第2章 年〜年

マルハ:日新丸の南氷洋出漁と水産統制令による西大洋漁業統制の設立

1932年〜日魯漁業に買収された北洋事業と、活路になった捕鯨母船

1930年代の林兼は、北洋の漁場を目指した。朝鮮時代にサワラやサバの流し網を長く経験していた中部謙吉氏は、その技術を生かして1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網に乗り出す。試みは網が沈むほどの好漁で、翌年には5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ、1934年には北千島の陸上漁場と缶詰工場も整えた。しかし当時の北洋漁業は政府の大合同方針の下にあり、露領漁業の大部分は日魯漁業が握っていた。公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業でも、1935年には日魯漁業が支配力を握った。林兼の北洋事業は同じ1935年に日魯漁業へ買収され、買収金135万円を手にしたものの、北洋からは手を引くほかなかった。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [1]林兼の北洋進出は昭和の初めの博愛丸によるカニ工船から始まった
    • [2]中部謙吉は朝鮮時代の流し網の経験を生かし1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網を始めた
    • [3]翌年に5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ沖取りに出動させ大成功した
    • [4]1934年に北千島の陸上漁場へも広げ缶詰工場を完備した
    • [8]北洋事業の買収金135万円を手にしたが北洋では手も足も出ない状態になった
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [5]日魯漁業は露領漁業の大部分を独占していた
    • [6]公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業も1935年に日魯漁業が支配力を握った
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [7]政府の北洋漁業大合同方針により1935年に林兼の北洋事業は日魯漁業へ買収された

捕鯨部を率いた志野徳助氏は名砲手で、以前から南氷洋での捕鯨を唱えていた。北洋から締め出された林兼が次の活路としたのは、この南氷洋の捕鯨である。出漁の計画は日魯漁業から得た買収資金を元手に立てられ、1936年には土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併して資本金1000万円の大洋捕鯨を立ち上げた。出漁の母体となったのはこの会社である。母船は2万トン級の新造が必要で、母船550万円、捕鯨船8隻で200万円、仕込み金200万円と、あわせて950万円を要した。これに対し東京にあった手元資金は50万円である。資金は興銀・勧銀・安田が世話をし、仕込み金は三菱商事が引き受けた。英国ファーネス社から母船の図面を10万円で取得し、川崎造船が7カ月の突貫工事で捕鯨母船・日新丸を完成させた。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [9]捕鯨部責任者の志野徳助はかねて南氷洋捕鯨を提唱していた名砲手であった
    • [10]北洋の道を閉ざされた林兼は南氷洋捕鯨に活路を求めた
    • [12]南氷洋出漁には母船550万円・捕鯨船8隻200万円・仕込み金200万円の計950万円を要し手元資金は50万円だった
    • [13]資金は興銀・勧銀・安田が世話をし仕込み金は三菱商事が引き受けた
    • [14]英国ファーネス社から母船の図面を10万円で購入し川崎造船が7カ月の突貫工事で日新丸を完成させた
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [11]1936年に土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併し資本金1000万円の大洋捕鯨を設立した

1936年10月7日、日新丸船団は神戸を出港した。船団長の志野徳助氏は最終寄港地のフリーマントルで脳出血により急逝し、見習いとして乗っていた謙吉氏の弟・中部利三郎氏が急きょ船団長を継いだが、その年の成績は良好だった。日本水産に続く南氷洋捕鯨への参入である。翌1937年6月には第二日新丸が完成したものの、7月に日中戦争が起こり、500坪の大甲板を持つ同船は上海の呉淞上陸作戦へ徴用されて上陸用舟艇を運んだ。第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁したのち、ともにタンカーとして国に徴用され、南氷洋捕鯨は中断した。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [15]1936年10月7日に日新丸船団が神戸を出港した
    • [16]船団長の志野徳助はフリーマントルで脳出血により急逝し中部利三郎が船団長を継いだ
    • [17]初年度の日新丸船団は立派な成績を収めた
    • [19]1937年6月に第二日新丸が完成し翌7月の日中戦争勃発後に呉淞上陸作戦へ徴用された
    • [20]第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁した後タンカーとして徴用され南氷洋捕鯨は中断した
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [18]林兼商店は1936年に日本水産に続いて南氷洋捕鯨へ乗り出した
参考文献[1]-[20]
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [1]林兼の北洋進出は昭和の初めの博愛丸によるカニ工船から始まった
    • [2]中部謙吉は朝鮮時代の流し網の経験を生かし1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網を始めた
    • [3]翌年に5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ沖取りに出動させ大成功した
    • [4]1934年に北千島の陸上漁場へも広げ缶詰工場を完備した
    • [8]北洋事業の買収金135万円を手にしたが北洋では手も足も出ない状態になった
    • [9]捕鯨部責任者の志野徳助はかねて南氷洋捕鯨を提唱していた名砲手であった
    • [10]北洋の道を閉ざされた林兼は南氷洋捕鯨に活路を求めた
    • [12]南氷洋出漁には母船550万円・捕鯨船8隻200万円・仕込み金200万円の計950万円を要し手元資金は50万円だった
    • [13]資金は興銀・勧銀・安田が世話をし仕込み金は三菱商事が引き受けた
    • [14]英国ファーネス社から母船の図面を10万円で購入し川崎造船が7カ月の突貫工事で日新丸を完成させた
    • [15]1936年10月7日に日新丸船団が神戸を出港した
    • [16]船団長の志野徳助はフリーマントルで脳出血により急逝し中部利三郎が船団長を継いだ
    • [17]初年度の日新丸船団は立派な成績を収めた
    • [19]1937年6月に第二日新丸が完成し翌7月の日中戦争勃発後に呉淞上陸作戦へ徴用された
    • [20]第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁した後タンカーとして徴用され南氷洋捕鯨は中断した
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [5]日魯漁業は露領漁業の大部分を独占していた
    • [6]公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業も1935年に日魯漁業が支配力を握った
    • [18]林兼商店は1936年に日本水産に続いて南氷洋捕鯨へ乗り出した
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [7]政府の北洋漁業大合同方針により1935年に林兼の北洋事業は日魯漁業へ買収された
    • [11]1936年に土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併し資本金1000万円の大洋捕鯨を設立した

