大洋漁業へ商号変更した
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [2]手繰り船80トン・トロール船270トンを三菱重工神戸ほか大手造船所へ20隻30隻と分散発注した
- [3]造船所は資材と人はあっても資金が止まっており発注を歓迎した
- [4]契約はトン当たり6000円だったがインフレで負担できなくなり興銀・勧銀に割り増し金の追加を求めた
- [5]1年余りで100数十隻が完成しトン当たり価格は1万2000円になった
食糧増産は占領下の政策とも合致した。GHQの水産部は日本の食糧問題を解く早道として漁業の振興を奨励し、大洋漁業は終戦の年の暮れ近くに、借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を行った。続いて三菱重工長崎造船所で建造途中だったタンカーを引き継いで母船に仕上げ、南氷洋へ向かった。1万トン超の母船を海外へ出すのは早すぎるという横やりがある国から入った際、中部謙吉氏は捕鯨母船が駄目ならタンカーとして進水させてほしいと頼み、工事を先へ進めた。1946年には戦後第1回の南氷洋捕鯨に参加した。
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [6]食糧問題は当時の日本国民の死活問題であり占領当局も漁業振興を後押しした
- [7]GHQ水産部は日本の食糧問題解決の早道として漁業の振興を奨励した
- [8]終戦の年の暮れ近くに借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を実行した
- [9]三菱重工長崎造船所で建造途中のタンカーを引き継ぎ捕鯨母船に仕上げた
- [10]母船の海外派遣に他国から異論が出たため捕鯨母船ではなくタンカーとして進水させるよう求めた
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [11]1946年に戦後第1回の南氷洋捕鯨へ参加した
一方、1947年には公職追放令が林兼にも及んだ。中部謙吉氏はGHQへ通い詰め、軍への協力とされた事実は徴用船の乗組員が軍命令に従って動いたにすぎないと訴え、英文の陳情書を何度も出した。林兼が地方財閥の一つとみなされ、中部一族全員が追放、株式も預かり没収とされたためである。一族の追放が解けたのは2年ほど後で、株式もすべて戻り、漁場も徐々に回復した。1950年、大洋漁業は数百海里沖でサケ・マスを獲る沖取りに乗り出した。送り出したのは30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸で、初年度から成果を得た。参加はさらに広がり、1952年に北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨、1953年に母船式カニ漁業へ加わった。
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [12]中部謙吉はGHQへ陳情し徴用船の行動は軍命令によるものだと説明して英文の陳情書を提出した
- [13]1947年の公職追放令で林兼は地方財閥とされ中部一族全員が追放され株式も没収された
- [14]2年ほどの陳情の末に一族はそろって追放解除となり株式も全部返還された
- [15]1950年に数百海里沖合のサケ・マス沖取りへ踏み切り30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸で初年度から成功した
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [16]1952年に北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨へ、1953年に母船式カニ漁業へ参加した
参考文献[1]-[16]
- マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1945年12月に西大洋漁業へ商号変更し同月さらに大洋漁業へ商号変更した
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [2]手繰り船80トン・トロール船270トンを三菱重工神戸ほか大手造船所へ20隻30隻と分散発注した
- [3]造船所は資材と人はあっても資金が止まっており発注を歓迎した
- [4]契約はトン当たり6000円だったがインフレで負担できなくなり興銀・勧銀に割り増し金の追加を求めた
- [5]1年余りで100数十隻が完成しトン当たり価格は1万2000円になった
- [6]食糧問題は当時の日本国民の死活問題であり占領当局も漁業振興を後押しした
- [7]GHQ水産部は日本の食糧問題解決の早道として漁業の振興を奨励した
- [8]終戦の年の暮れ近くに借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を実行した
- [9]三菱重工長崎造船所で建造途中のタンカーを引き継ぎ捕鯨母船に仕上げた
- [10]母船の海外派遣に他国から異論が出たため捕鯨母船ではなくタンカーとして進水させるよう求めた
- [12]中部謙吉はGHQへ陳情し徴用船の行動は軍命令によるものだと説明して英文の陳情書を提出した
- [13]1947年の公職追放令で林兼は地方財閥とされ中部一族全員が追放され株式も没収された
- [14]2年ほどの陳情の末に一族はそろって追放解除となり株式も全部返還された
- [15]1950年に数百海里沖合のサケ・マス沖取りへ踏み切り30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸で初年度から成功した
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [11]1946年に戦後第1回の南氷洋捕鯨へ参加した
- [16]1952年に北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨へ、1953年に母船式カニ漁業へ参加した
1953年〜一族が持ち合う株式と、多角経営で拡大した裾野
