第1章 年〜年

日本ガイシ:日本碍子の設立と「6:4構想」による多角化宣言

特別高圧ガイシの輸入代替から世界市場25%の確保へ

1919年〜森村組から分離した特別高圧碍子工場

日本の電気事業は1886年に東京電灯が営業を始めたのを皮切りに各地で興り、電力を長距離送電する送電線が年々増えた。送電線の伸びに比例して碍子の需要も急増したが、当時はアメリカ・イギリスなど先進国からその全量を輸入していた。1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎は、アメリカのトーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し、国産化を勧めた。これがわが国における特別高圧碍子製造の発端である。大倉喜八郎社長は『営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ』との決意で技術陣の研究を始めさせた。輸入に依存していた送電用碍子を国産で置き換えるというこの動機が、後に碍子部門を日本陶器から独立させる選択へつながった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1886年(明治19年)東京電灯が営業を始め、以後各地で電気事業が興り送電線が増加
    • [2]当時のガイシはアメリカ・イギリスなど先進国から全量を輸入していた
    • [3]1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎が米トーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し国産化を勧めた(特別高圧碍子製造の発端)
    • [4]大倉和親社長が「営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ」との決意で技術研究を始めさせた

1904年、森村組は対米輸出用の陶磁器生産のため愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立した。翌1905年、アメリカ視察から戻った芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が、特別高圧碍子の製造研究を勧めた。日本陶器はこの助言に従って研究に着手し、1907年には芝浦製作所に15kV用碍子を初納入する。以後、日本の電気事業の興隆とともに碍子需要が急増し、1919年5月、大倉和親・森村開作ら8名が発起人となって碍子部門を独立させ、資本金200万円の日本碍子株式会社が名古屋に設立された。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]1904年 森村組が愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立
    • [6]1905年 芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が特別高圧碍子の製造研究を勧めた
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [7]1907年 芝浦製作所に15kV用碍子を初納入
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [8]1919年5月 日本陶器の碍子部門を独立させ資本金200万円の日本碍子株式会社を名古屋に設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [9]1919年5月の設立は大倉和親・森村開作ら8名(大倉和親・森村開作他六名)が発起人
昭和恐慌の受注減を国内協調と輸出開拓で凌いだ

設立から10年を経て、需要は反転した。日本碍子の受注額は1929年下期から減少に転じ、それまで経験したことのない規模の受注減退に陥った。ハロップ式トンネル窯の導入によって生産能力を引き上げた直後の減少であり、埋めるべき操業度の穴は大きかった。苦しい時期に定めた方針は、ガイシでは国内で協調しつつ海外の市場を切り開き、ガイシ以外の新製品では新しい需要家を掘り起こすというものだった。小口需要家の開拓に乗り出したことを示すのが1930年11月の「日碍報告」で、山あいの辺鄙な土地の小さな会社でも機会があれば訪ねて受注に努めるとしており、販売員が植木鉢や火鉢を百貨店の園芸部へ売り込むよう命じられたのもこの時期だった。資本金は設立時の200万円のまま据え置かれ、受注が持ち直す1937年5月まで増えなかった。

  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [10]日本碍子の受注額は昭和4年(1929年)下期から減少し始め、かつて経験したことのない受注減退となった
    • [11]ハロップ式トンネル窯の導入で生産能力が向上した直後に昭和恐慌による受注減が襲った
    • [12]苦境を乗り切るための販売方針は、ガイシは国内市場の協調と海外市場の開拓、ガイシ以外の新製品は需要家の新規開拓であった
    • [13]昭和5年11月10日の「日碍報告」が「例へ山間僻地ノ小会社ト雖モ序ヲ利用シ訪問受註ニ努ムル可ク」と小口需要家の開拓方針を打ち出した
    • [14]販売員が植木鉢や火鉢を百貨店の園芸部に売り込みにいくよう命じられた
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
    • [15]大正8年5月の設立時資本金200万円は、昭和12年5月に300万円へ増資されるまで据え置かれた
参考文献[1]-[15]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1886年(明治19年)東京電灯が営業を始め、以後各地で電気事業が興り送電線が増加
    • [2]当時のガイシはアメリカ・イギリスなど先進国から全量を輸入していた
    • [3]1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎が米トーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し国産化を勧めた(特別高圧碍子製造の発端)
    • [4]大倉和親社長が「営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ」との決意で技術研究を始めさせた
    • [9]1919年5月の設立は大倉和親・森村開作ら8名(大倉和親・森村開作他六名)が発起人
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]1904年 森村組が愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立
    • [6]1905年 芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が特別高圧碍子の製造研究を勧めた
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [7]1907年 芝浦製作所に15kV用碍子を初納入
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [8]1919年5月 日本陶器の碍子部門を独立させ資本金200万円の日本碍子株式会社を名古屋に設立
  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [10]日本碍子の受注額は昭和4年(1929年)下期から減少し始め、かつて経験したことのない受注減退となった
    • [11]ハロップ式トンネル窯の導入で生産能力が向上した直後に昭和恐慌による受注減が襲った
    • [12]苦境を乗り切るための販売方針は、ガイシは国内市場の協調と海外市場の開拓、ガイシ以外の新製品は需要家の新規開拓であった
    • [13]昭和5年11月10日の「日碍報告」が「例へ山間僻地ノ小会社ト雖モ序ヲ利用シ訪問受註ニ努ムル可ク」と小口需要家の開拓方針を打ち出した
    • [14]販売員が植木鉢や火鉢を百貨店の園芸部に売り込みにいくよう命じられた
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
    • [15]大正8年5月の設立時資本金200万円は、昭和12年5月に300万円へ増資されるまで据え置かれた

