オークマ:大隈栄一の大隈麺機商会創業と工作機械への転換
1898年〜製麺機3台を販売した300円で名古屋に興した大隈麺機商会と、同郷から呼んだ村岡嘉六氏
大隈栄一氏は1898年1月、名古屋市石町3丁目で個人経営の大隈麺機商会を興し、自身の発明による製麺機を作って売り始めた。それ以前の大隈栄一氏は郷里の佐賀で、岳父の鶴沢栄吉氏から特許権、従弟から5,000円の提供を受けて佐賀麺機製造合資会社を設け、経営に当たった。1897年にはその事業を鶴沢栄吉氏らへ譲渡し、単身で郷里を出た。名古屋を選んだ理由として、麺類の消費が多いこと、中部の要衝として発展が見込めること、近隣の伊勢が素麺を産することの3点が伝わる。元手は、岳父から譲られた製麺機3台の売却代金300円である。消費地と原料産地の双方を見渡せる立地の選択が、新参の商会が最初の販路を探す前提になったとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [1]1898年1月、大隈栄一が個人経営で大隈麺機商会を興し、自ら発明した製麺機械の製造販売を開始
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [2]大隈栄一は郷里で義父鶴沢氏らと佐賀麺機製造合資会社を経営し、1897年に事業を鶴沢氏らへ譲って単身郷里を出た(元手は製麺機2台の売却残金200円ほどとする)
- [3]大隈栄一は郷里で義父鶴沢氏らと佐賀麺機製造合資会社を経営し、1897年に事業を鶴沢氏らへ譲って単身郷里を出た(元手は製麺機2台の売却残金200円ほどとする)
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [4]名古屋は麺類が盛ん・中部の要衝・伊勢が素麺産地と看取して進出。岳父から得た製麺機3台の売却代金300円を資本に石町3丁目で設立
- [5]名古屋は麺類が盛ん・中部の要衝・伊勢が素麺産地と看取して進出。岳父から得た製麺機3台の売却代金300円を資本に石町3丁目で設立
大隈栄一氏は1899年、佐賀の隣村、東背振村出身で満16歳に満たない村岡嘉六氏を名古屋に招き、草創期の右腕とした。工場は陶器の荷造場と焼付窯の跡を借りた建物で、設備は旋盤1台ほど。大隈栄一氏自身が職工1人と旋盤を回した。信用も乏しく、鋳物材料50円の仕入れに15円の手付金を求められたという。注文を得るため、2人は麺機を素麺業者のもとへ運び込み、7日間かけて利点を実地で示し、作った経験の無い大型機の注文も泊まり込みで仕上げた。麺機の能率が認められるにつれて職工は10人から20人へ増え、1904年春に富士塚町へ新工場を建てたころには40〜50人を抱えた。実物を動かして性能を見せる売り方が、縁故の無い土地で注文を得る有効な手立てだったのだろう。
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [6]1899年に同郷の村岡嘉六(満16歳未満)を招く。素麺業者宅に麺機を持ち込み7日間説明、大型麺機の注文を泊り込みで製作し注文が増加
- [10]1899年に同郷の村岡嘉六(満16歳未満)を招く。素麺業者宅に麺機を持ち込み7日間説明、大型麺機の注文を泊り込みで製作し注文が増加
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [7]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
- [8]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
- [9]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
- [11]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
参考文献[1]-[11]
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [1]1898年1月、大隈栄一が個人経営で大隈麺機商会を興し、自ら発明した製麺機械の製造販売を開始
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [2]大隈栄一は郷里で義父鶴沢氏らと佐賀麺機製造合資会社を経営し、1897年に事業を鶴沢氏らへ譲って単身郷里を出た(元手は製麺機2台の売却残金200円ほどとする)
- [3]大隈栄一は郷里で義父鶴沢氏らと佐賀麺機製造合資会社を経営し、1897年に事業を鶴沢氏らへ譲って単身郷里を出た(元手は製麺機2台の売却残金200円ほどとする)
- [7]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
- [8]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
- [9]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
- [11]創業時は旋盤1台ほどで大隈栄一自ら職工1人と作業。鋳物材料50円の購入に手付15円。職工10人・20人と増え1904年春の富士塚町新工場のころ40〜50人。石町の陶器荷造場・焼付窯の跡を借りて工場とした
