第2章 年〜年

武富士:金利引き下げによる業界首位とオンライン化

日歩13銭への引き下げによる武富士の業界首位

1979年〜上限に張り付いた金利を自ら崩す

日歩28銭を13銭まで引き下げる

武富士は上限金利を、1978年初めの日歩28銭から1979年初めに19銭へ、1981年には13銭へと段階的に引き下げた。最大のサービスは金利の引き下げであり、今後も下げ続けると武井氏は述べている。1982年末時点の適用金利は年29.2%から41.975%の幅にあった。引き下げを続けるには企業体質の強化が要ると武井氏は語り、貸金業法案が成立すれば株式を上場するつもりで、すでに監査法人の監査を受け始めていた。上限に張り付いた価格を自ら崩す手は、原価を下げられる規模を持つ側にだけ効く。

  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [1]武富士は上限金利を昭和53年初めの日歩28銭から54年初めに19銭、1981年時点で13銭へ段階的に引き下げた
    • [2]武井保雄は最大のサービスは金利の引き下げであるとし、今後も引き下げていくと述べた
    • [4]武井保雄は金利引き下げのため企業体質の強化が不可欠とし、貸金業法案が成立すれば上場するつもりで監査法人による監査も受け始めたと述べた
  • 野田経済 1983年新年号
    • [3]武富士は徹底した金利引き下げ政策を取り、1982年末時点の金利は年29.2%〜41.975%であった
貸出残1,000億円で首位に立つ

8年間の伸びを並べると、金融機関の貸付残高が4.9倍にとどまるのに対し、消費者金融は33.4倍に膨らみ、日本銀行のレポートが、銀行はサラ金に学ぶべきだと書くほどだった。その先頭にいた武富士は、1981年6月末に貸出残高が1,000億円を突破し、二位以下を引き離した。伸びを生んだのは、法人融資に偏った金融機関が残した空白を、店舗網の拡大と金利の引き下げで埋めたことであった。武井氏自身は、急成長の理由を需要の大きさに尽きるとし、ある証券会社の会長から、経営者は世にいくらでもいるのに、なぜこれほど儲かる商売に手を出さないのかと言われた話を明かしている。この商売の要は人の扱いにあり、学歴で相手を下に見ず、その存在を受け止めてはじめて話が通じる、とも武井氏は語った。

  • 野田経済 1983年新年号
    • [5]8年間で金融機関の貸付残高が4.9倍に伸びたのに対し、消費者金融の貸付残高は33.4倍の成長を示した
    • [6]日本銀行のレポートが「銀行はサラ金に学べ」と提言した
    • [8]武富士は旺盛な多店舗展開と徹底した金利引き下げ政策を軸に、法人向けにばかり目を向ける金融機関の間隙を縫った
    • [9]武井保雄は急成長の原因をニーズの高さと述べ、証券会社の会長から「世間には経営者がいっぱいいるのに、何でこんな儲かる仕事をやらないのか不思議だ」と言われたと紹介した
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [7]武富士の貸出残高は1981年6月末に1,000億円を突破し、2位以下に水をあけた
    • [10]武井保雄は、この業界で成功する秘訣は人の使い方であり、学歴などで相手をさげすまず存在を認めれば対話の道ができると述べた
取り立てをやめても事故率は上がらない

無茶な取り立てを防ぐため、武富士は借り手に生命保険をかけ、死亡しても遺族へ返済を求めない扱いとした。米国の同業に倣って凍結管理法も導入し、返済不能に陥った相手には最低1年間、請求業務を行わないことにした。それでも1カ月以上の延滞は1.74%にとどまっている。甘すぎると弁護士から叱られたと武井氏は述べ、病気や失業は誰にでも起こると切り返した。企業の力は最終的に債権債務へ社員がどう対応するかで決まるとも語っている。回収を弱めて事故が増えないなら、取り立ての強さは回収の条件ではない。

