東燃ゼネラル石油:東亜燃料工業の創立とゼネラル物産の設立
1934年〜石油関係10社が出資した軍用油の会社
日本の石油市場では、1888年設立の日本石油と1893年設立の宝田石油が二大会社として競い、米スタンダードと英蘭シェル(ライジングサン社)の系列が輸入と販売で攻勢をかけていた。米国のソコニーと米国ヴァキューム・オイルは1893年5月に横浜へ日本支店を開設し、灯油と潤滑油を売った。1932年8月に両社が合併すると日本国内の拠点もソコニー・ヴァキューム日本支店となった。1934年の石油業法は販売割当と価格公定で外国業者の攻勢を抑え、関税障壁で国内業者を保護したため、外資は販売網を持ちながら国内に精製設備を持ちにくい立場に置かれた。同じ1934年2月、ソコニー・ヴァキューム・コーポレーションとスタンダード・オイル(ニュージャージー)がスタンヴァックを設立し、横浜の支店はスタンヴァック日本支社となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「石油 概説」
- [1]明治21年設立の日本石油と明治26年設立の宝田石油の対立、米スタンダード・英蘭シェルの進出
- [2]米スタンダードと英蘭シェル(ライジングサン社)等の外国石油資本が日本市場への進出を強めた
- [5]1934年 石油業法制定 販売割当と価格公定で外国業者の輸入・販売攻勢を抑制、関税障壁で国内業者を保護
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [3]1893年5月 米国ソコニーと米国ヴァキューム・オイルが横浜に日本支店を開設
- [4]1932年8月 ソコニーとヴァキューム・オイルの合併により日本国内もソコニー・ヴァキューム日本支店に
- [6]1934年2月 スタンヴァック設立に伴い横浜の支店がスタンヴァック日本支社に
その5年後の1939年7月5日、石油関係10社の共同出資により東亜燃料工業株式会社が創立された。航空揮発油と高級潤滑油、すなわち軍用油を供給するための会社である。公称資本金5,000万円のうち払込は1,250万円で、日本石油が1,600万円、小倉石油が1,100万円、朝鮮石油が600万円、早山石油と愛国石油が各400万円、丸善石油・新津石油・三菱本社・三菱商事が各200万円、三菱鉱業が100万円を出した。設立後ただちに清水と和歌山で精製工場の建設に着手し、1941年4月に和歌山工場が操業を開始して民間で最初の航空揮発油の製造に入り、清水工場は1943年に操業を開始した。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「東亜燃料工業」
- [7]1939年7月5日 石油関係10社の共同出資により東亜燃料工業を資本金5,000万円で創立
- [8]設立目的 主として軍用の高級揮発油および高級潤滑油の供給
- [11]1941年4月 和歌山工場が操業開始し民間最初の航空揮発油を製造、清水工場は1943年に操業開始
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東亜燃料工業」
- [9]公称資本金5,000万円・払込資本金1,250万円
- [10]出資会社 日本石油1,600万円・小倉石油1,100万円・朝鮮石油600万円・早山石油400万円・愛国石油400万円・丸善石油200万円・新津石油200万円・三菱本社200万円・三菱商事200万円・三菱鉱業100万円
太平洋戦争で原油の輸入が途絶えると、両工場の装置の一部を人造石油と松根油の製造へ転換する作業に入った。その最中の1945年7月、和歌山工場が空襲で被災し、操業を止めたまま終戦を迎えた。1946年9月には連合軍の指令で製油所の操業が全国的に止まり、手持資材の売却と製塩・製氷の副業で収入をつないだ。硫安を作る転換も計画したが、総司令部の許可は下りなかった。1948年10月、和歌山工場と清水工場が連合軍から石油輸入基地に指定された。軍需のために設計された会社は、その軍需が消えた3年間を精製以外の収入で食いつないだ。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東亜燃料工業」
- [12]太平洋戦争の悪化で原油輸入が途絶し、人造石油・松根油の製造のため両工場の装置の一部を転換
- [13]1945年7月 和歌山工場が被爆して操業停止のまま終戦
- [14]1946年9月 連合軍の指令により操業が全国的に停止、手持資材の売却と副業で収入を確保