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [4]名古屋は麺類が盛ん・中部の要衝・伊勢が素麺産地と看取して進出。岳父から得た製麺機3台の売却代金300円を資本に石町3丁目で設立
- [5]名古屋は麺類が盛ん・中部の要衝・伊勢が素麺産地と看取して進出。岳父から得た製麺機3台の売却代金300円を資本に石町3丁目で設立
- [6]1899年に同郷の村岡嘉六(満16歳未満)を招く。素麺業者宅に麺機を持ち込み7日間説明、大型麺機の注文を泊り込みで製作し注文が増加
- [10]1899年に同郷の村岡嘉六(満16歳未満)を招く。素麺業者宅に麺機を持ち込み7日間説明、大型麺機の注文を泊り込みで製作し注文が増加
1904年〜日露戦争で弾丸でなく弾丸旋盤を選んだ麺機商会と、陸軍砲兵工廠の填薬装弾機
大隈麺機商会は1904年の日露戦争の開戦を機に弾丸旋盤や立削盤を作り始め、工作機械の生産に入った。開戦時、名古屋で西洋カジヤと呼ばれた中小の機械工場の多くは、鋳物の弾丸と信管の製造に殺到した。大隈麺機商会は弾丸には手を付けず、発足したばかりの日本車輛と同じく兵器を作るための機械の製作に向かった。同じ年には富士塚町に約600坪の敷地を取得し、新工場を建設。当時の工作機械は欧米からの輸入に依存しており、大隈麺機商会はその後、旋盤・形削盤・ボール盤・フライス盤・研磨盤といった汎用機の国産化に努めた。戦争が終われば需要の消える弾丸でなく、平時の工場にも売れる機械を選んだことが、戦後の事業の土台になったと推察される。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「大隈鉄工所」
- [12]1904年、日露戦争の開始により弾丸旋盤・立削盤などの製造を開始(工作機械生産の始まり)
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [13]日露戦争で名古屋の中小機械メーカーは弾丸・信管作りに走ったが、大隈麺機商会は日本車輛と同様に兵器製造機械の製作を開始。富士塚町に約600坪の新工場
- [14]日露戦争で名古屋の中小機械メーカーは弾丸・信管作りに走ったが、大隈麺機商会は日本車輛と同様に兵器製造機械の製作を開始。富士塚町に約600坪の新工場
- [15]日露戦争で名古屋の中小機械メーカーは弾丸・信管作りに走ったが、大隈麺機商会は日本車輛と同様に兵器製造機械の製作を開始。富士塚町に約600坪の新工場
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [16]1904年に工作機械の製造を開始し、欧米からの輸入に依存していた工作機械の国産化に努め、旋盤・形削盤・ボール盤・フライス盤・研磨盤など汎用機を製造
村岡嘉六氏は日露戦争に応召して満洲の各地を転戦し、帰還後の1906年に23歳で工場長となり、現場の責任を負った。戦後は製麺機の売れ行きが以前の倍になり、大隈麺機商会の名は全国に知られた。大隈栄一氏はこの間も発明を重ね、製麺機を中心に5〜6種の特許を得た。販路は国内から海外へ広がり、大隈の麺機は豊田の織機、鈴木のバイオリンと並ぶ名古屋の特色ある産品に数えられた。1915年には布池町で工場を大きく拡張して設備を充実させ、製麺機のほかに一般の工作機械も手がけ、とくに精密機械に力を入れた。創業者が発明と受注を、村岡嘉六氏が製造現場を受け持つ分担が、製麺機と工作機械の2つの事業を並行させた条件と思われる。
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [17]村岡嘉六は日露戦争に応召後、1906年に23歳で工場長となり現場責任者に。戦後は製麺機の売行きが倍増し商会の名が全国に知られた
- [18]村岡嘉六は日露戦争に応召後、1906年に23歳で工場長となり現場責任者に。戦後は製麺機の売行きが倍増し商会の名が全国に知られた
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [19]大隈栄一は当時既に5〜6種の発明特許を得、販路は海外へ広がり豊田の織機・鈴木のバイオリンと併称。1915年に布池町で工場を拡張し一般工作機・精密機械に注力
- [20]大隈栄一は当時既に5〜6種の発明特許を得、販路は海外へ広がり豊田の織機・鈴木のバイオリンと併称。1915年に布池町で工場を拡張し一般工作機・精密機械に注力
- [21]大隈栄一は当時既に5〜6種の発明特許を得、販路は海外へ広がり豊田の織機・鈴木のバイオリンと併称。1915年に布池町で工場を拡張し一般工作機・精密機械に注力
第一次世界大戦が始まると、大隈栄一氏は陸軍砲兵工廠から小銃と銃弾を製造する機械の注文を受け、工場の稼働は一段と高まった。このうち填薬装弾機はそれまでドイツから輸入していた機械で、1917年に陸軍砲兵工廠の命で製作し、国産化に成功した。大隈栄一氏は精巧な機械の注文を一括では請け負わず、まず1台だけを引き受けて約1年をかけて仕上げ、納入試験で良好な結果を得た。1918年3月6日の工業動員法案の衆議院審議では、陸軍大臣がこの装弾機に触れて民間工場の製品を評価した。以後は陸海軍に加え、諸官署や学校からも機械の注文が続き、工場は年ごとに拡張された。輸入の途絶えた精密機械を国内で作り上げた実績が、軍と官の双方から注文を集める信用の源になったと考えられる。