  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [11]武富士は無茶な取り立ての防止のため借り手に生命保険をかけ、死亡しても遺族に返済要求をしない扱いとした
    • [12]武富士は米国の業界に倣って凍結管理法を導入し、返済不能な人には最低1年間は請求業務をしないこととした
    • [13]1981年時点で1カ月以上の延滞は1.74%であった
    • [14]武井保雄は弁護士から甘すぎると叱られたが、人間は生身の体で病気にも失業にもなると切り返したと述べた
  • 野田経済 1983年新年号
    • [15]武井保雄は、企業の力は最終的に債権債務に対して社員がどう対応していくかで決まると述べた
参考文献[1]-[15]
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [1]武富士は上限金利を昭和53年初めの日歩28銭から54年初めに19銭、1981年時点で13銭へ段階的に引き下げた
    • [2]武井保雄は最大のサービスは金利の引き下げであるとし、今後も引き下げていくと述べた
    • [4]武井保雄は金利引き下げのため企業体質の強化が不可欠とし、貸金業法案が成立すれば上場するつもりで監査法人による監査も受け始めたと述べた
    • [7]武富士の貸出残高は1981年6月末に1,000億円を突破し、2位以下に水をあけた
    • [10]武井保雄は、この業界で成功する秘訣は人の使い方であり、学歴などで相手をさげすまず存在を認めれば対話の道ができると述べた
    • [11]武富士は無茶な取り立ての防止のため借り手に生命保険をかけ、死亡しても遺族に返済要求をしない扱いとした
    • [12]武富士は米国の業界に倣って凍結管理法を導入し、返済不能な人には最低1年間は請求業務をしないこととした
    • [13]1981年時点で1カ月以上の延滞は1.74%であった
    • [14]武井保雄は弁護士から甘すぎると叱られたが、人間は生身の体で病気にも失業にもなると切り返したと述べた
  • 野田経済 1983年新年号
    • [3]武富士は徹底した金利引き下げ政策を取り、1982年末時点の金利は年29.2%〜41.975%であった
    • [5]8年間で金融機関の貸付残高が4.9倍に伸びたのに対し、消費者金融の貸付残高は33.4倍の成長を示した
    • [6]日本銀行のレポートが「銀行はサラ金に学べ」と提言した
    • [8]武富士は旺盛な多店舗展開と徹底した金利引き下げ政策を軸に、法人向けにばかり目を向ける金融機関の間隙を縫った
    • [9]武井保雄は急成長の原因をニーズの高さと述べ、証券会社の会長から「世間には経営者がいっぱいいるのに、何でこんな儲かる仕事をやらないのか不思議だ」と言われたと紹介した
    • [15]武井保雄は、企業の力は最終的に債権債務に対して社員がどう対応していくかで決まると述べた

1980年〜外部から招いた社長二代

たたき上げの社に参謀を入れる

武井氏によれば、社内には現場で鍛えられた人間しかおらず、参謀を務められる者が足りなかった。そこで1980年末に大蔵省出身の課長を副社長に招いている。1981年には住友銀行常務から住友クレジット社長を経た秋葉節一氏を社長に据えて武井氏は会長へ退いたが、都市銀行の役員が消費者金融に移る前例はそれまでなく、当時の都銀役員はそろって驚いたという。もっとも、その勇気を揶揄する響きも交じっており、長くはもつまいというのが都銀側の一致した見方であった。株式上場と貸金業法への対応を控え、武富士は制度の側の言葉を話せる人材を外から買った。武井氏自身も、いずれは住宅金融やクレジットへ進出して総合信販業者へ脱皮したいと語っていた。

