第1章 年〜年

ツムラ:津村重舎の中将湯本舗津村順天堂と中将湯の全国展開

1893年〜日本橋通四丁目の中将湯本舗と、新聞広告で販路を拡大した婦人薬中将湯

中将湯本舗津村順天堂は1893年4月10日、津村重舎氏の個人経営として東京市日本橋区通四丁目7番地に店を構えた。津村重舎氏は1871年に奈良県宇陀郡の山田安次郎の二男に生まれ、母なかの生家の藤村家は婦人薬の中将湯を家伝薬として人々に分けていた。藤村家は中将姫が生家を出て最初に身を寄せた家と伝えられ、その縁で処方を受け継いだとされる。津村重舎氏は兄の山田安民氏の仲介で東京の森田家の養子となり、東京商業に通いながら養父と強壮剤の製造販売を手がけていた。創業時に23歳だった津村重舎氏は、家伝薬を広めて病者を救うことを『社会公益の一端にもなりて、意義ある事業なり』と位置づけた。同年6月には、中将姫を描いた図案も商標登録。商いを学んだ東京に拠点がすでにあったことが、奈良の家伝薬を日本橋から売り出す素地になったとみられる。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第一章 津村順天堂創立」
    • [1]1893年4月10日、先代津村重舎が個人経営で日本橋区通四丁目7番地に店舗を構えた
    • [5]創業時23歳。中将湯を広く発表して普及させることを社会公益の事業と考えて斯業に立った(写真帳序)
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二章 津村家と中将姫伝説」
    • [2]津村重舎は1871年奈良県宇陀郡の山田安次郎の二男。母なかは藤村家の出で、同家が中将湯を家伝薬として希望者に分けていた
  • プラントエンジニア 31(11) 1999年「ロングセラーの履歴書(7)バスクリン」
    • [3]藤村家は中将姫が家を出て最初に身を寄せた先とされ、処方が同家の家伝薬になったと伝わる
  • 津村順天堂七十年史 1964「第三章 創業の由来」
    • [4]兄山田安民の仲介で森田家の養子となり東京商業に通学、養父と強壮剤を製造販売した
  • 経済展望 1975年
    • [6]中将姫の図案が登録商標となったのは1893年6月

津村重舎氏は開業から19日後の1893年4月29日、郵便報知新聞に中将湯の最初の広告を載せた。紙面には東京・京都・大阪・横浜の産婦人科医の証明を並べ、同業の広告にない訴求をとった。同年末までに東京の有力紙8紙へ出した広告は53回に及ぶ。当時の薬業界には、効く薬は宣伝せずとも売れ、広告は無名の品のすることだとみる風潮があった。一方で近隣には名の通った実母散の店が3軒あり、1893年から1894年の月商は200〜300円にとどまった。1895年春、津村重舎氏は広告料の割引を交渉して掲載を2カ月で7回に抑え、同年7〜8月から売れ行きが上向いた。中将姫の図案はその後も新聞や雑誌の広告に載り続けた。血の道薬の名が先発品に押さえられていたため、医師の証明と商標で違いを示す広告に経営資源を集中したのだろう。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第六章 初期の宣伝」
    • [7]1893年4月29日付郵便報知新聞に創業最初の広告。産婦人科医らの証明を掲げたのは他にあまりない例
    • [8]1893年4月29日付郵便報知新聞に創業最初の広告。産婦人科医らの証明を掲げたのは他にあまりない例
    • [9]1893年4月から年末までの東京市内有力8紙への広告掲載は53回
    • [10]当時の薬業界では薬効があれば宣伝不要、宣伝は無名の品を売るためのものと賤しむ考えがあった。重舎はこれを破って広告を活用した
  • 津村順天堂七十年史 1964「第七章 創業期の業態」
    • [11]近隣に実母散3軒。1893〜94年の月売上200〜300円で1894年が最悪。1895年3〜4月に広告を2カ月7回の割引で出稿し、7〜8月から売れ行き順調
    • [12]近隣に実母散3軒。1893〜94年の月売上200〜300円で1894年が最悪。1895年3〜4月に広告を2カ月7回の割引で出稿し、7〜8月から売れ行き順調
  • 経済展望 1975年
    • [13]中将姫の美人画の図案は新聞・雑誌に載っていた

