日本ガイシ:ハニカム担体の事業化による非碍子化
6対4構想から欧米現地生産による国際分業へ
1961年〜野淵三治の6対4構想が開いた北米市場
野淵三治社長は1961年11月、小牧工場の完成を間近に控えて「6:4構想」を明らかにした。前社長が掲げた世界一の碍子会社という目標は、1961年の時点でひとまず果たしたと見られていた。そこへ1962年から景気が後退し、内需向けのガイシ事業は景気の波に弱く、これを重く見て、そこから軸足を少しずつ移す狙いが生まれた。この二つを背景に、1962年7月の第11回販売会議で構想が正式に社内へ示された。中身は、5年後の全社売上高をガイシ6、非ガイシ4の比率へ持っていくというもので、1964年度に始まった第1次長期経営計画に組み込まれた。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [1]昭和36年11月、野淵社長は小牧工場の完成を間近に控えて「6:4構想」を明らかにした
- [2]野淵社長は昭和36年の年頭所感で世界一の碍子会社の地位を築き得たと記し、前社長の掲げた経営目標はいちおう達成されたと考えた
- [3]「6:4構想」のもう一つの背景は、景気後退の打撃を深刻に受けとめ、景気変動の影響を受けやすい国内向けガイシ事業への依存度を低減させようとしたこと
- [4]「6:4構想」は昭和37年7月に開かれた第11回販売会議で正式に社内向けに呼びかけられた
- [5]「6:4構想」は5年後に全社売上高の構成を碍子6対非碍子4まで高めるもので、昭和39年度から発足した第一次長期計画に組み込まれた
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [6]1964年 第1次長期経営計画で「6:4構想」を打ち出す
多角化と並ぶもう一本の柱は、北米向けを中心とするガイシ輸出の強化であった。1964年、日本碍子は米国内務省直属の電力機関であるBPAが着手した最初の50万ボルト送電線に、懸垂碍子連金具装置一式を大量受注した。全長五六〇キロメートルにわたるこの送電計画は、当時世界各国で計画されていた50万ボルト級送電線のうち、最初に建設へ着手されたものであった。1965年1月には販売会社NGK INSULATORS OF AMERICAを設立している。輸出の本格化は素地の作り直しも迫った。アメリカでは送電線のガイシが興味本位で銃撃される事件が相次ぎ、機械的強度の低下を指摘された技術陣は、従来のS素地をアルミナ系の素地へ転換することで短期間に問題を克服した。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [7]昭和37年から40年の景気後退に対して日本碍子がとった基本戦略は、事業多角化の本格的推進と北米向けを中心とするガイシ輸出の強化であった
- [8]米国内務省直属の電力機関BPAの最初の50万ボルト送電線に、日本碍子が懸垂碍子連金具装置一式を大量受注した
- [9]BPAの50万ボルト送電計画は全長560キロメートルで、世界各国で計画された50万ボルト級送電線のうちトップをきって建設に着手された
- [11]アメリカで送電線のガイシが銃撃される「マル懸問題」で機械的強度の低下を指摘され、従来のS素地をアルミナ系素地へ転換することで短期間に克服した
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [10]1965年1月 販売会社NGK INSULATORS OF AMERICAを設立
最初の計画は1960〜1964年度を対象とし、月額10億円以上の売上高を最大の目標とした。当初は達成に5年から7年かかると見込まれていたが、5カ年計画のなかで実現できる見通しに変わった。5年ごとに長期経営計画を立てる習わしは、野淵社長の就任後に始まったものである。第1次長期計画には「6:4構想」が入り、1963年度実績で83対17だったガイシと非ガイシの比を、1968年度には60対40にすることが目標となった。1967年度の実績は75対25にとどまり、目標には届かなかった。1971年には電子工業用セラミックス製品の製造販売を始め、構成比を動かす手は次の計画へ引き継がれた。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [12]昭和35〜39年度長期計画の最大のポイントは月額10億円以上の売上高の実現で、野淵社長は「最初ノ気持ハ、5〜7年ヲ念頭ニ置イテイタガ……5カ年計画デ実現出来ル見通シトナッタ」と述べた
- [13]野淵社長の就任後、日本碍子は5年ごとの長期経営計画を策定するようになった
