東燃ゼネラル石油:エッソ・モービル折半の東亜燃料工業と石油ショック下の黒字
1961年〜スタンヴァック解体で固まった二つの系列
1961年8月、東亜燃料工業は保有するゼネラル石油株式をスタンダード・ヴァキューム社へ譲渡した。エッソ・スタンダード石油株式会社とモービル石油株式会社の設立は、同年12月のスタンヴァック再編成による。1962年3月にスタンヴァックが解体されると、東亜燃料工業の株式はエッソ・スタンダード・イースタンとモービル・ペトロリアムが25%ずつ取得した。スタンダード・ヴァキューム社と東亜燃料工業が交わしていた諸契約も、中身を変えずに二つに割られ、モービルとエッソがそれぞれ引き継いだ。販売はエッソ・スタンダード石油とモービル石油に任せ、同社は精製だけを担う会社となった。利益をほぼ左右するのは、精製と財務のコストになった。
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [1]1961年8月 東亜燃料工業が保有するゼネラル石油株式をスタンダード・ヴァキューム社へ譲渡
- [2]1961年12月 スタンヴァックの再編成によりエッソ・スタンダード石油とモービル石油を設立
- [3]1962年3月 スタンヴァック解体に伴いエッソ・スタンダード・イースタンとモービル・ペトロリアムが東亜燃料工業株式を各25%取得
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「東亜燃料工業」
- [4]スタンダード・バキューム石油会社との諸契約が二分割されモービル・エッソ両社へ継承
- 日経ビジネス 1976年1月5日号
- [5]東燃は精製部門であり販売はエッソ・スタンダード石油とモービル石油が担当
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [6]精製専業のため精製と財務のコスト低減が経営の中心
設備の拡張は続き、1959年5月に原油タンカー確保のため東燃タンカー株式会社を設立し、1962年3月に川崎工場の第一期工事、1963年7月に第二期工事を完成させた。1965年11月には増資を重ねて資本金115億1,200万円となり、1968年10月の和歌山工場の増設完成で精製能力は日産29万バレルに達する見込みとなった。国全体でも、1962年7月の石油業法施行時に日量114万8,000バレルだった精製能力は1966年末に221万バレル、1971年末に410万バレル、1973年末に541万バレルへ膨らみ、施行時の16社に対して14社の精製会社が新設された。政府は1962年10月の原油輸入自由化に備えて精製設備の許可で需給を調整したが、結果として起きたのは業界の細分化であった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「東亜燃料工業」
- [7]1959年5月 東燃タンカー設立、1962年3月 川崎工場第一期工事完成、1963年7月 第二期工事完成
- [8]1965年11月 増資を重ね資本金115億1,200万円
- [9]和歌山工場の6万バレル増設は1968年10月完成予定で、完成後の精製能力は日産29万バレル
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
- [10]精製能力は石油業法施行時の日量114万8,000バレルから1966年末221万・1971年末410万・1973年末541万バレルへ増加し、施行時の16社にほぼ匹敵する14社が新設
- [11]石油業法は1962年7月施行、同年10月からの原油輸入自由化に備えて国内での需給調整と安定供給をねらった
ゼネラル石油の側も設備と系列を広げ、1965年7月に堺製油所を完成させ、1967年1月にはゼネラル物産をゼネラル石油に、ゼネラル石油をゼネラル石油精製に商号変更した。1972年5月には南西石油へ資本参加し、1973年3月にゼネラル石油化学工業株式会社を設立した。1979年5月、エッソ・イースタン・インコーポレーテッドが第三者割当によりゼネラル石油の発行済株式数の49%を取得し、東亜燃料工業の手を離れていた販売会社もエクソン系の資本のもとに入った。1980年10月にはゼネラル石油がゼネラル石油精製とゼネラル瓦斯を吸収合併し、精製と販売を一つの法人に収めた。
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [12]1965年7月 ゼネラル石油の堺製油所完成、1967年1月 ゼネラル物産をゼネラル石油に、ゼネラル石油をゼネラル石油精製に商号変更
- [13]1972年5月 南西石油に資本参加、1973年3月 ゼネラル石油化学工業を設立
- [14]1979年5月 エッソ・イースタン・インコーポレーテッドが第三者割当によりゼネラル石油の発行済株式数の49%を取得
- [15]エッソ・イースタンが取得したのはゼネラル石油の発行済株式数の49%
- [16]1980年10月 ゼネラル石油がゼネラル石油精製とゼネラル瓦斯を吸収合併
参考文献[1]-[16]
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- [1]1961年8月 東亜燃料工業が保有するゼネラル石油株式をスタンダード・ヴァキューム社へ譲渡