- [15]製塩・製氷の副業と、水素添加装置を利用した硫安生産への転換計画(GHQ当局の許可が得られず)
- [17]1946年9月の操業停止から1949年7月の復旧整備許可まで、副業による収入で事業を継続
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「東亜燃料工業」
- [16]1948年10月 和歌山工場と清水工場が連合軍から石油輸入基地に指定
参考文献[1]-[17]
- [1]明治21年設立の日本石油と明治26年設立の宝田石油の対立、米スタンダード・英蘭シェルの進出
- [2]米スタンダードと英蘭シェル(ライジングサン社)等の外国石油資本が日本市場への進出を強めた
- [5]1934年 石油業法制定 販売割当と価格公定で外国業者の輸入・販売攻勢を抑制、関税障壁で国内業者を保護
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [3]1893年5月 米国ソコニーと米国ヴァキューム・オイルが横浜に日本支店を開設
- [4]1932年8月 ソコニーとヴァキューム・オイルの合併により日本国内もソコニー・ヴァキューム日本支店に
- [6]1934年2月 スタンヴァック設立に伴い横浜の支店がスタンヴァック日本支社に
- [7]1939年7月5日 石油関係10社の共同出資により東亜燃料工業を資本金5,000万円で創立
- [8]設立目的 主として軍用の高級揮発油および高級潤滑油の供給
- [11]1941年4月 和歌山工場が操業開始し民間最初の航空揮発油を製造、清水工場は1943年に操業開始
- [16]1948年10月 和歌山工場と清水工場が連合軍から石油輸入基地に指定
- [9]公称資本金5,000万円・払込資本金1,250万円
- [10]出資会社 日本石油1,600万円・小倉石油1,100万円・朝鮮石油600万円・早山石油400万円・愛国石油400万円・丸善石油200万円・新津石油200万円・三菱本社200万円・三菱商事200万円・三菱鉱業100万円
- [12]太平洋戦争の悪化で原油輸入が途絶し、人造石油・松根油の製造のため両工場の装置の一部を転換
- [13]1945年7月 和歌山工場が被爆して操業停止のまま終戦
- [14]1946年9月 連合軍の指令により操業が全国的に停止、手持資材の売却と副業で収入を確保
- [15]製塩・製氷の副業と、水素添加装置を利用した硫安生産への転換計画(GHQ当局の許可が得られず)
- [17]1946年9月の操業停止から1949年7月の復旧整備許可まで、副業による収入で事業を継続
1949年〜外資提携による再建と、販売会社の上場
再建の条件は外資との提携にあり、1949年2月、東亜燃料工業は米国スタンダード・ヴァキューム社と基本契約を締結した。同社が株式の51%、のちに55%を取得し、東亜燃料工業は原油の確保と製品の販売、技術の援助を受けた。同じ年に日本石油はカルテックスと、三菱石油はタイドウォーターと提携しており、外資との結合は一社の選択ではなく業界全体の再建条件であった。1949年7月には総司令部が『太平洋岸製油所の操業および原油輸入に関する覚え書き』を発し、日本も消費地精製主義の道に入った。1950年1月に清水工場が、同年4月に和歌山工場が原油第一船を迎えて操業を再開した。
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [18]1949年2月 東亜燃料工業がスタンダード・ヴァキューム社と基本契約を締結
- [19]スタンダード・ヴァキューム社が株式の51%(後に55%)を取得し、原油の確保・製品の販売・技術の援助を実施
- 日本産業史 第2巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-めざましい再建」
- [20]1949年2月 東燃とスタンダードバキューム、3月 日石とカルテックス、三菱とタイドウォーターが外資提携契約を締結
- [21]1949年7月 総司令部「太平洋岸製油所の操業および原油輸入に関する覚え書き」により消費地精製主義へ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東亜燃料工業」
- [22]1950年1月 清水工場、同年4月 和歌山工場が原油第一船を迎えて操業再開
