第2章 年〜年

信越化学工業:合弁解消によるシンテック・信越半導体の完全子会社化

シンテック全株取得から60%のファイン化率へ

1973年〜石油危機下の減量経営とシンテックの全株取得

塩ビの出荷が3割減り、事故の再開と不況対策が重なる

1973年10月の第4次中東戦争を機に、アラブ石油輸出国機構は原油価格を引き上げ、日本と米国への輸出を禁じた。塩化ビニルは1974年の秋口まで仮需が続き、この年の生産と出荷は最高値を示したが、それだけに反動の減産幅も大きかった。1975年1月から3月の出荷量は24万トンと前年同期比で3割3分減り、四半期の生産が30万トンを下回る状態は1978年の秋まで続く。需要が減少する一方で国産エチレン価格と電力料金は上がり、塩ビモノマーの毒性問題に伴う公害・環境対策費も加わって、通産省の調査では塩化ビニル産業の赤字が1976年度に200億円へ達した。塩ビ全体の3割強を占める硬質パイプ向けの需要も減少した。信越化学工業では前年10月に直江津の塩ビ工場で事故が起きており、その再開と不況対策が同時に来た。

  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第1章「資源情勢の急変で"再構築"を急ぐ」
    • [1]1973年10月の第4次中東戦争でアラブ石油輸出国機構が原油価格を引き上げ、日本・米国への輸出を禁止した
    • [2]塩化ビニルは1974年秋口まで仮需が続き、この年の生産・出荷は最高値を示したあと反動で大きく減産した
    • [3]1975年1〜3月の塩化ビニル出荷量は24万トンで前年同期比33%減、四半期生産が30万トンを下回る状態が1978年秋まで続いた
    • [4]通産省調査で塩化ビニル産業の赤字は1976年度に200億円に達し、エチレン価格・電力料金の上昇と公害環境対策費がコスト増の要因となった
    • [6]1973年10月に直江津塩ビ工場で事故が起きた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [5]塩化ビニル全体の30数%を占める硬質パイプ部門が低迷した
設備投資を凍らせ、一時帰休で不況をしのぐ

1974年7月、直江津塩ビ工場の事故の責任を負って小林周蔵社長が退き、副社長の小田切新太郎が社長に就任した。小田切は就任にあたり、原料とエネルギーが高価格となる時代のそれらの総合的な有効利用を課題に掲げた。しかし不況は同じ年の秋から深刻さを増し、最初の仕事は不況対策になった。1974年10月、社長と各専務で構成する緊急対策会議を置き、設備投資を全面的に凍結する。翌1975年にはシリコーン、半導体、酢酸ビニル・ポバールなどを対象に労働組合の了解を得て一時帰休へ入り、対象者は2月の1,092人から5月の2,146人へ広がった。1人あたりの帰休日数は月平均6.6日である。同じ1975年5月期の決算は戦後最悪となり、資産の一部を売却して1割の配当を保った。

  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第1章「資源情勢の急変で"再構築"を急ぐ」
    • [7]1974年7月に小林周蔵社長が直江津塩ビ工場事故の責任を痛感して退任し、小田切新太郎副社長が社長に就任した
    • [8]小田切新太郎は就任にあたり原料・エネルギー高価格時代の総合的な有効利用の重要性を強調した
    • [9]1974年秋から不況が深刻化し、小田切社長の初仕事は不況対策となった
    • [10]1974年10月に社長と各専務で構成する緊急対策会議を設置し設備投資の全面凍結を決定した
    • [11]1975年にシリコーン・半導体・酢ビ・ポバールなどを対象に一時帰休を実施し、対象者は2月1,092人から5月2,146人へ拡大した
    • [12]一時帰休の対象者1人あたり各月平均の帰休日数は6.6日だった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [13]1975年5月期は戦後最悪の決算となり、資産の一部を売却して1割配当を実施した
最悪期にロビンテックからシンテックの残る株を引き取る

その最悪期に、信越化学工業は米国の塩ビ子会社を全部自社のものにする決断をした。1974年10月、テキサス州フリーポートの工場が年産10万トンで動き出し、シンテックは最初の年度から利益を出した。同社は前年の1973年7月に、ロビンテックとの折半出資で設けられていた。上流の塩ビモノマーや電解へ出たいとするロビンテックの協力要請を、信越化学工業は塩ビ樹脂に絞るべきだとして退けた。するとロビンテックは西独企業と手を組む方向へ動き、手元のシンテック株を売りたいと持ちかけるなど、第三者へ勝手に譲ることを禁じた契約の趣旨にそぐわない振る舞いを見せ始めた。買い取り価格を約1,200万ドルとする基本合意が成ったのは1976年4月である。海外事業本部長の金川千尋が全株を取得すべきだと提案し、小田切社長は一部取締役の反対を説き伏せてこれを認めた。