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [22]第一次世界大戦で大隈栄一が陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾製造機械を受注。填薬装弾機を完成
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [23]欧州大戦で兵器製造用機械を開始し、1917年に陸軍砲兵工廠の命で填薬装弾機を製作、ドイツからの輸入に依存していた同機を国産化
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [24]1917〜1919年に東京砲兵工廠の命で填薬装弾機を製造。まず1台を約1年で完成し納入試験で好結果。1918年3月6日の工業動員法案審議で陸相が言及。以後陸海軍の注文が続く。諸官署・学校・民間からも注文が殺到し工場は年々拡張
- [25]1917〜1919年に東京砲兵工廠の命で填薬装弾機を製造。まず1台を約1年で完成し納入試験で好結果。1918年3月6日の工業動員法案審議で陸相が言及。以後陸海軍の注文が続く。諸官署・学校・民間からも注文が殺到し工場は年々拡張
- [26]1917〜1919年に東京砲兵工廠の命で填薬装弾機を製造。まず1台を約1年で完成し納入試験で好結果。1918年3月6日の工業動員法案審議で陸相が言及。以後陸海軍の注文が続く。諸官署・学校・民間からも注文が殺到し工場は年々拡張
参考文献[12]-[26]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「大隈鉄工所」
- [12]1904年、日露戦争の開始により弾丸旋盤・立削盤などの製造を開始(工作機械生産の始まり)
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [13]日露戦争で名古屋の中小機械メーカーは弾丸・信管作りに走ったが、大隈麺機商会は日本車輛と同様に兵器製造機械の製作を開始。富士塚町に約600坪の新工場
- [14]日露戦争で名古屋の中小機械メーカーは弾丸・信管作りに走ったが、大隈麺機商会は日本車輛と同様に兵器製造機械の製作を開始。富士塚町に約600坪の新工場
- [15]日露戦争で名古屋の中小機械メーカーは弾丸・信管作りに走ったが、大隈麺機商会は日本車輛と同様に兵器製造機械の製作を開始。富士塚町に約600坪の新工場
- [17]村岡嘉六は日露戦争に応召後、1906年に23歳で工場長となり現場責任者に。戦後は製麺機の売行きが倍増し商会の名が全国に知られた
- [18]村岡嘉六は日露戦争に応召後、1906年に23歳で工場長となり現場責任者に。戦後は製麺機の売行きが倍増し商会の名が全国に知られた
- [22]第一次世界大戦で大隈栄一が陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾製造機械を受注。填薬装弾機を完成
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [16]1904年に工作機械の製造を開始し、欧米からの輸入に依存していた工作機械の国産化に努め、旋盤・形削盤・ボール盤・フライス盤・研磨盤など汎用機を製造
- [23]欧州大戦で兵器製造用機械を開始し、1917年に陸軍砲兵工廠の命で填薬装弾機を製作、ドイツからの輸入に依存していた同機を国産化
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [19]大隈栄一は当時既に5〜6種の発明特許を得、販路は海外へ広がり豊田の織機・鈴木のバイオリンと併称。1915年に布池町で工場を拡張し一般工作機・精密機械に注力
- [20]大隈栄一は当時既に5〜6種の発明特許を得、販路は海外へ広がり豊田の織機・鈴木のバイオリンと併称。1915年に布池町で工場を拡張し一般工作機・精密機械に注力
- [21]大隈栄一は当時既に5〜6種の発明特許を得、販路は海外へ広がり豊田の織機・鈴木のバイオリンと併称。1915年に布池町で工場を拡張し一般工作機・精密機械に注力
- [24]1917〜1919年に東京砲兵工廠の命で填薬装弾機を製造。まず1台を約1年で完成し納入試験で好結果。1918年3月6日の工業動員法案審議で陸相が言及。以後陸海軍の注文が続く。諸官署・学校・民間からも注文が殺到し工場は年々拡張
- [25]1917〜1919年に東京砲兵工廠の命で填薬装弾機を製造。まず1台を約1年で完成し納入試験で好結果。1918年3月6日の工業動員法案審議で陸相が言及。以後陸海軍の注文が続く。諸官署・学校・民間からも注文が殺到し工場は年々拡張
- [26]1917〜1919年に東京砲兵工廠の命で填薬装弾機を製造。まず1台を約1年で完成し納入試験で好結果。1918年3月6日の工業動員法案審議で陸相が言及。以後陸海軍の注文が続く。諸官署・学校・民間からも注文が殺到し工場は年々拡張
