高島屋:古着・木綿商「髙島屋」の創業と呉服商への転換
1831年〜烏丸松原の借家で開いた古着・木綿の小店と、四綱領の店規
1831年(天保2年)正月10日、初代飯田新七氏は京都烏丸松原上ル西側の借家で古着と木綿の店「高島屋」を開業した。初代飯田新七氏は越前国敦賀の中野宗兵衛家の出身で、幼名を鉄次郎といった。1814年に12歳で京都へ出て、大丸をはじめとする呉服商で十余年奉公した。1828年には26歳で高島屋の屋号を持つ米穀商、飯田儀兵衛氏の長女秀の婿養子となり、翌1829年2月に分家して本家と同じ屋号を掲げた。本家からの資金援助はなく、元手は奉公中に蓄えた銀2貫500匁のみ。会社銀行八十年史も、天保2年に飯田新七氏が古着と木綿の商いを始めた時点を高島屋の起点に置く。屋号と奉公で培った品の目利きが、乏しい元手を補ったとみられる。
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第一 初代創業時代」
- [1]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [2]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [3]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [4]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [5]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [6]天保2年に飯田新七が京都で「高島屋」の屋号で古着・木綿商を始めたのが創業
古着と木綿の店「高島屋」を開業した1831年の正月、初代飯田新七氏は値段の符牒と4か条の店規「四綱領」を定めた。この年はお蔭参りが最も盛んな吉年で、符牒には店規とともにその記念が込められた。第一義は確かな品を安く売り、店と客の双方の利益を図ることだった。続けて正札で売って掛け値をしないこと、品の良否を偽りなく客に告げること、貧富や身分で客の扱いに差を付けないことを掲げた。客によって値を変える駆け引きが通例だった時代に、初代飯田新七氏は値と品の説明を店の決まりとして固定した。隣の呉服店とは毎朝より早く開店して競い、3年で売れ行きの差を広げた。値の駆け引きを捨てた分、客の信用を積み上げることが集客の手段になったと推察される。
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [7]天保2年に飯田新七が「高島屋」の屋号で古着・木綿商を始めた
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第一 初代創業時代」
- [8]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [9]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [10]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [11]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [12]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [13]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
1833年(天保4年)9月26日、初代飯田新七氏は借りていた店舗を代価5貫750匁で取得した。間口は3間3尺余、奥行は8間4尺余で、百年史はこの家屋を高島屋の営業所の起源と位置づける。取得額は、創業時の元手2貫500匁の2倍を超えた。資金の面では、京都五条新町の呉服商「長彌」の青井孫兵衛氏が掛けでの仕入れや一時の資金融通に応じた。店員が増えて商品の保管に不便が生じたので、初代飯田新七氏はその後倉庫1棟を建てた。家屋は手狭で風通しが悪く、夏の夜に吊るした風鈴も鳴らなかったと伝わる。古着と木綿という創業時の品揃えのまま、店は借家から自前の営業所へ移った。借家のままでは倉庫の増築もままならず、店を広げる前提として家屋の取得を急いだと思われる。
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第一 初代創業時代」
- [14]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [15]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [16]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [17]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [18]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [19]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [21]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [20]創業時の商いは古着および木綿商
参考文献[1]-[21]
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第一 初代創業時代」
- [1]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [2]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [3]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [4]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [5]越前敦賀中野宗兵衛家出身の鉄次郎が1814年12歳で上京し呉服商に十余年奉公、1828年26歳で高島屋飯田儀兵衛の長女秀の婿養子、1829年2月27日分家、1831年正月10日烏丸松原上ル西側の借家で古着・木綿商を開業。元手は貯蓄の銀2貫500匁のみ
- [8]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [9]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [10]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [11]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [12]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [13]天保2年の御蔭参り最盛の吉年正月に符牒と四綱領の店規を制定(第一義 確実な品を廉価で販売し自他の利益を図る、第二義 正札掛値なし、第三義 品の良否を告げ虚偽なし、第四義 顧客の待遇を平等に)。隣家の呉服店と早起きで競い3年で凌駕
