マキタ:名古屋の電灯器具修理店から国産電気カンナへ
1915年〜牧田茂三郎氏の創業──名古屋の電灯器具修理店として
1915年3月21日、名古屋市中区横三ツ蔵町で"牧田電機製作所"が個人創業した。創始者は当時23歳の若い電気技術者・牧田茂三郎氏で、従業員15〜16人からの出発だった。扱ったのは電灯器具・モーター・変圧器の販売修理で、モーター・トランス・スイッチ類を電灯会社・電鉄会社へ納めた。創業の月には、三重県桑名市生まれで17歳の後藤十次郎氏が茂三郎氏に誘われ"職工"として入社している。のちに2代目社長として会社の性格を作り替える人物が、創業の現場に居合わせていた。当時の電機業界は未成熟で、パナソニックの創業(1918年)より3年早い参入にあたる。配電インフラが大正初期に地方都市まで広がり、若者中心の小規模事業者にも電動機器の販売修理という市場参入の余地があった時代である。
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]1915年3月21日 牧田茂三郎が牧田電機製作所を個人創業
- [2]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
- [4]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [3]1915年3月 牧田電機製作所(個人経営)創業(名古屋市)、電灯器具・モーター・変圧器の販売修理を開始
- 日経ビジネス 1973年9月17日号
- [5]後藤十次郎は明治30年10月15日三重県桑名市生まれ。大正4年3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎に誘われ「職工」として入社
昭和初期の経済パニックを乗り越えたうえで、1938年12月、個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組した。改組時の資本金は18万円、従業員は94名で、初代社長には創業者の牧田茂三郎氏が就任した。第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力した。1945年4月には、当時生産するモーターの6割までを納入していたワシノ機械(今村工場)との関係から、工場疎開を兼ねて愛知県安城市(現本社所在地)に工場を移し、戦後の本社所在地が確定した。終戦直後のモーター業界は、松下電器や日立など大手企業が財閥解体の対象に指定されて事業遂行が困難となり、マキタのような中小企業が辛うじて生き残る環境にあった。だが戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり、苦境期を迎えることになる。
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [6]1938年12月 個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組。改組時の資本金18万円・従業員94名、初代社長は創業者の牧田茂三郎
- [7]昭和初期の経済パニックを乗り越えた。第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力
- [8]1945年4月 ワシノ機械(今村工場)に生産モーターの6割を納入していた関係から工場疎開を兼ね愛知県安城市(現本社所在地)に工場移転
- [9]戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり苦境期を迎えた
終戦直後は、戦火で焼けたモーターを買い集めて修理し販売する商売がかなり有利で、会社はこれで食いつないだ。だが経済の混乱が収まると各地で大企業がモーターの生産を再開する。資本金1,000万円・従業員100名足らずの小企業だったマキタは正面から対抗できず、大企業が手がけない特殊モーターの受注生産で生き延びた。多機種少量生産の工場経営はきわめて非能率で、朝鮮動乱の特需が切れたあと、1953年から1955年にかけて会社は倒産寸前まで追い込まれる。借入金3,000万円を抱え、従業員の給与も満足に払えない町工場だった。創業から40年、何を作る会社なのかを決め直さなければならない地点に立たされていた。
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- [10]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
- [11]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
- [12]昭和25〜26年の朝鮮動乱当時まではよかったがその後不況に見舞われ、昭和28〜30年にかけて倒産寸前の状況に追い込まれた
- 日経ビジネス 1973年9月17日号
- [13]昭和30年、資本金1000万円・借入金3000万円、従業員の給与も満足に払えない会社だった
参考文献[1]-[13]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]1915年3月21日 牧田茂三郎が牧田電機製作所を個人創業
