NTTデータグループ:日本電信電話公社の金融・官公庁システムと公正競争による分離独立
1967年〜公共的・技術先導的・全国的を掲げた公社のデータ通信事業
日本電信電話公社がデータ通信本部を置いたのは1967年10月である。公社は全国に張った通信網を持ち、その上に計算機を載せて他人の業務を処理する事業を始めた。1985年11月にはデータ通信事業本部へ改組された。社会保険庁の記録を扱うシステム、全国の銀行を結ぶ新全国銀行システム、気象庁のアメダスは、いずれもこの部門が動かしていた。第一勧業銀行のキャッシュカードが富士銀行で使えるのも、都市銀行を相互に結んだBANCSによる。この部門が標榜してきたのは、公共的・技術先導的・全国的の三点だった。扱う対象は、個々の企業の業務ではなく国の制度と決済の土台だった。
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1967年10月、日本電信電話公社にデータ通信本部を設置
- [2]1985年11月、データ通信本部からデータ通信事業本部へ改組
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [3]分離独立時点で稼働していた主なシステムは社会保険システム、新全国銀行システム、地域気象観測データ通信システム(アメダス)、現金自動支払システム(BANCS)
- [4]第一勧業銀行のキャッシュカードが富士銀行で使えるのはBANCS(都銀キャッシュサービスシステム)によるもので、データ通信事業本部が構築した
- [5]データ通信事業本部は公共的・技術先導的・全国的の三点を標榜してきた(取締役開発本部長・田中義昭の説明)
この事業の受注は、競争で勝ち取ったものばかりではなかった。公社が通信事業を独占していた当時から、この部門は計算機メーカーやソフト会社と受注を競ってはいた。だが企業間や業界間をまたぐネットワークでは、参加企業ごとに資本系列が違い、使いたい計算機メーカーも割れる。複数のメーカーから機器を買って組み上げる必要があり、どこにも属さない公社の部門が取りまとめ役に担ぎ出された。あるメーカーの担当者は、劣勢の案件を自社の営業で取り戻したのに、事業本部は技術力で取ったと考えていたと証言した。中立であることが受注の理由になる構造では、営業力と技術力のどちらが効いたのかを社内で測れない。
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [6]NTTが通信事業を独占していた当時から、データ通信事業本部はほかのコンピューターメーカーやソフト会社と受注を競い合ってきた
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [7]企業間・業界間ネットワークでは資本系列ごとに採用メーカーが分かれるため、中立的性格のあるデータ通信事業本部が取りまとめ役として担ぎ出される面が大きかった
- [8]コンピューターメーカーのシステム担当者が、劣勢になった受注を自社の営業攻勢で取り戻したのに、データ通信事業本部は自分たちの技術力で取れたと思っていると証言した
収入の形も、競争を必要としなかった。主たる収益源はシステムの一括受注と、通信回線を使った情報サービスの二つである。銀行や信用金庫をオンラインで結んで為替決済を処理する全国銀行データ通信システムが、その代表だった。巨大システムは一度構築してしまえば、以後は使用料として毎年継続的に入ってくる。公社には営業ノルマという制度がなく、自力で食べていくという切実さが生まれにくい収入構造だった。1987年度の売上高は2400億円、従業員は6800人。親会社の売上高5兆6000億円に対して4.2%にすぎないが、情報関連業のなかでは断然の最大手である。市場別の売上構成は公共・金融・一般産業がほぼ5対4対1で、官庁向けと金融向けが収益の大半を稼いだ。
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [9]システムインテグレーション(情報システムの一括受注)と、通信回線を活用した各種情報サービスを両輪に事業を拡大してきた
- [10]銀行や信用金庫をオンラインで結び為替決済を処理する全国銀行データ通信システムなど、大規模オンラインシステムの構築を得意としてきた
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [11]巨大システムは一度構築すれば使用料の形で毎年継続的に安定収入が入る収入構造だった
- [12]公社には営業ノルマという制度がなかった
- [13]1987年度(昭和62年度)の売上高は2400億円、従業員は6800人
- [14]日本電信電話本体は売上高5兆6000億円・従業員29万1000人で、売上高で4.2%、従業員で2.3%にあたるが、情報処理会社・VAN会社を含む情報関連業では断然大きいトップ企業
