日油:4社合併による日本油脂の発足と戦後の分離独立
1937年〜鈴木商店の魚油から日産コンツェルン下の4社合併へ
1908年、合名会社鈴木商店が業務の一部として魚油の集荷販売を始めた。輸入に依存していた牛脂や椰子油を国産魚油で置き換えるため、精製加工の研究を重ねた。工業化に成功すると、1916年に兵庫工場、翌1917年に王子製油所を建て、日本で最初の硬化油事業を興した。欧州大戦後の反動で鈴木商店の経営が揺らぐと油脂部門は切り離され、1921年4月、資本金150万円のスタンダード油脂株式会社として独立する。国内の硬化油工業の始祖とされたこの会社が、日本油脂の母体となった。1923年には魚油からグリセリンと脂肪酸を精製していた日本グリセリン工業を合併して合同油脂グリセリンと改め、1931年に合同油脂と改称した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [1]1908年に合名会社鈴木商店が業務の一部として魚油の集荷販売を行った
- [2]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
- [3]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
- [6]1923年に日本グリセリン工業を合併して合同油脂グリセリンへ改称し、1931年12月に合同油脂と改めた
- 証券 1949年
- [4]1921年4月に資本金150万円でスタンダード油脂株式会社を設立した(現在の王子工場)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]スタンダード油脂はわが国硬化油工業の始祖ともいうべき存在で、これを母体として日本油脂が発足した
1937年6月、合同油脂は日本油脂を吸収合併し、社名のほうを相手から受け取って日本油脂株式会社と称した。吸収された日本油脂は、1910年に英国のリーバーブラザースが興した日本リーバーブラザースに源を発し、東洋一とされた石鹸工場を持っていた。1925年に神戸瓦斯へ売られて大日本石鹸、次いでベルベット石鹸と名を変え、1936年に日本産業の傘下へ入る。合併の直前には日産系の日本食料工業の水産部門と合体し、不二塗料の事業も取得して塗料部門を抱えていた。有価証券報告書はこの経緯を、日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社合併として記している。翌1938年8月には帝国火薬工業を合併して火薬へ、1943年には神明工場を新設して溶接棒へ広がった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [7]1937年6月に合同油脂が日本油脂を吸収する形で合体し、社名は日本油脂とした
- [8]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
- [9]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
- [10]1937年4月に日産系の日本食料工業の水産部門と合体して日本油脂と改称し、同年5月に不二塗料の事業(当時は戸畑鋳物の塗料部門)を買収した
- [12]1938年8月に帝国火薬工業(現武豊工場)を合併し、1939年3月に三国工場、1943年4月に神明工場を新設した
- 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1937年に日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社合併で(旧)日本油脂株式会社が発足した
1945年、日本鉱業の化学部門に属する12工場を買収し、社名を日産化学工業株式会社と改めた。有機と無機にまたがる総合化学会社となった直後に終戦を迎え、財閥解体と企業再建整備法の処理が始まる。1949年7月1日、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門をそのまま継承する第二会社が分離された。旧称を踏襲した日本油脂株式会社で、資本金は1億5,000万円である。同年9月1日、300万株を全株上場して東京証券取引所に加わった。分離直前の1か月平均の生産金額は油脂51.5%・火薬28.2%・塗料18.8%・溶接棒1.3%で、爆薬の生産能力は全国の30%を占めた。油脂を核に火薬と塗料を並べたこの構成は、戦時の合併がそのまま残ったものだった。
- 証券 1949年
- [13]1945年に日本鉱業株式会社の化学部門に属する12工場を買収し、社名を日産化学工業株式会社へ改めた
- [15]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
- [16]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
- [17]1949年9月1日に新規上場し、上場株式は300万株(全株上場)であった
- [19]1948年12月から1949年5月の1か月平均生産金額の構成は油脂51.5%・火薬28.2%・塗料18.8%・溶接棒1.3%
- [20]爆薬の生産能力は全国比30%、稼働率は63.8%であった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [14]日本鉱業化学部門の買収により有機・無機にまたがる総合的化学工業会社を形成したが、まもなく終戦となった
- 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
- [18]1949年9月に東京証券取引所へ上場した
参考文献[1]-[20]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [1]1908年に合名会社鈴木商店が業務の一部として魚油の集荷販売を行った