- [14]長期計画の碍子対非碍子の構成比は、昭和38年度実績83対17に対し39年度目標60対40、43年度目標60対40
- [15]昭和42年度実績の構成比は75対25にとどまった
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [16]1971年1月 電子工業用セラミックス製品の製造販売開始
参考文献[1]-[16]
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [1]昭和36年11月、野淵社長は小牧工場の完成を間近に控えて「6:4構想」を明らかにした
- [2]野淵社長は昭和36年の年頭所感で世界一の碍子会社の地位を築き得たと記し、前社長の掲げた経営目標はいちおう達成されたと考えた
- [3]「6:4構想」のもう一つの背景は、景気後退の打撃を深刻に受けとめ、景気変動の影響を受けやすい国内向けガイシ事業への依存度を低減させようとしたこと
- [4]「6:4構想」は昭和37年7月に開かれた第11回販売会議で正式に社内向けに呼びかけられた
- [5]「6:4構想」は5年後に全社売上高の構成を碍子6対非碍子4まで高めるもので、昭和39年度から発足した第一次長期計画に組み込まれた
- [7]昭和37年から40年の景気後退に対して日本碍子がとった基本戦略は、事業多角化の本格的推進と北米向けを中心とするガイシ輸出の強化であった
- [8]米国内務省直属の電力機関BPAの最初の50万ボルト送電線に、日本碍子が懸垂碍子連金具装置一式を大量受注した
- [9]BPAの50万ボルト送電計画は全長560キロメートルで、世界各国で計画された50万ボルト級送電線のうちトップをきって建設に着手された
- [11]アメリカで送電線のガイシが銃撃される「マル懸問題」で機械的強度の低下を指摘され、従来のS素地をアルミナ系素地へ転換することで短期間に克服した
- [12]昭和35〜39年度長期計画の最大のポイントは月額10億円以上の売上高の実現で、野淵社長は「最初ノ気持ハ、5〜7年ヲ念頭ニ置イテイタガ……5カ年計画デ実現出来ル見通シトナッタ」と述べた
- [13]野淵社長の就任後、日本碍子は5年ごとの長期経営計画を策定するようになった
- [14]長期計画の碍子対非碍子の構成比は、昭和38年度実績83対17に対し39年度目標60対40、43年度目標60対40
- [15]昭和42年度実績の構成比は75対25にとどまった
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [6]1964年 第1次長期経営計画で「6:4構想」を打ち出す
- [10]1965年1月 販売会社NGK INSULATORS OF AMERICAを設立
- [16]1971年1月 電子工業用セラミックス製品の製造販売開始
1969年〜排ガス規制の先読みによるACハニカムの事業化
1969年11月28日、野淵三治の病気辞任を受けて福田克美専務が第6代社長に就任した。野淵と鈴木俊雄副社長の体制は10年続いており、会長となった鈴木のもとで、企業を取りまく環境の急激な変化に対応する若返りとして55歳の新社長が置かれた。新体制は1970年10月、新5カ年計画と同時に事業部を商品系列別へ再編した。碍子事業部からガイシ周辺の電気機器類を分離して電機事業部とし、化工機事業部から水処理・汚泥処理・産業廃棄物処理部門を分離して環境装置事業部とし、新商品事業部を金属事業部とセラミック事業部へ分割している。同時に社長直轄の開発本部と合理化本部が置かれ、新製品開発を全社的見地で企画する事務局が社長室に設けられた。1971年3月期の売上高は333億円であった。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [17]昭和44年11月28日の取締役会が野淵三治社長の病気辞任を承認し、第6代社長に福田克美専務を選任した
- [18]会長に就任した鈴木俊雄は「野淵-鈴木のコンビで十年続けてきたが、その間企業をとりまく環境が急激に変化しているので、できるだけ若返りをはかりたい」と説明した
- [19]昭和45年10月5日付で、新5カ年計画の策定と同時に事業部の商品系列別の再編が実施された
- [20]再編で碍子事業部からガイシ周辺の電気機器類を分離して電機事業部を独立させ、化工機事業部から水処理・汚泥処理・産業廃棄物処理部門を分離して環境装置事業部とし、新商品事業部を金属事業部とセラミック事業部へ分割した
- [21]事業部の再編と同時に社長直轄の開発本部と合理化本部が設置され、開発本部の事務局が社長室内に設けられた