  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
    • [14]1973年7月にロビンテックとの折半出資でシンテックを設立し、1974年10月にフリーポート工場が年産10万トンで操業を開始、創業初年度に利益を計上した
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第1章「資源情勢の急変で"再構築"を急ぐ」
    • [15]ロビンテックが塩ビモノマーや電解など上流部門への進出を計画して協力を求めたが、信越化学工業は塩ビ樹脂に専念すべきだとして断った
    • [16]ロビンテックは西独企業との提携を進め、保有するシンテック株の譲渡を打診するなど第三者への無断譲渡を禁ずる契約の趣旨に反しかねない行為が懸念された
    • [17]1976年4月に株式の買い取り価格を約1,200万ドルとすることで基本合意に達した
    • [18]小田切新太郎社長は金川千尋海外事業本部長の提案を受け、一部取締役の反対を説得してシンテック株の100%買い取りを承認した
参考文献[1]-[18]
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第1章「資源情勢の急変で"再構築"を急ぐ」
    • [1]1973年10月の第4次中東戦争でアラブ石油輸出国機構が原油価格を引き上げ、日本・米国への輸出を禁止した
    • [2]塩化ビニルは1974年秋口まで仮需が続き、この年の生産・出荷は最高値を示したあと反動で大きく減産した
    • [3]1975年1〜3月の塩化ビニル出荷量は24万トンで前年同期比33%減、四半期生産が30万トンを下回る状態が1978年秋まで続いた
    • [4]通産省調査で塩化ビニル産業の赤字は1976年度に200億円に達し、エチレン価格・電力料金の上昇と公害環境対策費がコスト増の要因となった
    • [6]1973年10月に直江津塩ビ工場で事故が起きた
    • [7]1974年7月に小林周蔵社長が直江津塩ビ工場事故の責任を痛感して退任し、小田切新太郎副社長が社長に就任した
    • [8]小田切新太郎は就任にあたり原料・エネルギー高価格時代の総合的な有効利用の重要性を強調した
    • [9]1974年秋から不況が深刻化し、小田切社長の初仕事は不況対策となった
    • [10]1974年10月に社長と各専務で構成する緊急対策会議を設置し設備投資の全面凍結を決定した
    • [11]1975年にシリコーン・半導体・酢ビ・ポバールなどを対象に一時帰休を実施し、対象者は2月1,092人から5月2,146人へ拡大した
    • [12]一時帰休の対象者1人あたり各月平均の帰休日数は6.6日だった
    • [15]ロビンテックが塩ビモノマーや電解など上流部門への進出を計画して協力を求めたが、信越化学工業は塩ビ樹脂に専念すべきだとして断った
    • [16]ロビンテックは西独企業との提携を進め、保有するシンテック株の譲渡を打診するなど第三者への無断譲渡を禁ずる契約の趣旨に反しかねない行為が懸念された
    • [17]1976年4月に株式の買い取り価格を約1,200万ドルとすることで基本合意に達した
    • [18]小田切新太郎社長は金川千尋海外事業本部長の提案を受け、一部取締役の反対を説得してシンテック株の100%買い取りを承認した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [5]塩化ビニル全体の30数%を占める硬質パイプ部門が低迷した
    • [13]1975年5月期は戦後最悪の決算となり、資産の一部を売却して1割配当を実施した
  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
    • [14]1973年7月にロビンテックとの折半出資でシンテックを設立し、1974年10月にフリーポート工場が年産10万トンで操業を開始、創業初年度に利益を計上した

1975年〜直江津工場の自立化と信越半導体の完全子会社化

雪の工場で役員会を開き、直江津の収支を合わせにいく

国内では、赤字の続く直江津工場を自立させる作業が並行して進んだ。1975年2月に工場内で自立化計画の検討が始まり、7月には酢酸ビニルモノマーとポバールの生産を中止した。翌1976年1月、大雪で信越本線が不通となるなかバスを乗り継いで全役員が直江津へ参集し、工場で初めての役員会を招集し、1978年5月期までに工場収支を均衡させる方針を決めている。職場ごとに推進チームを作り、目標と改善提案を持ち寄る全員参加の小集団活動も始まった。自立化チームの出した合理化対策は大小あわせて40件に達し、人員効率化221人と年間6億円を超える効果を生んだ。同じ年、工務本部を信越エンジニアリングとして分離し、約380人が出向して直江津工場の従業員は約250人減った。

  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第1章「資源情勢の急変で"再構築"を急ぐ」
    • [19]1975年2月に直江津工場内で自立化計画の検討を開始し、7月に酢酸ビニルモノマーとポバールの生産を中止した
    • [20]1976年1月に大雪で信越本線が不通となるなか全役員がバスを乗り継いで直江津工場に参集し、同工場で初の役員会を開いて1978年5月期までに工場収支を均衡させることを決めた
    • [21]直江津工場再生のため職場ごとに推進チームを結成し、目標と実行計画・改善提案を持ち寄る全員参加の小集団活動を展開した
    • [22]自立化チームが提案した合理化対策は大小あわせて40件に達し、人員効率化221人・年間6億円超の効果を生んだ
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [23]1976年に工務本部を信越エンジニアリングとして分離独立させ、約380人が出向して直江津工場の従業員は約250人減少した
投資の速さの差がダウ・コーニングとの合弁を終わらせる