- [2]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
- [3]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
- [6]1923年に日本グリセリン工業を合併して合同油脂グリセリンへ改称し、1931年12月に合同油脂と改めた
- [7]1937年6月に合同油脂が日本油脂を吸収する形で合体し、社名は日本油脂とした
- [8]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
- [9]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
- [10]1937年4月に日産系の日本食料工業の水産部門と合体して日本油脂と改称し、同年5月に不二塗料の事業(当時は戸畑鋳物の塗料部門)を買収した
- [12]1938年8月に帝国火薬工業(現武豊工場)を合併し、1939年3月に三国工場、1943年4月に神明工場を新設した
- [14]日本鉱業化学部門の買収により有機・無機にまたがる総合的化学工業会社を形成したが、まもなく終戦となった
- 証券 1949年
- [4]1921年4月に資本金150万円でスタンダード油脂株式会社を設立した(現在の王子工場)
- [13]1945年に日本鉱業株式会社の化学部門に属する12工場を買収し、社名を日産化学工業株式会社へ改めた
- [15]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
- [16]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
- [17]1949年9月1日に新規上場し、上場株式は300万株(全株上場)であった
- [19]1948年12月から1949年5月の1か月平均生産金額の構成は油脂51.5%・火薬28.2%・塗料18.8%・溶接棒1.3%
- [20]爆薬の生産能力は全国比30%、稼働率は63.8%であった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]スタンダード油脂はわが国硬化油工業の始祖ともいうべき存在で、これを母体として日本油脂が発足した
- 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1937年に日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社合併で(旧)日本油脂株式会社が発足した
- [18]1949年9月に東京証券取引所へ上場した
1950年〜輸入牛脂への原料転換と朝鮮特需が支えた復興
再設立の時点で、油脂事業は原料の手当てに縛られていた。硬化油・脂肪酸・グリセリン・石鹸へ向ける原料油の消費は、1939年度の26万トンが最高だった。1947年度は8,500トン、1948年度は1万9,000トンまで減少している。1949年度の計画4万9,000トンでも石鹸に回るのは4万トンで、国民一人あたり50グラムのもの年10個分の割当にしかならない。原料油の8割は輸入で、椰子油はフィリピンと香港を経由し、大豆は米国と中国から入り、その資金の大半をガリオア資金とエロア資金が賄っていた。石鹸の主原料は、魚油・鯨油から輸入牛脂へ切り替えた。尼崎工場には連続式の油脂分解・脂肪酸蒸溜・石鹸製造の装置を据え、王子工場には半連続脱脂装置とマーガリンボテーターを入れる。あわせて工場間の生産集中を進めた。
- 証券 1949年
- [21]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
- [22]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
- [23]1949年度の計画4万9,000トンのうち石鹸へ回るのは4万トンで、一人50グラムのもの年10個の割当にとどまる
- [24]原料油は輸入8割・国産2割で、椰子油は約20%がフィリピンおよび香港経由、大豆は約20%が米国・中国から入り、資金は従来大部分がガリオア・エロアに依存していた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [25]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
- [26]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
- [27]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
火薬部門は終戦で軍用火薬の生産を止め、産業用ダイナマイトの製造へ移っていた。1950年の朝鮮動乱を契機に、特需の兵器用火薬が発注される。武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリールの設備を新増設し、兵器用火薬の製造を再開した。北海道のダイナマイト需要を賄うため、1954年4月には美唄工場を新設した。資本金は1952年1月に10億円へ達し、1952年5月期の売上高は54億7,690万円、当期純利益は2億205万円を計上している。1955年5月期の売上高は52億1,000万円であった。戦後に酒類の製造へ転換していた河内工場は、1951年6月、現物出資して細雪酒造として切り離した。原料油の割当に縛られた油脂に代わり、戦後の再出発を先に支えたのは火薬部門だった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [28]戦後は軍用火薬の生産を中止し、産業用ダイナマイト等の製造を行っていた