1953年3月、二代社長の中部兼市氏が62歳で死去し、幾次郎氏・兼市氏に続いて中部謙吉氏が三代目の社長に就任した。初代の幾次郎氏は1946年5月に80歳で世を去った。同社の売上高は1953年1月期の146億円から1955年1月期には224億円へ伸び、1955年9月12日に東京証券取引所へ上場した。1955年1月末の大株主は上位10名がすべて中部姓で、筆頭の中部謙吉氏が355万株、中部タミ氏が293万株、中部悦良氏が272万株を保有した。発行済み株式4000万株に対して株主数は5719名、金融機関の持ち株は13.4%にとどまり、副社長には中部悦良氏と中部利三郎氏が並んだ。
- 証券 1955年10月号
- [17]1953年3月に二代社長の中部兼市が死去し中部謙吉が三代目社長に就任した
- [19]売上高は1953年1月期146億円から1955年1月期224億円へ伸びた
- [20]1955年9月12日に新規上場した
- [21]1955年1月末の大株主上位10名はすべて中部姓で筆頭の中部謙吉は355万株を保有した
- [22]発行済み株式4000万株に対し株主数5719名、金融機関の持ち株比率は13.4%であった
- [23]上場時の副社長は中部悦良と中部利三郎であった
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [18]初代社長の中部幾次郎は1946年5月に80歳で死去した
事業の広げ方には、水産業に固有の理由があった。漁業は天候・場所・時期・潮流に左右されて豊凶の差が激しく、漁獲量が多くても魚価が下がれば儲けは少なく、魚価が高くても漁獲が細れば利益にならない。"水物事業"(証券 1955/10)と呼ばれるゆえんであり、単一の事業規模では危険が大きいため、大規模な多角経営で危険を分散する必要があった。大洋漁業は南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋のマグロ漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰製造・食品加工・貿易・海上運送を営み、1955年1月末には全国に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち、船舶479隻・11万3178総トンを保有した。1961年3月には肥料・飼料事業を事業目的へ加えた。
- 証券 1955年10月号
- [24]単一の事業規模では危険が多く大規模な多角経営による危険分散が必要とされた
- [25]漁業は自然条件に左右され豊凶の差が著しく、漁獲量が多くても魚価が下がれば利益にならない
- [26]水産事業は水物事業と呼ばれ、大規模な多角経営で危険を分散する必要があるとされた
- [28]1955年1月末に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち船舶479隻・11万3178総トンを保有した
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [27]南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋マグロ漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・貿易・海上運送を営んだ
- マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
- [29]1961年3月に肥料・飼料事業を事業目的へ追加した
多角化はグループの規模にも表れ、1967年度の大洋漁業単体の売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益は16億7000万円、従業員は1万1420名である。関係60社を合わせた総売上高は4370億円、税引前利益60億円、従業員は約3万5000人に達した。系列には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類などが並び、漁業を基幹とした総合食品業への道が掲げられた。プロ野球の大洋ホエールズも1950年に発足したグループの一つで、1960年には三原脩監督を迎えてセ・リーグを制し、日本シリーズでも大毎を4連勝で下した。一方、各国が食糧資源の確保のため領海を拡大し、漁業専管水域を設けて日本漁船を締め出す動きが増え、公海上の競争は激しくなっていた。
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [30]1967年度の単体売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益16億7000万円、従業員1万1420名であった
- [31]関係60社を合わせた総売上高は4370億円・税引前利益60億円・従業員約3万5000人であった
- [32]関係会社には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類などがあり漁業を基幹とする総合食品業を掲げた
- [34]各国が領海を拡大し漁業専管水域を設定して日本漁船を締め出し公海上の競争が激しくなった
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [33]大洋ホエールズは1950年にプロ野球へ踏み切り1960年に三原脩監督のもとセ・リーグを制し日本シリーズで大毎を4連勝で下した
参考文献[17]-[34]
- 証券 1955年10月号
- [17]1953年3月に二代社長の中部兼市が死去し中部謙吉が三代目社長に就任した
- [19]売上高は1953年1月期146億円から1955年1月期224億円へ伸びた
- [20]1955年9月12日に新規上場した
- [21]1955年1月末の大株主上位10名はすべて中部姓で筆頭の中部謙吉は355万株を保有した
- [22]発行済み株式4000万株に対し株主数5719名、金融機関の持ち株比率は13.4%であった
- [23]上場時の副社長は中部悦良と中部利三郎であった
- [24]単一の事業規模では危険が多く大規模な多角経営による危険分散が必要とされた
- [25]漁業は自然条件に左右され豊凶の差が著しく、漁獲量が多くても魚価が下がれば利益にならない
- [26]水産事業は水物事業と呼ばれ、大規模な多角経営で危険を分散する必要があるとされた
- [28]1955年1月末に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち船舶479隻・11万3178総トンを保有した