再開後の原油処理量は1950年の日産7,690バレルから1954年の25,130バレルへ3.3倍になった。1952年3月には徳山の旧海軍燃料廠の残存施設を和歌山工場へ移設してプロパン脱瀝青とフェノール抽出の二装置を完成させ、清水工場のアセトン・ベンゾール脱蝋装置と合わせて高級潤滑油を生産した。和歌山工場が高級潤滑油の一貫作業を行えるようになったのは、1953年9月のプロパン脱蝋装置の完成後である。1954年12月には日産4,700バレルのフルイド・ハイドロ・フォーミング装置が竣工し、高オクタン価ガソリンの供給に入った。1955年1月に和歌山工場の新常圧蒸溜装置が完成して原油処理能力は日産4万バレルとなり、国内の製油所で最大となった。1955年6月期の売上高は72億9,000万円だった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東亜燃料工業」
- [23]原油処理量 1950年 日産7,690バレル→1951年12,840・1952年16,900・1953年20,336・1954年25,130バレル
- [24]1952年3月 徳山の旧海軍燃料廠の残存施設を和歌山工場へ移設しプロパン脱瀝青・フェノール抽出の二装置を完成
- [25]1953年9月 プロパン脱蝋装置完成により和歌山工場が高級潤滑油生産の一貫作業を実現
- [26]1953年秋着工・1954年12月竣工のフルイド・ハイドロ・フォーミング装置(日産4,700バレル)で高オクタン価ガソリンを供給
- [27]1955年1月 和歌山工場の新常圧蒸溜装置(能力2万バレル)完成で既設と合わせ日産4万バレル、国内製油所で最大
- [28]1955年6月期 売上高72億9,000万円
もう一つの系譜は販売から始まり、1947年7月、石油製品の販売と輸出入を目的にゼネラル物産株式会社が資本金18万円で設立された。同社は1949年4月に石油元売会社の指定を受け、1952年11月にスタンダード・ヴァキューム社と石油製品の供給および委託販売の契約を結んだ。1953年7月に東京証券取引所へ株式を上場し、1956年9月には原油購入と技術援助の契約も加えた。販売会社が自前の精製設備を持ったのは1958年11月で、東亜燃料工業と折半出資でゼネラル石油株式会社を設立し、1960年11月に川崎製油所を完成させた。同じ1960年12月、東亜燃料工業は東燃石油化学株式会社を設立して石油化学に入った。
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [29]1947年7月 石油製品の販売・輸出入を目的にゼネラル物産(資本金18万円)を設立
- [30]1949年4月 ゼネラル物産が石油元売会社に指定
- [31]1952年11月 スタンダード・バキューム社と石油製品の供給および委託販売契約を締結
- [32]1953年7月 東京証券取引所に株式を上場、1956年9月 原油購入および技術援助に関する契約を締結
- [33]1958年11月 ゼネラル物産と東亜燃料工業の折半出資でゼネラル石油を設立、1960年11月 川崎製油所完成
- [34]1960年12月 東亜燃料工業が東燃石油化学を設立
参考文献[18]-[34]
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [18]1949年2月 東亜燃料工業がスタンダード・ヴァキューム社と基本契約を締結
- [19]スタンダード・ヴァキューム社が株式の51%(後に55%)を取得し、原油の確保・製品の販売・技術の援助を実施
- [29]1947年7月 石油製品の販売・輸出入を目的にゼネラル物産(資本金18万円)を設立
- [30]1949年4月 ゼネラル物産が石油元売会社に指定
- [31]1952年11月 スタンダード・バキューム社と石油製品の供給および委託販売契約を締結
- [32]1953年7月 東京証券取引所に株式を上場、1956年9月 原油購入および技術援助に関する契約を締結
- [33]1958年11月 ゼネラル物産と東亜燃料工業の折半出資でゼネラル石油を設立、1960年11月 川崎製油所完成
- [34]1960年12月 東亜燃料工業が東燃石油化学を設立
- 日本産業史 第2巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-めざましい再建」
- [20]1949年2月 東燃とスタンダードバキューム、3月 日石とカルテックス、三菱とタイドウォーターが外資提携契約を締結
- [21]1949年7月 総司令部「太平洋岸製油所の操業および原油輸入に関する覚え書き」により消費地精製主義へ
- [22]1950年1月 清水工場、同年4月 和歌山工場が原油第一船を迎えて操業再開
