第1章 年〜年

大阪ガス:大阪瓦斯の設立と大阪市内へのガス供給開始

1897年〜解散寸前の大阪瓦斯を継いだ片岡直輝氏と、過半を米国資本が出した資本金400万円

大阪瓦斯は1897年4月10日、松田平八氏・志方勢七氏・広海二一郎氏ら有志10名の手で設立された。創立者は灯りだけでなく、家庭の煮炊きや動力の熱源としてのガス供給も構想した。1896年3月の設立願追申書には、毎晩のように起きる火災の大半を石油ランプが招くとして、『瓦斯燈明ニ此ノ憂ヲ除ク事ヲ得ヘシ』との一文がある。ところが同年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払いを停止し、日清戦争後の好況は反動に転じた。資本金は当初予定の100万円から35万円へ減額し、第2回払込金の徴収も滞った。製造設備の建設に着手できず、役員の交代が続いて工場用地の売却まで議題にのぼった。払込金で建設費を賄う計画は、不況下の資本市場では成り立たなかったとみられる。

  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [1]1897年4月10日、松田平八・志方勢七・広海二一郎ら有志10名が大阪瓦斯を設立。灯用に加え煮炊き・動力用の供給を意図
    • [2]1897年4月10日、松田平八・志方勢七・広海二一郎ら有志10名が大阪瓦斯を設立。灯用に加え煮炊き・動力用の供給を意図
  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [3]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった
    • [4]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった
    • [5]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった
    • [6]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった

立て直しは、東京瓦斯にも関わる実業家の浅野総一郎氏が1900年に株式を取得し、筆頭株主となったことで始まった。浅野総一郎氏は、地域に根ざすガス事業の経営を地元の名望家の手腕に委ねるべきだと判断した。社長に招かれたのは、日本銀行大阪支店長を務め、大阪の官民に名の通った片岡直輝氏である。1901年2月10日の臨時株主総会で役員を改選し、片岡直輝氏が社長に就任した。取締役に浅野総一郎氏、監査役に渋沢栄一氏が名を連ね、東京の財界人が地元の新社長を支える陣容となった。資本金35万円で発足した会社に、ようやく開業へ向けた体制が整った。東京の資本家が自ら社長とならず地元の名士を立てたのは、道路を管理する大阪市との折衝を見越した人選だったと思われる。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [7]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [8]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [9]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [10]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [11]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
  • 大阪瓦斯 有価証券報告書(第193期)【沿革】
    • [12]1897年4月、資本金35万円で設立

片岡直輝社長の新体制は、設備資金を米国からの出資で賄うと決めた。日清戦争後の軍備拡充と企業熱で国内の資金は逼迫し、政府も財界も外資の導入を歓迎する空気が強かった。大阪瓦斯は村井兄弟商会の米資導入を手がけた岸清一氏に斡旋を委嘱し、弁護士のアレキサンダー・チゾン氏を介して投資を勧誘した。勧誘先に選んだのはアンソニー・N・ブレディ氏で、ニューヨーク・エジソンの社長を務め「ガス王」の異名をとった。1902年5月に共同経営の契約が成り、米国側が提案した資本金600万円は国内の募集難を考えて400万円に抑えた。その50%強を米国側が出資し、7月の臨時株主総会でE・J・パリッシュ氏を米国側の取締役に選んだ。それでも供給の開始は3年後の1905年となり、設立から8年余を費やすことになった。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [13]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [14]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [15]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [16]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [17]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [18]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [19]実際のガス供給開始は1905年で、設立から8年余を要した
参考文献[1]-[19]
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [1]1897年4月10日、松田平八・志方勢七・広海二一郎ら有志10名が大阪瓦斯を設立。灯用に加え煮炊き・動力用の供給を意図
    • [2]1897年4月10日、松田平八・志方勢七・広海二一郎ら有志10名が大阪瓦斯を設立。灯用に加え煮炊き・動力用の供給を意図
    • [19]実際のガス供給開始は1905年で、設立から8年余を要した
  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [3]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった
    • [4]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった
    • [5]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった
    • [6]1896年3月7日の設立願追申書で石油ランプによる火災をガス灯で防げると設立理由を挙げた。1896年9月に大阪同盟貯蓄銀行が支払停止。資本金は100万円予定から35万円に減額、第2回払込徴収が困難となり工場用地売却まで議題にのぼり解散寸前となった
    • [7]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [8]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [9]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [10]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [11]1900年に浅野総一郎が株式を取得し筆頭株主に。地元名望家に経営を任せるべきとの見解で前日銀大阪支店長の片岡直輝に社長就任を要請、1901年2月10日の臨時株主総会で役員改選(取締役に浅野総一郎ら、監査役に渋沢栄一ら)
    • [13]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [14]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [15]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [16]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [17]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
    • [18]資金逼迫で外資導入歓迎の空気。岸清一に米資斡旋を委嘱、チゾンを通じA・N・ブレディに勧誘。1902年5月契約成立、米側提案600万円を400万円とし50%強を米側が出資。7月9日の臨時株主総会でE・J・パリッシュを米側取締役に選任
  • 大阪瓦斯 有価証券報告書(第193期)【沿革】
    • [12]1897年4月、資本金35万円で設立