津村順天堂は1897年1月1日、大阪の堺筋に支店を開設した。開業の広告は、関東では山間の地まで中将湯が普及した一方で、関西の需要者は遠さゆえの不便を抱えていると説いた。初代支店長には兄の山田安民氏が就任し、翌年からは弟の津村岩吉氏が支店を率いた。大阪支店は滋賀・富山・奈良・和歌山の各県以西を受け持ち、1903年には大和銀行の跡地を取得して洋風3階建ての店舗に移った。愛用者に取次販売を委ねる「慈善取次」も、売上と宣伝の両面で販路の拡大に寄与した。売上の目安となる売薬印紙の使用高は、1897年の8,000円に対して1899年は11,800円で、広貫堂と守田宝丹に次ぐ水準にあたる。1902年10月15日には薬袋の全面を登録商標とし、中将姫の図案も登録替えを重ねた。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一章 業礎の安定と支店開設」
    • [14]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [15]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [16]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [17]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [18]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
  • 津村順天堂七十年史 1964「第七章 創業期の業態」
    • [19]売薬印紙使用高:1897年8,000円、1898年9,300円、1899年11,800円。同年広貫堂3万円、守田宝丹1万5,000円
  • 津村順天堂七十年史 1964「第五章 創業時の社会的背景」
    • [20]薬袋全面を1902年10月15日に登録商標とした
  • 経済展望 1975年
    • [21]中将姫の図案は1893年の登録後、何回か登録替えをした
参考文献[1]-[21]
  • 津村順天堂七十年史 1964「第一章 津村順天堂創立」
    • [1]1893年4月10日、先代津村重舎が個人経営で日本橋区通四丁目7番地に店舗を構えた
    • [5]創業時23歳。中将湯を広く発表して普及させることを社会公益の事業と考えて斯業に立った(写真帳序)
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二章 津村家と中将姫伝説」
    • [2]津村重舎は1871年奈良県宇陀郡の山田安次郎の二男。母なかは藤村家の出で、同家が中将湯を家伝薬として希望者に分けていた
  • プラントエンジニア 31(11) 1999年「ロングセラーの履歴書(7)バスクリン」
    • [3]藤村家は中将姫が家を出て最初に身を寄せた先とされ、処方が同家の家伝薬になったと伝わる
  • 津村順天堂七十年史 1964「第三章 創業の由来」
    • [4]兄山田安民の仲介で森田家の養子となり東京商業に通学、養父と強壮剤を製造販売した
  • 経済展望 1975年
    • [6]中将姫の図案が登録商標となったのは1893年6月
    • [13]中将姫の美人画の図案は新聞・雑誌に載っていた
    • [21]中将姫の図案は1893年の登録後、何回か登録替えをした
  • 津村順天堂七十年史 1964「第六章 初期の宣伝」
    • [7]1893年4月29日付郵便報知新聞に創業最初の広告。産婦人科医らの証明を掲げたのは他にあまりない例
    • [8]1893年4月29日付郵便報知新聞に創業最初の広告。産婦人科医らの証明を掲げたのは他にあまりない例
    • [9]1893年4月から年末までの東京市内有力8紙への広告掲載は53回
    • [10]当時の薬業界では薬効があれば宣伝不要、宣伝は無名の品を売るためのものと賤しむ考えがあった。重舎はこれを破って広告を活用した
  • 津村順天堂七十年史 1964「第七章 創業期の業態」
    • [11]近隣に実母散3軒。1893〜94年の月売上200〜300円で1894年が最悪。1895年3〜4月に広告を2カ月7回の割引で出稿し、7〜8月から売れ行き順調
    • [12]近隣に実母散3軒。1893〜94年の月売上200〜300円で1894年が最悪。1895年3〜4月に広告を2カ月7回の割引で出稿し、7〜8月から売れ行き順調
    • [19]売薬印紙使用高:1897年8,000円、1898年9,300円、1899年11,800円。同年広貫堂3万円、守田宝丹1万5,000円
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一章 業礎の安定と支店開設」
    • [14]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [15]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [16]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [17]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
    • [18]1897年1月1日大阪支店開設(関西の需要者の不便を理由とする開業広告)。初代支店長山田安民、翌年津村岩吉。1903年大和銀行跡を取得し洋風3階建て。滋賀・富山・奈良・和歌山以西を担当。慈善取次が売上と宣伝に寄与
  • 津村順天堂七十年史 1964「第五章 創業時の社会的背景」
    • [20]薬袋全面を1902年10月15日に登録商標とした

