第一実業:第一実業の設立と台湾事務所の開設
1948年〜GHQに追放された倉持正次郎氏の48万円の機械商社と、石油精製再開で始めた石油各社の取引
第一実業は1948年8月12日、資本金48万円の機械専門商社として東京で設立された。設立の中心は、浅野物産の常務を務めた倉持正次郎氏と旧浅野系会社の関係者である。初代社長の倉持正次郎氏は海軍機関学校と海軍大学を出た技術者で、浅野物産の初代機械部長として機械の商いに通じていた。戦後はGHQの追放により浅野系の会社へ出入りできなくなり、40数年の経験を生かせる新会社を興した。機械は注文を受けてからメーカーに製造を依頼するため在庫を抱えず、倉庫も余分な資金も要らず、相場で損失を被る危険も小さかった。敗戦からの復興に機械は欠かせず、倉持正次郎氏はその需要が際限なく続くと見込んだ。
- 株式会社年鑑 1963年版「第一実業」
- [1]設立は昭和23年8月12日
- 証券 14(9)(160) 1962年
- [2]昭和23年8月、元浅野物産常務の倉持正次郎氏を中心に旧浅野系会社の関係者が資本金48万円で設立
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [3]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
- [4]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
- [5]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
- [6]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
1950年に太平洋沿岸の石油精製の再開が許可されると、第一実業はすぐに石油各社との取引を開始。倉持正次郎氏は海軍出身で石油に明るく、浅野物産がベネズエラ原油を海軍燃料廠へ納めていた縁で、外国人を含む精製各社の幹部と面識があった。当時の日本は石炭が主なエネルギーで、大手商社は石油に目を向けていなかった。第一実業は米国のザ・ルンマス・カンパニーの日本代理店となり、精製再開の前から千代田化工建設とも取引していた。製造は、戦前に三菱重工業の名古屋航空機に勤めた河上敏雄氏(のちの社長)が同社機械部長の同意を取り付け、三菱重工業に任された。資本金は1950年9月に100万円、1951年12月に200万円へ増えた。
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [7]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [8]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [9]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [10]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [11]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- 証券 14(9)(160) 1962年
- [12]資本金の変遷:昭和25年9月100万円、26年12月200万円
参考文献[1]-[12]
- 株式会社年鑑 1963年版「第一実業」
- [1]設立は昭和23年8月12日
- 証券 14(9)(160) 1962年
- [2]昭和23年8月、元浅野物産常務の倉持正次郎氏を中心に旧浅野系会社の関係者が資本金48万円で設立
- [12]資本金の変遷:昭和25年9月100万円、26年12月200万円
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [3]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
- [4]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
- [5]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
- [6]創立者で初代社長の倉持正次郎は海軍出身の技術者で浅野物産初代機械部長。GHQの追放で浅野関係に出入りできず機械専門商社を設立。受注生産で在庫不要・小資本で可能、復興で機械需要は無限と判断
- [7]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [8]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [9]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [10]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
- [11]昭和25年の石油精製再開許可と同時に石油各社と取引。海軍出身の倉持と浅野物産の原油納入の縁、石炭万能で大手商社が石油を目指さず。ルンマス日本代理店、千代田化工建設と取引。河上が三菱重工業機械部長の同意を得て製造を任される
1952年〜販売の43.4%が石油関係機械の年に開設した台湾事務所と、三菱重工業の陸上機械を商う窓口商社
第一実業は1952年9月の大阪を皮切りに、1960年9月に名古屋、1961年5月に広島、1964年1月に北九州へと出張所を相次いで開設。取引先は浅野系の縁から日本セメント・第一セメント・磐城セメントへ、日本鋼管系の鶴見造船・浅野ドック・清水造船へと広がった。三菱の仲介によって、三菱系の造船所とも取引が生まれた。社長の河上敏雄氏は1974年、需要家に合う機械を探し出して原価計算の相談にも応じる商いには、近くに店が要ると説明した。第一実業は大都市に限らず、工業の中心になりうる土地にも店を置いてきた。出張所の開設は、取引の窓口を需要家の工場のそばへ移す手立てだったと推察される。
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- [13]1952年9月大阪出張所、1960年9月名古屋出張所、1961年5月広島出張所、1964年1月北九州出張所を開設
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [14]浅野系のセメント3社、日本鋼管系の造船所3社と取引、三菱を仲介に三菱系造船所とも取引
- [15]浅野系のセメント3社、日本鋼管系の造船所3社と取引、三菱を仲介に三菱系造船所とも取引
- 野田経済 1974年3月13日(1197)
- [16]河上社長:機械の商売はブローカー的でなく原価計算のコンサルタントまでやるため店舗が必要。工業の中心になりそうな所に設置
- [17]河上社長:機械の商売はブローカー的でなく原価計算のコンサルタントまでやるため店舗が必要。工業の中心になりそうな所に設置