- [2]1961年12月 スタンヴァックの再編成によりエッソ・スタンダード石油とモービル石油を設立
- [3]1962年3月 スタンヴァック解体に伴いエッソ・スタンダード・イースタンとモービル・ペトロリアムが東亜燃料工業株式を各25%取得
- [12]1965年7月 ゼネラル石油の堺製油所完成、1967年1月 ゼネラル物産をゼネラル石油に、ゼネラル石油をゼネラル石油精製に商号変更
- [13]1972年5月 南西石油に資本参加、1973年3月 ゼネラル石油化学工業を設立
- [14]1979年5月 エッソ・イースタン・インコーポレーテッドが第三者割当によりゼネラル石油の発行済株式数の49%を取得
- [15]エッソ・イースタンが取得したのはゼネラル石油の発行済株式数の49%
- [16]1980年10月 ゼネラル石油がゼネラル石油精製とゼネラル瓦斯を吸収合併
- [4]スタンダード・バキューム石油会社との諸契約が二分割されモービル・エッソ両社へ継承
- [7]1959年5月 東燃タンカー設立、1962年3月 川崎工場第一期工事完成、1963年7月 第二期工事完成
- [8]1965年11月 増資を重ね資本金115億1,200万円
- [9]和歌山工場の6万バレル増設は1968年10月完成予定で、完成後の精製能力は日産29万バレル
- 日経ビジネス 1976年1月5日号
- [5]東燃は精製部門であり販売はエッソ・スタンダード石油とモービル石油が担当
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [6]精製専業のため精製と財務のコスト低減が経営の中心
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
- [10]精製能力は石油業法施行時の日量114万8,000バレルから1966年末221万・1971年末410万・1973年末541万バレルへ増加し、施行時の16社にほぼ匹敵する14社が新設
- [11]石油業法は1962年7月施行、同年10月からの原油輸入自由化に備えて国内での需給調整と安定供給をねらった
1973年〜石油ショックで設備投資を止めた判断
1973年10月の第四次中東戦争を機に、原油価格はクウェート宣言を経て2か月あまりで3.8倍に跳ね上がった。東亜燃料工業は削減できる設備投資をすべて止め、当時250億円と見積もっていた和歌山製油所の直接脱硫装置は、キャンセル料を払って建設を取りやめた。1974年の経費予算は売上数量が3年前の水準に減少する前提で組み、省エネルギー運動と採用人員の抑制を進めた。それでも1974年の環境は厳しく、価格は同年3月17日まで凍結され、解除後もキロリットル当たり平均8,946円の上昇しか認められず、業界全体でキロリットル当たり5,000円の逆ざやとなった。円安とドルユーザンス金利の高騰も重なり、同社の1974年の為替差損は約90億円に達した。
- 証券アナリストジャーナル 1976年6月号(中原伸之・東亜燃料工業常務取締役、日本証券アナリスト協会企業分析部会1976年4月23日講演要旨)
- [17]原油価格はクウェート宣言を経て2か月あまりで3.8倍に急騰
- [18]削減可能な設備投資をすべて削減、最大のものは見積り250億円の直接脱硫装置
- [20]1974年の経費予算を売上数量が3年前の水準に落ちる前提で編成し、省エネルギー運動と採用人員の抑制を実施
- [21]1974年3月17日まで価格凍結、解除後もキロリットル当たり平均8,946円の上昇のみ、業界全体でキロリットル当たり5,000円の逆ざや
- [22]1974年の為替差損 約90億円
- 日経ビジネス 1976年1月5日号
- [19]和歌山製油所の直接脱硫装置はキャンセル料を払って建設を取り止め
1975年、東亜燃料工業は経常利益96〜97億円を計上した。石油業界全体では表面上約2,000億円、実質5,000億円の累積赤字を抱え、業界では"東燃研究"という言葉がはやった。高収益の理由は一つではなく、ガソリンの生産比率は全国平均11%に対して20%、白物の生産比率は45.4%に対して63%、B・C重油の黒物は45%に対して27%と、需要の強い軽質製品に寄っていた。過剰船腹比率は全国平均の半分以下で、自己資本比率は1975年9月中間決算を発表した石油上位9社の平均1.88%に対して13.9%、1976年4月の時点では石油業界平均6.3%に対して約18%にあたった。支払金利はキロリットル当たり400円ほど安く、製油所の人員も精製能力1,000バレル当たり4.7人と業界平均5.3人を下回っていた。
- 証券アナリストジャーナル 1976年6月号(中原伸之・東亜燃料工業常務取締役、日本証券アナリスト協会企業分析部会1976年4月23日講演要旨)
- [23]1975年 経常利益96〜97億円
- [24]石油業界の累積赤字は表面上約2,000億円・実質5,000億円といわれ「東燃研究」という言葉が流行
- [25]ガソリンの生産比率 全国平均11%に対し20%、白物の生産比率 全国平均45.4%に対し63%
- [26]B・C重油の黒物の生産比率 全国45%に対し27%