- [2]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
- [4]創始者は当時23歳の若き電気技術者・牧田茂三郎。発祥地は名古屋市中区横三ツ蔵町、従業員15〜16人でモーター・トランス・スイッチ類の修理を業としてスタートし、電灯会社・電鉄会社などを主な得意先とした
- [6]1938年12月 個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組。改組時の資本金18万円・従業員94名、初代社長は創業者の牧田茂三郎
- [7]昭和初期の経済パニックを乗り越えた。第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力
- [8]1945年4月 ワシノ機械(今村工場)に生産モーターの6割を納入していた関係から工場疎開を兼ね愛知県安城市(現本社所在地)に工場移転
- [9]戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり苦境期を迎えた
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [3]1915年3月 牧田電機製作所(個人経営)創業(名古屋市)、電灯器具・モーター・変圧器の販売修理を開始
- 日経ビジネス 1973年9月17日号
- [5]後藤十次郎は明治30年10月15日三重県桑名市生まれ。大正4年3月にマキタ電機の創業者牧田茂三郎に誘われ「職工」として入社
- [13]昭和30年、資本金1000万円・借入金3000万円、従業員の給与も満足に払えない会社だった
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- [10]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
- [11]終戦後も戦火に焼けたモーターを買い集めて修理し販売、当時はかなり有利な事業。その後大企業がモーター生産を再開し、資本金1,000万円・従業員100名足らずの同社は対抗できず、大企業が生産していない特殊モーターの受注生産で生き延びた
- [12]昭和25〜26年の朝鮮動乱当時まではよかったがその後不況に見舞われ、昭和28〜30年にかけて倒産寸前の状況に追い込まれた
1955年〜後藤十次郎氏の「商売替え」と国産第一号の携帯用電気カンナ
後藤十次郎氏は創業以来の社員だったが、1941年から14年間は会社を離れ、自らモートルの販売と修理を商いとしながら、マキタ電機の代理店と下請けを務めていた。その後藤氏が創業者牧田茂三郎氏の頼みを受け、2代目社長に就いたのは1955年4月である。神武景気の到来とともに業績は立ち直り、それまで配当のなかった会社は1956年度に1割配当を復活させたが、後藤社長はその好調の中にあっても、特殊モーター頼みのままでは次の不況でまた無配に陥ると見ていた。モーターは所詮部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーがモーターの自社生産に乗り出すのは明白だ──そう見切って、1957年6月に従業員へ"商売変え宣言"を出し、新商売のアイデアを出せと命じた。役員も従業員も驚いたが、いやがる本人を懇請して社長に就任すれた経緯もあり、全社で新商売探しに動いた。
- 日経ビジネス 1973年9月17日号
- [14]後藤十次郎は昭和16年から昭和30年までいったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、昭和30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任
- [17]モーターは部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーが今後モーターの自社生産に乗り出すことは明白と判断し、昭和32年6月に従業員へ「商売変え宣言」をして新商売のアイデアを出せと命令した
- [18]従業員も役員も驚いたが、いやがる後藤を従業員・役員がそろって懇請して社長につかせた経緯もあり、全社あげて新商売さがしに奔走した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]1955年4月 後藤十次郎がマキタ2代目社長に就任(創業者・牧田茂三郎に請われ、創業時からの社員)
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- [16]社長就任直後から神武景気が走り出し事業は順調に運び、それまで無配を続けてきた同社も31年度には1割配当に復配した
1958年1月、国産第一号の携帯用電気カンナを発売した。造船所ではすでに使われていたが国産品はなく全て輸入品で、現物を取り寄せて検討した。米国製は刃幅80ミリだったが、日本の建築では4寸柱が普通であるとして刃幅を4寸に改めている。価格では8万5,000円だった輸入品の半値以下を掲げ、技術陣に3万円を割る製品を作れと命じ、売出し価格を2万9,800円と決めた。発売と同時に景気は後退し、モーター部門の月商は1957年6月の2,000万円から1958年10月には800万円へ減少したが、電気カンナは順調に売れ、会社はこれがなければ遭遇したはずの危機を回避した。同年8月には電気ミゾキリを発売し、相次ぐ新機種で電動工具界に新風を起こした。職人の現場という限られた顧客層に絞り込むことで、大手モーター企業との正面衝突を避ける選択でもあった。