第一実業は1962年3月に初の海外拠点として台湾事務所を開設し、同年8月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。上場時の資本金は8,000万円で、設立時の48万円から増資を重ねていた。1961年12月期の販売は石油関係機械が43.4%を占め、2位の電気・精密機械の16.1%、3位の化学工業関係機械の13.2%を上回った。1961年12月末の従業員は131名、株主は225名、同期の配当率は20%。上場時の社長は礒喜子二氏で、河上敏雄氏と倉持修氏は常務を務めていた。石油関係機械で積み上げた取引の厚みが、海外事務所の開設と株式市場からの資金調達を支えたとみられる。
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- [18]1962年3月台湾事務所開設、1962年8月東証二部上場
- 証券 14(9)(160) 1962年
- [19]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
- [20]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
- [21]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
- [22]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
第一実業は三菱重工業の合併以後、同社が製作する陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売する商社の1社となった。1972年時点で第一実業の年商は320〜330億円で、重工製品はそのうち少ない年で40%、多い年で60%を占めた。両社は株式もわずかに持ち合い、第一実業の筆頭株主は第一勧業銀行だったものの、三菱グループの持株を合わせると首位に立つ関係である。銀行取引でも、1962年の上場時に日本勧業銀行・住友銀行などと並んで三菱銀行と取引していた。社長の河上敏雄氏は1972年の講演で、三菱の系列ではないと断ったうえで、三菱重工業を大事な仕入先であり大きな商権だと位置づけた。系列に属さないまま重工製品の販売窓口を得たことが、1960年代以降の売上げの拡大を支えたのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [23]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- [24]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- [25]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- [27]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- 証券 14(9)(160) 1962年
- [26]取引銀行は日本勧業銀行・住友銀行・富士銀行・大和銀行・三和銀行・三菱銀行
参考文献[13]-[27]
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- [13]1952年9月大阪出張所、1960年9月名古屋出張所、1961年5月広島出張所、1964年1月北九州出張所を開設
- [18]1962年3月台湾事務所開設、1962年8月東証二部上場
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [14]浅野系のセメント3社、日本鋼管系の造船所3社と取引、三菱を仲介に三菱系造船所とも取引
- [15]浅野系のセメント3社、日本鋼管系の造船所3社と取引、三菱を仲介に三菱系造船所とも取引
- [23]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- [24]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- [25]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- [27]三菱重工業の合併以来、同社の陸上機械を三菱商事・西華産業・東京産業と並んで販売。年商320〜330億円のうち重工製品40〜60%。株式の相互持合、三菱グループ持株合計で首位。三菱の系列ではないが大事な仕入先で大きな商権
- 野田経済 1974年3月13日(1197)
- [16]河上社長:機械の商売はブローカー的でなく原価計算のコンサルタントまでやるため店舗が必要。工業の中心になりそうな所に設置
- [17]河上社長:機械の商売はブローカー的でなく原価計算のコンサルタントまでやるため店舗が必要。工業の中心になりそうな所に設置
- 証券 14(9)(160) 1962年
- [19]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
- [20]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
- [21]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
- [22]昭和37年8月2日上場。資本金80,000千円。36年12月期販売は石油関係機械43.4%・電気精密16.1%・化学13.2%。従業員131名・株主225名。36年12月期配当率20%。社長礒喜子二、常務河上敏雄・倉持修
- [26]取引銀行は日本勧業銀行・住友銀行・富士銀行・大和銀行・三和銀行・三菱銀行
1970年〜輸入機械を直す第一機械サービスと、石油開発機器の受注3倍のころに指定された東証一部
第一実業は1970年6月、子会社の第一機械サービスを設立した。狙いは輸入機械が故障した際の応急の手当てで、復旧までの日数と修理の費用を抑えることにあった。社長の河上敏雄氏は1972年7月の講演で、取引先のコンサルタントとして時に設計まで引き受ける点を特色に挙げた。営業部門の約400人のうち6分の1を、機械・化学・電気・物理など技術系の学部の出身者が占める。1972年時点で取り扱う機械は3,000機種に及び、本社では化学機械部など10の部が国内販売と輸出入を分担して受け持った。販売後の修理まで引き受ける体制は、輸入機械を扱う商社としての信用を補ったと考えられる。
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- [28]1970年6月子会社第一機械サービス(現・第一メカテック)を設立
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [29]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
- [30]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
