野村総合研究所:野村電子計算センターの設立と証券共同システムSTAR
1965年〜SRIを手本に調査部を切り出した旧野村総合研究所と、関係会社の計算を背負った電子計算部
野村證券は1960年11月の株主総会で、創立40周年の記念事業として研究所の設立計画を初めて公表した。母体となる調査部は、創業者の野村徳七氏が1906年に野村商店の中に設けた部署に起源を持つ。構想の起点は、常務の北裏喜一郎氏が1956年9月にスタンフォード研究所(SRI)を訪れたことにあった。副社長となった北裏喜一郎氏は1961年1月、調査部とは目的の異なる別法人とし、経済系と技術系の研究員を半々で150人程度置く案を示した。同年9月には北裏喜一郎氏がSRIと覚書を交わし、設立の助言と研究援助を受ける提携を結んだ。野村證券の首脳は、研究所を本体から切り離し、幅広い研究を外部から受託させる考えだった。証券営業を支える調査部のままでは外部の委託を引き受けにくく、別法人という組織が選ばれたとみられる。
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「2章 研究所の発想と準備過程」
- [1]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- [3]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- [4]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- [5]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 野村證券調査部の伝統」
- [2]野村徳七が1906年(明治39年)野村商店内に調査部を新設
- 日経ビジネス 1987年11月9日
- [6]野村證券首脳は本体と切り離し幅広い受託研究を行う総合研究機関に育てる考えだった
野村證券は1965年4月1日、調査部を母体に株式会社野村総合研究所を発足させた。資本金は5億円で、同年3月22日の発起人会で社名と受託研究を中心とする事業目的を定めた。野村證券は公正取引委員会から全株式の保有の認可を得て、調査部の全員を新会社へ出向させ、調査業務を包括契約で委託した。初代研究所長には前防衛庁防衛研修所長の佐伯喜一氏を招き、1964年10月に嘱託として迎えた。佐伯喜一氏は1965年1月、研究所の目的を『野村證券の事業に対する頭脳的な貢献から出発して,日本の産業と経済の発展に寄与すること』と説明し、独立採算の原則を自らに課すと表明した。研究部門を置く鎌倉の社屋は1966年11月に竣工し、本社も鎌倉へ移転。野村證券の調査を担いつつ採算は自前で取るという二つの立場を、発足時から併せ持っていたと考えられる。
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「2章 野村総合研究所の発足」
- [7]1965年4月1日株式会社野村総合研究所が調査部を母体に発足
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 発足を控えて」
- [8]佐伯喜一(前防衛庁防衛研修所長)1964年10月1日嘱託着任、1965年1月運営方針で独立採算を表明、1965年3月22日発起人会・資本金5億円
- [10]佐伯喜一(前防衛庁防衛研修所長)1964年10月1日嘱託着任、1965年1月運営方針で独立採算を表明、1965年3月22日発起人会・資本金5億円
- [11]佐伯喜一(前防衛庁防衛研修所長)1964年10月1日嘱託着任、1965年1月運営方針で独立採算を表明、1965年3月22日発起人会・資本金5億円
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「2章 研究所の発想と準備過程」
- [9]1965年3月25日公取委が野村證券の全株保有を認可、調査部全員出向・包括委託契約
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [12]1965年4月旧野村総合研究所設立、1966年11月鎌倉に本社社屋竣工・本社移転
野村證券は1966年1月、電子計算機部門を分離して野村電子計算センターを設立した。当時は野村総合研究所や東洋信託、投資信託の委託会社と販売会社の処理まで、野村證券本社の計算機で請け負っていた。社長の瀬川美能留氏によれば、大蔵省は他社の仕事を抱えると採算も本業の実態も見えなくなるとして分離を促した。他社から取る料金が原価を賄えているかは分からず、設備の増強をどこまで進めるかの目安も立たなかった。理工系の大卒社員が増え、証券会社の中では支店長への昇進を見込めないという人事上の事情も重なった。新会社は発足当初、野村證券の情報処理業務を一手に引き受けた。大和・日興・山一の3社が計算部門を独立させたのは1975年以降で、野村より10年以上後にあたる。
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「コンピュータで商売しよう」
- [13]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [14]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [15]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [16]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [17]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [19]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- 日経ビジネス 1987年11月9日