- [29]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
- [30]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
- [31]北海道におけるダイナマイト需要を賄うため1954年4月に美唄工場を新設した
- [34]1955年5月期の売上高は52億1,000万円
- [35]1951年6月に戦後酒類の製造へ転換した河内工場を現物出資して細雪酒造を設立した
- 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
- [32]資本金は1952年1月に10億円となった
- [33]1952年5月期の売上高は54億7,690万円、当期純利益は2億205万円
1956年11月期に1億6,500万円、1957年5月期に7,800万円、1957年11月期に6,500万円と、三期続けて当期損失が並んだ。売上高は1956年11月期の101億円から1958年11月期の107億円まで、ほとんど動かない。石鹸は最終製品の広告で需要が動く商品でありながら、日本油脂が抱えていたのは硬化油・グリセリン・脂肪酸という原料の側だった。合併で継いだ塗料・火薬・溶接棒はそれぞれ別の市場を相手にしており、油脂の不振を埋める規模を持たない。会長の苫米地義三と社長の大橋退治のもとで、再建が経営の課題となった。原料供給に徹した構造の弱さは、再設立から10年足らずで顕在化した。
- 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
- [36]1956年11月期に1億6,500万円、1957年5月期に7,800万円、1957年11月期に6,500万円の当期損失を計上した
- 上場会社総覧 1959年版(単体・半期合算)
- [37]売上高は1956年11月期101億円、1957年11月期103億円、1958年11月期107億円
- 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
- [38]主な事業内容は硬化油・グリセリン・脂肪酸・石鹸・人造バター・食用油等の製造、各種塗料の製造、火薬類の製造加工、電気溶接棒の製造であった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [39]1955年時点の会長は苫米地義三、社長は大橋退治
参考文献[21]-[39]
- 証券 1949年
- [21]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
- [22]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
- [23]1949年度の計画4万9,000トンのうち石鹸へ回るのは4万トンで、一人50グラムのもの年10個の割当にとどまる
- [24]原料油は輸入8割・国産2割で、椰子油は約20%がフィリピンおよび香港経由、大豆は約20%が米国・中国から入り、資金は従来大部分がガリオア・エロアに依存していた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- [25]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
- [26]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
- [27]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
- [28]戦後は軍用火薬の生産を中止し、産業用ダイナマイト等の製造を行っていた
- [29]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
- [30]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
- [31]北海道におけるダイナマイト需要を賄うため1954年4月に美唄工場を新設した
- [34]1955年5月期の売上高は52億1,000万円
- [35]1951年6月に戦後酒類の製造へ転換した河内工場を現物出資して細雪酒造を設立した
- [39]1955年時点の会長は苫米地義三、社長は大橋退治
- 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
- [32]資本金は1952年1月に10億円となった
- [33]1952年5月期の売上高は54億7,690万円、当期純利益は2億205万円
- [38]主な事業内容は硬化油・グリセリン・脂肪酸・石鹸・人造バター・食用油等の製造、各種塗料の製造、火薬類の製造加工、電気溶接棒の製造であった
- 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
- [36]1956年11月期に1億6,500万円、1957年5月期に7,800万円、1957年11月期に6,500万円の当期損失を計上した
- 上場会社総覧 1959年版(単体・半期合算)
- [37]売上高は1956年11月期101億円、1957年11月期103億円、1958年11月期107億円
1961年〜石油化学への進出と六事業部の独立採算
1961年、日本油脂は石油化学への進出を決め、川崎市に千鳥工場を新設した。油脂を分解して得ていたグリセリンや脂肪酸の隣に、石油を原料とする製品系列を並べる方針だった。同じ1961年には金属板の爆発成型事業を企業化し、火薬の技術を冶金機械の分野へ持ち出した。業績は1958年5月期に黒字へ回復し、1961年11月期には売上高85億円・当期純利益3億5,100万円まで回復する。ただし利益はそこが頂点で、1965年11月期には3,100万円まで細った。売上高が1961年11月期の160億円から1965年11月期の215億円へ伸びた同じ期間に、利益だけが逆へ動いていた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [40]1961年に川崎市へ千鳥工場を新設し、石油化学の分野へ進出した
