第1章 年〜年

東京精密:東京精密工具の設立と空気マイクロメータの日本初工業化

1949年〜三鷹の切削工具工場を継いだ資本金160万円の東京精密工具と、国内初の空気マイクロメータ

1949年3月28日、前身の東京機器製作所が解散し、同日に資本金160万円の東京精密工具が設立された。三鷹の工場は1939年に日本電力が買収して東京航空器材となり、終戦まで海軍の指定工場として機関銃部品用の切削工具を製造する立場にあった。敗戦後、社長の東島好蔵氏は1946年3月にGHQの許可を得て東京機器製作所を発足させ、民需への転換に着手した。ところが企業再建整備法のもとでは、親会社の日本電力との資本関係を断たなければ再建は認められなかった。日本電力への借財115万円は、高城誠氏の叔父の葉山健二郎氏と友人の矢野良雄氏の出資で手当てされた。新会社は東京機器の全設備と事業を引き継ぎ、ミシン加工に使う切削工具と治具の製造・販売から事業を再開した。旧親会社から切り離すことが、民需の工具メーカーとして存続する条件だったとみられる。

  • 東京精密三十年史 1979年「一章 東京精密工具の誕生と空気マイクロメータ」
    • [1]1949年3月28日に東京機器製作所が解散し、資本金160万円・社長東島好蔵で東京精密工具が設立された
    • [2]1939年に大起製作所を日本電力が買収し東京航空器材に改称、海軍指定工場として機関銃部品用の切削工具を製造。1946年3月にGHQの許可で東京機器製作所が発足
    • [3]1939年に大起製作所を日本電力が買収し東京航空器材に改称、海軍指定工場として機関銃部品用の切削工具を製造。1946年3月にGHQの許可で東京機器製作所が発足
    • [5]企業再建整備法の第二会社設立で日本電力への借財115万円の解消が必要となり、葉山健二郎(高城誠の叔父)と矢野良雄が出資した
  • 証券 1962年
    • [4]1949年3月、企業再建整備法に基づき分離独立し東京精密工具として発足
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [6]1949年3月に東京精密工具としてミシン加工用切削工具および治具類の製作販売を開始

1950年10月、東島好蔵氏が社長を辞任し、諫早良三氏が社長に、高城誠氏が専務に就任した。前年12月に結成された労働組合は赤字補正資金を要求し、銀行の融資も実らず、給料の支払いまで危うくなった。日本鉱業で常務を務めた諫早良三氏は、旧職場から量産品のロックビットの注文を携えて社長に就任した。同じ1950年10月には、鉱山用スチールビットの製作販売を開始。この受注がなければ会社は倒産していたとみられるが、それでも給料の遅配は止まらなかった。朝鮮戦争で工具材料が値上がりすると、ロックビットなどの工具は外注に出し、精密部品・治具・測定機の開発に主力を移した。量産品の受注で資金繰りをつなぎ、その間に加工賃の高い製品の開発に力を注いだのだろう。

  • 東京精密三十年史 1979年「一章 東京精密工具の誕生と空気マイクロメータ」
    • [7]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [8]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [9]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [11]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [12]朝鮮動乱後の工具材料の高騰を受け、ロックビット等の工具を外注に回し、主力を精密部品・治具・精密測定機の開発に向けた
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [10]1950年10月に鉱山用スチールビットおよび各種精密部品の製作販売を開始

1952年春、高城誠氏はトヨタ自動車の検査部が米シェフィールド社の高圧流量式空気マイクロメータを使い、国内で試作を引き受けるメーカーを探していると聞いた。高城誠氏は試作研究費を求めずに申し入れ、トヨタは費用も契約も出さないという条件で試作を認めた。1952年12月、国内で初めて高圧流量式の空気マイクロメータを完成させ、トヨタへの納入が決まった。市販は1953年1月に始まり、それまで輸入に依存していた品目の国産化にあたる。もっともトヨタの要請で1953年中はトヨタ向けの10余台の製作にとどまり、同年9月期は売上高1527万円に対し欠損12万円を計上した。後年、高城誠氏はこの開発を『東京精密工具には検査畑の出身者が多い。だから、現場本位の実用性の高いものを製品化できた。これが幸いした。』と振り返った。

