第1章 年〜年

テルモ:赤線検温器の設立と体温計の国産化

1921年〜北里柴三郎氏が発起した資本金50万円の赤線検温器と、1本3円の仁丹の体温計

欧州製体温計の輸入は第一次世界大戦で止まり、医療界では国産の良品を求める声が強まった。東京市本所区の体温計製造業者だった竹内英二氏は、資金難を打開するため東京医師会会長の笹川三男三氏に支援を求めた。笹川三男三氏は医師仲間が信用できる製造会社を構想し、医学界の重鎮だった北里柴三郎氏が賛同して発起人となり創立総会では議長を務めた。1921年9月17日、東京市下谷区御徒町に本店を置く、竹内製作所を母体とした赤線検温器株式会社の設立。資本金は50万円で、取締役5名のうち笹川三男三氏と山上兼輔氏の2名が医学博士である。社名の赤線は、目盛りを読みやすくするため竹内英二氏が考案した赤線芯入りの着色体温計に由来する。医師の信用を品質の保証に転じるため、町工場の増資ではなく医学者が発起する新会社を選んだとみられる。

  • 証券 1982(新規上場会社紹介)
    • [1]第一次大戦で欧州からの体温計輸入が途絶え、医療界で優秀な国産体温計を待望する機運が高まった
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [2]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
    • [3]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
    • [5]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
    • [6]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [4]1921年9月、赤線検温器株式会社設立(資本金50万円)、本店を東京市下谷区御徒町3丁目58番地に置く

赤線検温器は工場と製造の権利を竹内製作所から引き継いだ一方、全国に売る販売網を持たなかった。笹川三男三氏の要請を受けた森下博氏が販売を引き受け、株式の4分の1を引き受けて事業に加わった。製品は森下博氏の薬房(現在の森下仁丹)を通じて「仁丹体温計」として販売され、森下仁丹は全国360余りの新聞に大きな広告を出した。1922年2月の発売で1本3円の値を付け、英国製の2円台、独製の1円台を上回った。1923年9月の関東大震災で同業の大半が打撃を受けるなか、赤線検温器は10月に平常の操業へ戻した。1924年4月末の時点で、東京の同業11社の年間検定数30万8,603本のうち、17万6,560本が赤線検温器の分にあたる。医師の信用と仁丹の広告網を組み合わせ、高値でも選ばれる銘柄を築いたと推察される。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [7]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [8]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [11]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [12]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [13]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
  • 証券 1982(新規上場会社紹介)
    • [9]製品は森下博薬房(現森下仁丹)を通じ仁丹体温計として販売された
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [10]森下仁丹と一手販売契約・「仁丹の体温計」商標登録、森下仁丹が全国360余の新聞に体温計の大広告

赤線検温器は赤線入棒状体温計の特許を持ち、1929年に米国のベクトン・ディッキンソン社の求めに応じて米国での実施権を与えた。1930年7月には商工省産業合理化局が仁丹体温計を代表的優良国産品に選び、11月には凹型仁丹体温計を発売した。政府は体温計を輸出の有望品として奨励したものの、輸出は当初目立って増えなかった。第一次世界大戦中に日本の粗悪な製品が海外へ出回り、相手国の評価を下げたまま回復しなかったためである。赤線検温器は品質の実績を重ね、輸出は1932年度に初めて1万本を超え、1935年度には18万7,000本に達した。国内で医学者の信用から始まった銘柄が、特許の供与と輸出の数量で海外にも裏づけられたと思われる。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [14]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [16]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [18]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [19]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [20]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [15]1929年10月ベクトン・ディッキンソン社に実施権供与、1930年7月優良国産品選定、11月凹型仁丹体温計発売
    • [17]1929年10月ベクトン・ディッキンソン社に実施権供与、1930年7月優良国産品選定、11月凹型仁丹体温計発売
参考文献[1]-[20]
  • 証券 1982(新規上場会社紹介)
    • [1]第一次大戦で欧州からの体温計輸入が途絶え、医療界で優秀な国産体温計を待望する機運が高まった
    • [9]製品は森下博薬房(現森下仁丹)を通じ仁丹体温計として販売された
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [2]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
    • [3]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
    • [5]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
    • [6]竹内英二が資金難で笹川三男三に援助を求め、笹川の構想に北里柴三郎が賛同し発起人・創立総会議長となる。資本金50万円、取締役5名(笹川・山上は医学博士)。社名は竹内考案の赤線芯入り着色体温計に由来
    • [7]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [8]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [11]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [12]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [13]森下博が笹川の懇請で販売を引受け全株式の1/4を出資。1922年2月「仁丹の体温計」名で1本3円(英国製2円台・独製1円台)。震災後10月に平常操業、1924年4月末に東京同業11社の検定数30万8,603本中17万6,560本
    • [14]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [16]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [18]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [19]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
    • [20]1929年米国ベクトン・ディッキンソン社の懇請で赤線入棒状体温計の特許実施権を与え、1930年7月商工省産業合理化局の代表的優良国産品、11月凹型仁丹体温計発売。粗悪品輸出の影響で輸出は伸び悩み、1932年度1万本超、1935年度18万7,000本
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [4]1921年9月、赤線検温器株式会社設立(資本金50万円)、本店を東京市下谷区御徒町3丁目58番地に置く
    • [10]森下仁丹と一手販売契約・「仁丹の体温計」商標登録、森下仁丹が全国360余の新聞に体温計の大広告
    • [15]1929年10月ベクトン・ディッキンソン社に実施権供与、1930年7月優良国産品選定、11月凹型仁丹体温計発売
    • [17]1929年10月ベクトン・ディッキンソン社に実施権供与、1930年7月優良国産品選定、11月凹型仁丹体温計発売