- [15]市場別の売上構成は公共・金融・一般産業界がほぼ5対4対1で、官庁向けや金融が収入の大半を占めた
参考文献[1]-[15]
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1967年10月、日本電信電話公社にデータ通信本部を設置
- [2]1985年11月、データ通信本部からデータ通信事業本部へ改組
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [3]分離独立時点で稼働していた主なシステムは社会保険システム、新全国銀行システム、地域気象観測データ通信システム(アメダス)、現金自動支払システム(BANCS)
- [4]第一勧業銀行のキャッシュカードが富士銀行で使えるのはBANCS(都銀キャッシュサービスシステム)によるもので、データ通信事業本部が構築した
- [5]データ通信事業本部は公共的・技術先導的・全国的の三点を標榜してきた(取締役開発本部長・田中義昭の説明)
- [7]企業間・業界間ネットワークでは資本系列ごとに採用メーカーが分かれるため、中立的性格のあるデータ通信事業本部が取りまとめ役として担ぎ出される面が大きかった
- [8]コンピューターメーカーのシステム担当者が、劣勢になった受注を自社の営業攻勢で取り戻したのに、データ通信事業本部は自分たちの技術力で取れたと思っていると証言した
- [11]巨大システムは一度構築すれば使用料の形で毎年継続的に安定収入が入る収入構造だった
- [12]公社には営業ノルマという制度がなかった
- [13]1987年度(昭和62年度)の売上高は2400億円、従業員は6800人
- [14]日本電信電話本体は売上高5兆6000億円・従業員29万1000人で、売上高で4.2%、従業員で2.3%にあたるが、情報処理会社・VAN会社を含む情報関連業では断然大きいトップ企業
- [15]市場別の売上構成は公共・金融・一般産業界がほぼ5対4対1で、官庁向けや金融が収入の大半を占めた
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [6]NTTが通信事業を独占していた当時から、データ通信事業本部はほかのコンピューターメーカーやソフト会社と受注を競い合ってきた
- [9]システムインテグレーション(情報システムの一括受注)と、通信回線を活用した各種情報サービスを両輪に事業を拡大してきた
- [10]銀行や信用金庫をオンラインで結び為替決済を処理する全国銀行データ通信システムなど、大規模オンラインシステムの構築を得意としてきた
1988年〜分離独立と、公社の体質を剥がす作業
1985年4月に日本電信電話が発足すると、データ通信部門の切り出しが動き出した。民営化を推進した真藤恒氏が、この事業は成長が見込めるため早く独立させたほうがよいと判断したという。エヌ・ティ・ティ・データ通信は1988年5月に資本金100億円で設立された。7月に日本電信電話からデータ通信事業本部の営業を譲り受け、営業を開始する。事業本部の社員は出向ではなく、ほぼ全員が新会社へ転籍した。子会社へは出向で社員を送るのが通例だったNTTにあって異例であり、親会社との人事交流も最小限に抑えられた。掲げた看板は、企業戦略の立案という川上からシステムの開発・運用まで一貫して請け負うプロフェッショナル・サービスだった。
- 有価証券報告書【沿革】
- [16]1985年4月、日本電信電話が設立
- [18]1988年5月、エヌ・ティ・ティ・データ通信を設立。資本金100億円
- [19]1988年7月、日本電信電話から同社データ通信事業本部に属する営業を譲り受け、営業を開始
- Decide 1999年3月号
- [17]民営化推進の実力者だった真藤恒が、データ通信事業はNTTのなかでも最も成長が見込めるため早く独立させたほうがよいと判断して分離したとされる
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [20]データ通信事業本部所属の社員はほぼ全員がNTTデータ通信へ転籍した。NTTが通常は出向の形で子会社・関連会社へ社員を派遣するのに比べて異例
- [21]藤田史郎社長が、NTTとの人事交流は最小限に抑えていると述べた
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [22]藤田史郎社長が、ユーザーの中に入り込んで企業戦略立案という川上からシステム開発・運用の川下まで一貫して請け負いたいと述べ、これをプロフェッショナル・サービスと呼び始めた
