第1章 年〜年

東海カーボン:東海電極製造の設立と人造黒鉛電極の国産化

1918年〜資本金50万円で名古屋に立った電極工場と、大三位製作所の合併で得た電刷子

東海電極製造は1918年4月8日、資本金50万円で設立された。工場は名古屋、本社は東京に置き、同年11月に操業開始。創業者の寒川恒貞氏は電気製鋼所の常務取締役として、北海道から船で届く三角電極が海の荒れで遅れ、電気炉が止まる事態に悩んでいた。製鋼用電極と電解ソーダ用電解板は国内の技術では品質が足りず、需要の大半を米国アチソン社の製品に依存していた。設立趣意書は『最も優秀なる電極材料を供給し,一般電気炉工業並に電解工業の発達を助成し』ことを事業の目的に掲げた。自社の製鋼所向けの自給にとどめず、他の電気炉工業や電解工業へ売ることを前提に別会社とした判断が、総合炭素メーカーへの起点になったとみられる。

  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第1節 創業前史・第2節 創業の趣意と経緯
    • [1]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
    • [3]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
    • [4]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
    • [5]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [2]本社を東京、工場を名古屋に置き、1918年11月に操業開始

東海電極製造は1919年11月1日の臨時株主総会で大三位製作所の合併を決め、資本金を100万円とした。大三位製作所は1911年創立の、品川大井の電刷子工場である。竹内時次氏が米国で得た知識をもとに興し、「OS」マークの電刷子は芝浦製作所などの電機メーカーに納められていた。寒川恒貞氏は炭素製品を幅広く手がける総合化を志向しており、小物炭素製品の技術と顧客を持つ同業との合併を得策と判断した。合併に合わせ、営業目的に電刷子とカーボランダムなどの窯業を加えた。合併直後の1920年上期には、電刷子の好調を受けて1割2分の合併記念配当を実施した。電極の量産が立つ前に、販路の固まった電刷子で収益の足場を得たと推察される。

  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第2節3 大三位製作所の合併・第4節 昭和初期までの営業状況
    • [6]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [8]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [9]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [10]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [11]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [7]1919年11月、電刷子の製造を企図して品川大井の大三位製作所(1911年創立)を合併

東海電極製造は1928年7月、アチソン社の製品と同等の品質を持つ人造黒鉛質の電解板を開発した。電解ソーダ工場は第1次大戦中に15〜16か所へ増え、大戦末期に米国が電解板の輸出を禁じたことで国産化の要請が強まっていた。1923年の関東大震災後の特需は短く、国産電極の用途は合金鉄とカーバイド用にすぎなかった。1925年に試作品が東海曹達と関東酸曹の電解槽で使われたのが、国産電解板の初の実用化にあたる。1927年7月には商工省の研究補助金を受け、名古屋工場の黒鉛化の月産能力を1トンから2.5トンに引き上げた。創業以来の名古屋工場の設備改良と拡張が、この研究の土台となった。製鋼用より先に電解板を仕上げた背景には、ソーダ業界と商工省の支援で研究費を賄えた事情があったと思われる。

  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第3節 人造黒鉛と人造黒鉛質電解板の研究開発
    • [12]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
    • [13]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
    • [15]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
    • [16]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第4節 昭和初期までの営業状況
    • [14]関東大震災後の電極特需は一時的で、国産電極の用途は合金鉄・カーバイド用に限られた
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [17]創業後、名古屋工場の設備改良・拡張を重ねた
参考文献[1]-[17]
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第1節 創業前史・第2節 創業の趣意と経緯
    • [1]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
    • [3]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
    • [4]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
    • [5]1918年4月8日、寒川恒貞が電気製鋼所の電極自給を念頭に資本金50万円で東海電極製造を創立。三角電極の海上輸送の遅れで電気炉が止まる問題、製鋼用電極・電解板のアチソン社依存が背景
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [2]本社を東京、工場を名古屋に置き、1918年11月に操業開始
    • [7]1919年11月、電刷子の製造を企図して品川大井の大三位製作所(1911年創立)を合併
    • [17]創業後、名古屋工場の設備改良・拡張を重ねた
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第2節3 大三位製作所の合併・第4節 昭和初期までの営業状況
    • [6]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [8]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [9]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [10]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
    • [11]1919年10月に合併契約、11月1日の臨時株主総会で大三位製作所を合併し資本金100万円に。竹内時次創業の電刷子メーカーでOSマーク、芝浦製作所等が顧客。営業目的に電刷子・カーボランダム等を追加。1920年上期に1割2分の合併記念配当
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第3節 人造黒鉛と人造黒鉛質電解板の研究開発
    • [12]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
    • [13]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
    • [15]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
    • [16]第1次大戦末期の米国による電解板禁輸で国産化要請。1925年に試作品を東海曹達・関東酸曹が実用、1927年7月に商工省補助金、電炉能力を月産1トンから2.5トンへ。1928年7月にアチソン品に劣らない電解板を開発
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第4節 昭和初期までの営業状況
    • [14]関東大震災後の電極特需は一時的で、国産電極の用途は合金鉄・カーバイド用に限られた