- [18]野村コンピュータシステムは1966年電子計算部が独立して発足、当初は野村證券の情報処理を一手に担った
参考文献[1]-[19]
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「2章 研究所の発想と準備過程」
- [1]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- [3]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- [4]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- [5]1956年9月北裏常務がSRI訪問、1960年11月株主総会で設立計画公表、1961年1月別法人・経済技術半々150人の構想、1961年9月SRIと覚書で提携
- [9]1965年3月25日公取委が野村證券の全株保有を認可、調査部全員出向・包括委託契約
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 野村證券調査部の伝統」
- [2]野村徳七が1906年(明治39年)野村商店内に調査部を新設
- 日経ビジネス 1987年11月9日
- [6]野村證券首脳は本体と切り離し幅広い受託研究を行う総合研究機関に育てる考えだった
- [18]野村コンピュータシステムは1966年電子計算部が独立して発足、当初は野村證券の情報処理を一手に担った
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「2章 野村総合研究所の発足」
- [7]1965年4月1日株式会社野村総合研究所が調査部を母体に発足
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 発足を控えて」
- [8]佐伯喜一(前防衛庁防衛研修所長)1964年10月1日嘱託着任、1965年1月運営方針で独立採算を表明、1965年3月22日発起人会・資本金5億円
- [10]佐伯喜一(前防衛庁防衛研修所長)1964年10月1日嘱託着任、1965年1月運営方針で独立採算を表明、1965年3月22日発起人会・資本金5億円
- [11]佐伯喜一(前防衛庁防衛研修所長)1964年10月1日嘱託着任、1965年1月運営方針で独立採算を表明、1965年3月22日発起人会・資本金5億円
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [12]1965年4月旧野村総合研究所設立、1966年11月鎌倉に本社社屋竣工・本社移転
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「コンピュータで商売しよう」
- [13]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [14]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [15]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [16]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [17]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
- [19]1966年1月電子計算機部門を分離し野村電子計算センター設立。関係会社の処理を本社機で行い大蔵省が分離を求めた。料金の原価妥当性不明、理工系大卒の処遇。大和1975・日興1977・山一1983年に分離
1966年〜証券共同システムで他社の事務を引き受けた電子計算センターと、万国博調査で定着した受託研究
野村電子計算センターは設立から5カ月後の1966年6月、「証券共同システム」を稼働させた。瀬川美能留氏は分離を機にオンライン化を決め、50億円に上る投資を兜町の記者クラブで発表した。1966年は証券恐慌の直後で、当時の野村證券の資本金は120億円であった。瀬川美能留氏は顧客の取引データを計算機に蓄えて営業に使う方針を掲げ、大容量の計算機と全国を結ぶオンライン網が要ると判断した。1968年7月には、野村電子計算センターが野村證券の「第一次オンラインシステム」を稼働させた。重い計算機投資を野村證券1社で抱えず、他の証券会社にも使わせて費用を分け合う狙いがあったと推察される。
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [20]1966年6月証券共同システム稼働、1968年7月野村證券の第一次オンラインシステム稼働
- [24]1966年6月証券共同システム稼働、1968年7月野村證券の第一次オンラインシステム稼働
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「コンピュータで商売しよう」
- [21]分離を機に50億円のオンライン化投資を記者クラブで発表、1966年は証券恐慌直後で資本金120億円
- [22]分離を機に50億円のオンライン化投資を記者クラブで発表、1966年は証券恐慌直後で資本金120億円
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「第二次オンラインの稼働」
- [23]瀬川が「コンピュータで商売しよう」と顧客取引データをデータベース化し営業に活用する方針、大容量機と全国オンラインが必要