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [19]1958年1月 国産第一号の携帯用電気カンナを発売
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- [20]当時、大規模な造船所ではほとんど電気カンナが使用されていたが国産品は全くなく全部が海外からの輸入品だったため、まず現物を取り寄せて検討した
- [21]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
- [22]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
- [23]電気カンナ発売の頃から景気は不況に落ち込み、モーター部門の月商は32年6月の2,000万円から33年10月には800万円に落ち込んだが、電気カンナは順調な売行きを示し、これを採用していなければ遭遇したであろう危機を回避した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [24]1958年8月 電気ミゾキリを発売し、相次ぐ新機種開発で電動工具界に新風を起こした
電動工具だけを手がける会社へのマキタの転換は、1959年に果たされた。その年のうちに豪州へ小型電気カンナ1300を送り出し、電動工具として最初の輸出を果たしたのも、モーター生産を打ち切り、得意先の求めで細々と残していた分まで止めたのと同じ時期である。上場は段階を踏んで進み、1962年5月に社名を株式会社マキタ電機製作所へ改めたうえで同年8月に名古屋証券取引所市場第二部へ株式を出した。1968年8月には東京・大阪両証券取引所の市場第二部にも加わり、このときの公開価格は940円だった。1970年7月には東京・名古屋・大阪の各市場第一部へ指定替えとなった。1968年2月期の売上高は32億84百万円、電動工具全体のシェアは30.2%で、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%と主力製品のシェアが高く、営業所・出張所は全国73カ所、登録販売店は10,130店を数えた。
- マキタレポート2025
- [25]1959年 オーストラリアに小型電気カンナ1300を出荷(電動工具の初輸出)
- 証券 1968年20巻9号(234号)
- [26]昭和34年(1959年) モーターの生産を中止し、電動工具専門メーカーに転換
- [31]上場年月日 昭和43年8月21日。公開株数1,200,000株(公募公開)・公開価格940円
- [33]昭和43年2月期の売上高32億84百万円。電動工具のシェアは30.2%、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%。全国73か所の営業所・出張所、登録販売店10,130店
- 日経ビジネス 1973年9月17日号
- [27]とくい先の要請でわずかに続けていたモーターの生産も34年に完全にやめ、電動工具ひと筋に進んだ
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [28]1962年5月 商号を株式会社マキタ電機製作所に変更
- [29]1962年8月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
- [30]1968年8月 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
- [32]1970年7月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
参考文献[14]-[33]
- 日経ビジネス 1973年9月17日号
- [14]後藤十次郎は昭和16年から昭和30年までいったん独立してモートルの販売・修理を行い(マキタ電機の代理店・下請けなど)、昭和30年4月に請われて復帰しマキタ電機社長に就任
- [17]モーターは部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーが今後モーターの自社生産に乗り出すことは明白と判断し、昭和32年6月に従業員へ「商売変え宣言」をして新商売のアイデアを出せと命令した
- [18]従業員も役員も驚いたが、いやがる後藤を従業員・役員がそろって懇請して社長につかせた経緯もあり、全社あげて新商売さがしに奔走した
- [27]とくい先の要請でわずかに続けていたモーターの生産も34年に完全にやめ、電動工具ひと筋に進んだ
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]1955年4月 後藤十次郎がマキタ2代目社長に就任(創業者・牧田茂三郎に請われ、創業時からの社員)
- [24]1958年8月 電気ミゾキリを発売し、相次ぐ新機種開発で電動工具界に新風を起こした