1935年〜トンネル窯の増設と日本特殊陶業への切り出し

第2号トンネル窯を増設した

発電計画が少しずつ増えるにつれてガイシの注文は伸び、化学工業は耐酸磁器を求め、国産自動車と航空機工業が育てば点火プラグにも先行きがあり、輸出でもガイシと点火プラグは実績を上げていた。これが、江副孫右衛門がトンネル窯の増設を求めた根拠である。意見書は1934年12月に大倉和親社長あてに届けられた。見積もった納期が長すぎる今のままでは、同業者に腕を磨く時間を与え、日本碍子の前進を阻むことになる、とも江副は書き添えた。重役会が承認を出したのは翌1935年1月で、第1号と同じ仕様のハロップ式トンネル窯を1基、総予算33万1819円で建てる内容だった。窯の完成は7月である。資本金は1937年5月に300万円へ引き上げられた。設備投資は増産の手段であると同時に、競争相手の参入余地を塞ぐ手段でもあった。

  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [16]江副の意見書は、発電計画の漸増によるガイシ需要増加、化学工業への耐酸磁器需要、自動車の国産化と航空機工業の発達にともなうプラグの将来性、輸出面でのガイシとプラグの実績を増設の理由に挙げた
    • [17]昭和9年12月21日、江副孫右衛門が大倉和親にトンネル窯建設意見書を送付し第2号トンネル窯の建設と建設費を説明した
    • [18]江副は、見積納期が過大に長い現状が同業者に手習いの機会を与え日本碍子の進路を妨害していると意見書に記した
    • [19]昭和10年1月、重役会が第1号と同仕様のハロップ式トンネル窯1基と付属建物の建設を総予算33万1819円で承認し、同年7月に完成した
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
    • [20]昭和12年5月 資本金300万円に増資
点火プラグを別会社へ切り出した

1936年10月26日、日本特殊陶業株式会社の設立総会が東京市日本橋区で開かれ、江副孫右衛門が取締役社長に選ばれた。資本金は100万円で、期末における払込資本金50万円のうち25万円を日本碍子が払い込み、主要株主は日本碍子と森村組であった。切り出しの理由は三つあった。切り離して別の組織にしておけば調整がしやすい、というのがまず挙がった。点火プラグは新製品ながら利益率がまだガイシに届かず、同居させると利益の管理が込み入る。さらに、ガイシと耐酸磁器で築いた資産を、新製品の稼ぎと見誤らせずに済む。新工場の操業開始は1937年4月で、日本碍子から200余人が移籍し、総勢259人の体制となった。日中戦争が起きると、自動車向けと航空機向けの点火プラグを柱とする新会社の業容はさらに広がった。

  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [21]昭和11年10月26日、東京市日本橋区通1丁目で日本特殊陶業株式会社の設立総会が開かれ、取締役社長に江副孫右衛門が選任された
    • [22]日本特殊陶業の資本金は100万円で、期末の払込資本金50万円のうち25万円を日本碍子が払い込み、主要株主は日本碍子(1万株)と森村組(5000株)であった
    • [24]分離の理由は、プラグの利益率が低く利益管理を複雑化すること、別働体として分離するほうが調節が容易なこと、ガイシ・耐酸磁器で蓄積した資産を新製品の利潤と誤認させないことの3点
    • [25]日本碍子から200余人が配属されて日本特殊陶業の従業員は259人となり、昭和12年4月1日から新工場が操業を開始した
    • [26]自動車用および航空機用プラグを主力製品とする日本特殊陶業は、日中戦争の勃発を契機にいっそうの発展をみせた
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [23]1936年10月 点火プラグ部門を分離し資本金100万円で日本特殊陶業を設立
軍需会社の指定を受け、敗戦で在外資産を失った

