武富士:武井保雄の個人向け貸出開始と武富士への改称
団地金融から武富士商事への事業化
1966年〜板橋区で始めた担保も保証人も取らない貸付
武井保雄氏は1930年1月に埼玉県深谷市で生まれ、1948年に深谷商業高校を卒業した。父と兄を早くに亡くして家業の酒屋兼雑貨商を継ぎ、のちに手形割引の会社へ勤めている。戦後は無一文で単身上京し、自分の会社を興すまでのあいだに数度の危機を借金で切り抜けた。1966年1月、武井氏は東京都板橋区で個人向け金融の貸出業務を始めた。屋号は富士クレジットといい、これが武富士の起点にあたる。当時の金融機関は法人向けの融資に目を向けており、担保も保証人も持たない個人の資金需要はその外側に残っていた。金策に追われた側の経験が、そのまま貸す側の判断材料になった。
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [1]武井保雄は昭和5年1月に深谷市で生まれ、昭和23年に深谷商業高校を卒業した
- [2]武井保雄は父と兄を早く亡くして家業の酒屋兼雑貨商を引き継ぎ、その後手形割引の会社に勤めた
- [5]武井保雄は昭和41年に富士クレジットを創業して社長となった
- 実業の世界 1978年
- [3]武井保雄は戦後に無一文で単身上京し、昭和41年に会社を設立するまでの間、数度にわたる危機を借金によって脱出した
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- [4]1966年1月 武井保雄が個人向け金融の貸出業務を開始(東京都板橋区)
- 野田経済 1983年新年号
- [6]武富士は法人向けにばかり目を向ける金融機関の間隙を縫い、大衆のニーズに密着した方針を進めた
武富士が最初に相手にしたのは、団地に住む家庭であった。当時の消費者金融は団地金融と呼ばれ、サラリーマンを対象とする貸付へ広がるまでには15年ほどの時間がかかっている。借り手の多くは主婦で、使途は子どもの学費や不時の出費といった家計の穴だった。武井氏は、高校卒業を控えた子を持つ客に対し、これ以上借りずに頑張るよう助言して感謝されたことを振り返っている。夫の借金で窮した妻とは返済計画を作り、完済後に礼を言われたという。父親の病気を理由に大学生から頼み込まれ、違法と承知で貸したこともあり、快復した親子は揃って返済に訪れた。担保を取らない貸付では、借り手の家計そのものが審査の対象になる。
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [7]武井保雄は昭和40年代前半を団地金融時代と呼び、当時の顧客との応対を回想している
- [9]武富士は不時の出費をまかなう生活密着産業であると武井保雄は位置づけた
- [10]武井保雄は子どもの高校卒業を控えた客に、もう少し借りないで頑張るよう助言して感謝されたと述べた
- [11]武井保雄は夫の借金で泣きつかれた妻と話し合って返済計画を作成し、後で礼を言われたと述べた
- [12]武井保雄は、父親が病気だからと頼み込んだ大学生に違法は承知の上で貸し、快復後に両親ともども返済に来たと述べた
- 実業の世界 1978年
- [8]サラリーローンは団地族向けの団地金融から出発し、サラリーマン金融と称されるに至るまで15年ほどの歴史である
武井氏は後年、この商売は信用が第一であり、資金さえあれば誰にでもできる仕事ではないと述べている。借金を申し込む客は一種の劣等感を抱えて店へ来るため、来店した客は大きな声で迎えるよう社員に求めた。返済が滞った相手を追い回しても経費がかさむばかりで、追い込めば立ち直る機会まで奪うことになる。金を貸して利息を取ることだけが金融業に携わる者の仕事ではなく、金銭問題の助言者になることが本来の姿だとも語った『金融業は資金さえあれば誰にでもできる。しかし、金を貸し利息をとることだけが金融業に携わる人間のする仕事ではないはずだ』。独立した当初、客に丁寧に頭を下げて礼を述べる武井氏は、その態度では貸金を踏み倒されると同業者から馬鹿にされたという。無担保・無保証で貸す商いが元手にしたのは、資本でも情報でもなく借り手との関係であった。
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [13]武井保雄はこの商売は信用が第一であると述べた
