TBSホールディングス:ラジオ東京の開局と東京放送への改称
1951年〜20数社の免許争いを毎日・朝日・読売・電通の合同で収めたラジオ東京と、有楽町のJOKR
1951年5月、朝日・毎日・読売の新聞3社と電通の系列4社を統合し、資本金1億5,000万円で株式会社ラジオ東京が設立された。電波三法の公布後の1950年5月末、民放の出願は全国で72社、東京地区だけで28社に達した。続いて1950年12月、電波監理委員会が東京にはさしあたり性格の異なる2局だけを免許する置局方針を表明。この方針で免許の大勢は統合へ傾き、3重の出資を嫌った財界も統合を歓迎した。電通社長の吉田秀雄氏は日本化薬社長の原安三郎氏を斡旋役に立て、4社の統合をまとめた。初代社長の足立正氏も後年、電波の都合で許可は1局に限られ、出願者同士の相談でまとまったと回想した。免許の枠の少なさが申請者同士の合同を促し、特定の創業者を持たない会社を生んだとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [1]1950年に東京地区で20数社が免許を申請、最有力の4社(毎日・朝日・電通・読売系)が合同し1951年5月に資本金1億5,000万円で設立
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「ラジオ東京の誕生」
- [2]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- [3]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- [4]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- [5]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- 私の履歴書 足立正(1980)
- [6]郵政省は電波の都合で1局しか許可できず、4者が相談して1局にまとめたと足立正が回想
統合を進めた五人委員会は、初代社長に元王子製紙社長の足立正氏を推薦した。足立正氏自身は局外者の自分が選ばれた事情を『発起人の中からえらんでは、どうしてもそのバック一社の色彩が濃くなってぐあいが悪い』と振り返った。就任にあたり足立正氏が求めたのは専務を自ら選ぶことで、その席に就いたのは毎日新聞社の専務を務めた鹿倉吉次氏である。スタジオは日劇と帝劇の案が相次いで崩れ、1951年7月の役員会で有楽町の毎日新館にある毎日ホールの使用を決めた。事務所は電通の8階と毎日新館の2か所に分散。ラジオ東京は1951年12月、周波数1130kc、出力50kWのJOKRとして年内に本放送を始めた。4陣営のどれにも属さない社長と出資者の建物を借りた拠点が、合同会社の出発を早めたのだろう。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「ラジオ東京の誕生」
- [7]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- [9]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- [10]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- [11]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- 私の履歴書 足立正(1980)
- [8]発起人から社長を選ぶと出資1社の色が濃くなるため、局外者の足立正が選ばれた
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [12]1951年12月に試験電波を出し、標準放送局の本免許(JOKR・1130KC・50KW)を受けて年内に本放送を開始
ラジオ東京の収入は放送時間を広告主に販売する広告料だけで、開局前の試算では年間約4億円の広告収入を見込んだ。専務の鹿倉吉次氏は創立時、財源を広告収入に依存する点で新聞社と同じく経営は難しいとの見方を示した。1951年9月に4名で始めた営業は番組の予約申込制を採り、11月には予約が1日7時間を超えた。1952年9月期の事業収入は4億5,233万円、純利益は5,508万円で、1割の初配当を実施。編成ではNHKの「のど自慢」と同じ時間帯に「素人うた合戦」を置き、白井対マリノ戦の中継は聴取率80%を記録した。1955年3月の民放4社共同の聴取率調査で、ラジオ東京はNHKを初めて上回った。受信料のない民放では聴取率が広告料の根拠となり、NHKと同じ時間帯で競う編成はその裏づけを得る手段だったと推察される。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「ラジオ東京の誕生」
- [13]開局前の試算で東京2局で年間約4億円の広告収入を想定。鹿倉吉次は商業放送の財源が広告収入に頼る点を新聞社と比べ経営の難しさを語った。1951年9月に4名で営業開始、予約申込制で11月に予約が1日7時間超
- [14]開局前の試算で東京2局で年間約4億円の広告収入を想定。鹿倉吉次は商業放送の財源が広告収入に頼る点を新聞社と比べ経営の難しさを語った。1951年9月に4名で営業開始、予約申込制で11月に予約が1日7時間超
- [15]開局前の試算で東京2局で年間約4億円の広告収入を想定。鹿倉吉次は商業放送の財源が広告収入に頼る点を新聞社と比べ経営の難しさを語った。1951年9月に4名で営業開始、予約申込制で11月に予約が1日7時間超
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「躍進するJOKR」
- [16]1952年9月期の事業収入4億5,233万円・純利益5,508万円で1割の初配当。「素人うた合戦」をNHK「のど自慢」と同時間に編成、白井対マリノ戦は聴取率80%
- [17]1952年9月期の事業収入4億5,233万円・純利益5,508万円で1割の初配当。「素人うた合戦」をNHK「のど自慢」と同時間に編成、白井対マリノ戦は聴取率80%
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [18]1955年3月の4社共同聴取率調査でNHKを初めて上回った
参考文献[1]-[18]
