第1章 年〜年

信越化学工業:信越窒素肥料の設立と日本初のシリコーン事業化

1926年〜石灰窒素の過当競争から小坂家再建への危機転換

1926年9月、信濃電気の越寿三郎と日本窒素肥料の野口遵が提携し、資本金500万円で信越窒素肥料株式会社を設立した。長野県で余剰化していた水力発電由来の安価な電力を、石灰窒素という肥料に転換する事業構想が出発点だった。信濃電気が安価な余剰電力を、日本窒素肥料が石灰窒素の製造技術をそれぞれ持ち寄る役割分担のもと、新潟県直江津の日本石油精油工場跡地に工場を建設した。日本窒素肥料は鏡工場および水俣工場の解体製造設備を直江津へ移設して工場を立ち上げた。1927年10月には直江津工場でカーバイドと石灰窒素の製造を開始した。しかし石灰窒素業界は直後から過当競争に突入し、世界恐慌の波及と農村部の米価暴落で肥料需要も後退した。信越窒素肥料は1931年12月に直江津工場の操業を中止し、翌1932年2月には同工場を閉鎖して、創業から僅か数年で存続の危機に直面した。

  • 信越化学工業社史(1992年)第1編第1章「信越窒素肥料の発足と生産開始」
    • [1]1926年9月16日に信濃電気60%・日本窒素40%の出資、資本金500万円で信越窒素肥料を設立した
    • [2]工場用地として直江津の日本石油直江津製油所跡地26万1,000平方メートルを約18万円で購入した
    • [4]1927年10月に直江津工場でカーバイドと石灰窒素の製造を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [3]日本窒素肥料は鏡工場および水俣工場の解体製造設備を直江津に移して工場を立ち上げた
    • [5]世界恐慌の波及と農村部の米価暴落で肥料需要が後退した
    • [6]1931年12月に直江津工場の操業を中止し、翌1932年2月に同工場を閉鎖した

窮境のさなか、越寿三郎から株式を引き取り、長野電気社長であった小坂順造が1931年5月に社長に就任した。社是として"衆心維城"を掲げて再建に着手するとともに、資本の一本化を断行し、経営を安定させる方向へ方針を変えた。再建の転機となったのは1937年10月の直江津工場の操業再開であり、これを境に経営は安定へ向かった。1938年12月には群馬県の磯部に金属試験所を設けて金属マンガンの製造を始め、肥料以外の収益源を持った。1940年には金属マグネシウムやメタリックシリコンといった肥料以外の新製品の比重が高まり、社名を現在に続く"信越化学工業"へ変更する。1945年5月には大同化学工業を合併して武生工場とし、石灰窒素とフェロアロイの製造拠点を加えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [7]長野電気社長であった小坂順造が1931年5月に社長に就任した
    • [8]1937年10月の直江津工場の操業再開を境に経営が安定へ向かった
    • [11]1945年5月に大同化学工業を合併して武生工場とした
  • 信越化学工業 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1938年12月に磯部工場を新設し金属マンガンの製造を開始した
  • 信越化学工業社史(1992年)第1編第2章「信越化学として新発足」
    • [10]1940年に社名を「信越化学工業」へ変更した