1929年〜呉海軍工廠が求めた径18インチ電極と、資本金300万円の第二東海電極

東海電極製造は1930年3月、名古屋工場で焼成炉と黒鉛化炉に手を入れ、黒鉛化の能力を月産10トンとして電解板の本格生産に入った。1929年12月の金輸出解禁で輸入品の調達が難しくなり、曹達晒粉同業会は1930年1月に年間購入量200トンの1割を東海電極製造に発注した。電刷子では1930年、大三位工場による人造黒鉛質の「2703」の製品化。製鋼用では1928年頃から細物の丸形人造黒鉛電極を手がけ、1932年4月には径200ミリ以下の品が海軍工廠に指定された。1926年の人造黒鉛電極の製造成功以来の蓄積が、細物電極の量産を支えた。電解板の売上が先に立ったことで、太物電極の研究に充てる資金の出所ができたのだろう。

  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第2節 人造黒鉛の工業化
    • [18]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
    • [19]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
    • [20]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
    • [21]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [22]1926年に人造黒鉛電極の製造に成功

東海電極製造は1934年9月に径18インチの人造黒鉛電極を試作し、同年10月、初の納入先として呉海軍工廠に届けた。発端は1931年、呉海軍工廠が特殊鋼を作るため北米から30トン電気炉を輸入すると決めたことである。電極は2年分を輸入でつなぎ、1934年までに国産化するよう求められた。社長の寒川恒貞氏は大型プレスの先行投資を認めず、短い電極でも径450ミリの黒鉛化品をまず試作するよう求めた。技師の永井雅夫氏は『昭和9年にやっと3本の試作品を提出する迄に約1,000本の不良製品が残骸をさらしたのであった』と回顧している。この太物電極の量産が、のちに第二東海電極を設ける目的となった。設備より試作の実証を先にした手順が、小さな資本で太物電極に挑む危険を抑えたことがうかがえる。

  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第3節 太物人造黒鉛電極の時代へ
    • [23]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [24]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [25]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [26]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [27]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [28]大型人造黒鉛電極の製造を目的に第二東海電極を設立

東海電極製造は1935年3月、資本金300万円の第二東海電極を設立し、熊本県田ノ浦に工場を建てた。人造黒鉛電極の需要は年約4,000トンに達し、名古屋工場は用地も電力も拡張の余地を失っていた。熊本電気が25年間・1万キロワットの電力を低額で供給する条件を受け入れたことが、田ノ浦を選ぶ決め手となった。出資の大半を東海電極製造が持ち、熊本電気と大同電気製鋼所も株主に加わった。原料では1936年1月、福岡県の若松工場でピッチコークスの生産を開始。田ノ浦工場は同年3月に全電極工場が稼働し、東海電極製造は同年11月に第二東海電極を合併した。これで原料のピッチコークスから電極まで自社で一貫して作る体制が整った。電力費が原価を左右する人造黒鉛電極では、安い電力の確保が工場の立地を決めたと解される。