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [1]1950年に東京地区で20数社が免許を申請、最有力の4社(毎日・朝日・電通・読売系)が合同し1951年5月に資本金1億5,000万円で設立
- [12]1951年12月に試験電波を出し、標準放送局の本免許(JOKR・1130KC・50KW)を受けて年内に本放送を開始
- [18]1955年3月の4社共同聴取率調査でNHKを初めて上回った
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「ラジオ東京の誕生」
- [2]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- [3]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- [4]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- [5]1950年5月末に出願は全国72社・東京地区28社。1950年12月1日の電波監理委員長談話で東京は当面2局の方針。財界も三重投資を避け統合を歓迎。吉田秀雄が原安三郎を斡旋役に立て4社統合が実現
- [7]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- [9]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- [10]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- [11]五人委員会が初代社長に元王子製紙社長の足立正を推薦、足立は専務人選の一任を条件に承諾。専務は元毎日新聞社専務の鹿倉吉次。1951年7月19日の役員会で毎日ホールをスタジオに決定、7月末に事務所を電通8階と毎日新館6階へ移転
- [13]開局前の試算で東京2局で年間約4億円の広告収入を想定。鹿倉吉次は商業放送の財源が広告収入に頼る点を新聞社と比べ経営の難しさを語った。1951年9月に4名で営業開始、予約申込制で11月に予約が1日7時間超
- [14]開局前の試算で東京2局で年間約4億円の広告収入を想定。鹿倉吉次は商業放送の財源が広告収入に頼る点を新聞社と比べ経営の難しさを語った。1951年9月に4名で営業開始、予約申込制で11月に予約が1日7時間超
- [15]開局前の試算で東京2局で年間約4億円の広告収入を想定。鹿倉吉次は商業放送の財源が広告収入に頼る点を新聞社と比べ経営の難しさを語った。1951年9月に4名で営業開始、予約申込制で11月に予約が1日7時間超
- 私の履歴書 足立正(1980)
- [6]郵政省は電波の都合で1局しか許可できず、4者が相談して1局にまとめたと足立正が回想
- [8]発起人から社長を選ぶと出資1社の色が濃くなるため、局外者の足立正が選ばれた
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「躍進するJOKR」
- [16]1952年9月期の事業収入4億5,233万円・純利益5,508万円で1割の初配当。「素人うた合戦」をNHK「のど自慢」と同時間に編成、白井対マリノ戦は聴取率80%
- [17]1952年9月期の事業収入4億5,233万円・純利益5,508万円で1割の初配当。「素人うた合戦」をNHK「のど自慢」と同時間に編成、白井対マリノ戦は聴取率80%
1952年〜ラジオ・テレビ兼営の申請で得た予備免許と、赤坂で開いたKRTテレビ
ラジオ東京は1952年6月16日、テレビ放送の免許を申請した。既設のラジオ民放による申請としては第1号で、ラジオとテレビの兼営を求める内容だった。ラジオの開局から6ヵ月しか経っておらず、準備の余裕は乏しかった。同じ日、足立正社長が会長を務める日本民間放送連盟は、テレビ免許が避けられないならラジオとの兼営を優先すべきとする意見書を提出している。電波監理委員会は1952年7月、日本テレビ放送網だけに予備免許を与え、ラジオ東京には創業後の日が浅いとして決定を留保した。足立正社長は1953年元旦の放送で、テレビ兼営の計画を進めて実施に移すと述べた。テレビを持てるかどうかがラジオ局の将来を左右すると見て、既設局として最初の申請を急いだと思われる。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「ラジオ東京の誕生」
- [19]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [21]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [22]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [23]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [24]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [20]1952年6月にテレビジョン免許を申請、1953年1月に仮免許
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「躍進するJOKR」
- [25]足立正社長が1953年元旦の放送でテレビ兼営計画を進め実施への体制を確立すると表明
ラジオ東京は1953年1月、テレビの予備免許を受けた。受像機の普及は同年2月のNHK開局時で3,000台、8月に日本テレビが先に開局した時点でも1万台にとどまった。1953年6月には港区赤坂一ツ木町の旧近衛第3連隊跡に敷地を求め、高さ150mの鉄塔を含むテレビ設備の建設に入った。資金は増資と社債で賄い、資本金は1953年10月に5億円、1954年10月に7億5,000万円となった。1953年5月の第1回社債1億円は、創立3年未満で公募の条件を満たせず、証券会社を通さない私募で発行した。応募者は銀行27、生命保険13、損害保険17など、いずれも法人である。ラジオの利益からも1952年9月期から2期で研究費積立金5,000万円を積み、テレビ事業に備えた。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「テレビ放送の開始」
- [26]1953年1月に予備免許。受像機は1953年2月のNHK開始時3,000台、同年8月のNTV開局時1万台