- [27]過剰船腹比率は全国平均の半分以下
- [29]自己資本比率は石油業界平均6.3%に対し約18%(1976年4月講演時点)
- [30]支払金利はキロリットル当たり400円程度安く、製油所人員は精製能力1,000バレル/日当たり4.7人(業界平均5.3人)
- 日経ビジネス 1976年1月5日号
- [28]自己資本比率13.9%、石油上位9社(1975年9月中間決算発表)の平均は1.88%
原油の購入条件そのものは、むしろ外資系のほうが不利で、中原伸之常務は1976年4月23日の日本証券アナリスト協会企業分析部会で、公示価格からの値引きもシッパーズ・ユーザンスもなく東亜燃料工業は『最も不利な条件で買っている』と述べた。同じ講演で中原常務は、提携先のエクソンが1966年から続ける石炭液化のパイロットプラント、太陽電池や電気自動車の検討、東燃テクノロジーによる保全管理・地盤改良・医療機器への転換に触れ、石油精製以外の分野へ事業を広げる方針を示した。国内の石油需要は1978年度の2億3,500万キロリットルから1982年度には1億8,300万キロリットルへ減り、1981年度上期にはアラムコ系12社が2,567億円の黒字、非アラムコ系22社が3,282億円の赤字と、原油の調達先が損益を分けた。
- 証券アナリストジャーナル 1976年6月号(中原伸之・東亜燃料工業常務取締役、日本証券アナリスト協会企業分析部会1976年4月23日講演要旨)
- [31]1976年4月23日 日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演(中原伸之・東亜燃料工業常務取締役)
- [32]中原伸之常務の発言「原油の取引条件に関しては外資系はむしろ不利であり、中でも当社は最も不利な条件で買っている」
- [33]エクソンは1966年から石炭液化のパイロットプラントを建設し、太陽電池・電気自動車・エネルギー貯蔵も検討。東燃テクノロジーは保全管理・地盤改良・都市ごみ処理・医療機器へ
- [34]石油精製一本槍から、エネルギーおよびその関連の新規事業へ広げる方針を表明
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- [35]国内石油需要 1978年度2億3,500万キロリットル→1982年度1億8,300万キロリットル
- [36]1981年度上期 アラムコ系12社が2,567億円の黒字、非アラムコ系22社が3,282億円の赤字
参考文献[17]-[36]
- [17]原油価格はクウェート宣言を経て2か月あまりで3.8倍に急騰
- [18]削減可能な設備投資をすべて削減、最大のものは見積り250億円の直接脱硫装置
- [20]1974年の経費予算を売上数量が3年前の水準に落ちる前提で編成し、省エネルギー運動と採用人員の抑制を実施
- [21]1974年3月17日まで価格凍結、解除後もキロリットル当たり平均8,946円の上昇のみ、業界全体でキロリットル当たり5,000円の逆ざや
- [22]1974年の為替差損 約90億円
- [23]1975年 経常利益96〜97億円
- [24]石油業界の累積赤字は表面上約2,000億円・実質5,000億円といわれ「東燃研究」という言葉が流行
- [25]ガソリンの生産比率 全国平均11%に対し20%、白物の生産比率 全国平均45.4%に対し63%
- [26]B・C重油の黒物の生産比率 全国45%に対し27%
- [27]過剰船腹比率は全国平均の半分以下
- [29]自己資本比率は石油業界平均6.3%に対し約18%(1976年4月講演時点)
- [30]支払金利はキロリットル当たり400円程度安く、製油所人員は精製能力1,000バレル/日当たり4.7人(業界平均5.3人)
- [31]1976年4月23日 日本証券アナリスト協会企業分析部会での講演(中原伸之・東亜燃料工業常務取締役)
- [32]中原伸之常務の発言「原油の取引条件に関しては外資系はむしろ不利であり、中でも当社は最も不利な条件で買っている」
- [33]エクソンは1966年から石炭液化のパイロットプラントを建設し、太陽電池・電気自動車・エネルギー貯蔵も検討。東燃テクノロジーは保全管理・地盤改良・都市ごみ処理・医療機器へ
- [34]石油精製一本槍から、エネルギーおよびその関連の新規事業へ広げる方針を表明
- 日経ビジネス 1976年1月5日号
- [19]和歌山製油所の直接脱硫装置はキャンセル料を払って建設を取り止め
- [28]自己資本比率13.9%、石油上位9社(1975年9月中間決算発表)の平均は1.88%
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- [35]国内石油需要 1978年度2億3,500万キロリットル→1982年度1億8,300万キロリットル
- [36]1981年度上期 アラムコ系12社が2,567億円の黒字、非アラムコ系22社が3,282億円の赤字
1979年〜原油の多重価格と、稼働率6割に落ちた精製設備