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- [16]社長就任直後から神武景気が走り出し事業は順調に運び、それまで無配を続けてきた同社も31年度には1割配当に復配した
- [20]当時、大規模な造船所ではほとんど電気カンナが使用されていたが国産品は全くなく全部が海外からの輸入品だったため、まず現物を取り寄せて検討した
- [21]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
- [22]米国製は刃の巾が80ミリ(2.6寸)だったが日本の建築は普通4寸柱を使うので4寸巾とした。米国製は8万5,000円で販売されており、輸入品の半値以下にしたいと考え技術関係者に3万円を割って販売できるものを作るよう命じ、売出し価格を2万9,800円と決定した
- [23]電気カンナ発売の頃から景気は不況に落ち込み、モーター部門の月商は32年6月の2,000万円から33年10月には800万円に落ち込んだが、電気カンナは順調な売行きを示し、これを採用していなければ遭遇したであろう危機を回避した
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [19]1958年1月 国産第一号の携帯用電気カンナを発売
- [28]1962年5月 商号を株式会社マキタ電機製作所に変更
- [29]1962年8月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
- [30]1968年8月 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
- [32]1970年7月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
- [25]1959年 オーストラリアに小型電気カンナ1300を出荷(電動工具の初輸出)
- 証券 1968年20巻9号(234号)
- [26]昭和34年(1959年) モーターの生産を中止し、電動工具専門メーカーに転換
- [31]上場年月日 昭和43年8月21日。公開株数1,200,000株(公募公開)・公開価格940円
- [33]昭和43年2月期の売上高32億84百万円。電動工具のシェアは30.2%、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%。全国73か所の営業所・出張所、登録販売店10,130店
1964年〜海外進出の起点──マキタU.S.A.設立と欧州・オセアニア展開
輸出に本腰を入れたのは1964年頃からで、1967年度上期の輸出比率は6%、1968年2月期には7.1%となり、輸出先は約50〜55カ国へ広がった。1967年11月から12月にかけては後藤十次郎社長自身が米国と欧州を回って市場調査を行い、翌年のフランスか英国への駐在員派遣を検討している。国内では1962年の不況期に、全国22カ所だった営業所・出張所を30カ所増やして一県一店舗主義を実現する拡張策を打っており、この網が輸出拡大の前提になった。借入金は1963年に消え、1968年時点のマキタは無借金・高成長・高収益・高配当で株式市場の人気銘柄の筆頭とされている。1959年2月期を100とすれば1968年2月期は1830という伸びであった。1968年末の自己資本比率は日立工機61%、米ブラック・アンド・デッカー58%に対しマキタ80%である。
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- [34]39年頃から輸出に力を入れ、世界55〜56カ国に輸出。42年度上期決算の輸出比率は6%、今2月期には7〜7.5%に達する見込み(証券1968では約50か国・売上高比7.1%)
- [35]昨年11月初旬から12月中旬まで社長自身が米国・ヨーロッパを回って市場調査を行い、今年中にフランスかイギリスにも駐在員を派遣することを考えている
- [36]36年末に全国22の営業所・出張所を開設していたが、37年の不況到来を受け拡張計画を修正して30カ所増設し、一県一店舗主義を実現した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [37]昭和38年に借入金が皆無となった。1968年時点で借入金皆無・高成長・高収益・高配当を背景に株式市場で人気銘柄の筆頭とされた
- [38]1959年2月期を100%とすると1968年2月期の伸び率は1830%
- 日経ビジネス 1970年6月号
- [39]昭和38年にバランスシートから借入金の項目が消えた。43年末の自己資本比率は国内のライバル日立工機61%、米国のブラックディッカ社58%、マキタ80%