- 会社年鑑(1976年版)
- [22]1971年3月期の売上高333億円(単体)
大気汚染が深刻になり、日米で自動車の排ガス規制を強める動きが出ていた。1970年10月に発足した新研究所はこれに目を向け、排ガス処理について調べるよう所員に命じた。1971年4月から7月の調査でわかったのは、日本の1975年規制もアメリカのマスキー法規制も触媒方式でなければ越えられないこと、そして日米の自動車メーカーの多くが1974年型で触媒浄化装置を載せる準備を進めていることだった。セラミックメーカーの手には触媒担体の開発が合う。形状も従来のペレットより、アメリカで一部に出始めていたハニカムがよい。研究所はこう見定めた。同年8月には、触媒を受け持つ神戸製鋼所との共同開発が正式に動き出し、1976年のフォード社への初納入をもって自動車用セラミックス製品の製造販売が始まった。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [23]昭和45年10月に発足した新研究所は、大気汚染の深刻化と日米両国での排ガス規制強化の動きに注目し、所員に排ガス処理に関する調査を命じた
- [24]昭和46年4月から7月の調査で、日本の50年規制とアメリカのマスキー法規制をクリアするには触媒方式によらねばならないこと、日米自動車メーカーの多くが49年型から触媒浄化装置の取り付けを準備していることが判明した
- [25]セラミックメーカーとしては触媒担体の開発を図るのがふさわしく、担体の種類は既存のペレットではなくアメリカで一部出回り始めたハニカム形状が好ましいとの判断に達した
- [26]昭和46年8月、中古車向け触媒コンバーターの触媒開発を担当した神戸製鋼所と共同で、正式に開発がスタートした
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [27]1976年 フォード社に自動車排ガス浄化用セラミックスハニカム担体を初納入/1976年1月 自動車用セラミックス製品の製造販売開始
中心の課題は、ガイシ事業と環境装置事業に続く第三の柱を育てることで、なかでもニューセラミックス事業を早く立ち上げることが何より優先された。その土台は1977年6月に社長となった竹見淳一の基本方針で、効率経営の徹底と市場を重んじる事業展開、開発の重視と推進、財務体質の強化という三つの柱からなる。海外では現地での生産に乗り出した。アメリカではロックガイシを立て直し、ベルギーではガイシメーカーを買ってNGKボドゥールを設けた。1985年には、ACハニカムを造るためのNGKセラミックス・ヨーロッパもベルギーに生まれた。財務も同時に組み替えられ、1974年度末に153億円あった借入金は1976年度末に55億円、1984年度末には14億円まで減少した。1984年度には電力事業本部以外の売上高が全体の5割を超えた。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [28]ガイシ事業、環境装置事業につぐ「第三の柱となる事業を育成すること」が中心課題に据えられ、ニューセラミックス事業の早期育成が最優先された
- [29]昭和52年6月に就任した竹見淳一社長は、①徹底した効率経営の推進と市場重視の事業展開②開発の重視と推進③財務体質の強化という3つの柱からなる基本方針を打ち出した
- [30]海外現地生産は、アメリカでのロックガイシの再建、ベルギーにおけるガイシメーカーの買収(NGKボドゥール)という形で進められ、昭和60年にはACハニカム生産を目的とするNGKセラミックス・ヨーロッパがベルギーに設立された
- [32]借入金は昭和49年度末153億円から50年度末128億円、51年度末55億円へ減少し、59年度末には14億円を残すにすぎなくなった
- [33]多角化により昭和59年度に電力事業本部以外の売上高が全体の5割を超えた
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [31]1977年1月 ベルギーのガイシメーカーを買収しNGK-BAUDOURを設立/1985年1月 ベルギーに自動車用セラミックス製造会社NGK CERAMICS EUROPEを設立
参考文献[17]-[33]
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [17]昭和44年11月28日の取締役会が野淵三治社長の病気辞任を承認し、第6代社長に福田克美専務を選任した
- [18]会長に就任した鈴木俊雄は「野淵-鈴木のコンビで十年続けてきたが、その間企業をとりまく環境が急激に変化しているので、できるだけ若返りをはかりたい」と説明した