- [41]1961年に金属板の爆発成型事業を企業化し冶金機械方面へ進出した
- 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
- [42]業績は1958年5月期に黒字へ戻り、1961年11月期に売上高85億円・当期純利益3億5,100万円まで回復した
- [43]当期純利益は1965年11月期に3,100万円まで減少した
- [44]売上高は1961年11月期160億円、1965年11月期215億円
1964年、米国のザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、潤滑油添加剤の製造に進んだ。同年8月には横浜市へ戸塚工場を新設し、当時東洋一とされた設備で塗料の需要増に応えている。設備の近代化も並行して進み、1954年には北海道へ美唄工場を設けて品質改善と生産向上を図った。売上高は1965年11月期の215億円から1969年11月期の332億円へ伸びる。1967年11月期には売上高139億円強・税引純益2億円を計上し、年1割の配当を続けた。規模は着実に増えたが、利益の薄さは油脂を主力とする限り変わらなかった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [45]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
- [46]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
- [47]1954年に北海道へ美唄工場を新設し設備の近代化・品質改善・生産向上を図った
- [49]1967年11月期に売上高139億円強・純益2億円(税引)を計上し年1割配当を継続した
- 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
- [48]売上高は1965年11月期215億円、1969年11月期332億円
1965年9月、日本油脂は事業部制を実施した。油化・食用油脂・家庭品・塗料・化薬・溶接の六つが独立採算の単位となり、それぞれが生産から営業までを抱える。1969年11月期の売上構成を見ると、油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%が上位に並ぶ。化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%が続き、どの事業部も全体の4分の1に届かなかった。同期の売上高は177億2,192万円、当期純利益は3億1,303万円、在籍人員は3,975名である。1969年3月には大分県の鶴崎石油化学コンビナートへ進出し、子会社の日油化学を設立した。六つの市場を六つの組織で追う体制は意思決定を速くする代わりに、全社の計画を誰も持たない構図をつくった。
- 日本企業要覧 1970年版「日油」
- [50]1965年9月から事業部制を実施した
- [52]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
- [53]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
- [54]1969年11月期の売上高17,721,925千円・当期純利益313,034千円、在籍人員は男3,155名・女820名の計3,975名
- [55]1969年3月に大分県鶴崎石油化学コンビナートへ進出し、子会社日油化学株式会社を設立した
- 日経ビジネス 1992年3月2日号
- [51]1965年に独立採算制の6事業部(油化・食用油脂・家庭品・塗料・化薬・溶接)を設立した
参考文献[40]-[55]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [40]1961年に川崎市へ千鳥工場を新設し、石油化学の分野へ進出した
- [41]1961年に金属板の爆発成型事業を企業化し冶金機械方面へ進出した
- [45]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
- [46]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
- [47]1954年に北海道へ美唄工場を新設し設備の近代化・品質改善・生産向上を図った
- [49]1967年11月期に売上高139億円強・純益2億円(税引)を計上し年1割配当を継続した
- 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
- [42]業績は1958年5月期に黒字へ戻り、1961年11月期に売上高85億円・当期純利益3億5,100万円まで回復した
- [43]当期純利益は1965年11月期に3,100万円まで減少した
- [44]売上高は1961年11月期160億円、1965年11月期215億円
- [48]売上高は1965年11月期215億円、1969年11月期332億円
- 日本企業要覧 1970年版「日油」
- [50]1965年9月から事業部制を実施した
- [52]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
- [53]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
- [54]1969年11月期の売上高17,721,925千円・当期純利益313,034千円、在籍人員は男3,155名・女820名の計3,975名