- [23]原油処理量 1950年 日産7,690バレル→1951年12,840・1952年16,900・1953年20,336・1954年25,130バレル
- [24]1952年3月 徳山の旧海軍燃料廠の残存施設を和歌山工場へ移設しプロパン脱瀝青・フェノール抽出の二装置を完成
- [25]1953年9月 プロパン脱蝋装置完成により和歌山工場が高級潤滑油生産の一貫作業を実現
- [26]1953年秋着工・1954年12月竣工のフルイド・ハイドロ・フォーミング装置(日産4,700バレル)で高オクタン価ガソリンを供給
- [27]1955年1月 和歌山工場の新常圧蒸溜装置(能力2万バレル)完成で既設と合わせ日産4万バレル、国内製油所で最大
- [28]1955年6月期 売上高72億9,000万円
1950年〜ス社のブランドで販売される製品と、増資で積み上げた資本
工場でできた品は物価庁の定める精製業者販売価格でス社に渡り、ス社の特約店を経て全国に出回った。そうなったのは、1949年2月にス社と結んだ基本契約の販売条項で、東亜燃料工業の全製品をス社へ売り渡し、販売はス社が引き受けると定めていたからである。取引の直接の相手はス社だけだったが、輸入基地・配給基地だった時代からのジョイント・ユースは続いていた。そのためス社の出荷指図に従い、ゼネラル物産・出光興産・三菱石油・丸善石油・日本鉱業にも製品を供給し続けた。石油配給公団の解散後に配給を担った元売業者は貯蔵・輸送・販売の施設がいずれも不十分で、製油所を持たない純元売業者には他社の施設を借りるほかに商品を調達する方法がなかったためである。1954年6月末の主な取引先も、スタンダード・ヴァキューム石油の一社であった。
- 東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)「第八章 販売」
- [35]工場の生産品は公定の精製業者販売価格をもってス社に引渡され、ス社の特約店を通じて全国に販売された
- [36]1949年2月締結のス社との基本契約の販売条項により、当社が生産する全製品をス社に売渡し、ス社がその販売に当たることとされた
- [37]精製再開後もジョイント・ユースが続き、ス社の出荷指図によりゼネラル物産・出光興産・三菱石油・丸善石油・日本鉱業などへ供給
- [38]石油配給公団解散後、元売業者は貯蔵・輸送・販売の施設が不十分で、製油所を持たない純元売業者はジョイント・ユースに頼る必要があった
- 株式会社年鑑 1955年版「東亜燃料工業」
- [39]主なる取引先 スタンダード・ヴァキューム石油(1954年6月30日現在)
1952年7月の統制全面撤廃を機に、東亜燃料工業の製品はス社のブランドで売られるようになった。自動車揮発油はモービルガス、A重油とC重油はスタンフュエルの名で市場に出た。統制の撤廃と製品輸入の開始でジョイント・ユースの根拠は消え、各社は品質の向上と自社ブランドの売り込みへ向かった。同社は同年2月の組織変更で本社に品質管理部を設け、ス社との緊密な連絡のもとで日本工業規格よりも厳しい社内規格を定めた。前年9月に潤滑油の統制が撤廃されると、ス社への仕切値段は旧精製業者販売価格を標準とし、毎月の市況に応じて両者の協議で事後に決められた。この体制のもとで1954年12月期の売上高は78億7,324万円、当期純利益は12億1,789万円に達した。売り先が一社である以上、価格は市場ではなく交渉で決まった。
- 東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)「第八章 販売」
- [40]1952年7月の統制撤廃を機に、当社製品はス社のブランドをもって販売されるようになった
- [41]自動車揮発油はMobilgas、A重油・C重油はStanfuelのブランド名で販売
- [42]統制の全面的撤廃と製品輸入によりジョイント・ユースの根拠は消滅し、各社は製品の質の向上と自社ブランドの売込みに努めるようになった
- [43]1952年2月の組織変更で本社に品質管理部を設置し、ス社との緊密な連絡の下でJISよりも厳格な規格を制定していった
- [44]1951年9月8日の潤滑油の統制撤廃後、ス社への仕切値段は旧精製業者販売価格を標準とし、毎月の市況により両者協議のうえ事後決定された
- 株式会社年鑑 1955年版「東亜燃料工業」
- [45]1954年12月期 売上高7,873,246千円・当期純利益1,217,895千円