1918年〜資本金100万円の株式會社大隈鐵工所と、萩野工場で試みた国産車「あつた号」
大隈栄一氏の事業は1918年7月15日、資本金100万円の株式会社大隈鐵工所に改組した。改組を援助したのは、愛知銀行頭取の渡辺義郎氏と、当時は岡谷清次郎氏を名乗っていたのちの岡谷惣助氏らである。村岡嘉六氏は創立と同時に常務取締役となり、工場長も続けて兼ねて現場を統括した。改組の前の1915年に布池町の工場を拡張し、改組の翌1919年には東大曽根町で分工場の建設に着手。1928年時点で払込済みの資本は70万円で、株式2万株の約半数を大隈栄一氏が保有し、名義書き換えには重役会の承認を要した。外部の出資を仰ぎつつ株式の半数と譲渡の承認を握る設計は、拡張資金の調達と創業者による経営の維持を両立させる狙いだったと推測される。
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [27]1918年7月、資本金100万円の株式会社に改組し社名を大隈鉄工所とする
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [28]1918年、愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷清次郎(のちの岡谷惣助)らの援助で7月15日に株式会社大隈鉄工所を創立。村岡嘉六は常務取締役兼工場長
- [29]1918年、愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷清次郎(のちの岡谷惣助)らの援助で7月15日に株式会社大隈鉄工所を創立。村岡嘉六は常務取締役兼工場長
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [30]1915年布池町で工場拡張、1918年7月株式会社化、1919年東大曽根町に分工場着手。1928年時点で資本金100万円(払込70万円)、株式2万株の約半数を大隈栄一が保有し名義書替に重役会承認
- [31]1915年布池町で工場拡張、1918年7月株式会社化、1919年東大曽根町に分工場着手。1928年時点で資本金100万円(払込70万円)、株式2万株の約半数を大隈栄一が保有し名義書替に重役会承認
大隈鐵工所は1919年、専売局の依頼で巻煙草の自動製造機を含む煙草製造用機械を手がけ、在来の機械に改良を加えて納めた。翌1920年には、愛知県尾西地方で毛織物工業が興ったのに合わせて毛織機の製造を始めた。東大曽根町の分工場は1921年に完成し、力織機とその準備機を専門に製造した。1923年の関東大震災の後には煙草巻機械を大量に受託し、この受注が昭和初期の不況下でも高い配当を続けた要因となった。1928年時点の従業員は職員約50名・職工約350名で、年平均の生産額は100万円、配当は年1割3分である。兵器の注文が引いた後の工場を、専売局と繊維産業という平時の需要で埋めたことが、不況期の業績を支えた構図とうかがえる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [32]1919年に専売局の依頼で煙草製造用機械の製造を開始し改良を加えて納入、翌1920年に毛織機の製造を開始
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「大隈鉄工所」
- [33]1920年、愛知県尾西地方に毛織物工業が興るとともに毛織機の製造を開始
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [34]東大曽根町の分工場は1921年完成し力織機を製造。1928年時点で職員約50名・職工約350名、年平均生産額100万円、年1割3分の配当。主要品目に力織機及び準備機、巻煙草自働製造機械
- [36]東大曽根町の分工場は1921年完成し力織機を製造。1928年時点で職員約50名・職工約350名、年平均生産額100万円、年1割3分の配当。主要品目に力織機及び準備機、巻煙草自働製造機械
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [35]1923年の関東大震災を機に煙草巻機械を大量受託し、昭和初期の不況にも高配当を続けた原因となった
大隈鐵工所は1934年5月、乗用自動車を作る萩野工場を新設し、7月には資本金を200万円に増やした。自動車への参入は、『何か平和的なもので、コンスタントに売れるものを』という考えから出たものである。日本車輛・岡本工業との3社提携で国産車を仕上げて「あつた号」と名付け、名古屋市や陸海軍に試作車数台を納めた。ただ製造費が高く、改良を続けるうちに1937年の日華事変で自動車の製造は中止となった。1937年ごろから大隈鐵工所は工作機械に主力を注ぎ、製造品目は185種に及び、国内の工作機械の五大メーカーに名を連ねた。自動車のために建てた萩野工場が工作機械の量産を担う拠点に転じたことが、次の時代の主力工場を用意する結果になったと解される。
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [37]1934年5月に乗用自動車製造工場として萩野工場を新設、同年7月資本金200万円。1937年ごろから工作機械に主力を注ぎ185種、五大メーカーの一つに