  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [16]武井保雄は副社長招聘の理由について、社内はたたき上げの仕事師ばかりで参謀役などの人材が不足していたためと述べた
    • [17]武富士は1980年末に元大蔵省課長を副社長に迎え入れた
    • [21]武井保雄はいずれ住宅金融やクレジットに進出して総合信販業者へ脱皮したいと述べた
  • 銀行時評 1984年「人心収攬、モラルアップを図った武富士社長人事の舞台裏」
    • [18]秋葉節一は住友銀行常務・住友クレジット社長を経て武富士社長に就任し、武井保雄は代表取締役会長となった
    • [19]秋葉節一が消費者金融業界へ転身したとき、都市銀行の役員は一様に驚いた
    • [20]秋葉節一の転身は多少の揶揄を込めて受け止められ、長くはもつまいというのが都市銀行側の一致した見方であった
カード事業に数十億円を投じる

秋葉氏は消費者金融を、銀行・証券・生保に続く金融界の第四勢力と位置づけた。米国では小口無担保ローンの比重が1970年の65%から1982年の26.9%へ落ちており、日本の業者も無担保ローンだけに頼れば同じ道を踏むとみていた。次の商材として挙げたのが、リボルビング方式のクレジットカードと不動産担保の大型ローンである。米国のリボルビングクレジットは1975年から1981年まで残高ベースで年平均31.3%伸びており、その実績が根拠になっていた。この構想のもとで開発されたマネー・エクスプレス・カードに、武富士は数十億円を投じた。しかし想定を大きく下回る不振に終わり、投じた資金を回収する見込みは立たなくなった。

  • 野田経済 1984年新年号
    • [22]秋葉節一はサラリーマン金融・カード・信販を一括した消費者金融産業を、銀行・証券・生保に続く金融界の第四勢力と位置づけた
    • [23]米国の消費者金融会社の新規信用供与額に占める個人ローンの比率は1970年の65%から1982年に26.9%へ低下し、秋葉節一は日本の業者が無担保ローンに頼れば同じ道を踏むと述べた
    • [24]秋葉節一は新しい方向としてリボルビング方式のクレジットカードとセカンド・モーゲージローンの拡大を挙げた
    • [25]米国のリボルビングクレジットは1975年から1981年まで残高ベースで年平均31.3%の伸びを示した
  • 銀行時評 1984年「人心収攬、モラルアップを図った武富士社長人事の舞台裏」
    • [26]武富士は秋葉節一が開発したマネー・エクスプレス・カードに数十億円を投資した
    • [27]マネー・エクスプレス・カードは想像以上の不振となり、元手を回収する望みは全くないと評された
315億円を償却して体制を組み直す

武富士は1983年11月期決算で315億円の貸倒償却を実施した。同年末に秋葉氏は武井会長との意見の不一致を理由に辞意を表明し、役員会に諮らないまま報道機関へ辞任を発表する。在任は2年半であった。武井会長は動揺した人心を早く収めるため後任人事を急ぎ、大蔵省から北海道開発庁へ転じて事務次官を務めた秋吉良雄氏を1984年1月中旬に内定した。秋吉氏は武井会長から全権を委任され、クリーンな消費者金融とクリーンな経営を任務に掲げた。取引銀行の側は、荷物になっていたカード部門が無くなることで体力が強まり、融資先としての利点はむしろ増すとみていた。経営の刷新は、外から招いた社長を外から招いた社長で置き換える形で進んだ。