独立して最初に突きつけられたのは、顧客からの評価だった。ある情報システム担当者は、NTTから派遣された担当者について『夕方5時になると決まって帰り支度をする。これでは一緒に仕事がしにくいことこの上ない』と語っている。職制意識が強く責任者でなければ対応できない、顧客固有の業務の理解に時間がかかる、とも並べた。事業本部時代の自己認識は誇り高き技術集団であり、良いものさえ作れば文句はないという意識も残っていた。CIMを担当していた米野和則氏は自社を官庁体質と呼び、雑事に若手を使うなと課長級に言い続けた。営業を学ばせる場として選ばれたのは、NTTと日本IBMの合弁である日本情報通信だった。社員600人のうち450人がNTT出身で、その65%が旧事業本部からの出向者。数年のローテーションで戻ってくる彼らが、IBMの営業の型を持ち帰る道筋だった。
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [23]顧客の情報システム担当者が、NTTから派遣された担当者の勤務体制について問題点を挙げた
- [24]同じ担当者が、階層化された職制意識が強く責任者でないと対応できない、ユーザー固有の業務を理解するのに時間がかかると問題点を挙げた
- [25]NTTデータの幹部が、データ通信事業本部のアイデンティティーは誇り高き技術集団であり、良いものさえ作れば文句はないという意識が払拭されていないと述べた
- [27]NTTと日本IBMの合弁会社である日本情報通信(NI+C)で、旧データ通信事業本部出身者にIBMの研修をもとにした教育を行った
- [28]日本情報通信の社員600人のうち450人がNTT出身で、その65%が旧データ通信事業本部からの出向者。数年のローテーションでNTTデータへ戻る
- 日経ビジネス 1989年4月10日号
- [26]産業システム事業部企画開発部CIM担当部長の米野和則が、自社を官庁体質と呼び、コピー取りや清書などの雑事に若手を使わないよう課長クラスに指示していた
藤田氏は、社員の9割方はSEであり、その全員が営業も兼ね備える人材だと位置づけた。製造部門を持たない会社にとって、原価は人の時間そのものである。1990年4月、全社員の作業時間を集計する仕組みが導入された。11月には社員約7400人のうち約6500人に、カシオ計算機製の電子手帳が配られた。約400の作業項目から選ぶだけで、誰がどの作業を何時間したか、残業がどれだけかが記録される。集計はプロジェクト単位にとどめ、個人別には管理せず人事考課にも使わないという原則が置かれた。基本設計にSEを寄せ、プログラムを書く作業は社内で持つより安い外注へ出す方針が、ここから引かれた。人月を測る装置を、まず自社に据えたことになる。
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [29]藤田史郎社長が、当社の9割がたはSE(システムエンジニア)であり、このSEは営業も兼ね備える人材だと述べた
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- [30]1990年4月、稼働集計システムを全社に導入した
- [31]1990年11月から社員約7400人のうち約6500人にカシオ計算機製の電子手帳を配布した
- [32]入力する作業項目は約400。誰がどんな作業を何時間したか、残業がどのくらいかを自動的に記録する
- [33]稼働集計システムには、情報の個人別管理を行わずプロジェクト単位で把握する、人事考課には利用しない、出勤簿が自動出力され社員のメリットになる、という3つのルールを置いた
- [34]ソフト開発部門はSEを基本設計や製作など付加価値の高い工程に注力させ、プログラムを書く作業は社内で作るよりコストの安い外注へ出す方針を取った
参考文献[16]-[34]
- 有価証券報告書【沿革】
- [16]1985年4月、日本電信電話が設立
- [18]1988年5月、エヌ・ティ・ティ・データ通信を設立。資本金100億円
- [19]1988年7月、日本電信電話から同社データ通信事業本部に属する営業を譲り受け、営業を開始
- Decide 1999年3月号
- [17]民営化推進の実力者だった真藤恒が、データ通信事業はNTTのなかでも最も成長が見込めるため早く独立させたほうがよいと判断して分離したとされる
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [20]データ通信事業本部所属の社員はほぼ全員がNTTデータ通信へ転籍した。NTTが通常は出向の形で子会社・関連会社へ社員を派遣するのに比べて異例
- [21]藤田史郎社長が、NTTとの人事交流は最小限に抑えていると述べた
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [22]藤田史郎社長が、ユーザーの中に入り込んで企業戦略立案という川上からシステム開発・運用の川下まで一貫して請け負いたいと述べ、これをプロフェッショナル・サービスと呼び始めた