1970年7月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所第一部への昇格と同時に、初の海外拠点としてニューヨークにマキタU.S.A., Inc.を設立した。本社から派遣されたのは若手社員2人だった。最初の半年間は売上がゼロで、給与だけが出ていく赤字が毎月続いた。視察に訪れた後藤修宏社長に対し、現地法人の社長が経費の足しにラーメンの屋台を引かせてほしいと訴えたという逸話も残っている。これに対する社長の答えは、副業は認めない、資金の面はいくらでも用意するので、ともかく売ってこい、というものだった。同じ月には愛知県岡崎市に岡崎工場を新設し、国内の生産能力増強と海外初拠点の設立を並行して進めた。1971年9月にはマキタ・フランスS.A.を豊田通商と各40%出資の合弁で立ち上げ、1972年12月にマキタ・エレクトリック(U.K.)、1973年5月にマキタ・オーストラリアPty Ltdが続いている。
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [40]1970年7月 米国にマキタU.S.A., Inc.を設立(初の海外現地法人)。同月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
- [42]1970年7月 愛知県岡崎市に岡崎工場を新設
- [44]1971年9月 マキタ・フランスSA、1972年12月 マキタ・エレクトリック(UK)、1973年5月 マキタ・オーストラリアPty Ltd を設立
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- [41]45年7月にニューヨークに現地法人の販売会社を設立し本社から若い社員2人を派遣したが半年間の売上はゼロ。現地法人の社長がラーメンの屋台を引かせてほしいと直訴し、後藤社長は「副業はもちろんダメ。金はいくらでも出すからとにかく売れ」と答えた
- 豊田通商『人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み 1948-1989』(1991年)
- [43]昭和46年9月に合弁会社マキタフランス社を設立。資本金56万フラン(約3,600万円)で豊田通商とマキタ電機製作所が各40%、CCO社代表のJ・エパーが20%を出資した
1973年6月にはアムステルダム証券取引所へ大陸預託証券CDR形式で上場し、1977年2月には米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始した。販売子会社は1974年5月のマキタ・ベネルックス、同年6月のマキタSpA、1977年4月のマキタ・ヴェルクツォイクGmbH、1981年のブラジル・オーストリア、1983年のシンガポール、1984年のマキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)へと続き、1980年にはカナダで現地生産を開始して初の海外現地生産となった。1978年時点の海外販売拠点は現地法人・支店あわせて26カ所、1978年2月期の輸出売上は190億円で前期比53%増、売上全体に占める割合は4割を超えた。創業60年を挟む10年間で、国内メーカーから世界十数カ国に拠点を持つ国際企業への転身を果たした。
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [45]1973年6月 アムステルダム証券取引所に大陸預託証券CDR形式で上場
- [46]1977年2月 米国預託証券ADR発行に伴いナスダックで取引開始
- [47]1974年5月 マキタ・ベネルックス(オランダ)、1974年6月 マキタSpA(イタリア)を設立
- [48]1977年4月 マキタ・ヴェルクツォイクGmbH(ドイツ)を設立
- [49]1981年6月 マキタ・ド・ブラジル、1981年9月 オーストリア子会社、1983年4月 マキタ・パワー・ツールズ・シンガポール、1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)を設立
- マキタレポート2025
- [50]1980年 カナダにて現地生産を開始(初の海外現地生産)。2009年1月に生産終了
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- [51]現在の海外販売拠点は現地法人・支店合わせ26カ所に達する。53年2月期の輸出全体の売り上げは190億円と前期に比べ53%増え、売り上げ全体に占める割合も4割を超えた
参考文献[34]-[51]
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- [34]39年頃から輸出に力を入れ、世界55〜56カ国に輸出。42年度上期決算の輸出比率は6%、今2月期には7〜7.5%に達する見込み(証券1968では約50か国・売上高比7.1%)
- [35]昨年11月初旬から12月中旬まで社長自身が米国・ヨーロッパを回って市場調査を行い、今年中にフランスかイギリスにも駐在員を派遣することを考えている
- [36]36年末に全国22の営業所・出張所を開設していたが、37年の不況到来を受け拡張計画を修正して30カ所増設し、一県一店舗主義を実現した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [37]昭和38年に借入金が皆無となった。1968年時点で借入金皆無・高成長・高収益・高配当を背景に株式市場で人気銘柄の筆頭とされた