  • 銀行時評 1984年「人心収攬、モラルアップを図った武富士社長人事の舞台裏」
    • [28]武富士は昭和58年11月決算で315億円の貸倒償却を行った
    • [29]秋葉節一は武井保雄会長との意見の不一致を辞任の理由に挙げ、役員会に諮らず独断でマスコミを通じて辞任を発表した
    • [30]秋葉節一の武富士社長在任は2年半であった
    • [32]秋吉良雄は武井保雄会長から全権を委任され、クリーンな消費者金融・クリーンな経営を目指すことが任務だと述べた
    • [33]銀行筋は、お荷物のカード部門が無くなるため武富士の体力は強くなり、融資先としてのメリットが増すと判断した
  • 実業往来 1984年
    • [31]武井保雄会長は後任社長人事を急ぎ、大蔵省から北海道開発庁に転じ事務次官を務めた秋吉良雄を1984年1月中旬に内定した
参考文献[16]-[33]
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [16]武井保雄は副社長招聘の理由について、社内はたたき上げの仕事師ばかりで参謀役などの人材が不足していたためと述べた
    • [17]武富士は1980年末に元大蔵省課長を副社長に迎え入れた
    • [21]武井保雄はいずれ住宅金融やクレジットに進出して総合信販業者へ脱皮したいと述べた
  • 銀行時評 1984年「人心収攬、モラルアップを図った武富士社長人事の舞台裏」
    • [18]秋葉節一は住友銀行常務・住友クレジット社長を経て武富士社長に就任し、武井保雄は代表取締役会長となった
    • [19]秋葉節一が消費者金融業界へ転身したとき、都市銀行の役員は一様に驚いた
    • [20]秋葉節一の転身は多少の揶揄を込めて受け止められ、長くはもつまいというのが都市銀行側の一致した見方であった
    • [26]武富士は秋葉節一が開発したマネー・エクスプレス・カードに数十億円を投資した
    • [27]マネー・エクスプレス・カードは想像以上の不振となり、元手を回収する望みは全くないと評された
    • [28]武富士は昭和58年11月決算で315億円の貸倒償却を行った
    • [29]秋葉節一は武井保雄会長との意見の不一致を辞任の理由に挙げ、役員会に諮らず独断でマスコミを通じて辞任を発表した
    • [30]秋葉節一の武富士社長在任は2年半であった
    • [32]秋吉良雄は武井保雄会長から全権を委任され、クリーンな消費者金融・クリーンな経営を目指すことが任務だと述べた
    • [33]銀行筋は、お荷物のカード部門が無くなるため武富士の体力は強くなり、融資先としてのメリットが増すと判断した
  • 野田経済 1984年新年号
    • [22]秋葉節一はサラリーマン金融・カード・信販を一括した消費者金融産業を、銀行・証券・生保に続く金融界の第四勢力と位置づけた
    • [23]米国の消費者金融会社の新規信用供与額に占める個人ローンの比率は1970年の65%から1982年に26.9%へ低下し、秋葉節一は日本の業者が無担保ローンに頼れば同じ道を踏むと述べた
    • [24]秋葉節一は新しい方向としてリボルビング方式のクレジットカードとセカンド・モーゲージローンの拡大を挙げた
    • [25]米国のリボルビングクレジットは1975年から1981年まで残高ベースで年平均31.3%の伸びを示した
  • 実業往来 1984年
    • [31]武井保雄会長は後任社長人事を急ぎ、大蔵省から北海道開発庁に転じ事務次官を務めた秋吉良雄を1984年1月中旬に内定した

1983年〜登録制のもとで装置へ移行する

届出制から登録制へ移る

1983年11月、貸金業の規制等に関する法律と出資法の改正法が施行され、消費者金融は法的に認知された。武富士は同年12月に貸金業者として登録している。法律の成立を見込んだ2年間は過当競争となり、大手四社の店舗数は1983年7月末で1,936か所、1日に2店が開く勢いで増えた。競争は貸付基準の緩和と一件あたりの大口化、切り替え追加貸付の勧誘によって進められ、結果として過剰融資が残った。延滞債権を押さえ込み、増やしすぎた店舗の贅肉を落とすことが1984年の課題だと秋葉氏は述べている。大手四社といっても相撲でいえばせいぜい前頭であり、四社といえども安全運転とはいえないとも語った。