1978年10月、イランの石油労働者のストライキで原油の供給が細り始めた。当時のイランは日量570万バレルを生産する大産油国で、12月26日から翌年3月5日まで輸出が全面的に止まった。日本はイラン原油に約17%を依存しており、1979年1月以降、BPは対日供給を最大45%まで削減すると通告し、他のメジャーも3月まで5〜10%の削減を表明した。OPECの基準原油価格は1979年6月の18ドルから翌年6月の32ドルへ上がった。通産省は価格への直接介入を避け、コスト上昇分の転嫁を認可・監視するシーリング価格制度で、1979年3月から1982年4月まで13回の値上げを認めた。それでも東亜燃料工業の1980年12月期は売上高1兆1,649億円、経常利益636億円、当期純利益272億円で、5年前の経常利益96億円から大きく伸びた。
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- [37]1978年10月 パーレビ体制への不満から起きたイランの石油労働者のストライキが第二次石油ショックのきっかけとなった
- [38]当時のイランは日量570万バレルを生産し500万バレルを輸出、1978年12月26日から1979年3月5日まで全面輸出停止
- [39]日本のイラン原油依存度は約17%、1979年1月以降BPは対日供給を最大45%削減と通告、他のメジャーも3月まで5〜10%の削減を表明
- [40]OPEC基準原油価格は1979年6月18ドル、同年12月24ドル、1980年6月32ドルへ引き上げ
- [41]通産省は価格への直接介入を避けコスト上昇分の転嫁を認可・監視するシーリング価格制度を採り、1979年3月から1982年4月まで13回の値上げに適用
- 会社年鑑 1986年版「東亜燃料工業」
- [42]東亜燃料工業 1980年12月期 売上高11,649億円・経常利益636億円・当期純利益272億円、1975年12月期 売上高5,411億円・経常利益96億円
ゼネラル石油の側では、売る量が減るなかで売上高が伸びた。1980年3月期の総販売数量は約1,191万キロリットルと前年度比3.1%の減少で、石油化学用ナフサと電力用の生焚き原油・重油が他のエネルギーへの転換によって減った一方、自動車用ガソリンと軽油は数量を増やした。1973年度に燃料油需要の41.9%を占めたC重油は1978年度に37.9%へ下がり、ガソリンは11.6%から14.4%へ上がっていた。製品価格の値上げで同社の売上高は約5,969億円と前年度比61.8%増、当期利益は約69億円と約57億円の増益になった。翌1981年3月期も販売数量は1,135万キロリットルへ4.7%減ったが、ガソリンは5.6%、軽油は3.4%伸び、売上高は約7,840億円、経常利益は約264億円を計上した。
- 日本企業要覧 1980年版「ゼネラル石油」
- [43]ゼネラル石油 1980年3月期 総販売数量約1,191万キロリットル(前年度比3.1%減)に対し売上高は約5,969億円(前年度比61.8%増)
- [44]販売数量の減少は石油化学用ナフサと電力用生焚き原油・重油の需要が他への転換で減ったためで、自動車用ガソリン・軽油は増加
- [46]ゼネラル石油 1980年3月期 当期利益約69億円(前年度比約57億円の増益)
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- [45]燃料油需要に占めるC重油は1973年度41.9%から1978年度37.9%へ低下、ガソリンは11.6%から14.4%へ上昇し石油製品の軽質化が進んだ
- 日本企業要覧 1981年版「ゼネラル石油」
- [47]ゼネラル石油 1981年3月期 販売数量1,135万キロリットル(前年度比4.7%減)、ガソリン5.6%増・軽油3.4%増、売上高約7,840億円・経常利益約264億円
1979年度から1981年度までの3年間で、国内の燃料油需要は3,900万キロリットル減った。うち2,200万キロリットルが燃料転換、1,000万キロリットルが省エネルギーによるものであった。1981年度の製油所稼働率は59.5%まで下がり、通産省は1983年9月末までに日量約100万バレルの設備削減を決めた。日本では石油業法のもとで設備能力が許可制であったため既得権の維持が優先され、欧米で相次いだ製油所の閉鎖のような合理化には至らなかった。東亜燃料工業の経常利益は1982年12月期の326億円から1983年12月期の892億円へ戻った。1984年12月期の売上高は揮発油が4,241億円で39%を占め、重油の26%、灯軽油の25%を上回った。次に問われるのは原油の値ではなく、ガソリンに利幅を寄せた国内の価格体系であった。
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- [48]1979年度から1981年度までで燃料油需要は3,900万キロリットル減少
- [49]燃料油需要の減少3,900万キロリットルのうち燃料転換によるものが2,200万キロリットル、省エネによるものが1,000万キロリットル
- [50]1981年度の製油所稼働率は59.5%に低下、通産省は1983年9月末までに約100万バレルの設備削減を決定し目標はほぼ達成
- [51]欧州主要7ヵ国で1976年末から1984年末までに79製油所が閉鎖された一方、日本は石油業法で設備能力が許可制のため既得権の維持が優先され思い切った合理化は見られなかった