1905年〜資本金80万円の東亜公司と、目黒工場で固めた中将湯の生産

日露戦争を経て中国で日本への信頼が高まると、博文館主の大橋新太郎氏は中国での出版事業を計画した。現地を調べさせた大橋新太郎氏は、書籍に加えて売薬にも広い販路があると判断し、以前から中国に関心を寄せていた津村重舎氏に提携を申し入れた。1905年3月、資本金80万円(4分の1払込)の株式会社東亜公司が設立され、大橋新太郎氏が社長、津村重舎氏が取締役に就任した。東亜公司は上海に支店を置き、続いて漢口・天津・北京にも支店を開設。上海の売薬部には弟の津村岩吉氏が1908年まで駐在した。東亜公司は、津村重舎氏が後年に中国と南洋への輸出機関と位置づけた会社である。排日運動で出版は振るわず、1908年に資本金を50万円へ減資したのち、1913年に津村重舎氏が大橋新太郎氏の持株を引き受けて社長に就任した。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第四章 東亜公司開設とヘルプ等製品の拡充」
    • [22]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [23]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [24]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [25]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [26]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [28]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
  • 津村順天堂七十年史 1964「第一章 津村順天堂創立」
    • [27]重舎は東亜公司を支那及南洋への輸出の機関として大橋新太郎らと設立したと記した(写真帳序)

中将湯の調剤は当初、日本橋の本店の中で小規模に始まり、のちに大阪支店と箔屋町にも工場を建てた。1918年7月19日、津村重舎氏は東京府荏原郡上目黒村の自邸の向かいの土地に、電動機を備えた中将湯製造所の設置を願い出た。設備は木造2階建て55坪の建屋に10馬力の電動機1台と切截機・製粉機を据え、男工12名が1日10時間働く規模である。使用許可は1919年1月18日に下り、目黒工場は静岡工場が稼働するまで主力工場の役割を担った。1920年11月、津村重舎氏は創業25年の記念と銀婚の祝いを兼ねた中将湯発展謝恩会を催し、初日は帝国劇場に取引先212名を招いた。2日目の園遊会には原敬首相ら政財界と薬業界の来賓が訪れた。分散していた調剤場を電動の工場にまとめたことで、国内と中国の需要を一か所で賄う体制が整ったと推察される。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第一章 津村順天堂創立」
    • [29]製剤場は本店内で細々と調剤、のち大阪支店・箔屋町に工場、最後に上目黒に工場を建築(写真帳序)
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第七章 目黒工場新設とその後の経過」
    • [30]1918年7月19日上目黒村500番地に電気機関装置中将湯製造所設置願。木造2階55坪、10馬力モーター1台、男工12名、10時間。1919年1月18日使用許可。静岡工場稼動まで主力工場。邸宅の向かいの土地
    • [31]1918年7月19日上目黒村500番地に電気機関装置中将湯製造所設置願。木造2階55坪、10馬力モーター1台、男工12名、10時間。1919年1月18日使用許可。静岡工場稼動まで主力工場。邸宅の向かいの土地
    • [32]1918年7月19日上目黒村500番地に電気機関装置中将湯製造所設置願。木造2階55坪、10馬力モーター1台、男工12名、10時間。1919年1月18日使用許可。静岡工場稼動まで主力工場。邸宅の向かいの土地
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第八章 中将湯発展謝恩会」
    • [33]1920年11月4〜5日、中将湯発展謝恩会並びに銀婚祝賀会。初日帝国劇場に国内取引先212名
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第九章 外遊と関東大震災」
    • [34]2日目の棲碧山荘園遊会に原敬首相ら来賓。都新聞は創業25年記念と銀婚祝いを兼ねた会と報じた
参考文献[22]-[34]
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第四章 東亜公司開設とヘルプ等製品の拡充」
    • [22]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [23]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [24]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [25]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [26]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
    • [28]日露戦争後の対日信頼を背景に大橋新太郎(博文館主)が提携を申し入れ、1905年3月資本金80万円(1/4払込)で東亜公司設立、社長大橋・取締役津村。上海・漢口・天津・北京に支店。津村岩吉が1908年まで上海売薬部に駐在。1908年50万円に減資、1913年津村重舎が大橋持株を引き受け社長に就任
  • 津村順天堂七十年史 1964「第一章 津村順天堂創立」
    • [27]重舎は東亜公司を支那及南洋への輸出の機関として大橋新太郎らと設立したと記した(写真帳序)
    • [29]製剤場は本店内で細々と調剤、のち大阪支店・箔屋町に工場、最後に上目黒に工場を建築(写真帳序)
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第七章 目黒工場新設とその後の経過」
    • [30]1918年7月19日上目黒村500番地に電気機関装置中将湯製造所設置願。木造2階55坪、10馬力モーター1台、男工12名、10時間。1919年1月18日使用許可。静岡工場稼動まで主力工場。邸宅の向かいの土地
    • [31]1918年7月19日上目黒村500番地に電気機関装置中将湯製造所設置願。木造2階55坪、10馬力モーター1台、男工12名、10時間。1919年1月18日使用許可。静岡工場稼動まで主力工場。邸宅の向かいの土地
    • [32]1918年7月19日上目黒村500番地に電気機関装置中将湯製造所設置願。木造2階55坪、10馬力モーター1台、男工12名、10時間。1919年1月18日使用許可。静岡工場稼動まで主力工場。邸宅の向かいの土地
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第八章 中将湯発展謝恩会」
    • [33]1920年11月4〜5日、中将湯発展謝恩会並びに銀婚祝賀会。初日帝国劇場に国内取引先212名
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第九章 外遊と関東大震災」
    • [34]2日目の棲碧山荘園遊会に原敬首相ら来賓。都新聞は創業25年記念と銀婚祝いを兼ねた会と報じた