- [15]武井保雄は、いたずらに追い回しても経費がかさむだけであり、その人を窮地に追い込むことになりかねないと述べた
- [16]独立した当初、丁寧に客へ頭を下げて礼を述べる武井保雄は、その態度ではなめられて貸金を踏み倒されると同業者から馬鹿にされた
- 野田経済 1983年新年号
- [14]武井保雄は、客は借金について一種の劣等感をもって来るのだから「いらっしゃいませ」と大きな声で迎えるよう社員に求めた
参考文献[1]-[16]
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [1]武井保雄は昭和5年1月に深谷市で生まれ、昭和23年に深谷商業高校を卒業した
- [2]武井保雄は父と兄を早く亡くして家業の酒屋兼雑貨商を引き継ぎ、その後手形割引の会社に勤めた
- [5]武井保雄は昭和41年に富士クレジットを創業して社長となった
- [7]武井保雄は昭和40年代前半を団地金融時代と呼び、当時の顧客との応対を回想している
- [9]武富士は不時の出費をまかなう生活密着産業であると武井保雄は位置づけた
- [10]武井保雄は子どもの高校卒業を控えた客に、もう少し借りないで頑張るよう助言して感謝されたと述べた
- [11]武井保雄は夫の借金で泣きつかれた妻と話し合って返済計画を作成し、後で礼を言われたと述べた
- [12]武井保雄は、父親が病気だからと頼み込んだ大学生に違法は承知の上で貸し、快復後に両親ともども返済に来たと述べた
- [13]武井保雄はこの商売は信用が第一であると述べた
- [15]武井保雄は、いたずらに追い回しても経費がかさむだけであり、その人を窮地に追い込むことになりかねないと述べた
- [16]独立した当初、丁寧に客へ頭を下げて礼を述べる武井保雄は、その態度ではなめられて貸金を踏み倒されると同業者から馬鹿にされた
- 実業の世界 1978年
- [3]武井保雄は戦後に無一文で単身上京し、昭和41年に会社を設立するまでの間、数度にわたる危機を借金によって脱出した
- [8]サラリーローンは団地族向けの団地金融から出発し、サラリーマン金融と称されるに至るまで15年ほどの歴史である
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- [4]1966年1月 武井保雄が個人向け金融の貸出業務を開始(東京都板橋区)
- 野田経済 1983年新年号
- [6]武富士は法人向けにばかり目を向ける金融機関の間隙を縫い、大衆のニーズに密着した方針を進めた
- [14]武井保雄は、客は借金について一種の劣等感をもって来るのだから「いらっしゃいませ」と大きな声で迎えるよう社員に求めた
1968年〜個人の貸金から決算を備えた会社へ
1968年6月、武井氏は武富士商事を設立した。1966年の創業時に名乗った富士クレジットから商号を改めたものである。1974年11月には武富士商事を株式会社へ組織変更し、翌12月に商号を武富士へ改めた。創業から八年のあいだに、屋号は三度替わったことになる。個人が現金を手渡す貸金であっても、規模が増せば貸す金を先に調達しなければならない。1978年の時点で、大手中小を問わず業者は金融機関から融資を受けていると武井氏は述べており、会社の形を整える作業は、貸す相手を増やす前に借りる相手を作る作業でもあった。
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- [17]1968年6月 武富士商事を設立
- [19]1974年11月 武富士商事を株式会社に組織変更
- [20]1974年12月 武富士に社名を変更
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [18]武井保雄は昭和41年に富士クレジットを創業し、43年に武富士商事へ社名を変更した
- 実業の世界 1978年
- [21]武井保雄は、これだけニーズがあれば必然的に資金量は増え、大手中小を問わずある程度は金融機関から融資を受けているだろうと述べた