1935年〜創立15周年で改めた仁丹体温計の社名と、空襲で焼けた本社工場

1935年7月27日、創立から13年余り社長を務めた笹川三男三氏の死去。9月には森下博氏の営業所から神澤正氏を後任に迎えたものの、神澤正氏は在任4か月で1936年2月に死去し、5月に伊藤良一郎氏が社長に就任した。伊藤良一郎氏も11月に辞任し、後任の社長は1923年から常務取締役として経営の実務を担ってきた中村竹次氏である。同じ1936年11月、第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社へ社名を改めた。製品が世間で「仁丹の体温計」と呼ばれていたので、創立15周年を機に社名を製品の呼び名にそろえた。この年はブルガリア陸軍が仁丹体温計を採用し、輸出も好調だった。1年余りで社長が3度替わるなか、浸透した銘柄の名を社名に掲げて取引先と利用者の認知を保とうとしたのだろう。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [21]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [23]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [24]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [26]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [28]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [22]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任
    • [25]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任
    • [27]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任
    • [29]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任

1937年4月3日朝、南隣の高千穂製作所から出た火が仁丹体温計の第一工場へ延焼し、全焼した建物は6棟、約800平方メートルに及ぶ。製造の要であるガラス工場は被害を免れ、半焼した第三工場の応急修理と近くの空き工場の借用で、休業3日で生産に戻った。同年9月に第一・第二工場を、1938年1月に事務所と第三工場を完成させた。日中戦争の開戦後、体温計は軍需・民需・輸出のいずれも需要が強く、仁丹体温計は1939年に海軍の指定工場となった。一方でガラス原料と水銀は配給制になり、工員の不足と電力・ガスの使用制限で生産原価が上がった。1941年5月の公定価格の制定で、体温計は各府県の商業組合を経る配給品となった。ガラス工場を残せたことが、火災後の早い再開と戦時の増産要請への対応を支えたと考えられる。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [30]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [31]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [33]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [35]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [37]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [38]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [32]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売
    • [34]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売
    • [36]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売
    • [39]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売