野村総合研究所は1966年6月、日本万国博覧会協会から「万国博調査」を受託した。発足時は40年不況の最中で、企業は経費の削減を急ぎ、外部へ研究を委託する余力が乏しかった。1967年2月の推計は総入場者数を3,700万人前後とし、関係者が注目していた3,000万人を上回るという判断を示した。開催直前の第2次推計は中位で5,492万人となり、1970年の実績64,218,770人に近づいた。野村グループ以外からの受託研究料は1970年に初めて1億円を超え、2億円台に達した。全収入に占める外部収入の比率は、1968年9月期の9.8%から1972年9月期には28.1%まで高まった。
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [25]1966年6月旧野村総合研究所が日本万国博覧会協会より万国博調査を受託
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「3章 鎌倉研究部門の活動」
- [26]40年不況下で企業の外部委託発注の余裕が乏しかった。1967年2月推計3,700万人中心、第2次推計中位5,492万人、実績64,218,770人
- [27]40年不況下で企業の外部委託発注の余裕が乏しかった。1967年2月推計3,700万人中心、第2次推計中位5,492万人、実績64,218,770人
- [28]40年不況下で企業の外部委託発注の余裕が乏しかった。1967年2月推計3,700万人中心、第2次推計中位5,492万人、実績64,218,770人
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 受託研究活動の定着」
- [29]グループ外受託研究料が1970年に初めて1億円超え2億円台、外部収入比率1968年9月期9.8%→1972年9月期28.1%
- [30]グループ外受託研究料が1970年に初めて1億円超え2億円台、外部収入比率1968年9月期9.8%→1972年9月期28.1%
野村電子計算センターは1968年10月、計算機の運転を専門に担う野村オペレーションサービスを設立した。全額出資の子会社で、約40人のオペレーターが1日3交代で計算機の24時間運転を引き受けた。証券会社では理工系の人材を採りにくく、計算機部門の労働条件も他の部門と大きく異なっていた。副社長の大野達男氏は1971年5月、計算機要員の処遇が4〜5年先に深刻な問題になると指摘した。証券の営業を経験しない人材を支店長に登用できず、役員への道も営業部門より狭いことが理由である。大野達男氏は、この処遇問題が野村證券から分離した大きな理由だったと認めた。専門職と運転要員を別の会社に分けることで、職種ごとに異なる労働条件と昇進の体系を設けられたのだろう。
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [31]1968年10月野村コンピュータシステムが野村オペレーションサービスを設立
- 日経ビジネス 1971年5月31日
- [32]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [33]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [34]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [35]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [36]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
参考文献[20]-[36]
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [20]1966年6月証券共同システム稼働、1968年7月野村證券の第一次オンラインシステム稼働
- [24]1966年6月証券共同システム稼働、1968年7月野村證券の第一次オンラインシステム稼働
- [25]1966年6月旧野村総合研究所が日本万国博覧会協会より万国博調査を受託
- [31]1968年10月野村コンピュータシステムが野村オペレーションサービスを設立
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「コンピュータで商売しよう」
- [21]分離を機に50億円のオンライン化投資を記者クラブで発表、1966年は証券恐慌直後で資本金120億円
- [22]分離を機に50億円のオンライン化投資を記者クラブで発表、1966年は証券恐慌直後で資本金120億円
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「第二次オンラインの稼働」
- [23]瀬川が「コンピュータで商売しよう」と顧客取引データをデータベース化し営業に活用する方針、大容量機と全国オンラインが必要
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「3章 鎌倉研究部門の活動」
- [26]40年不況下で企業の外部委託発注の余裕が乏しかった。1967年2月推計3,700万人中心、第2次推計中位5,492万人、実績64,218,770人
- [27]40年不況下で企業の外部委託発注の余裕が乏しかった。1967年2月推計3,700万人中心、第2次推計中位5,492万人、実績64,218,770人
- [28]40年不況下で企業の外部委託発注の余裕が乏しかった。1967年2月推計3,700万人中心、第2次推計中位5,492万人、実績64,218,770人
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 受託研究活動の定着」
- [29]グループ外受託研究料が1970年に初めて1億円超え2億円台、外部収入比率1968年9月期9.8%→1972年9月期28.1%
- [30]グループ外受託研究料が1970年に初めて1億円超え2億円台、外部収入比率1968年9月期9.8%→1972年9月期28.1%