1944年4月25日付で、日本碍子と日本特殊陶業は軍需会社に指定された。航空兵器をどれだけ造れるかが何より問われた時期である。生産責任者となった江副孫右衛門は、指定と同じ日に両社の社長職から身を引くと決めた。辞職願には、課された増産の目標に届かなかったことへの責任が書かれていた。技術課長だった鈴木俊雄によれば、素地の調合を他社に明かせという軍の求めを、江副は断ったことがある。自己資本の約3割、約250万円に及ぶ在外資産の喪失、得意先である電気事業と化学工業の不振、燃料や資材の不足、特別経理会社と集中排除法による法の制約という四つの打撃が、敗戦とともに一度に押し寄せた。無配は終戦時を含む第53期から1948年8月末の第56期まで続いた。

  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [27]昭和19年4月25日付で日本碍子と日本特殊陶業が「軍需会社法」による第二次指定を受けた
    • [28]生産責任者に選任された江副孫右衛門は同日中に両社社長を退く決心を固め、辞職願に増産目標を達成できなかった責任を記した
    • [29]当時の日本碍子技術課長・鈴木俊雄は、素地調合を他社へ公開せよという軍部の要求を江副社長がつっぱねたことがあったと証言
    • [30]終戦後の苦境の要因は、在外資産(株式で約250万円、当時の自己資本の約30%)の喪失、電気事業・化学工業の低迷、燃料・資材の入手難、占領下の法的規制の4点
    • [32]終戦時を含む第53期から昭和23年8月末に終了した第56期まで無配を余儀なくされた
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
    • [31]昭和21年8月 特別経理会社に該当、昭和23年8月 企業再建整備計画認可
参考文献[16]-[32]
  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [16]江副の意見書は、発電計画の漸増によるガイシ需要増加、化学工業への耐酸磁器需要、自動車の国産化と航空機工業の発達にともなうプラグの将来性、輸出面でのガイシとプラグの実績を増設の理由に挙げた
    • [17]昭和9年12月21日、江副孫右衛門が大倉和親にトンネル窯建設意見書を送付し第2号トンネル窯の建設と建設費を説明した
    • [18]江副は、見積納期が過大に長い現状が同業者に手習いの機会を与え日本碍子の進路を妨害していると意見書に記した
    • [19]昭和10年1月、重役会が第1号と同仕様のハロップ式トンネル窯1基と付属建物の建設を総予算33万1819円で承認し、同年7月に完成した
    • [21]昭和11年10月26日、東京市日本橋区通1丁目で日本特殊陶業株式会社の設立総会が開かれ、取締役社長に江副孫右衛門が選任された
    • [22]日本特殊陶業の資本金は100万円で、期末の払込資本金50万円のうち25万円を日本碍子が払い込み、主要株主は日本碍子(1万株)と森村組(5000株)であった
    • [24]分離の理由は、プラグの利益率が低く利益管理を複雑化すること、別働体として分離するほうが調節が容易なこと、ガイシ・耐酸磁器で蓄積した資産を新製品の利潤と誤認させないことの3点
    • [25]日本碍子から200余人が配属されて日本特殊陶業の従業員は259人となり、昭和12年4月1日から新工場が操業を開始した
    • [26]自動車用および航空機用プラグを主力製品とする日本特殊陶業は、日中戦争の勃発を契機にいっそうの発展をみせた
    • [27]昭和19年4月25日付で日本碍子と日本特殊陶業が「軍需会社法」による第二次指定を受けた
    • [28]生産責任者に選任された江副孫右衛門は同日中に両社社長を退く決心を固め、辞職願に増産目標を達成できなかった責任を記した
    • [29]当時の日本碍子技術課長・鈴木俊雄は、素地調合を他社へ公開せよという軍部の要求を江副社長がつっぱねたことがあったと証言
    • [30]終戦後の苦境の要因は、在外資産(株式で約250万円、当時の自己資本の約30%)の喪失、電気事業・化学工業の低迷、燃料・資材の入手難、占領下の法的規制の4点
    • [32]終戦時を含む第53期から昭和23年8月末に終了した第56期まで無配を余儀なくされた
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
    • [20]昭和12年5月 資本金300万円に増資
    • [31]昭和21年8月 特別経理会社に該当、昭和23年8月 企業再建整備計画認可
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [23]1936年10月 点火プラグ部門を分離し資本金100万円で日本特殊陶業を設立