  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [29]1935年3月に資本金300万円の第二東海電極を設立し熊本県田ノ浦に工場建設、1936年1月に若松工場でピッチコークス生産開始、同年11月に第二東海電極を合併
    • [33]1935年3月に資本金300万円の第二東海電極を設立し熊本県田ノ浦に工場建設、1936年1月に若松工場でピッチコークス生産開始、同年11月に第二東海電極を合併
    • [34]1935年3月に資本金300万円の第二東海電極を設立し熊本県田ノ浦に工場建設、1936年1月に若松工場でピッチコークス生産開始、同年11月に第二東海電極を合併
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第4節 第2東海電極(株)の設立と九州若松工場の建設
    • [30]人造黒鉛電極需要は年約4,000トン、名古屋工場は用地・電力が限界。熊本電気が25年・1万kWの低額電力供給を受諾。出資は東海電極製造4万7,000株、熊本電気8,000株、大同電気製鋼所3,000株
    • [31]人造黒鉛電極需要は年約4,000トン、名古屋工場は用地・電力が限界。熊本電気が25年・1万kWの低額電力供給を受諾。出資は東海電極製造4万7,000株、熊本電気8,000株、大同電気製鋼所3,000株
    • [32]人造黒鉛電極需要は年約4,000トン、名古屋工場は用地・電力が限界。熊本電気が25年・1万kWの低額電力供給を受諾。出資は東海電極製造4万7,000株、熊本電気8,000株、大同電気製鋼所3,000株
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東海電極製造」
    • [35]田ノ浦工場と若松工場の建設で原料から製品までの一貫生産体制を確立
参考文献[18]-[35]
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第2節 人造黒鉛の工業化
    • [18]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
    • [19]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
    • [20]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
    • [21]1930年1月に曹達晒粉同業会が年間200トンの1割を発注、同3月に黒鉛化能力月産10トンで電解板本格生産。1932年度購入の大部分を受注。1930年に電刷子「2703」製品化。1928年頃から細物丸形電極、1932年4月に径200ミリ以下が海軍工廠指定品
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [22]1926年に人造黒鉛電極の製造に成功
    • [28]大型人造黒鉛電極の製造を目的に第二東海電極を設立
    • [29]1935年3月に資本金300万円の第二東海電極を設立し熊本県田ノ浦に工場建設、1936年1月に若松工場でピッチコークス生産開始、同年11月に第二東海電極を合併
    • [33]1935年3月に資本金300万円の第二東海電極を設立し熊本県田ノ浦に工場建設、1936年1月に若松工場でピッチコークス生産開始、同年11月に第二東海電極を合併
    • [34]1935年3月に資本金300万円の第二東海電極を設立し熊本県田ノ浦に工場建設、1936年1月に若松工場でピッチコークス生産開始、同年11月に第二東海電極を合併
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第3節 太物人造黒鉛電極の時代へ
    • [23]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [24]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [25]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [26]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
    • [27]1931年に呉海軍工廠が30トン電気炉輸入を決定し、1934年までの電極国産化を要請。寒川恒貞は大型設備より先に径450ミリの試作を指示。1934年9月に径18インチの試作に成功、同年10月に呉海軍工廠へ初納入
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第4節 第2東海電極(株)の設立と九州若松工場の建設
    • [30]人造黒鉛電極需要は年約4,000トン、名古屋工場は用地・電力が限界。熊本電気が25年・1万kWの低額電力供給を受諾。出資は東海電極製造4万7,000株、熊本電気8,000株、大同電気製鋼所3,000株
    • [31]人造黒鉛電極需要は年約4,000トン、名古屋工場は用地・電力が限界。熊本電気が25年・1万kWの低額電力供給を受諾。出資は東海電極製造4万7,000株、熊本電気8,000株、大同電気製鋼所3,000株
    • [32]人造黒鉛電極需要は年約4,000トン、名古屋工場は用地・電力が限界。熊本電気が25年・1万kWの低額電力供給を受諾。出資は東海電極製造4万7,000株、熊本電気8,000株、大同電気製鋼所3,000株
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東海電極製造」
    • [35]田ノ浦工場と若松工場の建設で原料から製品までの一貫生産体制を確立

1938年〜米国の禁輸で若松に建てた月産50トンのカーボンブラック工場と、戦後の生産再開

東海電極製造は1938年6月、神奈川県茅ケ崎町に電刷子と炭素棒の工場を新設した。前年4月、取締役技術部長の寒川恒一郎氏と名古屋工場長の村上竹蔵氏が欧米視察に出て、日中戦争の勃発を受けて10月に帰国していた。両氏はドイツのリングスドルフ社などの設備を見て、電刷子を大工場方式で量産するよう進言した。茅ケ崎工場の当初の能力は電刷子が月産15万個、炭素棒が月産15万本であった。リードハンマー式の焼成炉と、カーボンブラックの採集炉の採用も、この視察の成果である。資金面では1938年8月に400万円を増資し、資本金を1,000万円とした。1944年12月には大三位工場を閉じ、その設備は茅ケ崎へ移された。海外の設備を見た技術者の進言が、軍需で膨らむ小物炭素製品の量産に直結したと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [36]1938年6月、電刷子・炭素棒の需要増大に応えて茅ケ崎工場を建設。1944年12月に大三位工場を閉鎖し設備を茅ケ崎へ疎開移転
    • [42]1938年6月、電刷子・炭素棒の需要増大に応えて茅ケ崎工場を建設。1944年12月に大三位工場を閉鎖し設備を茅ケ崎へ疎開移転
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 3章 第2節 生産設備の拡充と戦時体制下の研究・第3節 量産体制の確立と新製品の開発
    • [37]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [38]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [39]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [40]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [41]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資

東海電極製造は1939年10月、九州若松工場でカーボンブラック工場(月産50トン)の建設に着手し、1941年1月に完成させた。米国は1939年7月、日米通商航海条約を破棄すると日本に伝え、1941年3月の対日経済封鎖でカーボンブラックは輸入できなくなった。カーボンブラックはゴム工業と印刷インクに欠かせない原料である。若松工場ではピッチコークスの製造で出る重質のピッチオイルの保管が懸案であった。1937年の渡独調査でピッチオイルからカーボンブラックを採集するリードハンマー社の方式を知り、その製造権を取得した。工場は操業2か月目から月産50トンを確保し、1943年の生産は900トンを超えて国内1位となった。1939年以来のカーボンブラックの研究は、戦後のタイヤ需要に応える新しいプラントへつながった。