- 会社年鑑 1986年版「東亜燃料工業」
- [52]東亜燃料工業 1982年12月期 経常利益326億円、1983年12月期 経常利益892億円
- [53]東亜燃料工業 1984年12月期 売上構成 揮発油4,241億70百万円39%・重油2,785億60百万円26%・灯軽油2,668億85百万円25%
参考文献[37]-[53]
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- [37]1978年10月 パーレビ体制への不満から起きたイランの石油労働者のストライキが第二次石油ショックのきっかけとなった
- [38]当時のイランは日量570万バレルを生産し500万バレルを輸出、1978年12月26日から1979年3月5日まで全面輸出停止
- [39]日本のイラン原油依存度は約17%、1979年1月以降BPは対日供給を最大45%削減と通告、他のメジャーも3月まで5〜10%の削減を表明
- [40]OPEC基準原油価格は1979年6月18ドル、同年12月24ドル、1980年6月32ドルへ引き上げ
- [41]通産省は価格への直接介入を避けコスト上昇分の転嫁を認可・監視するシーリング価格制度を採り、1979年3月から1982年4月まで13回の値上げに適用
- [45]燃料油需要に占めるC重油は1973年度41.9%から1978年度37.9%へ低下、ガソリンは11.6%から14.4%へ上昇し石油製品の軽質化が進んだ
- [48]1979年度から1981年度までで燃料油需要は3,900万キロリットル減少
- [49]燃料油需要の減少3,900万キロリットルのうち燃料転換によるものが2,200万キロリットル、省エネによるものが1,000万キロリットル
- [50]1981年度の製油所稼働率は59.5%に低下、通産省は1983年9月末までに約100万バレルの設備削減を決定し目標はほぼ達成
- [51]欧州主要7ヵ国で1976年末から1984年末までに79製油所が閉鎖された一方、日本は石油業法で設備能力が許可制のため既得権の維持が優先され思い切った合理化は見られなかった
- 会社年鑑 1986年版「東亜燃料工業」
- [42]東亜燃料工業 1980年12月期 売上高11,649億円・経常利益636億円・当期純利益272億円、1975年12月期 売上高5,411億円・経常利益96億円
- [52]東亜燃料工業 1982年12月期 経常利益326億円、1983年12月期 経常利益892億円
- [53]東亜燃料工業 1984年12月期 売上構成 揮発油4,241億70百万円39%・重油2,785億60百万円26%・灯軽油2,668億85百万円25%
- 日本企業要覧 1980年版「ゼネラル石油」
- [43]ゼネラル石油 1980年3月期 総販売数量約1,191万キロリットル(前年度比3.1%減)に対し売上高は約5,969億円(前年度比61.8%増)
- [44]販売数量の減少は石油化学用ナフサと電力用生焚き原油・重油の需要が他への転換で減ったためで、自動車用ガソリン・軽油は増加
- [46]ゼネラル石油 1980年3月期 当期利益約69億円(前年度比約57億円の増益)
- 日本企業要覧 1981年版「ゼネラル石油」
- [47]ゼネラル石油 1981年3月期 販売数量1,135万キロリットル(前年度比4.7%減)、ガソリン5.6%増・軽油3.4%増、売上高約7,840億円・経常利益約264億円
筆者考察
1962年にスタンヴァックが解体され、エッソとモービルが東亜燃料工業の株式を25%ずつ持ったとき、この会社の損益を決める変数は二つに絞られた。原油をいくらで買うかと、装置をどれだけ効率よく回すかである。販売はエッソ・スタンダード石油とモービル石油が引き受け、価格は系列の内側で決まった。1973年の石油ショックで原油が2か月あまりで3.8倍になったとき、東亜燃料工業は250億円と見積もっていた直接脱硫装置をキャンセル料を払って取りやめ、翌年の予算を売上数量が3年前へ戻る前提で組んだ。業界が実質5,000億円の累積赤字を抱えた1975年に経常利益96億円を残せたのは、握っている変数が少なく、その両方を自ら動かせたからである。
ただし高収益の理由として当時挙げられたガソリン比率20%や自己資本比率13.9%は、国内の価格体系が軽質製品へ利幅を寄せていたことの裏返しでもあった。第二次石油ショックのあと国内の石油需要は縮み、1981年度の製油所稼働率は59.5%まで低下したが、石油業法が設備能力を許可制に保っていたため、欧米で相次いだ製油所の閉鎖は日本では起きなかった。割安なサウジ原油を引ける位置、ガソリンに利幅が寄る価格体系、設備を守る許可制。この三つのうち二つは自社の努力の外にあり、規制が解ければ同時に消える性質のものだった。次の10年に問われたのは、そこから何を自前の強みとして残せるかであった。
- 単体・日本基準。
- 出所は会社年鑑 1986年版。