  • 東京精密三十年史 1979年「一章 東京精密工具の誕生と空気マイクロメータ」
    • [13]1952年春、トヨタ検査部がシェフィールド社製の高圧流量式空気マイクロメータの国内試作先を求めていると高城誠が聞き、試作研究費なし・契約なしの条件で試作の許諾を得た
    • [14]1952年春、トヨタ検査部がシェフィールド社製の高圧流量式空気マイクロメータの国内試作先を求めていると高城誠が聞き、試作研究費なし・契約なしの条件で試作の許諾を得た
    • [15]1952年12月にわが国初の高圧流量式空気マイクロメータが完成しトヨタへの納入が決定。高城誠は検査畑の出身者が多かったことを回顧
    • [17]トヨタの申入れで1953年はトヨタ用の10余台のみ製作。1953年9月期は売上高1527万円・欠損12万円
    • [18]1952年12月にわが国初の高圧流量式空気マイクロメータが完成しトヨタへの納入が決定。高城誠は検査畑の出身者が多かったことを回顧
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [16]1952年10月に空気マイクロメーターの試作を完了し、1953年1月に市販を開始
参考文献[1]-[18]
  • 東京精密三十年史 1979年「一章 東京精密工具の誕生と空気マイクロメータ」
    • [1]1949年3月28日に東京機器製作所が解散し、資本金160万円・社長東島好蔵で東京精密工具が設立された
    • [2]1939年に大起製作所を日本電力が買収し東京航空器材に改称、海軍指定工場として機関銃部品用の切削工具を製造。1946年3月にGHQの許可で東京機器製作所が発足
    • [3]1939年に大起製作所を日本電力が買収し東京航空器材に改称、海軍指定工場として機関銃部品用の切削工具を製造。1946年3月にGHQの許可で東京機器製作所が発足
    • [5]企業再建整備法の第二会社設立で日本電力への借財115万円の解消が必要となり、葉山健二郎(高城誠の叔父)と矢野良雄が出資した
    • [7]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [8]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [9]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [11]1950年10月に東島社長が辞任し諫早良三が社長、高城誠が専務に就任。諫早は日本鉱業から量産品のロックビットの注文を持ち込み、倒産を免れた。給料遅配は続いた
    • [12]朝鮮動乱後の工具材料の高騰を受け、ロックビット等の工具を外注に回し、主力を精密部品・治具・精密測定機の開発に向けた
    • [13]1952年春、トヨタ検査部がシェフィールド社製の高圧流量式空気マイクロメータの国内試作先を求めていると高城誠が聞き、試作研究費なし・契約なしの条件で試作の許諾を得た
    • [14]1952年春、トヨタ検査部がシェフィールド社製の高圧流量式空気マイクロメータの国内試作先を求めていると高城誠が聞き、試作研究費なし・契約なしの条件で試作の許諾を得た
    • [15]1952年12月にわが国初の高圧流量式空気マイクロメータが完成しトヨタへの納入が決定。高城誠は検査畑の出身者が多かったことを回顧
    • [17]トヨタの申入れで1953年はトヨタ用の10余台のみ製作。1953年9月期は売上高1527万円・欠損12万円
    • [18]1952年12月にわが国初の高圧流量式空気マイクロメータが完成しトヨタへの納入が決定。高城誠は検査畑の出身者が多かったことを回顧
  • 証券 1962年
    • [4]1949年3月、企業再建整備法に基づき分離独立し東京精密工具として発足
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [6]1949年3月に東京精密工具としてミシン加工用切削工具および治具類の製作販売を開始
    • [10]1950年10月に鉱山用スチールビットおよび各種精密部品の製作販売を開始
    • [16]1952年10月に空気マイクロメーターの試作を完了し、1953年1月に市販を開始