1903年〜大阪市と結んだ初の報償契約と、80キロの導管で灯した恵比須講前夜のガス

米国資本の導入交渉は極秘で進み、公表は契約成立の後。片岡直輝社長と長年の親交があった大阪市長の鶴原定吉氏は、道路を管理する立場からこの手順に強く反発した。1902年8月の市会では市長の先導で公益事業の公営論が起こり、大阪の世論は約1年にわたって二分された。関西財界の元老である藤田伝三郎氏が調停に入り、1903年8月に双方の譲歩で契約がまとまった。契約は、大阪瓦斯が毎年度の利益金に一定率を掛けた額を市に納め、市は管理する道路や工作物を無償で使わせると定めた。公益事業者と自治体の間で結ばれた、国内最初の報償契約である。同じ1903年ごろには、各家庭の軒下を回る需要の調査も始めた。導管を道路に埋める事業にとって、利益の一部を市に納めても道路の使用権を固めることが先決だったのだろう。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [20]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [21]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [22]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [23]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [24]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [25]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [26]1903年ごろから軒下調査を始め、開業後の顧客開拓に用いた

導管の敷設は1896年に府知事の認可を得ていたものの、工事に着手できず期間の延長を重ねた。認可の失効を防ぐため、1901年12月から翌年1月にかけて製造設備のないまま本管を先に敷いた。工場は国内の技術では竣工が見込めず、外国の技術に依存すると決めた。1904年4月、片岡直輝社長はニューヨークでアンソニー・N・ブレディ氏と協議した。その斡旋でドイツのバマーグ社とシャモット社が、総額105万マルク(約50万円)で岩崎町工場の建設を請け負った。日露戦争で資材の輸入が滞るなか、全市80キロメートルの導管は1905年9月末に、工場は同月28日に完成した。ガス溜の容量は100万立方フィートで、スエズ以東で最大の規模だった。岩崎はこうして大阪瓦斯の創業の地となり、工場は1963年まで操業を続けた。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [27]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [28]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [29]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [30]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [31]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [32]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [33]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [34]1905年に岩崎町工場を建設し供給開始、岩崎工場は1963年に操業を終えた