- [14]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [15]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [16]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [17]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [18]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [19]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- [21]天保4年9月26日に借家の店舗を代価5貫750匁で買い受け(間口3間3尺余・奥行8間4尺余)、高島屋営業所の起源。店員の増加で後に倉庫1棟を築造。呉服商青井孫兵衛(長彌)が掛け仕入れ・資金融通で後援。創業時の元手は銀2貫500匁
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [6]天保2年に飯田新七が京都で「高島屋」の屋号で古着・木綿商を始めたのが創業
- [7]天保2年に飯田新七が「高島屋」の屋号で古着・木綿商を始めた
- [20]創業時の商いは古着および木綿商
1851年〜二代飯田新七氏の家督相続と、25年続けた古着商の廃止
1851年(嘉永4年)、初代飯田新七氏は娘の歌の婿養子として、京都寺町今出川の上田七右衛門の次男を迎えた。のちの二代飯田新七氏で、幼名を直次郎といい、のちに新太郎と改めた。二代飯田新七氏は五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公し、そこで商いを身に付けた。人柄は謙虚で忍耐強く、商機に敏感で、とりわけ商品の鑑別に優れた眼を持っていた。初代飯田新七氏は後継者を得たことを喜び、翌年には家督を譲る決断に至った。古着と木綿の店に、呉服の店で鍛えた目利きを持つ後継者が入った。維新後の高島屋は呉服類の販売に加え、友禅や刺繍の意匠図案の改良に努めた。品を見分ける眼を持つ後継者の選定が、後年の意匠と品質の重視の出発点になったと読める。
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- [22]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [23]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [24]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [25]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [26]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [27]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [28]維新後は呉服類の販売のほか友禅・刺繍等の意匠図案の改良に努めた
1852年(嘉永5年)、初代飯田新七氏は50歳で隠居し、26歳の二代飯田新七氏に家督を譲った。働き盛りでの早い隠居は、二代飯田新七氏に才能を十分に振るわせる意図によるもので、京都の評判にもなった。隠居後の初代飯田新七氏は別に住まいを構え、営業上の顧問として二代飯田新七氏を指導した。1870年(明治3年)には高辻通烏丸西入に新居を建てて移り、顧問の役を続けた。二代飯田新七氏は重要な事柄を自分だけで決めず、まず初代飯田新七氏の指示を仰いで協議を重ねた。会社銀行八十年史は、古着の商いをやめて呉服を主とした年を、この嘉永5年に当てる。家督と日々の決定は二代飯田新七氏へ移し、初代飯田新七氏の判断の経験は顧問として手元に残す、二重の体制だったと考えられる。
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- [29]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [30]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [31]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [32]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [33]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [34]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化
1855年(安政2年)、二代飯田新七氏は創業から25年続けた古着の商いを廃し、木綿と呉服の専業に転じた。家督相続から4年目で、米国の艦隊が浦賀に再来した翌年にあたる。世情が揺れて旧来の商いを改めにくい時期に、二代飯田新七氏は改革に着手した。木綿の仕入れ先は河内で、二代飯田新七氏は伏見から草鞋で産地へ通い、帰りには10疋ほどを自ら担いだ。会社銀行八十年史は古着商の廃止を嘉永5年(1852年)とし、百年史とは3年の開きがある。呉服への転換は、維新後の友禅や刺繍の意匠改良へ続いた。古着は仕入れ値の読みが難しく、目利きの強みを新品の木綿と呉服に集める判断だったのだろう。
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- [35]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- [36]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- [37]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- [38]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [39]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化、維新後は友禅・刺繍等の意匠図案の改良に努めた
- [40]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化、維新後は友禅・刺繍等の意匠図案の改良に努めた
参考文献[22]-[40]
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- [22]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [23]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [24]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [25]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [26]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [27]嘉永4年、娘歌の婿養子に京都寺町今出川上田七右衛門の次男(幼名直次郎、後に新太郎)を迎える。五条伏見街道の呉服商北村八右衛門の店で奉公、商品の鑑別に非凡な眼識
- [29]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [30]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [31]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [32]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [33]嘉永5年に初代が隠居し26歳の二代が家督相続。初代は当時50歳、二代の才能を発揮させる意図で、果断は世間の好評判に。初代は別居し営業上の顧問として二代を指導、二代は重要事項を独断せず初代の指揮を請い協議