- [42]1934年5月に乗用自動車製造工場として萩野工場を新設、同年7月資本金200万円。1937年ごろから工作機械に主力を注ぎ185種、五大メーカーの一つに
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「大隈鉄工所」
- [38]1934年に萩野工場(のちの本社工場)を新設
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [39]「平和的でコンスタントに売れるもの」を求め自動車製造に参入、日本車輛・岡本工業と3社提携で国産車「あつた号」を作り名古屋市・陸海軍に試作数台。コスト高のまま支那事変で中止
- [40]「平和的でコンスタントに売れるもの」を求め自動車製造に参入、日本車輛・岡本工業と3社提携で国産車「あつた号」を作り名古屋市・陸海軍に試作数台。コスト高のまま支那事変で中止
- [41]「平和的でコンスタントに売れるもの」を求め自動車製造に参入、日本車輛・岡本工業と3社提携で国産車「あつた号」を作り名古屋市・陸海軍に試作数台。コスト高のまま支那事変で中止
参考文献[27]-[42]
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- [27]1918年7月、資本金100万円の株式会社に改組し社名を大隈鉄工所とする
- [32]1919年に専売局の依頼で煙草製造用機械の製造を開始し改良を加えて納入、翌1920年に毛織機の製造を開始
- [37]1934年5月に乗用自動車製造工場として萩野工場を新設、同年7月資本金200万円。1937年ごろから工作機械に主力を注ぎ185種、五大メーカーの一つに
- [42]1934年5月に乗用自動車製造工場として萩野工場を新設、同年7月資本金200万円。1937年ごろから工作機械に主力を注ぎ185種、五大メーカーの一つに
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- [28]1918年、愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷清次郎(のちの岡谷惣助)らの援助で7月15日に株式会社大隈鉄工所を創立。村岡嘉六は常務取締役兼工場長
- [29]1918年、愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷清次郎(のちの岡谷惣助)らの援助で7月15日に株式会社大隈鉄工所を創立。村岡嘉六は常務取締役兼工場長
- [35]1923年の関東大震災を機に煙草巻機械を大量受託し、昭和初期の不況にも高配当を続けた原因となった
- [39]「平和的でコンスタントに売れるもの」を求め自動車製造に参入、日本車輛・岡本工業と3社提携で国産車「あつた号」を作り名古屋市・陸海軍に試作数台。コスト高のまま支那事変で中止
- [40]「平和的でコンスタントに売れるもの」を求め自動車製造に参入、日本車輛・岡本工業と3社提携で国産車「あつた号」を作り名古屋市・陸海軍に試作数台。コスト高のまま支那事変で中止
- [41]「平和的でコンスタントに売れるもの」を求め自動車製造に参入、日本車輛・岡本工業と3社提携で国産車「あつた号」を作り名古屋市・陸海軍に試作数台。コスト高のまま支那事変で中止
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)
- [30]1915年布池町で工場拡張、1918年7月株式会社化、1919年東大曽根町に分工場着手。1928年時点で資本金100万円(払込70万円)、株式2万株の約半数を大隈栄一が保有し名義書替に重役会承認
- [31]1915年布池町で工場拡張、1918年7月株式会社化、1919年東大曽根町に分工場着手。1928年時点で資本金100万円(払込70万円)、株式2万株の約半数を大隈栄一が保有し名義書替に重役会承認
- [34]東大曽根町の分工場は1921年完成し力織機を製造。1928年時点で職員約50名・職工約350名、年平均生産額100万円、年1割3分の配当。主要品目に力織機及び準備機、巻煙草自働製造機械
- [36]東大曽根町の分工場は1921年完成し力織機を製造。1928年時点で職員約50名・職工約350名、年平均生産額100万円、年1割3分の配当。主要品目に力織機及び準備機、巻煙草自働製造機械
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「大隈鉄工所」
- [33]1920年、愛知県尾西地方に毛織物工業が興るとともに毛織機の製造を開始
- [38]1934年に萩野工場(のちの本社工場)を新設
出典・参考
4件
- 会社銀行八十年史(1955年)「大隈鉄工所」
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968年)「大隈鉄工所」
- 和田宏『中部財界人物伝』(中部経済新聞社, 1957年)村岡嘉六の評伝(抜粋)
- 愛知商工 (161) 1928年4月「第三十四 大隈鐵工所」(p64-72)