1905年10月19日、大阪市内の全管線にガスを送り、白熱ガス灯に点火した。翌日に恵比須講を控え、心斎橋から戎橋にかけての通りは誓文払いで買い物をする人でにぎわっていた。灯りと並んで炊事の器具も売り込み、12月末の取付数はランプ6395に対して七輪814、竈125に上った。顧客は開業年末の3,351戸から1912年の4万9002戸へ14.6倍に増えた。1911年には平野郷や新在家にも供給区域を広げ、大阪市外へ導管を延ばした。一方で1909年の北の大火で顧客約2000戸を、1912年の南の大火で957戸を失った。2度の大火は経営に打撃を与えたものの、炊事の火をより安全なガスに替える契機ともなった。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [35]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [36]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [37]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [39]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [40]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [41]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [38]顧客数は開業年末3,351戸から1912年4万9002戸へ14.6倍
参考文献[20]-[41]
  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [20]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [21]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [22]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [23]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [24]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [25]外資導入を極秘に進め契約成立後に公表、道路管理者の鶴原定吉市長が反発。1902年8月市会で公営論、約1年の論争の後、藤田伝三郎らの調停で1903年8月に報償契約締結(利益金の一定率を市に納付、道路等を無償使用)。公益事業者と自治体の最初の報償契約
    • [27]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [28]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [29]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [30]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [31]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [32]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [33]1896年に導管敷設の認可、失効防止に1901年12月〜1902年1月に製造設備なしで導管を敷設。1904年4月片岡社長がNYでブレディと協議、斡旋でバマーグ・シャモットが105万マルク(約50万円)で岩崎町工場を請負。導管80kmは1905年9月末、工場は9月28日に完成。ガス溜100万立方フィートはスエズ以東最大
    • [35]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [36]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [37]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [39]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [40]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
    • [41]1905年10月19日に市内全管線へ送出し点灯、恵比須講前夜。12月末の取付数はランプ6395・七輪814・竈125。1911年に平野郷・新在家・今林など市外へ供給拡大。1909年北の大火で約2000戸、1912年南の大火で957戸の顧客を失い、ガス炊事普及の契機ともなった
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [26]1903年ごろから軒下調査を始め、開業後の顧客開拓に用いた
    • [34]1905年に岩崎町工場を建設し供給開始、岩崎工場は1963年に操業を終えた
    • [38]顧客数は開業年末3,351戸から1912年4万9002戸へ14.6倍

1914年〜電球に灯りを奪われて燃料へ移ったガスと、700万円で引き取ったブレディ株

大正期に入ると、白熱ガス灯の市場をタングステン電球が侵食し始めた。電球は光度で白熱ガス灯を上回り、電力消費量は従来の3分の1で足りた。大阪瓦斯は1913年5月に料金を引き下げ、燃料用への進出に着手した。翌1914年、大阪電灯はこの電球を無料で貸し付け、一挙に3000余灯を獲得している。ところが第一次世界大戦で炭価と賃金が高騰し、料金の改定は報償契約に縛られた。売るほど赤字になって新規顧客の勧誘を止め、配当は1918年下期に5.6%まで下げた。この間の1917年7月には、片岡直輝氏の引退に伴い渡辺千代三郎氏が社長に就任している。戦後は薪の竈をそのまま使えるガス火口を取付班が売り歩き、炊事の需要を掘り起こした。灯りの市場を失った会社の活路は、薪や木炭と値段を比べられる台所にあったと推察される。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [42]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [44]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [45]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [46]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [47]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [48]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [43]タングステン電球は電力消費量3分の1で光度が白熱ガス灯を上回った。竈仕込み用ガス火口を取付班が勧誘し熱用ガスの需要が増えた
    • [49]タングステン電球は電力消費量3分の1で光度が白熱ガス灯を上回った。竈仕込み用ガス火口を取付班が勧誘し熱用ガスの需要が増えた

1925年2月13日、ブレディ財団の管理人ニコラス・F・ブレディ氏から渡辺千代三郎社長あてに電報が届いた。財団が持つ18万4169株をすべて処分し、24時間以内に返答がなければ他者に譲渡するという内容だった。総株数34万株の過半を占める株の行き先が、1日で決まる局面。重役会は外資の束縛を離れて自主経営に移る好機と判断し、約700万円を野村合名会社から一時借り入れると決めた。野村合名会社が一時取得した株の70%強は、重役で組織した乙丑組合が引き受けた。3月6日に米国側の取締役チャールス・E・L・トーマス氏が辞任し、日米の共同経営は終わった。同年6月には大阪舎密工業の合併と資本金1700万円への増資を登記している。合併で得た舎密工場は、岩崎工場に次ぐ規模の製造拠点となった。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [50]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [51]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [52]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [53]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [54]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [55]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [56]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [57]舎密工場は岩崎工場に次ぐ2番目の規模の工場だった