- [19]昭和45年10月5日付で、新5カ年計画の策定と同時に事業部の商品系列別の再編が実施された
- [20]再編で碍子事業部からガイシ周辺の電気機器類を分離して電機事業部を独立させ、化工機事業部から水処理・汚泥処理・産業廃棄物処理部門を分離して環境装置事業部とし、新商品事業部を金属事業部とセラミック事業部へ分割した
- [21]事業部の再編と同時に社長直轄の開発本部と合理化本部が設置され、開発本部の事務局が社長室内に設けられた
- [23]昭和45年10月に発足した新研究所は、大気汚染の深刻化と日米両国での排ガス規制強化の動きに注目し、所員に排ガス処理に関する調査を命じた
- [24]昭和46年4月から7月の調査で、日本の50年規制とアメリカのマスキー法規制をクリアするには触媒方式によらねばならないこと、日米自動車メーカーの多くが49年型から触媒浄化装置の取り付けを準備していることが判明した
- [25]セラミックメーカーとしては触媒担体の開発を図るのがふさわしく、担体の種類は既存のペレットではなくアメリカで一部出回り始めたハニカム形状が好ましいとの判断に達した
- [26]昭和46年8月、中古車向け触媒コンバーターの触媒開発を担当した神戸製鋼所と共同で、正式に開発がスタートした
- [28]ガイシ事業、環境装置事業につぐ「第三の柱となる事業を育成すること」が中心課題に据えられ、ニューセラミックス事業の早期育成が最優先された
- [29]昭和52年6月に就任した竹見淳一社長は、①徹底した効率経営の推進と市場重視の事業展開②開発の重視と推進③財務体質の強化という3つの柱からなる基本方針を打ち出した
- [30]海外現地生産は、アメリカでのロックガイシの再建、ベルギーにおけるガイシメーカーの買収(NGKボドゥール)という形で進められ、昭和60年にはACハニカム生産を目的とするNGKセラミックス・ヨーロッパがベルギーに設立された
- [32]借入金は昭和49年度末153億円から50年度末128億円、51年度末55億円へ減少し、59年度末には14億円を残すにすぎなくなった
- [33]多角化により昭和59年度に電力事業本部以外の売上高が全体の5割を超えた
- 会社年鑑(1976年版)
- [22]1971年3月期の売上高333億円(単体)
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [27]1976年 フォード社に自動車排ガス浄化用セラミックスハニカム担体を初納入/1976年1月 自動車用セラミックス製品の製造販売開始
- [31]1977年1月 ベルギーのガイシメーカーを買収しNGK-BAUDOURを設立/1985年1月 ベルギーに自動車用セラミックス製造会社NGK CERAMICS EUROPEを設立
1986年〜円高が促したNGKセラミックスUSAの設立
1986年5月、社名の表記が「日本碍子株式会社」から「日本ガイシ株式会社」に変わった。同時に新しいコーポレート・マークが作られ、企業理念と経営理念も定められた。これは第8代社長の小原敏人が真っ先に手がけた、企業イメージの一新だった。経営理念は四項で、人材を経営資源の第一に置くこと、世界を見渡して時代が求めるものを事業の土台とすること、高品質の商品を支える高い技術を絶えず開発すること、未来への確信と情熱を原動力に前へ進み続けることを掲げた。エコロジー、エネルギー、エレクトロニクスの三分野で新事業を起こすと宣言したのが、1989年3月策定の長期経営計画「Kプラン21」である。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [34]昭和61年5月、CI戦略として社名表記の変更、新コーポレート・マークおよび企業理念・経営理念の制定が行なわれた
- [36]第8代社長に就任した小原敏人がまず行なったのは企業イメージの刷新であり、ついで新しい長期経営計画の策定であった
- [37]公表された経営理念は「人を最も大切な経営資源とする」「世界的視野に立ち、時代の要請を事業基盤とする」「常に高い技術を開発し、高品質の商品を提供しつづける」「未来に対する確信と情熱をエネルギーとしてたえず前進する」の4項
- [38]1989年3月に長期経営計画「Kプラン21」を策定し、エコロジー・エネルギー・エレクトロニクス(トリプルE)事業分野で新事業を創出する基本方針を確立した
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [35]1986年1月 社名表記を「日本ガイシ」に変更