1955年〜高城誠氏の社長就任と、RCA社へ輸出したゲルマニウムペレット厚さ自動選別機

1955年5月の株主総会で高城誠氏が社長に選ばれ、藤本甲午三氏・井海健吾氏・藤本良平氏が取締役に就任した。社長の諫早良三氏は同年3月に引退を決めていた。団体交渉の心労で体を壊し、次の時代は年若い経営者に託すべきだと考えたためである。直前の1955年1月には労使が復興闘争委員会を設け、会社は解散を免れた。社長の座は、量産品の注文で倒産を防いだ諫早良三氏から、初の自社製品を成功させた高城誠氏へ移った。1962年3月末時点で高城誠氏は15万4150株を保有し、葉山健二郎氏・矢野良雄氏に次ぐ株主にあたる。再建を担う経営者から、製品で事業を広げる経営者への交代だったと考えられる。

  • 東京精密三十年史 1979年「二章 安定経営のもとで」
    • [19]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
    • [20]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
    • [21]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
    • [23]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
  • 東京精密三十年史 1979年「一章 東京精密工具の誕生と空気マイクロメータ」
    • [22]1955年1月21日、復興闘争委員会の設置により東京精密工具は企業解散を免れた
  • 証券 1962年
    • [24]1962年3月31日時点の大株主は葉山建二郎251,500株、矢野良雄158,000株、高城誠154,150株

1957年10月、東京精密工具はパルス発生型の電気マイクロメータを完成させた。空気マイクロメータとその応用の自動選別機を通じて、自社製品こそが経営の安定につながると知り、従来の選別機の不足を補う製品に開発を絞った。電気マイクロメータは0.1ミクロンの超精密測定ができ、寸法を電気量に変換できる仕組みを持つ。1959年4月には差動変圧器を使った自動定寸装置の研究で精機学会の明石記念賞を受賞。同年10月には製造部門を測器・電子測器・工具・精機の4課に分け、課ごとの独立採算制を導入した。1962年3月期の部門別の販売比率は精機36.6%、電子測器29.4%、測器21.9%で、工機部門は残りの1割強にとどまる。

  • 東京精密三十年史 1979年「二章 安定経営のもとで」
    • [25]自社製品が経営安定につながると知り、自動選別機の不足を補う電気マイクロメータに開発を絞った。0.1ミクロンの測定が可能で寸法を電気量に変換。1957年10月にパルス発生型電気マイクロメータが完成
    • [26]自社製品が経営安定につながると知り、自動選別機の不足を補う電気マイクロメータに開発を絞った。0.1ミクロンの測定が可能で寸法を電気量に変換。1957年10月にパルス発生型電気マイクロメータが完成
    • [27]自社製品が経営安定につながると知り、自動選別機の不足を補う電気マイクロメータに開発を絞った。0.1ミクロンの測定が可能で寸法を電気量に変換。1957年10月にパルス発生型電気マイクロメータが完成
    • [29]1959年10月、製造部門を測器課・電子測器課・工具課・精機課の4課に整理し課別独立採算制を導入
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [28]1959年4月、差動変圧器を利用した自動定寸装置の研究で明石記念賞を受賞
  • 証券 1962年
    • [30]1962年3月期の部門別販売実績比率は精機部門36.6%、測器部門21.9%、電子測器部門29.4%、工機部門12%台

1960年5月、東京精密工具はRCA社とゲルマニウムペレット厚さ自動選別機の輸出契約を結んだ。社長の高城誠氏は1958年5月に日本生産性本部の専門チームの一員として訪米し、シカゴの国際見本市にも電気マイクロメータなどを出品した。見本市での評価を受け、1959年末から1960年にかけて米国の半導体メーカーから問い合わせが相次いだ。ベンディックス社・テキサス社とも同じ製品で契約し、1960年8月にはテキサスインストルメント社などのトランジスタメーカーへ広がった。1961年1月には米国とカナダでの一手販売契約を三井物産と結んだ。同年10月には米テクニライト社を通じた対米輸出が始まった。