- 日経ビジネス 1971年5月31日
- [32]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [33]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [34]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [35]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
- [36]大野達男副社長が要員処遇は4〜5年先に問題になると指摘、支店長にできず役員への道が狭い、処遇問題が分離の大きな理由。全額出資の野村オペレーションサービスで約40人が3交代
1972年〜STARで証券各社の基幹業務を共同化した野村コンピュータシステムと、研究本部制で財務の自立を目指した総研
野村総合研究所は1972年4月、東京研究本部と鎌倉研究本部を置く研究本部制に組織を改めた。前年11月に研究所長の佐伯喜一氏が社長に昇格し、翌月に組織委員会を設けて1975年を目標に自立体制を確立する方針を掲げていた。1972年10月には野村證券との包括契約を改め、翌期の内容と対価を毎期協議して決める方式へ移行。1973年8月の中期計画は、鎌倉研究本部のテクノ・エコノミック部門の各部室に経費を100%賄う目標を課した。1975年9月期の売上高は36億7,600万円である。同じ時期も鎌倉研究本部は赤字のままで、野村證券の受託調査が大半を占める東京研究本部の黒字で補っていた。委託契約を計画的な方式に改めたのは、野村證券向けの収入と外部の受託研究の採算を分けて測るためと思われる。
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 激動下の新展開」
- [37]1972年4月研究本部制(東京・鎌倉)へ移行、1972年10月1日から野村證券と新委託契約方式、1973年8月中期計画で部室の経費カバー率100%目標
- [39]1972年4月研究本部制(東京・鎌倉)へ移行、1972年10月1日から野村證券と新委託契約方式、1973年8月中期計画で部室の経費カバー率100%目標
- [40]1972年4月研究本部制(東京・鎌倉)へ移行、1972年10月1日から野村證券と新委託契約方式、1973年8月中期計画で部室の経費カバー率100%目標
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 受託研究活動の定着」
- [38]1971年11月佐伯喜一副社長が研究所長兼務のまま社長に昇格
- 日経ビジネス 1976年9月13日
- [41]1975年9月期売上高約36億7600万円、鎌倉研究本部はいまだ赤字で東京研究本部の黒字でカバー
- [42]1975年9月期売上高約36億7600万円、鎌倉研究本部はいまだ赤字で東京研究本部の黒字でカバー
野村コンピュータシステムは1974年5月、証券業向けの共同利用型システム「STAR」を稼働させた。社名は1972年12月まで野村電子計算センターで、1973年6月に本社を東京都新宿区へ移した。1966年の「証券共同システム」から8年を経て、証券会社が共同で使う基幹の仕組みを改めて用意したものである。大手の同業では、大和証券が1975年、日興証券が1977年になって計算部門を別会社に移した。野村コンピュータシステムは昭和40年代後半から、野村グループ以外の仕事を受注する機会が増えた。1987年には流通業にも進出し、イトーヨーカ堂やセブン-イレブンのPOSシステムの開発と運営を担うまでになった。自前の大型機を持たない証券会社にとって、共同利用型の仕組みは計算機投資を抑える手段になったと推測される。
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [43]1974年5月STAR(証券業向け共同利用型システム)稼働、商号は1972年12月まで野村電子計算センター、1973年6月本社を新宿区へ移転
- [44]1974年5月STAR(証券業向け共同利用型システム)稼働、商号は1972年12月まで野村電子計算センター、1973年6月本社を新宿区へ移転
- [45]1974年5月STAR(証券業向け共同利用型システム)稼働、商号は1972年12月まで野村電子計算センター、1973年6月本社を新宿区へ移転
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「コンピュータで商売しよう」
- [46]大和コンピュータサービスは1975年、日興システムセンターは1977年に独立
- 日経ビジネス 1987年11月9日
- [47]NCCは昭和40年代後半から野村以外の受注が増加、流通業に進出しイトーヨーカ堂・セブンイレブンのPOSを開発運営
- [48]NCCは昭和40年代後半から野村以外の受注が増加、流通業に進出しイトーヨーカ堂・セブンイレブンのPOSを開発運営
野村総合研究所は1978年6月、経営コンサルティングサービスを始めた。野村総合研究所は1973年7月に開発事業部を新設し、翌8月の中期計画でリサーチとコンサルティングの基礎固めを目標に据えた。1975年末には、経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部を発足させた。米国のアーサー・D・リトル(ADL)の1975年の売上高は、野村総合研究所の約6.6倍。ADLは総受注額の40%を民間企業から得て、コンサルティング業務を主にしていた。専務の徳山二郎氏は、日本ではサービスやノウハウに正当な対価を払う観念がまだ育っていないと指摘した。報告書を納める受託研究だけでは収益力の差を縮められないと判断し、経営への助言に対価を得る事業へ広げたとうかがえる。