1923年〜欧州の視察で着想した津村研究所と、3,600坪の薬用植物園

1923年4月26日、津村重舎氏は実業視察のため、にんべん社長の高津六平氏とともに日本郵船の筥崎丸で横浜を発った。訪問予定国は米国・カナダ・英国・ドイツ・フランス・オランダ・スイス・イタリアなどである。欧州で薬業会社を視察した津村重舎氏は、どの会社も研究所を併設して業績をあげ、社会に貢献している姿を見た。和漢薬で世に認められた以上、研究所も和漢薬を主体とする、という考えを固めて帰国の途についた。ハンブルク滞在中の9月1日に関東大震災が起き、津村重舎氏は早い船便を選んで9月26日に横浜へ戻った。日本橋の本店は焼失したものの、被災を免れた目黒工場へ人員と帳簿を移し、中将湯の現金販売を続けた。本店と離れた目黒に工場を置いていたことが震災後の収入を保ち、研究所への投資を可能にしたと考えられる。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第九章 外遊と関東大震災」
    • [35]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
    • [36]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
    • [39]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
    • [40]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一〇章 津村研究所・薬用植物園・植物研究雑誌」
    • [37]欧州の薬業会社がいずれも研究所を併置し社会的貢献をしているのを見て、和漢薬主体の研究所を作る考えを固めた
    • [38]欧州の薬業会社がいずれも研究所を併置し社会的貢献をしているのを見て、和漢薬主体の研究所を作る考えを固めた

帰国後、津村重舎氏は生薬研究の第一人者とされた朝比奈泰彦博士の意見を求め、門下の木村雄四郎氏の推薦を受けた。国立衛生試験所に7年在職した木村雄四郎氏は、同所を退いて設立の準備にあたった。1924年7月、目黒工場の敷地に移した旧浪速銀行の建物で津村研究所が発足し、所長には津村重舎氏が就任した。同時に東京府北多摩郡の神代村下仙川で3,600坪の薬用植物園の準備に入り、1925年頃には薬草園の体裁が整った。研究所の目的は、民間や漢方医が経験に基づいて使ってきた草根木皮に科学の手法を当て、国内産の和漢薬を再興することにある。最初の事業は60種の和漢薬標本の頒布で、各府県の衛生課や大学、製薬会社から注文が寄せられた。研究機関を工場の敷地に置いたことで、原料の生薬を見極める知見が社内に蓄積されたと推測される。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一〇章 津村研究所・薬用植物園・植物研究雑誌」
    • [41]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [42]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [43]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [44]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [45]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [46]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布

1929年4月、津村順天堂は薬用植物園で栽培したジギタリスの葉を原料に、強心と利尿の作用をもつヂギタブレットを製剤し発売した。翌1930年6月22日には警視庁の許可を得たうえでの、芳香浴剤バスクリン(150グラム入り50銭)の売り出し。発端は中将湯の精製で出る生薬の切りくずで、社員が自宅の風呂で試すと温まると評判になり、銭湯からも分譲を求められた。津村順天堂はこれに香りを加え、夏向けの良い浴剤が見当たらなかった市場へ夏季専用の浴剤として投入した。名前は当初BATH CLEANが候補に挙がり、語感を整えてバスクリンに決まった。発売後のバスクリンは銭湯の需要を中心に売上を拡大した。主力製品への成長は、戦後に製造を再開した後のことである。婦人薬の副産物を商品に変えたことで、中将湯に依存しない収益源の芽が生まれたと思われる。