1949年〜世界一のガイシ会社から非ガイシへの転回

近代的な管理手法を外から入れた

日本碍子は1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場し、戦後の再建を資本市場のもとで進めることになった。最初に手を着けたのは製品ではなく管理の型であった。1951年1月に中部経営者協会主催のMTP講座へ代表4人を送り、同年2月から11月にかけて社内講座を8回開いて約170人を訓練した。1952年8月には経営管理研究委員会が発足し、世界市場の関税と船賃を越えて製品を出せることが、会社の優劣を測る基準に据えられた。この導入は、吉本熊夫社長が掲げた「世界一の碍子会社たれ」「輸出碍管類の30%コスト引下げ」「新商品を開拓すべし」という三大目標に接続する意味合いをもっていた。1955年度のデミング賞実施賞は、効果の面でなお不十分として授賞の可否が保留された。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本碍子」
    • [33]昭和24年(1949年)5月16日 東京証券取引所に上場
  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [34]昭和26年1月に中部経営者協会主催のMTP講座へ代表4人を参加させ、26年2月から11月に社内MTP講座を8回開講して約170人を訓練した
    • [35]昭和27年11月の経営管理研究委員会第1回会合で野淵三治常務が「世界市場の関税を乗り越え、船賃を乗り越えて出せるという会社が一番優秀な会社であると思う」と発言
    • [36]近代的管理手法の導入は、吉本熊夫社長の3大目標「世界一の碍子会社たれ」「輸出碍管類の30%コスト引下げ」「新商品を開拓すべし」につながる意味合いをもっていた
    • [37]昭和30年度のデミング賞実施賞の審査結果は「効果において未だしの感があるので、授賞可否の決定は保留」であった
事業部制を敷いてガイシ以外を分離した

就任の辞で野淵三治は、国内で使われるガイシの80%を自社で生産し、輸出でも年額500万ドル以上を得ていると記した。第5代社長に就いたのは1959年10月29日で、翌11月には事業部制を取り入れた。ガイシは国内で高いシェアを保って落ち着いていた。一方、ガイシとそれ以外の部門は市場も製造技術も違い、同じ組織に混ぜておけば商機を逃しかねない。化工機と新商品を大きな事業に育てるには、部門ごとに製造から販売までを一体で動かす必要もあった。この三点が導入の根拠である。改組に伴い化工機部と新商品部が事業部として生まれ、輸出部は4課に広がった。従業員は1960年3月末で2,730人、本社瑞穂工場と熱田工場、知多工場が稼働していた。

  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [38]野淵三治は社長就任の辞で「今や碍子においては内需の八十%を生産し、外需としては年額五百万ドル以上を稼ぎ」と述べた
    • [39]昭和34年10月29日付で野淵三治が第5代社長に就任し、同年11月に事業部制を導入した
    • [40]事業部制採用の判断根拠は、ガイシの国内シェアが高水準で安定したこと、ガイシ部門と他部門が市場的にも製造技術的にも異質で混在はビジネスチャンスの喪失につながること、化工機と新商品を育てるには部門ごとに製造と販売を統合する必要があること
    • [41]事業部制導入にともない化工機部および新商品部を事業部として新設し、輸出部を4課体制へ拡充した
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
    • [42]従業員2,730人(1960年)。事業所は本社工場(名古屋市瑞穂区)、熱田工場(名古屋市熱田区)、知多工場(愛知県半田市)
輸出比率を5割へ引き上げた