1985年3月期に単体で1,569億円へ伸びていた売上高の裏側で、ガイシと電力関連製品の輸出は急落した。産油国と途上国は、原油や一次産品の値下がりで経済が急に傾き、プロジェクトの先送りや取りやめが続いた。これが輸出を細らせた最大の要因である。輸出高は1980年代前半の300億円前後から1986年には179億円と6割の水準へ下がり、その後の数年も200億円前後にとどまった。前年にはプラザ合意によってドル高の政策が捨てられ、抑え込まれていた円高が一気に進んでいた。欧米には競合メーカーが数多くあり、価格の勝負では分が悪くなった。それでも、後発国が追い上げ値下げの圧力が強まるなかで、世界市場での日本ガイシのシェアは崩れなかった。つまり縮んだのは市場の需要であり、日本ガイシの競争上の位置は保たれていた。
- 会社年鑑
- [39]1985年3月期の売上高1,569億円(単体)
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [40]昭和61年度は原油・一次産品の価格低下により産油国・途上国経済が急速に悪化し、プロジェクトの繰り延べ・中止が相ついだことが輸出大幅減少の主要因であった
- [41]昭和50年代後半に300億円前後に達していたガイシおよび電力関連製品の輸出高は、昭和61年(1986年)には179億円と6割まで落ち込み、その後数年は200億円前後に低迷した
- [42]前年のプラザ合意によるドル高政策の放棄でそれまで抑えられていた円高が一挙に進展し、アメリカおよびヨーロッパに多数存在する競合メーカーとの価格競争で相対的に不利な位置に置かれた
- [43]輸出の低迷は主として外的環境の変化によるもので、後発国の追い上げや価格引き下げ圧力にもかかわらず世界市場における日本ガイシのシェアは揺るがなかった
プラザ合意のあと円高が進み、1988年には一時的に120円台をつけて、輸出の採算は急速に悪くなっていた。同じ円高を受けて日本の自動車メーカーは米国の現地工場の生産能力を大きく増やし、そこでのACハニカムの需要も膨らんでいた。対米進出を決めた直接の理由はこの二つである。日本ガイシは1988年9月、資本金1500万ドルでNGKセラミックスUSAを立ち上げた。工場はノースカロライナ州モアーズビルに置き、閉鎖された衛生陶器会社の土地と建物を買い取って確保した。着工から11カ月たった1989年9月に生産が始まった。1994年6月に社長に就任した柴田昌治は、円高で採算の厳しさを増すガイシの輸出を前に、懸案であった中国での生産拠点の獲得に取り組んだ。1996年にはインドネシアと中国に海外子会社が設立された。
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [44]対米進出決定の第一の理由は、プラザ合意以後の円高が昭和63年に一時120円台を記録するまでになり、輸出の採算が急速に悪化したこと
- [45]対米進出決定の第二の理由は、円高のなかで日本の自動車メーカーの在米現地工場の生産能力が大幅に拡大し、これら現地工場のACハニカム需要が増大したこと
- [46]昭和63年9月、アメリカにACハニカムの生産拠点としてNGKセラミックスUSAが資本金1500万ドルで設立された
- [48]工場用地はノースカロライナ州モアーズビルの閉鎖された衛生陶器会社の用地と建屋を買収して確保し、工事着工11カ月後の翌年9月に生産を開始した
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [47]1988年1月 自動車用セラミックス製造会社NGK CERAMICS USAを設立
- [50]1996年1月 インドネシアと中国に海外子会社を設立
- 日経ビジネス 1995年4月10日号
- [49]1994年6月に日本ガイシ社長に就任した柴田昌治は、急激な円高で碍子の輸出採算が厳しさを増すなか、懸案である中国での生産拠点獲得に取り組んだ
参考文献[34]-[50]
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- [34]昭和61年5月、CI戦略として社名表記の変更、新コーポレート・マークおよび企業理念・経営理念の制定が行なわれた
- [36]第8代社長に就任した小原敏人がまず行なったのは企業イメージの刷新であり、ついで新しい長期経営計画の策定であった
- [37]公表された経営理念は「人を最も大切な経営資源とする」「世界的視野に立ち、時代の要請を事業基盤とする」「常に高い技術を開発し、高品質の商品を提供しつづける」「未来に対する確信と情熱をエネルギーとしてたえず前進する」の4項