1943年〜水産統制令で生まれた西大洋漁業統制と、敗戦で失った船

戦時色が濃くなるなかで、林兼商店を中心とする事業は日本本土のほか朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋の各水域へ広がっていた。捕鯨・カツオマグロ漁業・サケマス漁業・底曳網漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網までを直営する構えである。1943年3月31日、水産統制令に基づいて株式会社林兼商店の水産部門と同系の大洋捕鯨・遠洋捕鯨が共同出資し、資本金6000万円の西大洋漁業統制株式会社が下関市に設立された。捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とする国策の統合であり、社長には中部幾次郎氏が就任した。マルハがのちに数える創立からの期数は、この1943年設立の法人を第1期とする。

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [21]林兼商店系の事業は日本本土・朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋に及んだ
    • [22]捕鯨・鰹鮪漁業・鮭鱒漁業・底曳網漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網を直営した
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1943年3月31日に水産統制令に基づき林兼商店水産部門と大洋捕鯨・遠洋捕鯨の共同出資で資本金6000万円の西大洋漁業統制が設立された
    • [24]西大洋漁業統制は捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とし社長には中部幾次郎が就任した
  • マルハニチロ 有価証券報告書
    • [25]有価証券報告書の期数は1943年設立の法人を第1期として連続している

戦争は会社の資産をほとんど奪い、第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され、第一日新丸も終戦の前年に北ボルネオ沖で沈んでいる。失われた船は200数十隻・7万数千トンに及び、外地資産の全部とほとんどの船舶が消えた。沈没船の補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度で、残りは戦時補償の打ち切りで棒引きとなり、会社には数千万円の借金と、外地から戻ってくる700人ほどの社員が残された。それでも終戦の8日後に開かれた役員会議では、食糧不足に対処するには漁撈の再開が先決だと決め、1946年1月までに底曳・トロール・マグロ・捕鯨船など218隻・2万トンを発注した。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [26]第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され第一日新丸も終戦前年に北ボルネオ沖で沈没した
    • [27]失われた船舶は200数十隻・7万数千トンに及んだ
    • [29]補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度で残りは戦時補償の打ち切りで消え数千万円の借金と復員社員700人が残った
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [28]第二次大戦で外地資産の全部とほとんどの船舶を失った
    • [30]終戦8日後の役員会議で漁撈再開を決め1946年1月までに218隻・2万トンを発注した
参考文献[21]-[30]
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [21]林兼商店系の事業は日本本土・朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋に及んだ
    • [22]捕鯨・鰹鮪漁業・鮭鱒漁業・底曳網漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網を直営した
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1943年3月31日に水産統制令に基づき林兼商店水産部門と大洋捕鯨・遠洋捕鯨の共同出資で資本金6000万円の西大洋漁業統制が設立された
    • [24]西大洋漁業統制は捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とし社長には中部幾次郎が就任した
  • マルハニチロ 有価証券報告書
    • [25]有価証券報告書の期数は1943年設立の法人を第1期として連続している
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [26]第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され第一日新丸も終戦前年に北ボルネオ沖で沈没した
    • [27]失われた船舶は200数十隻・7万数千トンに及んだ
    • [29]補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度で残りは戦時補償の打ち切りで消え数千万円の借金と復員社員700人が残った
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [28]第二次大戦で外地資産の全部とほとんどの船舶を失った
    • [30]終戦8日後の役員会議で漁撈再開を決め1946年1月までに218隻・2万トンを発注した

出典・参考

6件
出典・参考
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
  • マルハニチロ 有価証券報告書
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」

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