1961年〜1985年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1961年12月期 | 単体 | 387 | n/a | n/a | 33 | 8.5% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 454 | +17.3% | n/a | 22 | 4.8% | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 531 | +17.0% | n/a | 29 | 5.5% | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 604 | +13.7% | n/a | 17 | 2.8% | n/a |
| 1965年12月期 | 単体 | 682 | +12.9% | n/a | 28 | 4.1% | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 827 | +21.3% | n/a | 38 | 4.6% | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | 992 | +20.0% | n/a | 44 | 4.4% | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 1,114 | +12.3% | n/a | 56 | 5.0% | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 1,208 | +8.4% | n/a | 60 | 5.0% | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 1,414 | +17.1% | 114 | 67 | 4.7% | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 1,590 | +12.4% | 102 | 55 | 3.5% | n/a |
| 1972年12月期 | 単体 | 1,720 | +8.2% | 95 | 58 | 3.4% | n/a |
| 1973年12月期 | 単体 | 2,076 | +20.7% | 107 | 76 | 3.7% | n/a |
| 1974年12月期 | 単体 | 4,916 | +136.8% | 87 | 19 | 0.4% | n/a |
| 1975年12月期 | 単体 | 5,411 | +10.1% | 96 | 39 | 0.7% | n/a |
| 1976年12月期 | 単体 | 6,139 | +13.5% | 320 | 151 | 2.5% | n/a |
| 1977年12月期 | 単体 | 6,176 | +0.6% | 447 | 197 | 3.2% | n/a |
| 1978年12月期 | 単体 | 5,332 | ▲13.7% | 323 | 175 | 3.3% | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 6,978 | +30.9% | 133 | 145 | 2.1% | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 11,649 | +66.9% | 636 | 272 | 2.3% | n/a |
| 1981年12月期 | 単体 | 12,140 | +4.2% | 314 | 172 | 1.4% | n/a |
| 1982年12月期 | 単体 | 12,553 | +3.4% | 326 | 169 | 1.3% | n/a |
| 1983年12月期 | 単体 | 10,945 | ▲12.8% | 892 | 381 | 3.5% | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | 10,862 | ▲0.8% | 690 | 413 | 3.8% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1963年版、1967年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1967年版、1971年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
10件
- 東燃ゼネラル石油 有価証券報告書(第97期・2016年12月期)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「東亜燃料工業」
- 会社年鑑 1986年版「東亜燃料工業」
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-第二次石油ショックと業界再編」
- 日経ビジネス 1976年1月5日号
- 証券アナリストジャーナル 1976年6月号(中原伸之・東亜燃料工業常務取締役、日本証券アナリスト協会企業分析部会1976年4月23日講演要旨)
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- 日本企業要覧 1980年版「ゼネラル石油」
- 日本企業要覧 1981年版「ゼネラル石油」