- [35]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- [36]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- [37]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- [38]安政2年に25年続けた古着商を廃止し木綿・呉服業に専念。二代の家督相続後4年目、米艦浦賀再来の翌年。木綿は河内で仕入れ、二代自ら伏見から産地へ通い帰途に約10疋を担いだ
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [28]維新後は呉服類の販売のほか友禅・刺繍等の意匠図案の改良に努めた
- [34]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化
- [39]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化、維新後は友禅・刺繍等の意匠図案の改良に努めた
- [40]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化、維新後は友禅・刺繍等の意匠図案の改良に努めた
1856年〜蛤御門の変で焼けた烏丸松原の店と、7日後の土蔵での再開
1864年(元治元年)7月、蛤御門の変で長州と薩摩の兵が衝突し、京都の市中に火が放たれた。烏丸松原の高島屋は戦場から離れていたものの延焼し、7月20日午前10時頃に全焼。前夜19日の夕刻、延焼は避けられないとみた初代飯田新七氏と二代飯田新七氏は、商品と家財を本圀寺へ運び出した。初代飯田新七氏は松原烏丸の角に、二代飯田新七氏は堀川の角に立ち、丁稚と番頭16名の指揮にあたった。倉庫の中央には前もって四斗樽3個と風呂桶を据えて水を張ったので、焼け跡で土蔵を改めると中の商品に損害はなかった。焼けたのは、古着をやめて呉服に主力を移した後の店舗だった。初代飯田新七氏と二代飯田新七氏が早めに搬出と防火の対策を講じたことで、再開に使う商品の大半が残ったと推測される。
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- [41]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [42]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [43]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [44]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [45]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [46]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化
罹災から7日後の1864年7月27日、二代飯田新七氏は焼け残った土蔵に掛け出しを造り、営業を再開した。これほど早い再開は他に例がなかったと百年史は記す。待ちかねた客が一度に押し寄せ、木綿の売れ行きが伸びて予想外の利益を得た。このとき二代飯田新七氏は38歳、隠居の初代飯田新七氏は62歳で、二代飯田新七氏の妻の歌とともに店の方針を保った。維新前後の京都では早く売って早く儲ける風潮が広がり、商品が粗悪に傾いた。二代飯田新七氏は同業者の同意を得られないまま織屋や染屋と特約を結んで品質を吟味し、宮内省や陸海軍両省の御用を受ける素地をつくった。1887年(明治20年)の宮城造営では、高島屋が装飾の用命を受けた。焼け跡からの素早い再開で得た客と利益が、明治の呉服商としての出発を支えたとうかがえる。
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- [47]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [48]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [49]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [50]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [51]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [52]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [53]明治20年の宮城造営で装飾の用命を受け、宮内省御用達の端緒を開いた
参考文献[41]-[53]
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- [41]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [42]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [43]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [44]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [45]元治元年7月の蛤御門の兵乱の余焔で7月20日午前10時頃に全焼(丁稚・番頭16名)。前夜19日に商品家財を本圀寺へ搬出、初代は松原烏丸角・二代は堀川角で指揮。倉庫中央に四斗樽3個と風呂桶を据え水を湛えていたため倉庫の商品は無損害
- [47]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [48]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [49]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [50]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [51]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- [52]元治元年7月27日、罹災7日後に焼け跡の土蔵に掛け出しを造り営業開始、顧客が殺到し木綿が売れ意外の利益。二代38歳・初代62歳・二代夫人歌。維新前後に二代が織屋・染屋と特約し品質を吟味、宮内省等の御用拝命の基因に
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項
- [46]嘉永5年に古着商を廃止し呉服を主力化
- [53]明治20年の宮城造営で装飾の用命を受け、宮内省御用達の端緒を開いた
出典・参考
3件
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第一 初代創業時代」
- 高島屋百年史(高島屋、1941年)「第二 二代新七時代」
- 会社銀行八十年史(1955年)「高島屋」の項