終戦直後の信越化学工業は、国の傾斜生産方式に支えられて肥料の増産にあたった。売上の8割を肥料が占め、合金鉄とカーバイドが残りを分け合っていた。石炭・肥料・電力・鉄鋼に資金を重点配分する方針のもとで同社は重点産業に指定され、復興金融金庫から支援を受けられた。直江津の主力工場は戦災を受けておらず、前年の合併で武生工場も加わっていたため肥料と合金鉄を増産する態勢はできており、肥料公団の設置に加え、酸性の土を中和するなら石灰窒素がよいと農林省が勧めたこともあって、作った分だけ売れる状況が続いた。株式は1949年5月に東京証券取引所へ上場している。もっとも、単一の肥料に頼る形は創業のころと同じで、需要のあるうちに次の稼ぎ頭を育てられるかが当時の経営の焦点になっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [12]戦後の傾斜生産方式で石炭・肥料・電力・鉄鋼へ重点的に資金が配分された
    • [13]当時の売上高の製品別構成は8割が肥料で、残りが合金鉄とカーバイドだった
    • [14]重点産業に数えられ復興金融金庫の援助を受けた
    • [15]主力の直江津工場は戦禍を免れ、1945年5月に合併した武生工場とあわせて肥料・鉄合金の増産体制を取った
    • [16]肥料公団が設けられ、酸性土壌の中和には石灰窒素が最適という農林省の奨励があった
  • 信越化学工業 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場した
参考文献[1]-[17]
  • 信越化学工業社史(1992年)第1編第1章「信越窒素肥料の発足と生産開始」
    • [1]1926年9月16日に信濃電気60%・日本窒素40%の出資、資本金500万円で信越窒素肥料を設立した
    • [2]工場用地として直江津の日本石油直江津製油所跡地26万1,000平方メートルを約18万円で購入した
    • [4]1927年10月に直江津工場でカーバイドと石灰窒素の製造を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [3]日本窒素肥料は鏡工場および水俣工場の解体製造設備を直江津に移して工場を立ち上げた
    • [5]世界恐慌の波及と農村部の米価暴落で肥料需要が後退した
    • [6]1931年12月に直江津工場の操業を中止し、翌1932年2月に同工場を閉鎖した
    • [7]長野電気社長であった小坂順造が1931年5月に社長に就任した
    • [8]1937年10月の直江津工場の操業再開を境に経営が安定へ向かった
    • [11]1945年5月に大同化学工業を合併して武生工場とした
  • 信越化学工業 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1938年12月に磯部工場を新設し金属マンガンの製造を開始した
    • [17]1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場した
  • 信越化学工業社史(1992年)第1編第2章「信越化学として新発足」
    • [10]1940年に社名を「信越化学工業」へ変更した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [12]戦後の傾斜生産方式で石炭・肥料・電力・鉄鋼へ重点的に資金が配分された
    • [13]当時の売上高の製品別構成は8割が肥料で、残りが合金鉄とカーバイドだった
    • [14]重点産業に数えられ復興金融金庫の援助を受けた
    • [15]主力の直江津工場は戦禍を免れ、1945年5月に合併した武生工場とあわせて肥料・鉄合金の増産体制を取った
    • [16]肥料公団が設けられ、酸性土壌の中和には石灰窒素が最適という農林省の奨励があった

1953年〜シリコーンと塩ビと半導体シリコンの連鎖展開の始まり

耐熱性・電気絶縁性・撥水性など他の素材では置き換えにくい性質を備えたシリコーンは、半導体から建築、医療まで用途を広げうる基盤素材であり、同社の事業構造を塗り替える可能性を持っていた。信越化学工業は1953年1月に米ゼネラル・エレクトリックと珪素樹脂の生産技術で提携し、同年4月にはパイロットプラントをもとに設備を広げて、シリコーンの本格生産と販売を始めた。副社長の小坂徳三郎はシリコーン事業を小さな盆栽で終わらせず堂々とした大木に育てると宣言して肥料メーカーからの転換を率い、社報の創刊号には肥料屋という呼び名はこの先もなかなか消えまいとする従業員の投書が載るなど、経営層と現場が危機感を分かち合っていた。

  • 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「信越化学工業」(1955年)
    • [18]1953年に米ゼネラル・エレクトリック社と珪素樹脂の生産技術提携を契約し、パイロットプラントを基に生産設備を拡充新設して同年4月に本格的な生産販売へ入った

1957年には最後発で塩化ビニル事業に参入し、独自開発のノンスケール重合技術で生産性を差別化した。1960年にはシリコーン工場の副産物から半導体用高純度シリコン"スーパー・シリコン"の製造を開始し、半導体材料分野に足を踏み入れた。1967年にはダウコーニング社との合弁で信越半導体を設立し、シリコンウェハーという半導体デバイスの基盤材料を供給する企業としての地位を確立した。肥料からシリコーン、塩ビ、半導体シリコンへ、技術の隣接領域を一つずつ広げる成長パターンは、企業文化として定着した。小坂徳三郎は後年、シリコーン参入時の社内情勢を『企業化後も5年間はほとんど商品とは言えない状態で、売り上げに寄与するどころではなかった』と振り返っており、隣接領域への参入は長い不採算期を覚悟したうえでの規律ある選択だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [19]1957年に塩素を原料とするカーバイド法で塩化ビニルの製造を開始した
  • 信越化学工業 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1960年に半導体用高純度シリコン「スーパー・シリコン」の製造を開始した
  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
    • [21]1967年にダウコーニング社との合弁で信越半導体を設立した
  • 日経ビジネス 1980年9月22日号
    • [22]小坂徳三郎が日経ビジネス(1980/9/22)でシリコーン参入時の不採算期について述べた