- [55]1969年3月に大分県鶴崎石油化学コンビナートへ進出し、子会社日油化学株式会社を設立した
- 日経ビジネス 1992年3月2日号
- [51]1965年に独立採算制の6事業部(油化・食用油脂・家庭品・塗料・化薬・溶接)を設立した
筆者考察
日本油脂の弱さは、作るものを間違えたことではなく、売る相手を選べなかったことにある。1908年に鈴木商店が魚油を集め始めたときから、この会社の事業はいつも原料の側にあった。硬化油も脂肪酸もグリセリンも、買い手の工場へ入って初めて製品になる中間材で、最終の棚に自社の名は出ない。1949年に第二会社として再出発したときの生産金額は油脂が51.5%を占めたが、その油脂が支えていたのは他社の石鹸だった。1956年11月期から三期続いた損失は、需要が消えたから出たのではない。値段を決める場に立てない会社が、原料油の高騰をそのまま引き受けた結果である。
そこから抜ける道として選ばれたのは、原料そのものを替えることだった。1961年に川崎へ千鳥工場を建てて石油化学に入り、天然グリセリンを合成グリセリンへ置き換える設計を採る。同じ年に火薬の技術を金属板の爆発成型へ転用し、1964年には米ルーブリゾールと組んで潤滑油添加剤に進んだ。1965年9月に敷いた六つの事業部の独立採算は、こうして散らばった市場を別々に追うための仕組みだった。1969年11月期の売上高は177億円まで伸びたが、どの事業部も全体の4分の1に届かない。主力を失うことと、主力から自由になることは、この会社では同じ出来事だった。
- 硬化油・脂肪酸・グリセリン・石鹸向けの硬化分解用原料油。1939年度は戦前の最高生産年度。
- 出所は証券 1949年「新規上場会社紹介 日本油脂株式會社」。
1937年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年11月期 | 単体 | 91 | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1953年11月期 | 単体 | 101 | +11.0% | 8 | n/a | n/a | n/a |
| 1954年11月期 | 単体 | 106 | +5.0% | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1955年11月期 | 単体 | 108 | +1.9% | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1956年11月期 | 単体 | 101 | ▲6.5% | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年11月期 | 単体 | 103 | +2.0% | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年11月期 | 単体 | 107 | +3.9% | 8 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年11月期 | 単体 | 117 | +9.3% | 12 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年11月期 | 単体 | 135 | +15.4% | 13 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年11月期 | 単体 | 160 | +18.5% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年11月期 | 単体 | 167 | +4.4% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年11月期 | 単体 | 184 | +10.2% | n/a | 3 | 1.6% | n/a |
| 1964年11月期 | 単体 | 205 | +11.4% | n/a | 2 | 1.0% | n/a |
| 1965年11月期 | 単体 | 215 | +4.9% | n/a | 0 | 0.4% | n/a |
| 1966年11月期 | 単体 | 239 | +11.2% | n/a | 2 | 0.8% | n/a |
| 1967年11月期 | 単体 | 265 | +10.9% | n/a | 4 | 1.5% | n/a |
| 1968年11月期 | 単体 | 296 | +11.7% | n/a | 5 | 1.7% | n/a |
| 1969年11月期 | 単体 | 332 | +12.2% | n/a | 6 | 1.8% | 大分県鶴崎石油化学コンビナートに子会社日油化学を設立(1969/03) |
出所:上場会社総覧 1956年版 半期合算、上場会社総覧 1959年版 半期合算、上場会社総覧 1961年版 半期合算、会社年鑑 1963年版 半期合算、会社年鑑 1963年版、1967年版 半期合算、会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1967年版、1971年版 半期合算、会社年鑑 1971年版 半期合算
出典・参考
9件
- 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
- 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
- 上場会社総覧 1959年版(単体・半期合算)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
- 日経ビジネス 1992年3月2日号
- 証券 1949年
- 日本企業要覧 1970年版「日油」