- [27]1953年1月に予備免許。受像機は1953年2月のNHK開始時3,000台、同年8月のNTV開局時1万台
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [28]1953年6月に赤坂一ツ木町の旧近衛第三連隊跡に敷地を求め建設に着手、高さ150mの鉄塔。資本金は1953年10月5億円、1954年10月7億5,000万円
- [29]1953年6月に赤坂一ツ木町の旧近衛第三連隊跡に敷地を求め建設に着手、高さ150mの鉄塔。資本金は1953年10月5億円、1954年10月7億5,000万円
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「経営」
- [30]第1回い号担保付社債1億円を1953年5月26日に発行、創立3年未満のため私募。応募は銀行27・生保13・損保17・証券1で全て法人。研究費積立金を第3〜4期に5,000万円積み立てテレビに備えた
- [31]第1回い号担保付社債1億円を1953年5月26日に発行、創立3年未満のため私募。応募は銀行27・生保13・損保17・証券1で全て法人。研究費積立金を第3〜4期に5,000万円積み立てテレビに備えた
- [32]第1回い号担保付社債1億円を1953年5月26日に発行、創立3年未満のため私募。応募は銀行27・生保13・損保17・証券1で全て法人。研究費積立金を第3〜4期に5,000万円積み立てテレビに備えた
ラジオ東京テレビは1955年4月1日、社長の足立正氏がスイッチを入れて本放送を始めた。同年1月に本免許を受けたJOKR-TVは、日本で最初のラジオ・テレビ兼営の民間放送局である。料金はゴールデンタイム60分で30万円を基本とし、ラジオとテレビを併用する広告主には5%を割り引いた。年間取引が1,000万円を超える広告主には、超えた分の10%を払い戻した。開局時の受像機はサービスエリアで5万8,000台と推定され、定期番組に広告主がつかない状態が1956年いっぱい続いた。最初の6ヵ月のテレビ収入は1億807万9,000円で、協調融資の説明資料で見込んだ3億5,400万円を大きく下回った。ラジオの広告主をテレビへ誘う割引は兼営局の強みを生かす策だったものの、受像機の少なさが収入を抑えたとみるべきだろう。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「テレビ放送の開始」
- [33]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- [35]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- [36]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- [37]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [34]1955年1月に本免許、4月に本放送(JOKR-TV)を開始し日本最初のラジオ・テレビ兼営の民間放送局
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「経営」
- [38]テレビ第9期(最初の6ヵ月)の実績1億807万9,000円、1955年初めの協調融資説明資料の見込は最初の6ヵ月3億5,400万円
参考文献[19]-[38]
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「ラジオ東京の誕生」
- [19]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [21]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [22]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [23]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- [24]1952年6月16日に民放既設社の第1号としてラジオ・テレビ兼営の免許を申請。開局6ヵ月で余裕は乏しかった。同日に民放連が兼営優先の意見書を提出。電波監理委員会は日本テレビ放送網のみに予備免許を与え、ラジオ東京は創業後日が浅いとして留保。足立正は民放連会長
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- [20]1952年6月にテレビジョン免許を申請、1953年1月に仮免許
- [28]1953年6月に赤坂一ツ木町の旧近衛第三連隊跡に敷地を求め建設に着手、高さ150mの鉄塔。資本金は1953年10月5億円、1954年10月7億5,000万円
- [29]1953年6月に赤坂一ツ木町の旧近衛第三連隊跡に敷地を求め建設に着手、高さ150mの鉄塔。資本金は1953年10月5億円、1954年10月7億5,000万円
- [34]1955年1月に本免許、4月に本放送(JOKR-TV)を開始し日本最初のラジオ・テレビ兼営の民間放送局
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「躍進するJOKR」
- [25]足立正社長が1953年元旦の放送でテレビ兼営計画を進め実施への体制を確立すると表明
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「テレビ放送の開始」
- [26]1953年1月に予備免許。受像機は1953年2月のNHK開始時3,000台、同年8月のNTV開局時1万台
- [27]1953年1月に予備免許。受像機は1953年2月のNHK開始時3,000台、同年8月のNTV開局時1万台
- [33]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- [35]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- [36]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- [37]1955年4月1日に足立社長が本放送のスイッチを入れ開局。基本料金はゴールデンタイム60分30万円、ラジオ・テレビ併用は5%引き、年間1,000万円超は超過分の10%を払い戻し。受像機は推定5万8,000台。定期番組にスポンサーがつかない状態が1956年いっぱい続いた