シリコーンが事業として広がった背景には、原料を社内で作る連なりがあった。直江津工場では天然ガスと塩素を結合させ、その比率を変えてメチルクロライド、メチレンクロライド、クロロホルム、四塩化炭素の4種を取り出した。このうちメチルクロライドを磯部工場へ送ってシリコーンの原料とし、同じメチルクロライドに苛性ソーダとパルプを加えてセルロース誘導体のメトローズを作った。シリコーンの原料は珪石であり、石油化学とは無縁の系統に立っていた。耐熱性や電気絶縁性に加えて消泡や撥水の性質を併せ持つため、需要家の求めに応じて毎年新しい型が生まれ、製品の種類は1,500から1,600に達した。利益率も高く、会社は早い段階からこれを最も有望な製品の一つに数えていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [23]直江津工場で天然ガスと塩素からメチルクロライド・メチレンクロライド・クロロホルム・四塩化炭素を製造した
    • [24]メチルクロライドを磯部工場へ送りシリコーンの原料とし、メチルクロライド・苛性ソーダ・パルプからメトローズを製造した
    • [25]シリコーンの原料は珪石であり石油化学とは無縁である
    • [27]シリコーンはワニス・ゴム・オイルの3分野に分かれ、種類は1,500〜1,600に及んだ
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第4号
    • [26]需要家のニーズに応じて毎年新製品を開発してきた
    • [28]シリコーンは利益率がきわめて高く最も有望な製品の一つとされた
参考文献[18]-[28]
  • 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「信越化学工業」(1955年)
    • [18]1953年に米ゼネラル・エレクトリック社と珪素樹脂の生産技術提携を契約し、パイロットプラントを基に生産設備を拡充新設して同年4月に本格的な生産販売へ入った
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [19]1957年に塩素を原料とするカーバイド法で塩化ビニルの製造を開始した
    • [23]直江津工場で天然ガスと塩素からメチルクロライド・メチレンクロライド・クロロホルム・四塩化炭素を製造した
    • [24]メチルクロライドを磯部工場へ送りシリコーンの原料とし、メチルクロライド・苛性ソーダ・パルプからメトローズを製造した
    • [25]シリコーンの原料は珪石であり石油化学とは無縁である
    • [27]シリコーンはワニス・ゴム・オイルの3分野に分かれ、種類は1,500〜1,600に及んだ
  • 信越化学工業 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1960年に半導体用高純度シリコン「スーパー・シリコン」の製造を開始した
  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
    • [21]1967年にダウコーニング社との合弁で信越半導体を設立した
  • 日経ビジネス 1980年9月22日号
    • [22]小坂徳三郎が日経ビジネス(1980/9/22)でシリコーン参入時の不採算期について述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第4号
    • [26]需要家のニーズに応じて毎年新製品を開発してきた
    • [28]シリコーンは利益率がきわめて高く最も有望な製品の一つとされた

1955年〜経営近代化と太平洋岸進出による肥料比率の低下

戦後の信越化学工業は経営の近代化と新規事業への進出を同時に進めた。1953年のデミング賞受賞は、全社で品質管理運動を進め、従業員の意識を変えた成果だった。それに先立つ1950年には中央研究所を設け、新規事業の研究を担わせている。塩化ビニルには一足飛びではなく段を追って入った。最初は1955年で、新日本窒素肥料と出資し合って日信化学工業をつくり、そこで生産に着手した。やがて自前で事業化しようという機運が社内で強まり、1957年には直江津工場に生産設備を仕上げて単独で参入している。その後も新規事業はほぼ年ごとに加わり、1959年にクロロメタン、1960年に半導体シリコンと酢酸ビニル・ポバール、1962年にメチルセルロースが並んだ。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [29]全社で品質管理運動に取り組み1953年にデミング賞を受賞した
    • [30]1950年に中央研究所を開設して新規事業の研究を進めた
    • [31]1955年に新日本窒素肥料との共同出資で日信化学工業を設立し塩化ビニルの生産を始めた
    • [32]1957年に直江津工場へ生産設備を完成させ塩ビ事業に独自参入した
    • [33]1959年にクロロメタン、1960年に半導体シリコンと酢ビ・ポバール、1962年にメチルセルロースへ進出した