  • 東京精密三十年史 1979年「二章 安定経営のもとで」
    • [31]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
    • [32]1958年5月に高城誠が日本生産性本部の専門チームの一員として訪米し、シカゴ国際見本市に電気マイクロメータ等を出品
    • [33]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
    • [34]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
    • [35]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [36]1961年10月、米国テクニ・ライト社を通じて対米輸出を開始
参考文献[19]-[36]
  • 東京精密三十年史 1979年「二章 安定経営のもとで」
    • [19]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
    • [20]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
    • [21]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
    • [23]1955年3月に諫早良三が健康と若い人材の必要を理由に引退を決意し、同年5月の株主総会で高城誠が社長に選出された
    • [25]自社製品が経営安定につながると知り、自動選別機の不足を補う電気マイクロメータに開発を絞った。0.1ミクロンの測定が可能で寸法を電気量に変換。1957年10月にパルス発生型電気マイクロメータが完成
    • [26]自社製品が経営安定につながると知り、自動選別機の不足を補う電気マイクロメータに開発を絞った。0.1ミクロンの測定が可能で寸法を電気量に変換。1957年10月にパルス発生型電気マイクロメータが完成
    • [27]自社製品が経営安定につながると知り、自動選別機の不足を補う電気マイクロメータに開発を絞った。0.1ミクロンの測定が可能で寸法を電気量に変換。1957年10月にパルス発生型電気マイクロメータが完成
    • [29]1959年10月、製造部門を測器課・電子測器課・工具課・精機課の4課に整理し課別独立採算制を導入
    • [31]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
    • [32]1958年5月に高城誠が日本生産性本部の専門チームの一員として訪米し、シカゴ国際見本市に電気マイクロメータ等を出品
    • [33]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
    • [34]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
    • [35]シカゴ国際見本市の評価から米半導体メーカーの問合せが相次ぎ、1960年5月RCA社、続いてベンディックス社・テキサス社と輸出契約。同年8月にテキサスインストルメント社等とも契約。1961年1月に三井物産と米加での一手販売契約
  • 東京精密三十年史 1979年「一章 東京精密工具の誕生と空気マイクロメータ」
    • [22]1955年1月21日、復興闘争委員会の設置により東京精密工具は企業解散を免れた
  • 証券 1962年
    • [24]1962年3月31日時点の大株主は葉山建二郎251,500株、矢野良雄158,000株、高城誠154,150株
    • [30]1962年3月期の部門別販売実績比率は精機部門36.6%、測器部門21.9%、電子測器部門29.4%、工機部門12%台
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [28]1959年4月、差動変圧器を利用した自動定寸装置の研究で明石記念賞を受賞
    • [36]1961年10月、米国テクニ・ライト社を通じて対米輸出を開始

1962年〜「工具」の2字を外した東京精密の東証二部上場と、八王子工場第一期工事

1962年4月、東京精密工具は社名から「工具」を外し、東京精密に改めた。1957年10月の電気マイクロメータを契機に自動計測・自動制御の製品へ広がり、工具の名は事業の実態に合わなくなっていた。同年8月2日、東京証券取引所市場第二部に上場した。公開売出値の350円に対し、寄付きは730円。対米輸出と日立・トヨタとの取引を背景に、株式の公開で社会的な信用を確保する狙いがあった。上場直前の1962年3月期は売上高300,015千円、当期純利益41,749千円で、資本金は80,000千円である。社名の変更と上場は、測定機器メーカーへの転身を外部に示す節目だったと思われる。

  • 証券 1962年
    • [37]1962年4月に株式会社東京精密へ改称し、1962年8月2日に東証第二部へ上場。1962年3月期は売上高300,015千円、当期純利益41,749千円、資本金80,000千円
    • [39]1962年4月に株式会社東京精密へ改称し、1962年8月2日に東証第二部へ上場。1962年3月期は売上高300,015千円、当期純利益41,749千円、資本金80,000千円
    • [43]1962年4月に株式会社東京精密へ改称し、1962年8月2日に東証第二部へ上場。1962年3月期は売上高300,015千円、当期純利益41,749千円、資本金80,000千円
  • 東京精密三十年史 1979年「三章 本格的発展期を迎えて」
    • [38]電気マイクロメータ以降、自動計測・自動制御の製品に進出し「工具」が不適当になったため社名を変更。対米輸出と日立・トヨタとの取引を背景に社会的信用の確保を狙って上場。公開売出値350円・寄付き730円
    • [41]電気マイクロメータ以降、自動計測・自動制御の製品に進出し「工具」が不適当になったため社名を変更。対米輸出と日立・トヨタとの取引を背景に社会的信用の確保を狙って上場。公開売出値350円・寄付き730円
    • [42]電気マイクロメータ以降、自動計測・自動制御の製品に進出し「工具」が不適当になったため社名を変更。対米輸出と日立・トヨタとの取引を背景に社会的信用の確保を狙って上場。公開売出値350円・寄付き730円
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [40]1962年4月に株式会社東京精密へ社名変更し、同年8月に東証市場第二部へ上場