- [31]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
- [32]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
第一実業は1968年4月にニューヨーク事務所を開設し、1971年7月にシンガポール、1972年1月にクアラルンプールへ事務所を置いた。1972年4月に現地法人DAIICHI JITSUGYO (AMERICA), INC.を設立し、1974年4月にはシカゴ事務所も開設した。1972年7月の時点の海外事務所は、ニューヨークを含めて5カ所にのぼる。石油開発関連機器のメーカーが米国ヒューストンに多く集まるため、社長の河上敏雄氏は1974年中の同地への事務所開設を予定した。1974年3月の店舗は国内25カ所・海外6カ所で、河上敏雄氏は5年以内に国内5カ所・海外4カ所を加える方針を掲げた。海外の事務所は、仕入先の集まる米国と、石油開発の需要が見込める東南アジアの双方に置かれたと思われる。
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- [33]1968年4月ニューヨーク事務所、1971年7月シンガポール事務所、1972年1月クアラルンプール事務所、1972年4月DAIICHI JITSUGYO (AMERICA), INC.設立、1974年4月シカゴ事務所
- [34]1968年4月ニューヨーク事務所、1971年7月シンガポール事務所、1972年1月クアラルンプール事務所、1972年4月DAIICHI JITSUGYO (AMERICA), INC.設立、1974年4月シカゴ事務所
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [35]1972年7月時点で海外はニューヨークなど5カ所に事務所
- 野田経済 1974年3月13日(1197)
- [36]石油開発関連機器メーカーがヒューストンに集まり今年中にヒューストン事務所開設予定。店舗は国内25・海外6、5年内に国内5・海外4を増やしたい
- [37]石油開発関連機器メーカーがヒューストンに集まり今年中にヒューストン事務所開設予定。店舗は国内25・海外6、5年内に国内5・海外4を増やしたい
第一実業は1974年2月、東京証券取引所の市場第一部に指定替えとなった。同じころ、石油資源開発関連機器の受注は前期の3倍に増えた。エネルギー危機を背景に日本の大陸棚周辺で石油資源開発が活発になり、物理探鉱から貯蔵設備まで一貫して扱う第一実業に注文が集まった。第一実業は十数年前からこの分野に取り組み、扱い商社の首位に位置する。1974年3月の時点で受注は年500億円、売上げは380〜400億円の水準にあり、資本金は10億円である。同年度から創立30周年を目標とする5カ年計画に入り、最終年度に売上げ1,200億円・税引き前利益15億円・資本金20億円を掲げた。
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- [38]1974年2月東証一部に指定替
- 野田経済 1974年3月13日(1197)
- [39]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [40]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [41]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [42]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [43]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
参考文献[28]-[43]
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- [28]1970年6月子会社第一機械サービス(現・第一メカテック)を設立
- [33]1968年4月ニューヨーク事務所、1971年7月シンガポール事務所、1972年1月クアラルンプール事務所、1972年4月DAIICHI JITSUGYO (AMERICA), INC.設立、1974年4月シカゴ事務所
- [34]1968年4月ニューヨーク事務所、1971年7月シンガポール事務所、1972年1月クアラルンプール事務所、1972年4月DAIICHI JITSUGYO (AMERICA), INC.設立、1974年4月シカゴ事務所
- [38]1974年2月東証一部に指定替
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- [29]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
- [30]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
- [31]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
- [32]輸入機械の応急修理のため第一機械サービスを設立し修理の時間と費用を節約。取引先のコンサルタントとなり設計も。営業約400人の1/6が技術系。取扱い3,000機種、本社は化学機械部など10部
- [35]1972年7月時点で海外はニューヨークなど5カ所に事務所
- 野田経済 1974年3月13日(1197)
- [36]石油開発関連機器メーカーがヒューストンに集まり今年中にヒューストン事務所開設予定。店舗は国内25・海外6、5年内に国内5・海外4を増やしたい
- [37]石油開発関連機器メーカーがヒューストンに集まり今年中にヒューストン事務所開設予定。店舗は国内25・海外6、5年内に国内5・海外4を増やしたい
- [39]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [40]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [41]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [42]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
- [43]第二部から第一部に昇格。石油資源開発関連機器の受注が前期の3倍。エネルギー危機で大陸棚周辺の開発活発化、十数年の実績で扱い商社トップ。受注500億円・売上380〜400億円、資本金10億円。創立30周年目標の五カ年計画:受注1,400億円・売上1,200億円・税引前利益15億円・資本金20億円
出典・参考
5件
- 第一実業 有価証券報告書【沿革】
- 株式会社年鑑 1963年版「第一実業」
- 証券アナリストジャーナル 10(9) 1972年9月 河上敏雄(社長)講演要旨
- 証券 14(9)(160) 1962年
- 野田経済 1974年3月13日(1197)