- [38]1989年3月に長期経営計画「Kプラン21」を策定し、エコロジー・エネルギー・エレクトロニクス(トリプルE)事業分野で新事業を創出する基本方針を確立した
- [40]昭和61年度は原油・一次産品の価格低下により産油国・途上国経済が急速に悪化し、プロジェクトの繰り延べ・中止が相ついだことが輸出大幅減少の主要因であった
- [41]昭和50年代後半に300億円前後に達していたガイシおよび電力関連製品の輸出高は、昭和61年(1986年)には179億円と6割まで落ち込み、その後数年は200億円前後に低迷した
- [42]前年のプラザ合意によるドル高政策の放棄でそれまで抑えられていた円高が一挙に進展し、アメリカおよびヨーロッパに多数存在する競合メーカーとの価格競争で相対的に不利な位置に置かれた
- [43]輸出の低迷は主として外的環境の変化によるもので、後発国の追い上げや価格引き下げ圧力にもかかわらず世界市場における日本ガイシのシェアは揺るがなかった
- [44]対米進出決定の第一の理由は、プラザ合意以後の円高が昭和63年に一時120円台を記録するまでになり、輸出の採算が急速に悪化したこと
- [45]対米進出決定の第二の理由は、円高のなかで日本の自動車メーカーの在米現地工場の生産能力が大幅に拡大し、これら現地工場のACハニカム需要が増大したこと
- [46]昭和63年9月、アメリカにACハニカムの生産拠点としてNGKセラミックスUSAが資本金1500万ドルで設立された
- [48]工場用地はノースカロライナ州モアーズビルの閉鎖された衛生陶器会社の用地と建屋を買収して確保し、工事着工11カ月後の翌年9月に生産を開始した
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [35]1986年1月 社名表記を「日本ガイシ」に変更
- [47]1988年1月 自動車用セラミックス製造会社NGK CERAMICS USAを設立
- [50]1996年1月 インドネシアと中国に海外子会社を設立
- 会社年鑑
- [39]1985年3月期の売上高1,569億円(単体)
- 日経ビジネス 1995年4月10日号
- [49]1994年6月に日本ガイシ社長に就任した柴田昌治は、急激な円高で碍子の輸出採算が厳しさを増すなか、懸案である中国での生産拠点獲得に取り組んだ
筆者考察
非ガイシを4割にするという目標は、20年かけても正面からは達成されなかった。野淵三治が1961年に掲げた六対四構想は、ガイシ以外の何かを探す作業として始まり、探し方が定まらないまま金属、セラミック、炉材、環境装置と事業部の数だけを増やした。決着を与えたのは社内の計画ではなく、日米の排ガス規制という外の締め付けである。研究所が1971年に出した答えは、触媒方式でなければ規制は通らない、担体はペレットではなくハニカム形状がよい、という二点だった。電力会社の送電計画から逆算して製品を作ってきた会社が、今度は自動車メーカーの規制対応スケジュールから逆算した。
円高は、輸出企業にとっては採算の悪化だが、日本ガイシにとっては工場を置く場所を指す矢印だった。プラザ合意の翌年、ガイシと電力関連製品の輸出高は179億円へ落ち、社名の表記を日本ガイシへ改めた年と重なった。しかし世界市場での地位は動いていない。落ちたのは産油国のプロジェクトであり、競争上の位置ではなかった。だからベルギーとノースカロライナに建てた工場は、競争劣位による撤退ではなく、需要のある場所へ生産を寄せる移動である。ハニカムの納入先がジャガーからベンツ、プジョーへと広がるたび、工場は日本から遠ざかった。
- 出所は日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)。
1965年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | NGKカナダを設立(1968) |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 333 | n/a | 23 | 14 | 4.2% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 359 | +7.8% | 23 | 14 | 3.9% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 413 | +15.0% | 26 | 15 | 3.6% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 561 | +35.8% | 37 | 19 | 3.4% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 696 | +24.1% | 43 | 19 | 2.7% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 767 | +10.2% | n/a | 25 | 3.3% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 875 | +14.1% | n/a | 29 | 3.3% | NGKヨーロッパ(ベルギー)を設立(1977) |