  • 東海カーボン六十五年史(1983) 3章 第3節 量産体制の確立と新製品の開発
    • [43]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [44]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [45]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [46]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [47]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [48]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東海電極製造」
    • [49]1939年以来研究したカーボンブラックの技術を活かし、戦後急増したタイヤ需要に応えて1950年に若松工場に国内初の高級カーボンブラック製造プラントを完成

東海電極製造は1945年11月、名古屋・田ノ浦・九州若松・茅ケ崎・名古屋第2の全工場に生産の再開を指令した。終戦直後、社長の寒川恒一郎氏は全工場の操業を止め、9月30日に社員の半数を整理していた。空襲の被害は豊田分工場を除いて軽く、若松工場も1946年下期にはピッチコークスとカーボンブラックの製造を立ち上げ直した。余った電力で石炭不足を補う鉄鋼増産が進み、1946年には名古屋と田ノ浦で人造黒鉛電極の増産が続いた。1946年7月に藤沢市で技術研究所を開設し、1948年12月には名古屋工場を復旧させた。1948年5月に企業再建整備計画の認可を得ると、同年8月に資本金を3,700万円から8,000万円に増やし、下期に配当を10%で再開した。電極の復興需要が、戦後の再建を支える収益源となったと推測される。

  • 東海カーボン六十五年史(1983) 4章 第2節 戦後の再出発と体制の整備
    • [50]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [51]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [52]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [53]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [55]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [54]1946年7月に中央研究所を藤沢市に拡張、1948年12月に名古屋工場の復旧工事
参考文献[36]-[55]
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
    • [36]1938年6月、電刷子・炭素棒の需要増大に応えて茅ケ崎工場を建設。1944年12月に大三位工場を閉鎖し設備を茅ケ崎へ疎開移転
    • [42]1938年6月、電刷子・炭素棒の需要増大に応えて茅ケ崎工場を建設。1944年12月に大三位工場を閉鎖し設備を茅ケ崎へ疎開移転
    • [54]1946年7月に中央研究所を藤沢市に拡張、1948年12月に名古屋工場の復旧工事
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 3章 第2節 生産設備の拡充と戦時体制下の研究・第3節 量産体制の確立と新製品の開発
    • [37]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [38]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [39]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [40]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
    • [41]1937年4月に寒川恒一郎・村上竹蔵を欧米視察に派遣、10月帰国。リードハンマー式焼成炉・カーボンブラック採集炉を採用。リングスドルフ社等を参考に大工場方式を進言し、茅ケ崎工場は1938年6月21日操業、電刷子月産15万個・炭素棒月産15万本。1938年8月に資本金1,000万円へ増資
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 3章 第3節 量産体制の確立と新製品の開発
    • [43]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [44]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [45]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [46]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [47]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
    • [48]1939年7月の日米通商航海条約廃棄通告、1941年3月の輸入途絶を受け、若松工場で副産ピッチオイルを原料にリードハンマー社方式(製造権を譲受)でカーボンブラック工場を1939年10月21日着工、1941年1月21日完成。月産50トンを2か月目から確保、1943年に年産900トン超で国内1位
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東海電極製造」
    • [49]1939年以来研究したカーボンブラックの技術を活かし、戦後急増したタイヤ需要に応えて1950年に若松工場に国内初の高級カーボンブラック製造プラントを完成
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 4章 第2節 戦後の再出発と体制の整備
    • [50]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [51]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [52]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [53]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活
    • [55]1945年9月に全工場操業停止と社員半数の整理、同年11月に全工場へ生産再開を指令。若松工場は1946年下期にピッチコークス・カーボンブラック再開。1946年は鉄鋼増産で電極生産に追われる。1948年5月に企業再建整備計画認可、同8月に資本金8,000万円へ増資、同年下期に10%配当復活

出典・参考

12件
出典・参考
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第1節 創業前史・第2節 創業の趣意と経緯
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第2節3 大三位製作所の合併・第4節 昭和初期までの営業状況
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第3節 人造黒鉛と人造黒鉛質電解板の研究開発
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 1章 第4節 昭和初期までの営業状況
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第2節 人造黒鉛の工業化
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第3節 太物人造黒鉛電極の時代へ
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 2章 第4節 第2東海電極(株)の設立と九州若松工場の建設
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 3章 第2節 生産設備の拡充と戦時体制下の研究・第3節 量産体制の確立と新製品の開発
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 3章 第3節 量産体制の確立と新製品の開発
  • 東海カーボン六十五年史(1983) 4章 第2節 戦後の再出発と体制の整備
  • 会社銀行八十年史(1955)「東海電極製造」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東海電極製造」

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