1963年12月、八王子工場の第一期工事が完成した。1962年の時点で事業の拡大に三鷹の工場設備が追いつかず、八王子の土地は取得済みだった。建設資金の一部に充当するため、1962年12月払込で9,000万円の増資を発表し、うち20万株を公募とした。完成した工場兼事務所は鉄骨3階建て・延面積約1,060平方メートルで、研削盤21台、旋盤14台などを備える。新工場には工機部をすべて移し、精機部も一部を移した。並行して1962年にはゲルマニウムのインゴットを薄く切断するスライシングマシンの開発に着手し、外周刃式から内周刃式へ切り替えた。トランジスタラジオの普及でゲルマニウムの需要が増え、インゴットを0.3ミリメートル前後の厚さに切る必要が生じていた。

  • 東京精密三十年史 1979年「三章 本格的発展期を迎えて」
    • [44]1963年12月に八王子工場第一期工事が完成。鉄骨3階建て延面積約1,060平方メートル、研削盤21台・旋盤14台等。工機部全部と精機部の一部が移転
    • [47]1963年12月に八王子工場第一期工事が完成。鉄骨3階建て延面積約1,060平方メートル、研削盤21台・旋盤14台等。工機部全部と精機部の一部が移転
    • [48]1963年12月に八王子工場第一期工事が完成。鉄骨3階建て延面積約1,060平方メートル、研削盤21台・旋盤14台等。工機部全部と精機部の一部が移転
    • [49]1962年1月以降、ゲルマニウムを切断するスライシングマシンの開発に着手し、日本電気向けの外周刃式から1962年中頃に内周刃式へ切り替えた。トランジスタラジオの隆盛でゲルマニウム需要が増え、0.3ミリ程度に切断する必要が生じた
    • [50]1962年1月以降、ゲルマニウムを切断するスライシングマシンの開発に着手し、日本電気向けの外周刃式から1962年中頃に内周刃式へ切り替えた。トランジスタラジオの隆盛でゲルマニウム需要が増え、0.3ミリ程度に切断する必要が生じた
  • 証券 1962年
    • [45]工場設備が狭隘となり八王子工場(土地買収済み)の建設を目指し、建設資金の一部として1962年12月払込で9,000万円の増資を発表、うち20万株を公募
    • [46]工場設備が狭隘となり八王子工場(土地買収済み)の建設を目指し、建設資金の一部として1962年12月払込で9,000万円の増資を発表、うち20万株を公募

1964年11月、東京精密は中国向けマイクロメータ製造プラントの輸出契約に仮調印した。輸出総額は3億3千万円で、自社の国内生産台数とほぼ同じ製造能力を持つ工場である。計画を主導した常務の松尾隆也氏は、共産圏は良くて安ければ取引に応じ、商社の言動に左右されにくいと考えた。自力更生を掲げる中国は自国での生産を選ぶとみて、製品単体ではなくプラントでの輸出を選んだ。1966年8月には米シェフィールド社と技術・販売提携を結び、シェフィールド社が求めた資本参加は見送られた。1968年3月期の売上高は9億3200万円に達し、土浦での新工場の計画を検討していた。海外との取引の積み重ねが、次の生産拠点と海外拠点の整備を促したと推察される。