  • 野田経済 1984年新年号
    • [34]1983年11月から貸金業の規制等に関する法律と出資法の一部改正法が施行され、消費者金融は法的に認知された
    • [36]大手四社(武富士・アコム・プロミス・レイク)の店舗数は1983年7月末で1,936店に達し、1日2店舗が出店する勢いであった
    • [37]過当競争は貸付基準の大幅な緩和・一件当たり貸付の大口化・切り替え追加貸付の積極勧誘によって行われ、結果として過剰融資が残った
    • [38]秋葉節一は延滞債権の押さえ込みと店舗の贅肉を落とすことが1984年の課題であり、それをやらない会社は規模を問わず脱落すると述べた
    • [39]秋葉節一は、大手四社といっても相撲でいえばせいぜい前頭であり、四社といえども必ずしも安全運転とはいえないと述べた
  • 武富士 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1983年12月 貸金業の規制等に関する法律により貸金業者として登録
店の人手を機械へ置き換える

1983年11月、武富士は全国支店網を結ぶオンラインシステムを稼働させた。1985年8月にはATMシステムが動き出し、設置台数は48台であった。1988年1月には第2次オンラインシステムへ切り替えている。武富士は創業以来の経営理念に効率経営を掲げ、その中身を自動契約型無人店舗の増設とCD・ATM提携の拡大と説明した。無担保・無保証の小口金融という性格から、客の厭がることをしないことと社員の働き甲斐を第一に社内システムを組んできたとも述べている。店舗を増やす競争が過剰融資を残した後で、武富士が積んだのは人の数ではなく機械であった。1976年のコンピュータ導入から続く系列が、ここで全店を結ぶ網になった。

  • 武富士 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1983年11月 全国支店網オンラインシステムが稼働
    • [41]1985年8月 ATMシステムが稼働(設置台数48台)
    • [42]1988年1月 第2次オンラインシステムが稼働
    • [45]1976年1月 店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入
  • 証券 1999年51巻2号
    • [43]武富士は効率経営の観点から自動契約型無人店舗の増設とCD・ATM提携の拡大を推進した
    • [44]武富士は無担保・無保証の小口金融という性格上、第一に客の厭がることをせず、常に社員の働き甲斐を考えて社内システムを構築してきたと表明した
上限金利から離れた商品を並べる

1989年8月、武富士は年利13.5%から17.5%の低金利無担保の目的ローンを7種類発売した。1978年の業界慣行であった日歩28銭に比べれば、はるかに低い価格帯である。使途を限った商品を上限金利から離れた水準で並べる手は、無担保の小口ローン一本に頼る構造から抜ける試みにあたる。小口無担保ローンだけに依存すれば米国の消費者金融と同じ成熟の道をたどるという見方は、すでに1984年の時点で社の側から示されていた。通商産業省の消費者信用産業調査研究会は1985年の消費者信用新規供与額を28兆円と見込み、日本長期信用銀行は30兆円と予測しており、市場そのものは伸びるとみられていた。この10年、武富士が動かしたのは店の数ではなく、価格と商品の並べ方であった。