1976年1月、武富士は店内業務の効率化のためコンピュータを導入した。無担保・無保証の小口金融は一件あたりの金額が小さく、件数を積んで収益を作る商売であり、書類と記憶で回せる量には限りがある。武富士は1998年の株式上場にあたり、創業以来の経営理念として「お客様第一主義」と「効率経営」の二つを挙げている。効率経営の中身として示されたのは、自動契約型無人店舗の増設とCD・ATM提携の拡大であった。人件費は収入の10%にも満たないと武井氏は語り、社員にはもっと払いたいと述べている。1976年の機械化は、後年まで続く効率経営という系列の最初の一歩にあたる。
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- [22]1976年1月 店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入
- 証券 1999年51巻2号
- [23]武富士は創業以来「お客様第一主義」と「効率経営」を経営理念としてきたと、平成10年12月の上場にあたり表明した
- [24]武富士は効率経営の観点から、自動契約型無人店舗の増設とCD・ATM提携の拡大を推進した
- 実業の世界 1978年
- [25]武井保雄は人件費が収入の10%にもならないと述べ、まだまだ社員に払いたいと語った
武井氏は、努力と才能を備えた者なら店長にも幹部にも取り立てると語り、学歴や性別で差をつけない昇進の仕組みを作った。女性社員のなかには入社数年で支店長や管理職になった者もいる。社是は誠意・礼儀・厳しさに若さと明るさを加えた価値を土台に据え、そのうえで社員教育を徹底し、業務の専門家を育てることをうたった。社内外で武富士精神として唱えられた三項目は、仕事に対しては厳しく人に対しては愛情をもつこと、商人の道を貫くこと、夢と希望を日本国民に与えること、である。接客の訓練はお辞儀の仕方や言葉遣いから始め、「少々お待ち下さい」がおのずと口をついて出るまで繰り返させた。店の数で稼ぐ商売では、店長の供給が出店の速度を決める。
- 実業の世界 1978年
- [26]武井保雄は、努力と才能さえあればどんどん店長にも幹部にも登用されると述べた
- [29]武富士の社是は、若さと明るさと誠意と礼儀と厳しさを基盤とし、社員教育の徹底と仕事のエキスパートの養成拡充を誇りとすると定めていた
- [30]武富士精神として「仕事には厳しく、人には愛情を」「商人道に徹せよ」「日本国民に夢と希望を与えん」の三項目を社内外に唱えていた
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [27]武井保雄は学歴も性別も関係のない昇進制度にしたと述べた
- [28]武富士には入社数年の女性の管理職や支店長がいた
- [31]武富士は接客についてお辞儀の仕方や言葉遣いから教育し、「少々お待ち下さい」が自然に口から出るまで練習させた
参考文献[17]-[31]
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- [17]1968年6月 武富士商事を設立
- [19]1974年11月 武富士商事を株式会社に組織変更
- [20]1974年12月 武富士に社名を変更
- [22]1976年1月 店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [18]武井保雄は昭和41年に富士クレジットを創業し、43年に武富士商事へ社名を変更した
- [27]武井保雄は学歴も性別も関係のない昇進制度にしたと述べた
- [28]武富士には入社数年の女性の管理職や支店長がいた
- [31]武富士は接客についてお辞儀の仕方や言葉遣いから教育し、「少々お待ち下さい」が自然に口から出るまで練習させた
- 実業の世界 1978年
- [21]武井保雄は、これだけニーズがあれば必然的に資金量は増え、大手中小を問わずある程度は金融機関から融資を受けているだろうと述べた
- [25]武井保雄は人件費が収入の10%にもならないと述べ、まだまだ社員に払いたいと語った
- [26]武井保雄は、努力と才能さえあればどんどん店長にも幹部にも登用されると述べた
- [29]武富士の社是は、若さと明るさと誠意と礼儀と厳しさを基盤とし、社員教育の徹底と仕事のエキスパートの養成拡充を誇りとすると定めていた