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「経営」
- [30]第1回い号担保付社債1億円を1953年5月26日に発行、創立3年未満のため私募。応募は銀行27・生保13・損保17・証券1で全て法人。研究費積立金を第3〜4期に5,000万円積み立てテレビに備えた
- [31]第1回い号担保付社債1億円を1953年5月26日に発行、創立3年未満のため私募。応募は銀行27・生保13・損保17・証券1で全て法人。研究費積立金を第3〜4期に5,000万円積み立てテレビに備えた
- [32]第1回い号担保付社債1億円を1953年5月26日に発行、創立3年未満のため私募。応募は銀行27・生保13・損保17・証券1で全て法人。研究費積立金を第3〜4期に5,000万円積み立てテレビに備えた
- [38]テレビ第9期(最初の6ヵ月)の実績1億807万9,000円、1955年初めの協調融資説明資料の見込は最初の6ヵ月3億5,400万円
1956年〜JNNで地方局を統合したKRTと、東証上場・東京放送(TBS)への改称
1956年12月、中部日本放送と大阪テレビがテレビ局を開局し、ラジオ東京は両局と番組のネットワークを結んだ。テレビ収入は1955年度の2億8,000万円から1956年度には9億6,500万円に増えた。地方局は番組をキー局に依存し、キー局は全国市場の広告主に応えるため多くの地方局を系列に入れる必要があった。1958年6月、ラジオ東京は北海道放送・中部日本放送・大阪テレビ・ラジオ九州と5社報道部長会議を設け、ニュースの協定を結んだ。1959年4月の皇太子ご成婚の中継ではラジオ東京の系列に地方17社が参加し、同年8月にラジオ東京をキー局とする16社でJNNを結成した。1960年時点で、5社連盟に加えて報道番組のJNNは地方局19社に広がった。ニュースの中継網を先に固めたことが、キー局の地位を支えたと考えられる。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「テレビ放送の開始」
- [39]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [40]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [41]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [42]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [43]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- 証券(1960年11月)
- [44]北海道放送・中部日本放送・朝日放送・RKB毎日と5社連盟、報道番組は地方局19社とJNNのネットワーク(1960年)
ラジオ東京は1960年10月10日、東京証券取引所に株式を上場した。株式は1953年10月から東京証券業協会の承認する店頭取引株として売買されてきた。1959年からはラジオ・テレビ両運営委員会が5ヵ年の長期計画を策定し、上場に備えた。1960年には本館建設計画を中心に計画を修正した。上場の時点で赤坂の本社隣では地上7階・地下2階の新館を建設中で、機械設備を含む予算は33億円、1961年9月の完成予定だった。この時点の資本金は15億円で、その増資の大半はテレビ設備の新増設に充てられている。上場によって、法人の安定株主に加えて個人株主を獲得する道と、資金調達への備えが整った。資本金の2倍を超える局舎投資を前に、株主層を広げる必要が上場を後押ししたとみてよい。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「経営」
- [45]株式は1953年10月から店頭取引株、1960年10月10日に東京証券取引所に上場。上場で流通性が増し個人株主獲得の道が開け資金調達の備えにもなる
- [46]株式は1953年10月から店頭取引株、1960年10月10日に東京証券取引所に上場。上場で流通性が増し個人株主獲得の道が開け資金調達の備えにもなる
- [51]株式は1953年10月から店頭取引株、1960年10月10日に東京証券取引所に上場。上場で流通性が増し個人株主獲得の道が開け資金調達の備えにもなる
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「総合放送局の確立」
- [47]1959年からラジオ・テレビ両運営委員会が5ヵ年の長期計画を策定し株式上場に備えた。1959年4月・10月に経営コンサルタントを導入。1960年に本館建設計画を中心に修正
- [48]1959年からラジオ・テレビ両運営委員会が5ヵ年の長期計画を策定し株式上場に備えた。1959年4月・10月に経営コンサルタントを導入。1960年に本館建設計画を中心に修正
- 証券(1960年11月)
- [49]1960年10月10日上場。資本金15億円、主にテレビ設備新増設のため5回増資。本社隣に地上7階・地下2階の新館を建設中、予算33億円・1961年9月完成予定
- [50]1960年10月10日上場。資本金15億円、主にテレビ設備新増設のため5回増資。本社隣に地上7階・地下2階の新館を建設中、予算33億円・1961年9月完成予定
ラジオ東京は1960年11月29日、社名を東京放送に改め、略号をTBSとした。テレビ収入は1957年上期に8億9,520万円となり、ラジオ収入の8億3,617万円を初めて上回った。同年10月10日にはカラーテレビの本放送を始め、テレビ送信は東京タワーのアンテナから出力50kWに増強した。1960年5月の株主総会で会長制を敷き、足立正氏が会長、鹿倉吉次氏が社長となった。社長の鹿倉吉次氏は改称の理由として『テレビ事業の比重が非常に大きくなって、『ラジオ東京』という名まえが、なにかそぐわないものとして世間から受け取られるようになってきた』と語った。新社名に東京の2字を残したのは、旧社名の歴史を引き継ぐためだった。テレビが主力事業となった実態に社名を合わせた改称だったといえる。
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「総合放送局の確立」