1962年度の輸出は1300万ドルに達し、輸出先は東南アジアを中心に世界70カ国へ広がった。売上高に占める輸出の比率は、1961年9月期の22.8%から1963年3月期の53.2%へ、二年半で倍以上になった。高圧ガイシでは国内需要の80%を占め、世界市場でも25%見当の占拠率をもつに至っていた。一方で製品構成は偏っていた。1963年3月期のガイシは生産の90%強を占め、耐酸機器が8%、特殊金属は2%にすぎない。原石からの一貫生産を行ない、金具などの部品は系列会社と協力会社へ下請けさせる体制も、ガイシを前提に組まれていた。世界一を取った事業が景気変動を受けやすい国内の電力投資に依存する構図は、次の10年の主題を決めた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本碍子」
    • [43]昭和37年度は1300万ドルの輸出を達成し、輸出先は東南アジアを中心に世界70カ国におよんだ
    • [44]売上高に占める輸出比率は82期(昭和36年9月期)22.8%、83期26.3%、84期41.9%、85期(昭和38年3月期)53.2%
    • [45]高圧碍子では国内需要の80%を占有し、世界市場でも25%見当の占拠率をもつ
    • [46]碍子の生産が全体の90%強を占め、ほかに耐酸機器8%、特殊金属2%
    • [47]各製品とも原石からの一貫生産を行ない、碍子金具などの部品は系列会社や協力会社に下請け生産させている
参考文献[33]-[47]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本碍子」
    • [33]昭和24年(1949年)5月16日 東京証券取引所に上場
    • [43]昭和37年度は1300万ドルの輸出を達成し、輸出先は東南アジアを中心に世界70カ国におよんだ
    • [44]売上高に占める輸出比率は82期(昭和36年9月期)22.8%、83期26.3%、84期41.9%、85期(昭和38年3月期)53.2%
    • [45]高圧碍子では国内需要の80%を占有し、世界市場でも25%見当の占拠率をもつ
    • [46]碍子の生産が全体の90%強を占め、ほかに耐酸機器8%、特殊金属2%
    • [47]各製品とも原石からの一貫生産を行ない、碍子金具などの部品は系列会社や協力会社に下請け生産させている
  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
    • [34]昭和26年1月に中部経営者協会主催のMTP講座へ代表4人を参加させ、26年2月から11月に社内MTP講座を8回開講して約170人を訓練した
    • [35]昭和27年11月の経営管理研究委員会第1回会合で野淵三治常務が「世界市場の関税を乗り越え、船賃を乗り越えて出せるという会社が一番優秀な会社であると思う」と発言
    • [36]近代的管理手法の導入は、吉本熊夫社長の3大目標「世界一の碍子会社たれ」「輸出碍管類の30%コスト引下げ」「新商品を開拓すべし」につながる意味合いをもっていた
    • [37]昭和30年度のデミング賞実施賞の審査結果は「効果において未だしの感があるので、授賞可否の決定は保留」であった
    • [38]野淵三治は社長就任の辞で「今や碍子においては内需の八十%を生産し、外需としては年額五百万ドル以上を稼ぎ」と述べた
    • [39]昭和34年10月29日付で野淵三治が第5代社長に就任し、同年11月に事業部制を導入した
    • [40]事業部制採用の判断根拠は、ガイシの国内シェアが高水準で安定したこと、ガイシ部門と他部門が市場的にも製造技術的にも異質で混在はビジネスチャンスの喪失につながること、化工機と新商品を育てるには部門ごとに製造と販売を統合する必要があること
    • [41]事業部制導入にともない化工機部および新商品部を事業部として新設し、輸出部を4課体制へ拡充した
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
    • [42]従業員2,730人(1960年)。事業所は本社工場(名古屋市瑞穂区)、熱田工場(名古屋市熱田区)、知多工場(愛知県半田市)

筆者考察

輸入していた製品を自分で作る会社として出発し、世界市場の4分の1を取るまでに45年かかった。日本陶器のガイシ部門は、芝浦製作所の岸敬二郎がアメリカから持ち帰った一片から始まっている。電力会社が送電電圧を上げるたびに、要求される絶縁性能と機械的強度は上がり、ガイシは電線の太さと鉄塔の間隔に合わせて作り直さなければならなかった。この作り直しに応じ続けたことが、日本碍子の競争優位の正体である。ハロップ式トンネル窯も、抗張力19トンの懸垂ガイシも、すべて特定の送電計画の要求から逆算して生まれた。だからこそ50万ボルト送電がアメリカで始まったとき、最初の送電線の金具装置一式を名古屋の会社が受注できた。

要求に応じ続ける強さは、需要の側に会社を縛る弱さでもあった。昭和恐慌のとき、日本碍子の受注はトンネル窯を据えた直後に落ち、販売員は植木鉢を百貨店に売りに行った。設備は電力投資が続く限り競争相手を締め出す壁になり、投資が止まれば埋められない穴になる。それでも1963年3月期のガイシは生産の9割を占め、耐酸機器は8%、特殊金属は2%にすぎなかった。世界一のガイシ会社という達成は、一つの市場に9割を預けた状態の別名でもあった。野淵三治が5年後に6対4と言ったのは、築いた地位への自信からではなく、その地位の形が危ういと見たからである。

売上高に占める輸出の比率 1961年9月期〜1963年3月期(単体)(%)

22.8 61年9月期 26.3 62年3月期 41.9 62年9月期 53.2 63年3月期
  • 出所はダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本碍子」の業績一覧表。

出典・参考

7件
出典・参考
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
  • 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本碍子」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本碍子」

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