事業構成の入れ替わりは数字にはっきり表れた。1955年に売上の7割3分を占めていた肥料部門は、1963年11月期の決算で19パーセントまで下がり、カーバイド・合金鉄・化学肥料が31パーセント、塩化ビニルと苛性ソーダが43パーセント、シリコーン関係が17パーセントという構成に変わった。10年の体質改善で経営が安定し、株式市場でも成長性を買われた。海外からの技術引き合いも兼任では応じきれないほど増えたため、同社は海外事業部を新設し、1960年に設立したポルトガルの合弁会社シレス社を皮切りに、インド、ペルー、フィリピンへ塩ビの技術を輸出した。

  • 経済時代 1964年5月号
    • [34]1955年に7割3分を占めた肥料部門が1963年11月期には19パーセントまで下がった
    • [35]1963年11月期の売上構成はカーバイド・合金鉄・化学肥料31パーセント、塩ビ・苛性ソーダ43パーセント、シリコーン関係17パーセント、その他9パーセントだった
    • [36]10年間の体質改善で経営が安定し株式市場で高度成長を買われた
    • [37]海外からの技術引き合いが増えたため海外事業部を新設した
    • [39]ポルトガルに続きインド・ペルー・フィリピンへ塩ビの技術を輸出した
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [38]1960年にポルトガルに合弁企業シレス社を設立した

1968年に南陽工場、1970年に鹿島工場ができ、塩ビの生産拠点は臨海部へ移った。これは1960年代後半に、原料と製法の転換とあわせて太平洋岸のコンビナートへ出ることを決め、塩ビ事業の競争力を高めようとした結果である。同じ1968年、堺・泉北地区でも酢酸ビニルとポバールの生産が始まった。海外の評価がとりわけ高かったのは鹿島工場の塩ビ製法で、引き合いは一時50社を上回った。技術の輸出はポルトガルを皮切りに、これを機に各国へ広がった。臨海コンビナートで生産規模を一段上げたこの時期の積み重ねが、1973年の米国進出の支えとなった。

  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [40]1968年に南陽工場、1970年に鹿島工場を設置した
    • [41]1960年代後半に原料・製法の転換と太平洋岸コンビナートへの進出を決めた
    • [42]1968年に堺・泉北地区で酢ビ・ポバールの生産を開始した
    • [43]鹿島工場の塩ビ製造技術は海外から一時50社を超える引き合いがあった
参考文献[29]-[43]
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [29]全社で品質管理運動に取り組み1953年にデミング賞を受賞した
    • [30]1950年に中央研究所を開設して新規事業の研究を進めた
    • [31]1955年に新日本窒素肥料との共同出資で日信化学工業を設立し塩化ビニルの生産を始めた
    • [32]1957年に直江津工場へ生産設備を完成させ塩ビ事業に独自参入した
    • [33]1959年にクロロメタン、1960年に半導体シリコンと酢ビ・ポバール、1962年にメチルセルロースへ進出した
    • [38]1960年にポルトガルに合弁企業シレス社を設立した
    • [40]1968年に南陽工場、1970年に鹿島工場を設置した
    • [41]1960年代後半に原料・製法の転換と太平洋岸コンビナートへの進出を決めた
    • [42]1968年に堺・泉北地区で酢ビ・ポバールの生産を開始した
    • [43]鹿島工場の塩ビ製造技術は海外から一時50社を超える引き合いがあった
  • 経済時代 1964年5月号
    • [34]1955年に7割3分を占めた肥料部門が1963年11月期には19パーセントまで下がった
    • [35]1963年11月期の売上構成はカーバイド・合金鉄・化学肥料31パーセント、塩ビ・苛性ソーダ43パーセント、シリコーン関係17パーセント、その他9パーセントだった
    • [36]10年間の体質改善で経営が安定し株式市場で高度成長を買われた
    • [37]海外からの技術引き合いが増えたため海外事業部を新設した
    • [39]ポルトガルに続きインド・ペルー・フィリピンへ塩ビの技術を輸出した