- [23]顧客の情報システム担当者が、NTTから派遣された担当者の勤務体制について問題点を挙げた
- [24]同じ担当者が、階層化された職制意識が強く責任者でないと対応できない、ユーザー固有の業務を理解するのに時間がかかると問題点を挙げた
- [25]NTTデータの幹部が、データ通信事業本部のアイデンティティーは誇り高き技術集団であり、良いものさえ作れば文句はないという意識が払拭されていないと述べた
- [27]NTTと日本IBMの合弁会社である日本情報通信(NI+C)で、旧データ通信事業本部出身者にIBMの研修をもとにした教育を行った
- [28]日本情報通信の社員600人のうち450人がNTT出身で、その65%が旧データ通信事業本部からの出向者。数年のローテーションでNTTデータへ戻る
- [29]藤田史郎社長が、当社の9割がたはSE(システムエンジニア)であり、このSEは営業も兼ね備える人材だと述べた
- 日経ビジネス 1989年4月10日号
- [26]産業システム事業部企画開発部CIM担当部長の米野和則が、自社を官庁体質と呼び、コピー取りや清書などの雑事に若手を使わないよう課長クラスに指示していた
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- [30]1990年4月、稼働集計システムを全社に導入した
- [31]1990年11月から社員約7400人のうち約6500人にカシオ計算機製の電子手帳を配布した
- [32]入力する作業項目は約400。誰がどんな作業を何時間したか、残業がどのくらいかを自動的に記録する
- [33]稼働集計システムには、情報の個人別管理を行わずプロジェクト単位で把握する、人事考課には利用しない、出勤簿が自動出力され社員のメリットになる、という3つのルールを置いた
- [34]ソフト開発部門はSEを基本設計や製作など付加価値の高い工程に注力させ、プログラムを書く作業は社内で作るよりコストの安い外注へ出す方針を取った
1991年〜金融偏重の露呈と、ICカード600万枚での一般産業開拓
1991年度、経常利益は前期比で3割強の減益になる見通しとなった。金融・証券業界の情報化投資が冷え込んだためである。組織は顧客の業態別に金融・公共・産業の3事業本部へ分かれ、売上比率は5対3対2と金融に偏っていた。藤田氏は、金融・証券への依存では立ち行かないと認識を改めた。比率をいずれ3対3対3へ持っていきたい、と方向を示す。1988年の独立時にも、産業の比重を当時の13%から3年で30%、7年で50%へ高める計画が掲げられていた。産業部門の売上高は1985年度の120億円から300億円へ伸びてはいた。それでも3年が過ぎて2割にとどまり、計画は遅れていた。
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [35]1991年度は経常利益が前期比3割強の減益になる見通しで、金融・証券業界の情報化投資が冷え込んだことが要因
- [36]組織は業態別に金融システム・公共システム・産業システムの3事業本部に分かれ、各事業本部の売上比率は5対3対2
- [37]藤田史郎社長が、金融・証券に頼っていてはだめだということがはっきりしてきたと述べた
- [38]藤田史郎社長が、金融・公共・産業の売上比率をいずれ3対3対3に持っていきたいと語った
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [39]産業システム事業部長の松井嘉正が、全社売上の半分を産業界で上げたいとし、当時13%の比重を3年で30%、7年で50%へ高める計画を示した
- [40]産業システム事業部門の売上高は1985年度(昭和60年度)の120億円から300億円へ急成長していた
一般産業を開拓する手として選ばれたのがICカードだった。1990年2月、全社の組織を横割りにした社長直轄のICカード事業推進本部が置かれ、藤田氏が本部長を兼ねた。横割りの組織は同社で初の試みで、社員7800人の約2割にあたる1500人がこの事業に携わった。同じ年の7月には中堅企業向けの販売を担うSIS推進本部を設けた。10月には東海・関西・中国・九州の4地域へ、販売・サービス会社を新設している。ICカードは8ビットの演算装置と8キロバイトのメモリーを1チップに収め、どこで何を買ったかという履歴まで持てる。だが普及を阻んでいたのは価格で、磁気ストライプ型が1枚60〜100円なのに対し、ICカードは2000〜5000円と10倍以上した。
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [41]1990年2月、全社の組織を横割りにした社長直轄のICカード事業推進本部を設置し、藤田史郎社長自らが事業本部長を兼ねた