復旧資金の調達を、東亜燃料工業は借入から増資へ切り替えた。1949年1月の企業再建整備計画で資本金は未払込分を切り捨てて3,750万円へ減じられ、株式に市場性がなく株主の払込資力も乏しかったため、再開の資金は借入金に依存していた。転機は1950年の朝鮮事変で、7月から8月にかけて株式市況が好転し、未上場だった同社株も店頭で320円から330円の気配を呼んだ。この局面で1株につき2株を割り当てる増資を行い、資本金は1億1,250万円となった。9月8日から新株が、翌1951年1月からは旧株も取引されるようになった。資本金はその後も1951年12月に6億7,500万円、1954年8月に21億600万円へと積み上がった。売り先も資本も外から与えられた以上、この会社が自ら動かせるのは精製の原価と設備の効率だけであった。
- 東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)「第九章 経理」
- [46]設備資金の調達には増資によるものと借入金によるものがあり、再開後は増資による資本金の増加が続いた
- [48]株式に市場性がなく株主の払込資力の関係で復旧資金を増資で調達できず、借入金に依存していた
- [49]朝鮮事変を境に7・8月と株式市況が好転し、未上場で市場性の乏しかった当社株も店頭の気配は320円から330円であった
- [50]所有株式1株につき新株式2株を割り当てる増資により新資本金は1億1,250万円、増資資金7,500万円は再開復旧資金に充当
- [51]増資後、9月8日からまず新株が、1951年1月から旧株も上場されるようになった
- 株式会社年鑑 1955年版「東亜燃料工業」
- [47]1949年1月 企業再建整備計画に基づき資本金の未払込分を切り捨て3,750万円に減資
- [52]資本金の推移 1951年1月3億3,750万円・1951年12月6億7,500万円・1953年3月13億5,000万円・1953年6月20億2,500万円・1954年8月21億600万円
参考文献[35]-[52]
- 東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)「第八章 販売」
- [35]工場の生産品は公定の精製業者販売価格をもってス社に引渡され、ス社の特約店を通じて全国に販売された
- [36]1949年2月締結のス社との基本契約の販売条項により、当社が生産する全製品をス社に売渡し、ス社がその販売に当たることとされた
- [37]精製再開後もジョイント・ユースが続き、ス社の出荷指図によりゼネラル物産・出光興産・三菱石油・丸善石油・日本鉱業などへ供給
- [38]石油配給公団解散後、元売業者は貯蔵・輸送・販売の施設が不十分で、製油所を持たない純元売業者はジョイント・ユースに頼る必要があった
- [40]1952年7月の統制撤廃を機に、当社製品はス社のブランドをもって販売されるようになった
- [41]自動車揮発油はMobilgas、A重油・C重油はStanfuelのブランド名で販売
- [42]統制の全面的撤廃と製品輸入によりジョイント・ユースの根拠は消滅し、各社は製品の質の向上と自社ブランドの売込みに努めるようになった
- [43]1952年2月の組織変更で本社に品質管理部を設置し、ス社との緊密な連絡の下でJISよりも厳格な規格を制定していった
- [44]1951年9月8日の潤滑油の統制撤廃後、ス社への仕切値段は旧精製業者販売価格を標準とし、毎月の市況により両者協議のうえ事後決定された
- 株式会社年鑑 1955年版「東亜燃料工業」
- [39]主なる取引先 スタンダード・ヴァキューム石油(1954年6月30日現在)
- [45]1954年12月期 売上高7,873,246千円・当期純利益1,217,895千円
- [47]1949年1月 企業再建整備計画に基づき資本金の未払込分を切り捨て3,750万円に減資
- [52]資本金の推移 1951年1月3億3,750万円・1951年12月6億7,500万円・1953年3月13億5,000万円・1953年6月20億2,500万円・1954年8月21億600万円
- 東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)「第九章 経理」
- [46]設備資金の調達には増資によるものと借入金によるものがあり、再開後は増資による資本金の増加が続いた
- [48]株式に市場性がなく株主の払込資力の関係で復旧資金を増資で調達できず、借入金に依存していた
- [49]朝鮮事変を境に7・8月と株式市況が好転し、未上場で市場性の乏しかった当社株も店頭の気配は320円から330円であった