- [52]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
- [55]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
- [56]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
- [57]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「テレビ放送の開始」
- [53]1957年上期にテレビ収入8億9,520万円がラジオ収入8億3,617万円を初めて上回った
- 証券(1960年11月)
- [54]1960年10月10日からカラーテレビ本放送。テレビは東京タワーから送信
参考文献[39]-[57]
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「テレビ放送の開始」
- [39]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [40]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [41]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [42]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [43]1956年12月にCBC・OTVが開局しネットワークを結び営業好転。テレビ収入は1955年度2億8,000万円、1956年度9億6,500万円。地方局は番組をキー局に依存、キー局は全国市場のスポンサーのため系列化が必要。1958年6月に5社報道部長会議とニュース協定、1959年4月の皇太子ご成婚中継でKRT系列に地方17社、1959年8月に16社でJNN結成
- [53]1957年上期にテレビ収入8億9,520万円がラジオ収入8億3,617万円を初めて上回った
- 証券(1960年11月)
- [44]北海道放送・中部日本放送・朝日放送・RKB毎日と5社連盟、報道番組は地方局19社とJNNのネットワーク(1960年)
- [49]1960年10月10日上場。資本金15億円、主にテレビ設備新増設のため5回増資。本社隣に地上7階・地下2階の新館を建設中、予算33億円・1961年9月完成予定
- [50]1960年10月10日上場。資本金15億円、主にテレビ設備新増設のため5回増資。本社隣に地上7階・地下2階の新館を建設中、予算33億円・1961年9月完成予定
- [54]1960年10月10日からカラーテレビ本放送。テレビは東京タワーから送信
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「経営」
- [45]株式は1953年10月から店頭取引株、1960年10月10日に東京証券取引所に上場。上場で流通性が増し個人株主獲得の道が開け資金調達の備えにもなる
- [46]株式は1953年10月から店頭取引株、1960年10月10日に東京証券取引所に上場。上場で流通性が増し個人株主獲得の道が開け資金調達の備えにもなる
- [51]株式は1953年10月から店頭取引株、1960年10月10日に東京証券取引所に上場。上場で流通性が増し個人株主獲得の道が開け資金調達の備えにもなる
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「総合放送局の確立」
- [47]1959年からラジオ・テレビ両運営委員会が5ヵ年の長期計画を策定し株式上場に備えた。1959年4月・10月に経営コンサルタントを導入。1960年に本館建設計画を中心に修正
- [48]1959年からラジオ・テレビ両運営委員会が5ヵ年の長期計画を策定し株式上場に備えた。1959年4月・10月に経営コンサルタントを導入。1960年に本館建設計画を中心に修正
- [52]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
- [55]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
- [56]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
- [57]1960年11月29日に社名をラジオ東京から東京放送に変更、略号TBS。1960年にテレビ送信電力を10kWから50kWへ増大し東京タワーにアンテナ搭載。1960年5月28日の株主総会で会長制、足立正が会長、鹿倉吉次が社長。鹿倉社長は東京の名を残した歴史的意義を説明
1951年〜1960年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 25 | n/a | 1 | 6.1% | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 37 | +47.1% | 3 | 8.0% | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 44 | +18.4% | 4 | 10.2% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 53 | +21.4% | 5 | 10.9% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
出典・参考
8件
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「ラジオ東京の誕生」
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「躍進するJOKR」
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「テレビ放送の開始」
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「経営」
- 東京放送のあゆみ(1965・刊行社史)「総合放送局の確立」
- 会社銀行八十年史(1955・企業史書籍)「ラジオ東京」
- 私の履歴書 足立正(1980)
- 証券(1960年11月)