- [42]全社の組織を横割りにした組織は同社初の試み。ICカードビジネスに携わる人数は総計1500人で、社員7800人の約2割にあたる
- [45]ICカードは8ビットの中央演算処理装置と8キロバイト(漢字4000字分)のメモリーを1チップにまとめたLSIを埋め込み、ID情報のほか購買履歴も収容できる
- [46]磁気ストライプ型カードの原価は1枚60〜100円程度、ICカードは2000〜5000円程度で10倍以上
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- [43]1990年7月、中堅企業へのSIS(戦略情報システム)販売を目的にSIS推進本部を設立した
- [44]1990年10月、SISを地方企業にも広めるため東海・関西・中国・九州の4地域に販売・サービス会社を新設した
1991年4月、同社は600万枚のICカードの買い入れを官報に公告する。日本での出荷枚数は1990年度で約20万枚、1991年度でも約50万枚と見られていた。市場そのものの十倍を超える発注をぶつけ、1枚1000円弱まで価格を落とす賭けだった。当初の入札は想定価格に届かず不調に終わり、8社が応札したのは同じ年の暮れである。狙いはカードを売ることではなく、『ICカードを使ったシステム全体の開発を請け負うこと』にあった。応用の一つだった島根県出雲市のカードは、1991年に65歳以上の市民約7400人へ配られた。同市は1993年11月から、市内の児童約1万6800人を対象とする発行にも踏み出している。
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [47]1991年4月、ICカード600万枚の入札による買い入れを官報に公告した
- [48]ICカードの日本での出荷枚数は1990年度で約20万枚、1991年度が約50万枚と言われた
- [49]一気に大量調達することでICカードを安くする戦略を取り、調達価格は1000円弱に落ち着く見通しとされた
- [50]1991年5月に予定した入札は、想定価格をメーカーが提示できず不調に終わり、同年末に8社が応札した
- [51]藤田史郎社長が、半導体ビジネスに進出するのではなく、ICカードを使ったシステム全体の開発を請け負うことが狙いだと述べた
- [52]島根県出雲市役所で1991年4月から運用が始まったICカードは、65歳以上の市民約7400人に配布され、健康保険証・健康手帳・年金手帳などの保健情報と血液型・病歴などの医療情報を収める
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [53]島根県出雲市は1993年11月から3年をかけて、市内の新生児から中学3年生までの児童約1万6800人を対象に児童カードを発行する
賭けを打てる体力があったわけではない。1993年、協力会社で同年3月期に31億5600万円の赤字を出したジャパンシステムへ、顧問の前田隆正氏を社長として送り込んだ。協力会社の系列化という批判を避けて特定の会社に肩入れしてこなかった同社には異例で、藤田氏は水中のクリを拾うと表現した。翌1994年の取材では、自社を極めて底が浅い経営と呼んでいる。普通の企業は過去の蓄積があるため単年度の赤字では構造が動かないが、自社は借金こそあれ蓄積がない、というのがその理由である。同年7月、パッケージインテグレーション事業部が新設された。オーダーメードでなければ嫌だという要求がソフトを高くしてきた、という認識に立った転換だった。
- 日経ビジネス 1993年6月14日号
- [54]1993年、NTTデータ通信は協力会社のジャパンシステムの要請に応じ、顧問の前田隆正を社長として送り込んだ。ジャパンシステムは1993年3月期に31億5600万円の赤字を計上
- [55]NTTデータは協力会社の系列化という批判を避けるため特定の協力会社に肩入れしたことがなく、今回の社長派遣は極めて異例。藤田史郎社長は水中のクリを拾うと表現した
- 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
- [56]藤田史郎社長が、自社の経営を極めて底が浅い経営と表現した
- [57]藤田史郎社長が、普通の企業は過去の蓄積があるので単年度赤字でも構造は微動だにしないが、自社は借金こそあれ蓄積がなく、赤字になれば資金も借りられなくなると述べた
- [58]1994年7月にパッケージインテグレーション事業部を新設した
- [59]藤田史郎社長が、日本ではパッケージソフトが嫌われオーダーメードでなければ嫌だとされてきたことがソフトを高くしてきたと述べた
参考文献[35]-[59]