- [30]武富士精神として「仕事には厳しく、人には愛情を」「商人道に徹せよ」「日本国民に夢と希望を与えん」の三項目を社内外に唱えていた
- 証券 1999年51巻2号
- [23]武富士は創業以来「お客様第一主義」と「効率経営」を経営理念としてきたと、平成10年12月の上場にあたり表明した
- [24]武富士は効率経営の観点から、自動契約型無人店舗の増設とCD・ATM提携の拡大を推進した
1977年〜全国一巡と、批判の的になった業界
1977年2月、武富士は創業から11年で全国の主要地方を一巡した。同年12月にはユタカ、ヤマトローンサービス、東宝ローンサービスの三社を吸収合併している。1978年時点の店舗数は57、従業員は400名であった。当時のサラリーローン業界には約15万軒の事業所があり、その大半は中小業者で、大手四社と呼ばれる中の三位が武富士だった。当面の店舗展開の目標について、武井氏は300店と答えている。店ごとの収益は地域の産業や住民の気質によって差が出るため、その気質に合う店長を送り込むという配置を取った。一巡したのは地図の上であって、網の密度はこれから作るものであった。
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- [32]1977年2月 創業から11年で全国の主要地方を一巡
- [33]1977年12月 ユタカ・ヤマトローンサービス・東宝ローンサービスを吸収合併
- 実業の世界 1978年
- [34]1978年時点の武富士は店舗数57店、従業員数400名であった
- [35]サラリーローン業界は約15万軒の事業所があり中小業者が大半で、大手四社といわれる中で武富士は三位であった
- [36]武井保雄は当面の店舗展開の目標を300店と答えた
- [37]武井保雄は、収益は地域の産業やそこに住む人の気質によって異なるため、その気質に合った店長を送り込んでいると述べた
1978年の武富士は、貸出残60億円、利息収入46億円、経常利益24億円、税引後利益9億5000万円を計上した。当時の消費者金融の上限は日歩28銭であり、武井氏はその金利にあぐらをかいてはいけないと述べ、企業努力を怠る中小業者を怠慢と批判している。人件費が収益の20%以上に達している業者があることも問題視した。外国資本や都市銀行の参入については、業界のイメージが良くなるとして歓迎し、金利面で数年先には競争優位に立つと語った。上限金利を守るのではなく下げにいくという構えは、原価を下げられる規模を持つ側にだけ許される。
- 実業の世界 1978年
- [38]1978年の武富士は貸出残60億円、利息収入46億円、経常利益24億円、税引き後利益9億5千万円であった
- [39]武井保雄は、中小業者は企業努力をしておらず怠慢であり、一般大衆を相手に日歩28銭の上にあぐらをかいてはいけないと述べた
- [40]武井保雄は、中小業者は人件費が収益の20%以上になっていると指摘した
- [41]武井保雄は外国資本の日本アブコや都市銀行の業界参入を大歓迎とし、金利面で一、二年は負けるかもしれないが数年先には勝利すると述べた
1978年2月、武富士はキャッチフレーズを「円ショップ武富士」に切り替えた。サラリーローンという呼び名の印象が悪く、円は縁に通じて語感も良いというのが武井氏の説明である。当時の貸金業は届出制で誰でも開業でき、小金を貯めた転職者や元質屋、町の高利貸し、さらに暴力団までが参入して乱立していた。取り立てをめぐる紛争を起こす業者も現れ、業者側は日本消費者金融協会を作って回収業務の改善と金利引き下げに取り組んだ。同じ時期、業界はマスコミの集中的な批判にさらされ、武井氏は社員とその家族が不憫だったことを最もつらい思いとして挙げている。名乗りを替えても、業界の評判は個々の店の作法でしか動かない。
- 実業の世界 1978年
- [42]武富士は1978年2月27日からキャッチフレーズを「円ショップ武富士」に変えた
- [43]武井保雄は、サラリーローンのイメージが良くないため転換を図ったもので、円は縁にもつながり丸いというイメージで語呂も良いと述べた
- [44]サラリーローン業界は届出制で誰でも開業でき、転職者・退職者・元質屋・町の高利貸し・暴力団までが参入して乱立気味であった
- [45]業者は悪質業者と一線を画すため日本消費者金融協会(JCFA)を作り、回収業務の改善や利息の引き下げなど業界の体質改善に取り組んだ