- [50]所有株式1株につき新株式2株を割り当てる増資により新資本金は1億1,250万円、増資資金7,500万円は再開復旧資金に充当
- [51]増資後、9月8日からまず新株が、1951年1月から旧株も上場されるようになった
筆者考察
東亜燃料工業は、需要を自ら見つけて創業した会社ではない。1939年に石油関係10社が公称5,000万円を出し合って作ったのは、航空揮発油と高級潤滑油、すなわち軍が求める油を供給するためであった。出資者は日本石油から三菱鉱業まで業界の主要各社に及び、注文主は国家だった。だから軍需が消えた1946年からの3年間、この会社には売るものが無く、製塩と製氷で食いつないだ。原油も技術も資金も国内には残っておらず、再建の条件が外資との提携になったのは必然だった。作る理由を外から与えられた会社は、その理由が消えたときに立つ場所を失う。
1949年にスタンダード・ヴァキューム社と結んだ基本契約は、株式の過半と引き換えに原油と技術と販売を渡すものだった。生産した油はすべてス社へ渡り、1952年からはモービルガスやスタンフュエルの名で市場に出たから、東亜燃料工業が品質管理部を置いて日本工業規格より厳しい規格を定めても、その成果は自社の名では買い手に届かなかった。手元に残ったのは精製の原価と装置の効率だけで、会社はそこへ資本を注いだ。1950年から1954年までに資本金は3,750万円から21億600万円へ膨らみ、和歌山工場の原油処理能力は国内最大の日産4万バレルに達した。売り先を持たない会社が、装置の大きさで自らの存在を示した時代である。
- 1939年は公称資本金、1949年は企業再建整備計画による減資後の額。
- 出所は東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)および株式会社年鑑 1955年版。
1934年〜1960年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年12月期 | 単体 | 135 | n/a | 19 | 15 | 11.1% | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | 159 | +17.8% | 30 | 17 | 10.7% | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | 180 | +13.2% | 31 | 30 | 16.7% | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | 253 | +40.6% | 38 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年12月期 | 単体 | 333 | +31.6% | 42 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 289 | ▲13.2% | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 352 | +21.8% | n/a | 18 | 5.1% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 416 | +18.2% | n/a | 31 | 7.5% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算
出典・参考
8件
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- 東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)「第八章 販売」
- 東燃十五年史(東亜燃料工業、1956年)「第九章 経理」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「石油 概説」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東亜燃料工業」
- 株式会社年鑑 1955年版「東亜燃料工業」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「東亜燃料工業」
- 日本産業史 第2巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-めざましい再建」