  • 武富士 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1989年8月 低金利無担保の目的ローンを7種類(年利13.5%〜17.5%)発売
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [47]1978年初めの武富士の上限金利は日歩28銭であった
  • 野田経済 1984年新年号
    • [48]秋葉節一は、小口・無担保・使途自由のパーソナルローンは成長の限界が表面化しており、それだけに頼れば米国の道を踏むと述べた
    • [49]通商産業省の消費者信用産業調査研究会の中間答申は昭和60年の消費者信用新規供与額を28兆円と見込み、日本長期信用銀行の調査は昭和60年に30兆円と予測した
  • 野田経済 1983年新年号
    • [50]武富士は上限金利を日歩28銭から13銭へ段階的に引き下げ、1982年末の適用金利は年29.2%〜41.975%であった
参考文献[34]-[50]
  • 野田経済 1984年新年号
    • [34]1983年11月から貸金業の規制等に関する法律と出資法の一部改正法が施行され、消費者金融は法的に認知された
    • [36]大手四社(武富士・アコム・プロミス・レイク)の店舗数は1983年7月末で1,936店に達し、1日2店舗が出店する勢いであった
    • [37]過当競争は貸付基準の大幅な緩和・一件当たり貸付の大口化・切り替え追加貸付の積極勧誘によって行われ、結果として過剰融資が残った
    • [38]秋葉節一は延滞債権の押さえ込みと店舗の贅肉を落とすことが1984年の課題であり、それをやらない会社は規模を問わず脱落すると述べた
    • [39]秋葉節一は、大手四社といっても相撲でいえばせいぜい前頭であり、四社といえども必ずしも安全運転とはいえないと述べた
    • [48]秋葉節一は、小口・無担保・使途自由のパーソナルローンは成長の限界が表面化しており、それだけに頼れば米国の道を踏むと述べた
    • [49]通商産業省の消費者信用産業調査研究会の中間答申は昭和60年の消費者信用新規供与額を28兆円と見込み、日本長期信用銀行の調査は昭和60年に30兆円と予測した
  • 武富士 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1983年12月 貸金業の規制等に関する法律により貸金業者として登録
    • [40]1983年11月 全国支店網オンラインシステムが稼働
    • [41]1985年8月 ATMシステムが稼働(設置台数48台)
    • [42]1988年1月 第2次オンラインシステムが稼働
    • [45]1976年1月 店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入
    • [46]1989年8月 低金利無担保の目的ローンを7種類(年利13.5%〜17.5%)発売
  • 証券 1999年51巻2号
    • [43]武富士は効率経営の観点から自動契約型無人店舗の増設とCD・ATM提携の拡大を推進した
    • [44]武富士は無担保・無保証の小口金融という性格上、第一に客の厭がることをせず、常に社員の働き甲斐を考えて社内システムを構築してきたと表明した
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [47]1978年初めの武富士の上限金利は日歩28銭であった
  • 野田経済 1983年新年号
    • [50]武富士は上限金利を日歩28銭から13銭へ段階的に引き下げ、1982年末の適用金利は年29.2%〜41.975%であった

筆者考察

武富士が1979年から1981年にかけて上限金利を日歩19銭、13銭と下げたのは、値引きではなく参入の障壁を設ける手である。届出制で誰でも開ける市場では、金利の差は業者ごとの原価の差にほかならない。上限に張り付いたままの中小業者は、同じ客に同じ値段でしか貸せない。1981年6月末に貸出残高が1,000億円を超えて二位以下を引き離したのは、店舗の数と価格の両方を同時に動かせる側へ客が寄ったからである。取り立てを弱めても1カ月以上の延滞は1.74%にとどまり、凍結管理法と生命保険で回収の作法を変えても事故は増えなかった。強い取り立ては、回収の条件ではなかった。

武井保雄氏が外から招いた社長は、二代続けて金融の中枢から来た人物である。1981年の秋葉節一氏は住友銀行常務と住友クレジット社長を務め、1984年の秋吉良雄氏は大蔵省から北海道開発庁事務次官へ進んだ官僚だった。招いた狙いは株式上場と貸金業法への対応にあり、社内がたたき上げの営業ばかりで制度の言葉を話せる者がいなかったからである。ただし秋葉氏がマネー・エクスプレス・カードへ投じた数十億円は回収できず、1983年11月期の315億円の貸倒償却と重なって在任は2年半で終わる。後任の秋吉氏が全権を委任されて掲げたのもクリーンな経営という看板であり、商品の設計ではなかった。外から買えたのは制度への接続であって、次の商材ではない。

上限金利の引き下げ 日歩の推移(銭)

19 1979 13 1981
  • 武井保雄が1981年の取材で示した上限金利の推移。1978年初めの日歩28銭から、1979年初めに19銭、1981年に13銭へ段階的に引き下げた。
  • 出所は日経ビジネス 1981年8月24日号「武井保雄・武富士社長」。

出典・参考

7件
出典・参考
  • 武富士 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
  • 証券 1999年51巻2号
  • 野田経済 1983年新年号
  • 銀行時評 1984年「人心収攬、モラルアップを図った武富士社長人事の舞台裏」
  • 野田経済 1984年新年号
  • 実業往来 1984年

免責事項およびポリシー