筆者考察

信越化学工業の始まりは、電気を売る会社が電気を使う会社をこしらえた話である。信濃電気は長野の水力でできた余剰電力の行き先を必要とし、日本窒素肥料は石灰窒素の製造技術と設備を持っていた。両社が出した500万円は、売れ残りの電力を売り物の肥料へ変える装置への投資だった。ところが石灰窒素の市況は設立の直後に崩れ、1931年12月には直江津工場の操業が止まり、翌年2月には工場そのものが閉鎖される。余剰電力を前提に立てた事業は、その電力が余っている理由、つまり需要そのものの細さから逃れられなかった。小坂順造が引き取ったのは、この構造ごとの会社である。

この会社を変えたのは、新しい製品を一つ当てたことではなく、原料の連なりを社内に抱えたことだった。1953年に始めたシリコーンは5年たっても売上にほとんど寄与せず、それでも肥料が売上の大半を占める会社がこれを抱え続けた。やがて直江津の塩素とメチルクロライドから塩化ビニルが出て、シリコーン工場の副産物から高純度シリコンが出る。1963年11月期に肥料の比率は19%まで低下したが、最大の43%を占めたのは塩ビと苛性ソーダで、シリコーン関係は17%にとどまる。一本の新事業が会社を替えたのではない。一本が次を呼ぶ原料の連なりが、肥料屋を素材屋に変えた。

売上に占める肥料部門の比率 1955年から1963年11月期まで(%)

73 1955 19 63.11
  • 1963年11月期の残りは、カーバイド・合金鉄・化学肥料31%、塩化ビニルと苛性ソーダ43%、シリコーン関係17%、その他9%。
  • 出所は経済時代 1964年5月号「化学工業ブームで躍進する信越化学」。

1926年〜1972年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年05月期 単体 27 n/a 4 n/a 3 11.4% n/a
1953年05月期 単体 31 +15.7% 4 n/a 3 10.1% n/a
1954年05月期 単体 29 ▲5.6% 2 n/a 1 6.2% n/a
1955年05月期 単体 29 ▲0.8% 2 n/a 1 5.3% n/a
1956年05月期 単体 37 +27.6% 3 n/a n/a n/a n/a
1957年05月期 単体 48 +28.5% 4 n/a n/a n/a n/a
1958年05月期 単体 54 +12.7% 6 n/a n/a n/a n/a
1959年05月期 単体 58 +7.1% 4 n/a n/a n/a n/a
1960年05月期 単体 80 +36.9% 8 n/a n/a n/a ポルトガルにシレス社を設立(1960)
1961年05月期 単体 102 +27.1% n/a n/a n/a n/a n/a
1962年05月期 単体 116 +13.9% n/a n/a n/a n/a n/a
1963年05月期 単体 122 +5.5% n/a n/a 4 3.6% n/a
1964年05月期 単体 152 +23.9% n/a n/a 3 2.6% n/a
1965年05月期 単体 177 +16.8% n/a n/a 6 3.5% n/a
1966年05月期 単体 196 +10.4% n/a 9 6 3.2% n/a
1967年05月期 単体 242 +23.6% n/a n/a 7 3.0% n/a
1968年05月期 単体 273 +12.5% n/a n/a 8 3.2% n/a
1969年05月期 単体 308 +13.1% n/a n/a 9 3.1% n/a
1970年05月期 単体 370 +19.9% n/a 23 13 3.6% n/a
1971年05月期 単体 428 +15.8% n/a 26 16 3.7% 鹿島工場を建設、エチレン法による塩化ビニルの製造を開始(1970/08)
1972年05月期 単体 438 +2.3% n/a 15 11 2.7% n/a

出所:上場会社総覧 1956年版、1959年版、上場会社総覧 1959年版、上場会社総覧 1961年版、会社年鑑 1963年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1976年版

出典・参考

11件
出典・参考
  • 信越化学工業 有価証券報告書【沿革】
  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
  • 信越化学工業社史(1992年)第1編第1章「信越窒素肥料の発足と生産開始」
  • 信越化学工業社史(1992年)第1編第2章「信越化学として新発足」
  • 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「信越化学工業」(1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
  • 経済時代 1964年5月号
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第4号
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
  • 日経ビジネス 1980年9月22日号

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