1926年1月に社長制を廃し、片岡直輝氏の長男の片岡直方氏が取締役会長・専務取締役に就任した。1927年1月の料金改定は、1000立方フィート当たり10銭の引き下げに熱量の引き上げを加えた実質9%弱の値下げ。この年の新設顧客は約6万5000戸で、前年末の顧客11万5000戸の55%に当たる。顧客は1930年末に30万戸を超え、資本金は1931年11月に5100万円となった。1931年7月の再値下げに合わせ、一口コックを無料で二口コックに取り替えて台所でガスを使う口数を増やした。1933年3月には、御堂筋に面した本社のガスビルの竣工を迎えた。ビルの7階には定員1回100名の料理講習室を設け、ガス器具の実演も重ねた。値下げと器具の無償交換を重ねたのは、不況で節約に向かう家計に使用量を増やしてもらうためと考えられる。

  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [58]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [59]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [61]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [62]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [64]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [60]1927年の新設顧客約6万5000戸は前年末顧客11万5000戸の55%
  • 大阪瓦斯 有価証券報告書(第193期)【沿革】
    • [63]1933年3月、本社ビル竣工
参考文献[42]-[64]
  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」
    • [42]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [44]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [45]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [46]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [47]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [48]大正期にタングステン電球が普及、1914年大阪電灯が無料貸付で3000余灯を獲得。1913年5月に料金値下げで燃料用へ進出。大戦で炭価・賃金高騰も報償契約で料金改定が抑えられ、新規顧客勧誘を中止、配当は1918年下期5.6%。1917年7月片岡直輝引退、渡辺千代三郎が社長
    • [50]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [51]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [52]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [53]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [54]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [55]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [56]1925年2月13日ブレディ財団管理人N・F・ブレディから18万4169株(総株数34万株の過半)を24時間以内に引き取らなければ他者へ譲渡する旨の電報。重役会は自主経営の好機と判断し約700万円を野村合名から一時融資、旧持株の70%強を重役のシンジケート乙丑組合が引受。3月6日トーマス取締役辞任。1925年6月1日に大阪舎密工業の合併と資本金1700万円の増資を登記
    • [58]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [59]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [61]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [62]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
    • [64]1926年1月社長制廃止、片岡直方が取締役会長・専務。1927年1月に10銭値下げと熱量引上げで実質9%弱の値下げ。1930年末に顧客30万戸超、1931年11月資本金5100万円。1931年7月の値下げ後に一口コックを無料で二口コックへ交換。ガスビルに7階料理講習室(定員1回100名)と器具陳列・実演
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
    • [43]タングステン電球は電力消費量3分の1で光度が白熱ガス灯を上回った。竈仕込み用ガス火口を取付班が勧誘し熱用ガスの需要が増えた
    • [49]タングステン電球は電力消費量3分の1で光度が白熱ガス灯を上回った。竈仕込み用ガス火口を取付班が勧誘し熱用ガスの需要が増えた
    • [57]舎密工場は岩崎工場に次ぐ2番目の規模の工場だった
    • [60]1927年の新設顧客約6万5000戸は前年末顧客11万5000戸の55%
  • 大阪瓦斯 有価証券報告書(第193期)【沿革】
    • [63]1933年3月、本社ビル竣工

出典・参考

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出典・参考
  • 大阪瓦斯 有価証券報告書(第193期)【沿革】
  • ポケット社史 大阪ガス「社会と共によりよい暮らしを創造する」(1994)
  • 明日へ燃える 大阪ガス80年(1986)「明治38年-昭和40年」

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