  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一五章 バスクリン発売」
    • [47]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
    • [48]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
    • [50]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
    • [53]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
  • プラントエンジニア 31(11) 1999年「ロングセラーの履歴書(7)バスクリン」
    • [49]バスクリンは中将湯精製で出る生薬の切り屑を社員が風呂で試したのが発端、銭湯が買いに来た。名称はBATH CLEAN案から。1930年発売後、銭湯中心に売上拡大
    • [51]バスクリンは中将湯精製で出る生薬の切り屑を社員が風呂で試したのが発端、銭湯が買いに来た。名称はBATH CLEAN案から。1930年発売後、銭湯中心に売上拡大
    • [52]バスクリンは中将湯精製で出る生薬の切り屑を社員が風呂で試したのが発端、銭湯が買いに来た。名称はBATH CLEAN案から。1930年発売後、銭湯中心に売上拡大
参考文献[35]-[53]
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第九章 外遊と関東大震災」
    • [35]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
    • [36]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
    • [39]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
    • [40]1923年4月26日、にんべん社長高津六平と筥崎丸で横浜出発。米・加・英・独・仏・蘭・瑞・伊など。9月1日震災時ハンブルク滞在、9月26日横浜帰着。本店焼失、目黒工場へ人員・書類を移転し、錠夫人が現金売りを励行し売行き良好
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一〇章 津村研究所・薬用植物園・植物研究雑誌」
    • [37]欧州の薬業会社がいずれも研究所を併置し社会的貢献をしているのを見て、和漢薬主体の研究所を作る考えを固めた
    • [38]欧州の薬業会社がいずれも研究所を併置し社会的貢献をしているのを見て、和漢薬主体の研究所を作る考えを固めた
    • [41]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [42]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [43]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [44]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [45]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
    • [46]朝比奈泰彦博士が門下の木村雄四郎(国立衛生試験所7年在職)を推薦。1924年7月目黒工場敷地の旧浪速銀行建物で津村研究所発足、所長津村重舎。神代村下仙川に3,600坪の薬用植物園、1925年頃に体裁整う。目的は和漢薬・民間薬の科学的研究と国産和漢薬の復興。最初の仕事は和漢薬標本60種の頒布
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一五章 バスクリン発売」
    • [47]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
    • [48]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
    • [50]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
    • [53]1929年4月ヂギタブレット(薬用植物園のヂギタリス葉から製剤)発売。1930年6月22日警視庁許可、芳香浴剤バスクリン発売、150g50銭、夏季専用の浴剤。戦後1950年復活し主力製品の一つに
  • プラントエンジニア 31(11) 1999年「ロングセラーの履歴書(7)バスクリン」
    • [49]バスクリンは中将湯精製で出る生薬の切り屑を社員が風呂で試したのが発端、銭湯が買いに来た。名称はBATH CLEAN案から。1930年発売後、銭湯中心に売上拡大
    • [51]バスクリンは中将湯精製で出る生薬の切り屑を社員が風呂で試したのが発端、銭湯が買いに来た。名称はBATH CLEAN案から。1930年発売後、銭湯中心に売上拡大
    • [52]バスクリンは中将湯精製で出る生薬の切り屑を社員が風呂で試したのが発端、銭湯が買いに来た。名称はBATH CLEAN案から。1930年発売後、銭湯中心に売上拡大

出典・参考

15件
出典・参考
  • 津村順天堂七十年史 1964「第一章 津村順天堂創立」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二章 津村家と中将姫伝説」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第三章 創業の由来」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第六章 初期の宣伝」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第七章 創業期の業態」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一章 業礎の安定と支店開設」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第五章 創業時の社会的背景」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第四章 東亜公司開設とヘルプ等製品の拡充」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第七章 目黒工場新設とその後の経過」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第八章 中将湯発展謝恩会」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第九章 外遊と関東大震災」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一〇章 津村研究所・薬用植物園・植物研究雑誌」
  • 津村順天堂七十年史 1964「第二部 第一五章 バスクリン発売」
  • 経済展望 1975年
  • プラントエンジニア 31(11) 1999年「ロングセラーの履歴書(7)バスクリン」

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