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
- [18]初代社長の中部幾次郎は1946年5月に80歳で死去した
- [33]大洋ホエールズは1950年にプロ野球へ踏み切り1960年に三原脩監督のもとセ・リーグを制し日本シリーズで大毎を4連勝で下した
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- [27]南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋マグロ漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・貿易・海上運送を営んだ
- マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
- [29]1961年3月に肥料・飼料事業を事業目的へ追加した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- [30]1967年度の単体売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益16億7000万円、従業員1万1420名であった
- [31]関係60社を合わせた総売上高は4370億円・税引前利益60億円・従業員約3万5000人であった
- [32]関係会社には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類などがあり漁業を基幹とする総合食品業を掲げた
- [34]各国が領海を拡大し漁業専管水域を設定して日本漁船を締め出し公海上の競争が激しくなった
1946年〜1976年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年01月期 | 単体 | 146 | n/a | n/a | n/a | 4 | 3.2% | n/a |
| 1954年01月期 | 単体 | 206 | +41.1% | n/a | n/a | 5 | 2.5% | n/a |
| 1955年01月期 | 単体 | 224 | +8.7% | 17 | n/a | 5 | 2.4% | n/a |
| 1956年01月期 | 単体 | 274 | +22.3% | 23 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年01月期 | 単体 | 325 | +18.6% | 30 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年01月期 | 単体 | 408 | +25.5% | 34 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年01月期 | 単体 | 458 | +12.3% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年01月期 | 単体 | 524 | +14.4% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年01月期 | 単体 | 640 | +22.1% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年01月期 | 単体 | 797 | +24.5% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年01月期 | 単体 | 870 | +9.2% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年01月期 | 単体 | 944 | +8.5% | 61 | n/a | 30 | 3.2% | n/a |
| 1965年01月期 | 単体 | 999 | +5.8% | n/a | 26 | 17 | 1.7% | n/a |
| 1966年01月期 | 単体 | 1,097 | +9.8% | n/a | 25 | 17 | 1.5% | n/a |
| 1967年01月期 | 単体 | 1,292 | +17.8% | n/a | 26 | 17 | 1.3% | n/a |
| 1968年01月期 | 単体 | 1,553 | +20.2% | n/a | n/a | 16 | 1.1% | n/a |
| 1969年01月期 | 単体 | 1,698 | +9.3% | n/a | ▲7 | ▲3 | ▲0.2% | n/a |
| 1970年01月期 | 単体 | 1,872 | +10.2% | n/a | 8 | 4 | 0.2% | n/a |
| 1971年01月期 | 単体 | 2,005 | +7.1% | n/a | 5 | 1 | 0.0% | n/a |
| 1972年01月期 | 単体 | 2,309 | +15.2% | n/a | 5 | 2 | 0.1% | n/a |
| 1973年01月期 | 単体 | 2,516 | +9.0% | n/a | 15 | 10 | 0.4% | n/a |
| 1974年01月期 | 単体 | 3,311 | +31.6% | n/a | 30 | 14 | 0.4% | n/a |
| 1975年01月期 | 単体 | 4,129 | +24.7% | n/a | 18 | 8 | 0.2% | n/a |
| 1976年01月期 | 単体 | 4,559 | +10.4% | n/a | 4 | 10 | 0.2% | n/a |
出所:証券 1955年10月号「新規上場会社紹介 大洋漁業株式会社」、会社年鑑 1963年版、上場会社総覧 1959年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1976年版、企業の歴史 明治百年 第3編(1968年)「大洋漁業」、会社年鑑 1986年版
出典・参考
5件
- マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
- 証券 1955年10月号
- 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」