仁丹体温計は1945年4月に山形市への工場疎開を決めた直後、5月の東京空襲で幡ヶ谷の本社工場を失った。1944年11月に東京への空襲が始まり、仁丹体温計は陸海軍の強い勧告を受けて疎開先を探した。製造にガスを使うため安全な候補地は見つからず、ようやく山形市で工場に転用できる建物を得た。5月25日夜からの空襲で構内と第三工舎に焼夷弾が落ち、幡ヶ谷工場は土蔵1棟を残して焼失した。防護勤務者30数名は全員が脱出し、仁丹体温計は近くの幼稚園を借りて焼け残った半製品の仕上げを始めた。これに先立つ1943年3月20日には、販売と出資で創業期を支えた相談役の森下博氏が75歳で死去した。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [40]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [42]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [43]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [44]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [46]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [48]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [41]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始
    • [45]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始
    • [47]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始
    • [49]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始
参考文献[21]-[49]
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [21]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [23]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [24]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [26]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [28]1935年7月27日笹川三男三死去、9月神澤正(森下博営業所)が後任、1936年2月死去、5月伊藤良一郎、11月中村竹次が社長。1936年11月第21回定時株主総会で仁丹体温計株式会社に社名変更(創立15周年、製品名に合わせる)
    • [30]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [31]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [33]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [35]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [37]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [38]1937年4月3日高千穂製作所から出火し第一工場等6棟約800m2全焼、ガラス工場は無事で休業3日で再開。9月第一・第二工場、1938年1月事務所・第三工場完成。戦時の旺盛な需要と配給制・人手不足・コスト上昇、1941年5月公定価格制定で自由販売禁止
    • [40]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [42]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [43]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [44]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [46]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
    • [48]1944年11月東京初空襲、陸海軍の勧告で疎開先を探すもガス使用のため難航、1945年4月山形市に決定。5月25〜26日の空襲で本社工場焼失、防護勤務者30数名無事、幼稚園を仕上工場に。1943年3月20日森下博死去(75歳)
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [22]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任
    • [25]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任
    • [27]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任
    • [29]1935年7月笹川死去、1936年ブルガリア陸軍採用など輸出好況、仁丹体温計株式会社へ商号変更、伊藤良一郎・中村竹次の社長就任
    • [32]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売
    • [34]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売
    • [36]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売
    • [39]1937年4月出火延焼・3日間休業で生産開始、1939年海軍の指定工場、1941年5月公定価格制定で府県商業組合経由の販売
    • [41]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始
    • [45]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始
    • [47]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始
    • [49]1943年3月森下博相談役死去、1945年4月山形市に工場疎開準備、5月幡ヶ谷工場が土蔵1棟を残して全焼し幼稚園を借用して仕上げ作業開始

1946年〜42日間の争議を越えた焼跡の再建と、2,700万円への増資と戸澤三雄氏の渡米

仁丹体温計は戦災で従業員に死傷者を出さず、技術者と工員を残せたので、終戦の翌年に東京と山形の2か所で生産を再開できた。1946年1月に山形工場が操業を始め、5月に焼跡の本社加工工場が完成して8月に加工作業を再開した。従業員は1945年10月末の男女107名から、1946年10月末には189名まで増えた。1947年2月には山形工場で賃上げなど7項目を求める争議が起き、4月に組合幹部が検挙されて42日間で解決した。1949年度の生産数量90万本余りは、1948年度の50万本余りのほぼ倍にあたる。山形工場は平型体温計の半製品を受け持ったのち、1954年7月に事業合理化のため本社工場へ統合された。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [50]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [51]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [53]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [54]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [56]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [57]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [52]1946年1月山形工場操業、5月本社加工工場完成、1947年2月山形工場労働争議・4月解決、1954年7月事業合理化のため山形工場閉鎖し本社統合
    • [55]1946年1月山形工場操業、5月本社加工工場完成、1947年2月山形工場労働争議・4月解決、1954年7月事業合理化のため山形工場閉鎖し本社統合
    • [58]1946年1月山形工場操業、5月本社加工工場完成、1947年2月山形工場労働争議・4月解決、1954年7月事業合理化のため山形工場閉鎖し本社統合

1951年5月、中村竹次氏が療養のため社長を退任し、森下博氏の孫の森下泰氏が社長に、20代の戸澤三雄氏が取締役に就任した。体温計は1949年9月の公定価格の廃止で自由販売に戻り、将来性を見込んだ新規参入でメーカー数は戦時中の5倍に増えた。国内が過剰に傾くなか、業界は1950年8月からのインド向けで推定100万本、1952年からの香港向けで100万本内外を輸出。1953年に輸出不振と乱売が戻ると、森下泰氏は東南アジアと西欧を約3か月視察し、中近東・イスラエルと中国への直輸出を開拓した。仁丹体温計の生産は1951年に年121万3,000本、1955年に年250万本となり、国内生産の約30%を占めて業界1位に立った。1957年1月には再評価積立金の一部を組み入れ、資本金を3倍の2,700万円とした。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [59]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [61]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [62]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [63]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [64]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [66]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [60]1951年5月森下泰社長就任、同年の年間生産量121万3,000本。1957年1月資本金2,700万円に増資
    • [65]1951年5月森下泰社長就任、同年の年間生産量121万3,000本。1957年1月資本金2,700万円に増資
    • [67]1951年5月森下泰社長就任、同年の年間生産量121万3,000本。1957年1月資本金2,700万円に増資