  • 東京精密三十年史 1979年「三章 本格的発展期を迎えて」
    • [51]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [52]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [53]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [55]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [56]1966年8月にシェフィールド社と技術・販売提携契約を締結。シェフィールド社は資本参加を条件としたが資本参加は行われなかった
  • 証券 1962年
    • [54]1962年時点の常務は井海健吾・松尾隆也
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [57]1968年3月期の売上高9億3200万円、利益5600万円。土浦新工場の計画を検討中
参考文献[37]-[57]
  • 証券 1962年
    • [37]1962年4月に株式会社東京精密へ改称し、1962年8月2日に東証第二部へ上場。1962年3月期は売上高300,015千円、当期純利益41,749千円、資本金80,000千円
    • [39]1962年4月に株式会社東京精密へ改称し、1962年8月2日に東証第二部へ上場。1962年3月期は売上高300,015千円、当期純利益41,749千円、資本金80,000千円
    • [43]1962年4月に株式会社東京精密へ改称し、1962年8月2日に東証第二部へ上場。1962年3月期は売上高300,015千円、当期純利益41,749千円、資本金80,000千円
    • [45]工場設備が狭隘となり八王子工場(土地買収済み)の建設を目指し、建設資金の一部として1962年12月払込で9,000万円の増資を発表、うち20万株を公募
    • [46]工場設備が狭隘となり八王子工場(土地買収済み)の建設を目指し、建設資金の一部として1962年12月払込で9,000万円の増資を発表、うち20万株を公募
    • [54]1962年時点の常務は井海健吾・松尾隆也
  • 東京精密三十年史 1979年「三章 本格的発展期を迎えて」
    • [38]電気マイクロメータ以降、自動計測・自動制御の製品に進出し「工具」が不適当になったため社名を変更。対米輸出と日立・トヨタとの取引を背景に社会的信用の確保を狙って上場。公開売出値350円・寄付き730円
    • [41]電気マイクロメータ以降、自動計測・自動制御の製品に進出し「工具」が不適当になったため社名を変更。対米輸出と日立・トヨタとの取引を背景に社会的信用の確保を狙って上場。公開売出値350円・寄付き730円
    • [42]電気マイクロメータ以降、自動計測・自動制御の製品に進出し「工具」が不適当になったため社名を変更。対米輸出と日立・トヨタとの取引を背景に社会的信用の確保を狙って上場。公開売出値350円・寄付き730円
    • [44]1963年12月に八王子工場第一期工事が完成。鉄骨3階建て延面積約1,060平方メートル、研削盤21台・旋盤14台等。工機部全部と精機部の一部が移転
    • [47]1963年12月に八王子工場第一期工事が完成。鉄骨3階建て延面積約1,060平方メートル、研削盤21台・旋盤14台等。工機部全部と精機部の一部が移転
    • [48]1963年12月に八王子工場第一期工事が完成。鉄骨3階建て延面積約1,060平方メートル、研削盤21台・旋盤14台等。工機部全部と精機部の一部が移転
    • [49]1962年1月以降、ゲルマニウムを切断するスライシングマシンの開発に着手し、日本電気向けの外周刃式から1962年中頃に内周刃式へ切り替えた。トランジスタラジオの隆盛でゲルマニウム需要が増え、0.3ミリ程度に切断する必要が生じた
    • [50]1962年1月以降、ゲルマニウムを切断するスライシングマシンの開発に着手し、日本電気向けの外周刃式から1962年中頃に内周刃式へ切り替えた。トランジスタラジオの隆盛でゲルマニウム需要が増え、0.3ミリ程度に切断する必要が生じた
    • [51]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [52]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [53]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [55]1963年初頭から常務松尾が中国輸出を検討し、自力更生の国情からプラント輸出を選択。1964年11月に仮調印し、輸出総額3億3千万円・国内生産台数とほぼ同等の製造能力のプラント輸出契約が成立
    • [56]1966年8月にシェフィールド社と技術・販売提携契約を締結。シェフィールド社は資本参加を条件としたが資本参加は行われなかった
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
    • [40]1962年4月に株式会社東京精密へ社名変更し、同年8月に東証市場第二部へ上場
    • [57]1968年3月期の売上高9億3200万円、利益5600万円。土浦新工場の計画を検討中

出典・参考

5件
出典・参考
  • 東京精密三十年史 1979年「一章 東京精密工具の誕生と空気マイクロメータ」
  • 東京精密三十年史 1979年「二章 安定経営のもとで」
  • 東京精密三十年史 1979年「三章 本格的発展期を迎えて」
  • 企業の歴史 明治百年 1968年「東京精密」
  • 証券 1962年

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