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [49]1978年6月旧野村総合研究所が経営コンサルティングサービスを開始
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 激動下の新展開」
- [50]中期計画でリサーチ・コンサルティングの基礎確立を示唆、1973年7月開発事業部新設
- 日経ビジネス 1976年9月13日
- [51]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
- [52]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
- [53]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
- [54]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
参考文献[37]-[54]
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 激動下の新展開」
- [37]1972年4月研究本部制(東京・鎌倉)へ移行、1972年10月1日から野村證券と新委託契約方式、1973年8月中期計画で部室の経費カバー率100%目標
- [39]1972年4月研究本部制(東京・鎌倉)へ移行、1972年10月1日から野村證券と新委託契約方式、1973年8月中期計画で部室の経費カバー率100%目標
- [40]1972年4月研究本部制(東京・鎌倉)へ移行、1972年10月1日から野村證券と新委託契約方式、1973年8月中期計画で部室の経費カバー率100%目標
- [50]中期計画でリサーチ・コンサルティングの基礎確立を示唆、1973年7月開発事業部新設
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 受託研究活動の定着」
- [38]1971年11月佐伯喜一副社長が研究所長兼務のまま社長に昇格
- 日経ビジネス 1976年9月13日
- [41]1975年9月期売上高約36億7600万円、鎌倉研究本部はいまだ赤字で東京研究本部の黒字でカバー
- [42]1975年9月期売上高約36億7600万円、鎌倉研究本部はいまだ赤字で東京研究本部の黒字でカバー
- [51]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
- [52]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
- [53]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
- [54]1975年末に経営コンサルティング業務を軸とする研究開発本部発足。ADLの1975年売上高は野村総研の約6.6倍、受注の40%が民間企業、徳山二郎専務は対価観念の未成熟を指摘
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- [43]1974年5月STAR(証券業向け共同利用型システム)稼働、商号は1972年12月まで野村電子計算センター、1973年6月本社を新宿区へ移転
- [44]1974年5月STAR(証券業向け共同利用型システム)稼働、商号は1972年12月まで野村電子計算センター、1973年6月本社を新宿区へ移転
- [45]1974年5月STAR(証券業向け共同利用型システム)稼働、商号は1972年12月まで野村電子計算センター、1973年6月本社を新宿区へ移転
- [49]1978年6月旧野村総合研究所が経営コンサルティングサービスを開始
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「コンピュータで商売しよう」
- [46]大和コンピュータサービスは1975年、日興システムセンターは1977年に独立
- 日経ビジネス 1987年11月9日
- [47]NCCは昭和40年代後半から野村以外の受注が増加、流通業に進出しイトーヨーカ堂・セブンイレブンのPOSを開発運営
- [48]NCCは昭和40年代後半から野村以外の受注が増加、流通業に進出しイトーヨーカ堂・セブンイレブンのPOSを開発運営
出典・参考
13件
- 野村総合研究所 有価証券報告書 2024年度「沿革」
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「2章 研究所の発想と準備過程」
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 野村證券調査部の伝統」
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「2章 野村総合研究所の発足」
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 発足を控えて」
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「3章 鎌倉研究部門の活動」
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 受託研究活動の定着」
- 刊行社史 野村総合研究所十年史(1976)「1章 激動下の新展開」
- 日経ビジネス 1971年5月31日
- 日経ビジネス 1976年9月13日
- 日経ビジネス 1987年11月9日
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「コンピュータで商売しよう」
- 私の昭和史 瀬川美能留『私の証券昭和史』(1986)「第二次オンラインの稼働」