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [46]武井保雄は、昭和53年頃にマスコミから業界が集中砲火を浴びたときが最もつらく、社員や家族が可哀想だったと述べた
参考文献[32]-[46]
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- [32]1977年2月 創業から11年で全国の主要地方を一巡
- [33]1977年12月 ユタカ・ヤマトローンサービス・東宝ローンサービスを吸収合併
- 実業の世界 1978年
- [34]1978年時点の武富士は店舗数57店、従業員数400名であった
- [35]サラリーローン業界は約15万軒の事業所があり中小業者が大半で、大手四社といわれる中で武富士は三位であった
- [36]武井保雄は当面の店舗展開の目標を300店と答えた
- [37]武井保雄は、収益は地域の産業やそこに住む人の気質によって異なるため、その気質に合った店長を送り込んでいると述べた
- [38]1978年の武富士は貸出残60億円、利息収入46億円、経常利益24億円、税引き後利益9億5千万円であった
- [39]武井保雄は、中小業者は企業努力をしておらず怠慢であり、一般大衆を相手に日歩28銭の上にあぐらをかいてはいけないと述べた
- [40]武井保雄は、中小業者は人件費が収益の20%以上になっていると指摘した
- [41]武井保雄は外国資本の日本アブコや都市銀行の業界参入を大歓迎とし、金利面で一、二年は負けるかもしれないが数年先には勝利すると述べた
- [42]武富士は1978年2月27日からキャッチフレーズを「円ショップ武富士」に変えた
- [43]武井保雄は、サラリーローンのイメージが良くないため転換を図ったもので、円は縁にもつながり丸いというイメージで語呂も良いと述べた
- [44]サラリーローン業界は届出制で誰でも開業でき、転職者・退職者・元質屋・町の高利貸し・暴力団までが参入して乱立気味であった
- [45]業者は悪質業者と一線を画すため日本消費者金融協会(JCFA)を作り、回収業務の改善や利息の引き下げなど業界の体質改善に取り組んだ
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [46]武井保雄は、昭和53年頃にマスコミから業界が集中砲火を浴びたときが最もつらく、社員や家族が可哀想だったと述べた
筆者考察
武井保雄氏が1966年に東京都板橋区で始めた貸金は、担保も保証人も取らない代わりに、借り手の家計そのものを審査の対象にする商いだった。団地の主婦へ生活費を貸すという形は、金融機関が法人向け融資に向いていた時期に残された空白にあたる。深谷の酒屋を継ぎ、手形割引の勤めを経て無一文で上京した武井氏は、危機を借金で切り抜けた側の経験を持っていた。借りる側の事情を知る者が貸す側へ回ると、回収の可否は担保の有無ではなく相手の暮らしぶりで決まると分かる。富士クレジット、武富士商事、武富士と8年で三度替えた屋号は、個人の貸金を会社の形へ押し上げる過程の目盛りである。1976年に店内へコンピュータを入れ、貸付の記録を人の手から外す作業もこの時期に始まった。
1978年の武富士は貸出残60億円に対し経常利益24億円を計上し、57店と従業員400名で業界三位に付けていた。それでも武井氏が槍玉に挙げたのは、日歩28銭という上限に張り付いたまま企業努力をしない中小業者である。届出制の業界には15万軒の事業所がひしめき、取り立ての紛争が業界全体の評判を決めていた。乱立した市場で価格を下げれば、下げられない業者から客が移る。同じ年の2月に看板を「円ショップ武富士」へ替えたのも、サラリーローンという呼び名を避けるためだった。1977年に全国の主要地方を一巡し、同年12月には同業3社を吸収したものの、57店という密度では網と呼べる状態になかった。名前も価格も、武富士にとっては同じ問題の裏表である。
出典・参考
5件
- 武富士 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- 証券 1999年51巻2号
- 実業の世界 1978年
- 野田経済 1983年新年号