仁丹体温計は1958年2月に輸出課を新設し、それまで森下仁丹を通していた輸出業務を自社で担った。同年9月の常務の戸澤三雄氏の渡米は、米国の関税引上げへの対処が主な目的である。戸澤三雄氏はベクトン・ディッキンソン社など医療器メーカー数社を訪ねた。米国で広がり始めた使い捨てのディスポーザブル製品へ強い関心を抱き、戸澤三雄氏は帰国した。1954年に新設した研究部には業界から投資を危ぶむ声も出たものの、仁丹体温計は1959年1月に研究所を完成させた。1960年12月には延床面積3,595平方メートルの東京工場を完成させ、同年の体温計生産は570万本で国内市場の60%を占めた。体温計で国内の6割を押さえた時点で、次の成長を体温計の外に求める判断が固まり始めたと推測される。

  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [68]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [69]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [71]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [72]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [74]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [70]1958年9月戸澤常務渡米、1959年1月研究所完成(延床517m2)、1960年12月東京工場完成(延床3,595m2)、1960年の体温計生産570万本・国内市場60%
    • [75]1958年9月戸澤常務渡米、1959年1月研究所完成(延床517m2)、1960年12月東京工場完成(延床3,595m2)、1960年の体温計生産570万本・国内市場60%
    • [76]1958年9月戸澤常務渡米、1959年1月研究所完成(延床517m2)、1960年12月東京工場完成(延床3,595m2)、1960年の体温計生産570万本・国内市場60%
  • 証券 1982(新規上場会社紹介)
    • [73]昭和30年代に体温計専業からの脱皮を図り、米国で滅菌済み使い捨て医療器具が胎動していることに着目
参考文献[50]-[76]
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
    • [50]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [51]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [53]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [54]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [56]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [57]従業員に戦災死傷者がなく技術者・工員を確保。1946年5月焼跡の工場完成、8月加工開始、山形工場1月操業。従業員1945年10月末107名→1946年10月末189名。1947年2月山形争議、42日で解決。生産1948年度50万本余・1949年度90万本余。山形は1954年本社統合
    • [59]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [61]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [62]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [63]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [64]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [66]1951年5月中村竹次が療養で辞任、森下博の孫森下泰が社長、20代の戸澤三雄が取締役。1949年9月公定価格廃止、メーカー数は戦時中の5倍。インドブームで推定100万本、香港ブームで100万本内外。1953年森下泰が約3ヵ月視察し中国・中近東・イスラエルへ直輸出。1955年250万本で国内約30%・業界1位。1957年1月再評価積立金組入れで資本金2,700万円
    • [68]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [69]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [71]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [72]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
    • [74]1958年2月輸出課新設で森下仁丹経由の輸出を直接担当。9月戸澤常務が米国関税引上げ対処のため渡米しベクトン・ディッキンソン社等を見学、ディスポーザブル製品に関心。1954年研究部新設、研究所設置は危険との批判、1959年1月研究所完成
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
    • [52]1946年1月山形工場操業、5月本社加工工場完成、1947年2月山形工場労働争議・4月解決、1954年7月事業合理化のため山形工場閉鎖し本社統合
    • [55]1946年1月山形工場操業、5月本社加工工場完成、1947年2月山形工場労働争議・4月解決、1954年7月事業合理化のため山形工場閉鎖し本社統合
    • [58]1946年1月山形工場操業、5月本社加工工場完成、1947年2月山形工場労働争議・4月解決、1954年7月事業合理化のため山形工場閉鎖し本社統合
    • [60]1951年5月森下泰社長就任、同年の年間生産量121万3,000本。1957年1月資本金2,700万円に増資
    • [65]1951年5月森下泰社長就任、同年の年間生産量121万3,000本。1957年1月資本金2,700万円に増資
    • [67]1951年5月森下泰社長就任、同年の年間生産量121万3,000本。1957年1月資本金2,700万円に増資
    • [70]1958年9月戸澤常務渡米、1959年1月研究所完成(延床517m2)、1960年12月東京工場完成(延床3,595m2)、1960年の体温計生産570万本・国内市場60%
    • [75]1958年9月戸澤常務渡米、1959年1月研究所完成(延床517m2)、1960年12月東京工場完成(延床3,595m2)、1960年の体温計生産570万本・国内市場60%
    • [76]1958年9月戸澤常務渡米、1959年1月研究所完成(延床517m2)、1960年12月東京工場完成(延床3,595m2)、1960年の体温計生産570万本・国内市場60%
  • 証券 1982(新規上場会社紹介)
    • [73]昭和30年代に体温計専業からの脱皮を図り、米国で滅菌済み使い捨て医療器具が胎動していることに着目

出典・参考

3件
出典・参考
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)1章 体温計の時代
  • 刊行社史『医療とともに―テルモ60年のあゆみ』(1982)資料編 年表
  • 証券 1982(新規上場会社紹介)

免責事項およびポリシー