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- [35]1991年度は経常利益が前期比3割強の減益になる見通しで、金融・証券業界の情報化投資が冷え込んだことが要因
- [36]組織は業態別に金融システム・公共システム・産業システムの3事業本部に分かれ、各事業本部の売上比率は5対3対2
- [37]藤田史郎社長が、金融・証券に頼っていてはだめだということがはっきりしてきたと述べた
- [38]藤田史郎社長が、金融・公共・産業の売上比率をいずれ3対3対3に持っていきたいと語った
- [41]1990年2月、全社の組織を横割りにした社長直轄のICカード事業推進本部を設置し、藤田史郎社長自らが事業本部長を兼ねた
- [42]全社の組織を横割りにした組織は同社初の試み。ICカードビジネスに携わる人数は総計1500人で、社員7800人の約2割にあたる
- [45]ICカードは8ビットの中央演算処理装置と8キロバイト(漢字4000字分)のメモリーを1チップにまとめたLSIを埋め込み、ID情報のほか購買履歴も収容できる
- [46]磁気ストライプ型カードの原価は1枚60〜100円程度、ICカードは2000〜5000円程度で10倍以上
- [47]1991年4月、ICカード600万枚の入札による買い入れを官報に公告した
- [48]ICカードの日本での出荷枚数は1990年度で約20万枚、1991年度が約50万枚と言われた
- [49]一気に大量調達することでICカードを安くする戦略を取り、調達価格は1000円弱に落ち着く見通しとされた
- [50]1991年5月に予定した入札は、想定価格をメーカーが提示できず不調に終わり、同年末に8社が応札した
- [51]藤田史郎社長が、半導体ビジネスに進出するのではなく、ICカードを使ったシステム全体の開発を請け負うことが狙いだと述べた
- [52]島根県出雲市役所で1991年4月から運用が始まったICカードは、65歳以上の市民約7400人に配布され、健康保険証・健康手帳・年金手帳などの保健情報と血液型・病歴などの医療情報を収める
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- [39]産業システム事業部長の松井嘉正が、全社売上の半分を産業界で上げたいとし、当時13%の比重を3年で30%、7年で50%へ高める計画を示した
- [40]産業システム事業部門の売上高は1985年度(昭和60年度)の120億円から300億円へ急成長していた
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- [43]1990年7月、中堅企業へのSIS(戦略情報システム)販売を目的にSIS推進本部を設立した
- [44]1990年10月、SISを地方企業にも広めるため東海・関西・中国・九州の4地域に販売・サービス会社を新設した
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- [53]島根県出雲市は1993年11月から3年をかけて、市内の新生児から中学3年生までの児童約1万6800人を対象に児童カードを発行する
- 日経ビジネス 1993年6月14日号
- [54]1993年、NTTデータ通信は協力会社のジャパンシステムの要請に応じ、顧問の前田隆正を社長として送り込んだ。ジャパンシステムは1993年3月期に31億5600万円の赤字を計上
- [55]NTTデータは協力会社の系列化という批判を避けるため特定の協力会社に肩入れしたことがなく、今回の社長派遣は極めて異例。藤田史郎社長は水中のクリを拾うと表現した
- 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
- [56]藤田史郎社長が、自社の経営を極めて底が浅い経営と表現した
- [57]藤田史郎社長が、普通の企業は過去の蓄積があるので単年度赤字でも構造は微動だにしないが、自社は借金こそあれ蓄積がなく、赤字になれば資金も借りられなくなると述べた
- [58]1994年7月にパッケージインテグレーション事業部を新設した
- [59]藤田史郎社長が、日本ではパッケージソフトが嫌われオーダーメードでなければ嫌だとされてきたことがソフトを高くしてきたと述べた
出典・参考
9件
- 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1988年7月18日号
- 日経ビジネス 1989年4月10日号
- 日経ビジネス 1990年11月19日号
- 日経ビジネス 1992年4月13日号
- 日経ビジネス 1993年6月14日号
- 日経ビジネス 1994年2月28日号
- 日経ビジネス 1994年8月22日号 編集長インタビュー 藤田史郎氏
- Decide 1999年3月号