| 1978年03月期 | 単体 | 940 | +7.4% | n/a | 30 | 3.2% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 946 | +0.6% | n/a | 34 | 3.6% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 1,092 | +15.4% | n/a | 37 | 3.4% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 1,212 | +11.0% | n/a | 40 | 3.3% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 1,217 | +0.4% | n/a | 42 | 3.5% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 1,238 | +1.7% | n/a | 43 | 3.5% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 1,366 | +10.3% | n/a | 60 | 4.4% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 1,569 | +14.9% | n/a | 68 | 4.3% | NGKヨーロッパ(ドイツ)を設立(1985) |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | NGKメタルズ(米国)を設立(1986) |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | ウィカNGKインシュレーターズ(インドネシア)を設立(1987) |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 連結 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 2,407 | n/a | n/a | 71 | 2.9% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 2,406 | ▲0.0% | n/a | 52 | 2.2% | NGKスタンガー(オーストラリア)を設立(1993) |
| 1994年03月期 | 連結 | 2,329 | ▲3.2% | n/a | 43 | 1.8% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 2,261 | ▲2.9% | n/a | 75 | 3.3% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 2,346 | +3.8% | n/a | 92 | 3.9% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 2,526 | +7.7% | n/a | 110 | 4.4% | サイアムNGKテクノセラ(タイ)を設立(1997) |
| 1998年03月期 | 連結 | 2,680 | +6.1% | n/a | 115 | 4.3% | n/a |
| 1999年03月期 | 連結 | 2,704 | +0.9% | n/a | 132 | 4.9% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
5件
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- 日本ガイシ75年史(日本ガイシ, 1995年)
- 会社年鑑(1976年版)
- 会社年鑑
- 日経ビジネス 1995年4月10日号