- [38]1959年2月期を100%とすると1968年2月期の伸び率は1830%
- 日経ビジネス 1970年6月号
- [39]昭和38年にバランスシートから借入金の項目が消えた。43年末の自己資本比率は国内のライバル日立工機61%、米国のブラックディッカ社58%、マキタ80%
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [40]1970年7月 米国にマキタU.S.A., Inc.を設立(初の海外現地法人)。同月 東京・名古屋・大阪証券取引所市場第一部に指定替え
- [42]1970年7月 愛知県岡崎市に岡崎工場を新設
- [44]1971年9月 マキタ・フランスSA、1972年12月 マキタ・エレクトリック(UK)、1973年5月 マキタ・オーストラリアPty Ltd を設立
- [45]1973年6月 アムステルダム証券取引所に大陸預託証券CDR形式で上場
- [46]1977年2月 米国預託証券ADR発行に伴いナスダックで取引開始
- [47]1974年5月 マキタ・ベネルックス(オランダ)、1974年6月 マキタSpA(イタリア)を設立
- [48]1977年4月 マキタ・ヴェルクツォイクGmbH(ドイツ)を設立
- [49]1981年6月 マキタ・ド・ブラジル、1981年9月 オーストリア子会社、1983年4月 マキタ・パワー・ツールズ・シンガポール、1984年9月 マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)を設立
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- [41]45年7月にニューヨークに現地法人の販売会社を設立し本社から若い社員2人を派遣したが半年間の売上はゼロ。現地法人の社長がラーメンの屋台を引かせてほしいと直訴し、後藤社長は「副業はもちろんダメ。金はいくらでも出すからとにかく売れ」と答えた
- [51]現在の海外販売拠点は現地法人・支店合わせ26カ所に達する。53年2月期の輸出全体の売り上げは190億円と前期に比べ53%増え、売り上げ全体に占める割合も4割を超えた
- 豊田通商『人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み 1948-1989』(1991年)
- [43]昭和46年9月に合弁会社マキタフランス社を設立。資本金56万フラン(約3,600万円)で豊田通商とマキタ電機製作所が各40%、CCO社代表のJ・エパーが20%を出資した
- [50]1980年 カナダにて現地生産を開始(初の海外現地生産)。2009年1月に生産終了
筆者考察
牧田電機製作所が創業から40年かけて身につけたのは、他社の完成品を動かす部品を作る技術だった。特殊モーターは大企業が手を出さない隙間ではあるが、多機種少量の生産は非能率で、朝鮮動乱の特需が切れた1953年から1955年にかけて会社は倒産寸前まで追い込まれる。1955年に社長へ戻った後藤十次郎氏が読んだのは、部品である限り完成品メーカーに値段を決められ続けるということだった。だから好況の最中に商売替えを命じている。モーターをやめて電気カンナを選んだのは、大工という買い手を名指しできたからであり、大企業が入ってこない小さな市場を自ら選び直した判断でもあった。
電気カンナの値付けには、部品メーカーの発想が残っていない。輸入品が8万5,000円だった市場で、日本の建築に使う4寸柱へ刃幅を合わせ、売値を2万9,800円と決めてから原価を作らせた。買い手の予算を先に見て、そこへ製品を合わせる順序である。1959年にモーターの生産を完全にやめたことで、会社は部品の供給者ではなく道具の作り手になった。1962年の不況期に営業所を全国へ広げた一県一店舗主義の網は、そのまま輸出と海外拠点の下地になる。1968年2月期に電動工具全体で30.2%、電気カンナで64.2%というシェアは、市場を選び直してから10年で得たものだった。
1915年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年02月期 | 単体 | 45 | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1968年02月期 | 単体 | 62 | +37.8% | 9 | n/a | n/a | n/a |
| 1969年02月期 | 単体 | 88 | +41.9% | 14 | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- 豊田通商『人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み 1948-1989』(1991年)
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- 証券アナリストジャーナル 1968年6巻2号(後藤十次郎)
- 証券 1968年20巻9号(234号)
- 日経ビジネス 1970年6月号
- 日経ビジネス 1973年9月17日号
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- マキタレポート2025