信越半導体は1967年の設立以来、信越化学工業が55%を出資する形だったが、覚書のうえでは運営は両社の話し合いでまとめることになっていた。ダウ・コーニングはかねて出資比率の対等化と販売の一元化を求め、1978年6月にもあらためてこれを持ち出した。両社の溝がより深かったのは投資への考え方で、集積回路の集積度が上がるにつれ半導体シリコンの設備投資は毎年膨らんだが、目先の収支を長期より重く見るダウ・コーニングは、その費用を背負うことに消極的になっていた。相手が大型装置による少品種大量生産の多結晶を重視したのに対し、信越化学工業が軸にしていたのは多品種少量の単結晶だった。1979年1月、合弁の解消を申し入れたのはダウ・コーニングの側で、両社は3月に調印した。ダウ・コーニングは1971年に米国で単結晶から完全に手を引いており、優先交渉権が行使されて信越半導体は完全子会社となった。

  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第2章「製品構成の高度化を達成」
    • [24]信越半導体の資本構成は信越化学工業が55%でマジョリティを持ち、覚書では両社合意による運営が基本とされていた
    • [25]ダウ・コーニングは対等出資と販売の一元化を求め、1978年6月に改めて申し入れた
    • [26]集積回路産業の投資増加で半導体シリコンの設備投資額が年々増え、長期より短期の収支を重視するダウ・コーニングは投資負担をためらうようになった
    • [27]ダウ・コーニングは大型装置による少品種大量生産型の多結晶シリコンを重点とし、信越化学工業は多品種少量生産型の単結晶シリコンを重視した
    • [28]1979年1月にダウ・コーニングが信越半導体の合弁解消を申し入れ、3月に両社が調印した
  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
    • [29]ダウ・コーニングは1971年に米国でCZに続きFZ単結晶の製造を中止して単結晶分野から全面撤退し、1979年に優先交渉権の行使で信越半導体は完全子会社となった
ファイン部門へ投資を回し、売上の中身を入れ替える

全株を握ったあとの投資は速かった。信越半導体は海外での販売と生産の拠点づくりに入り、国内でも新工場の建設を始める。これに呼応してシリコーン事業も内外の競争激化を見越して長期計画の策定と実施を急いだ。結果として売上の中身が入れ替わる。シリコーン、半導体シリコン、電子材料、セルロースを合わせたファイン部門の比率は、1975年度の3割から1978年度に4割2分へ上がり、1983年度以降は6割を超えた。売上高が1,000億円に達した1978年度は、3年前からの増加分180億円の97%をファイン部門が占めている。1979年5月期の売上高は1,015億円である。1975年度から1983年度までの売上増1,548億円のうち、約8割が同じ部門から出た。

  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第2章「製品構成の高度化を達成」
    • [30]信越半導体は株式100%取得後に海外の販売・生産の拠点づくりと国内新工場の建設を開始した
    • [31]シリコーン事業も内外の競争激化を予想して長期計画の策定と実施を急いだ
    • [32]ファイン化率は1975年度30%、1978年度42%、1983年度以降60%超となった
    • [33]売上高1,000億円を達成した1978年度は1975年度に対する全社売上増180億円の97%をファイン部門が占めた
    • [35]1975年度から1983年度までの売上増1,548億円の約80%がファイン部門の成長によるものだった
  • 会社年鑑
    • [34]1979年5月期の売上高は1,015億円だった
参考文献[19]-[35]
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第1章「資源情勢の急変で"再構築"を急ぐ」
    • [19]1975年2月に直江津工場内で自立化計画の検討を開始し、7月に酢酸ビニルモノマーとポバールの生産を中止した
    • [20]1976年1月に大雪で信越本線が不通となるなか全役員がバスを乗り継いで直江津工場に参集し、同工場で初の役員会を開いて1978年5月期までに工場収支を均衡させることを決めた
    • [21]直江津工場再生のため職場ごとに推進チームを結成し、目標と実行計画・改善提案を持ち寄る全員参加の小集団活動を展開した
    • [22]自立化チームが提案した合理化対策は大小あわせて40件に達し、人員効率化221人・年間6億円超の効果を生んだ
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
    • [23]1976年に工務本部を信越エンジニアリングとして分離独立させ、約380人が出向して直江津工場の従業員は約250人減少した
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第2章「製品構成の高度化を達成」
    • [24]信越半導体の資本構成は信越化学工業が55%でマジョリティを持ち、覚書では両社合意による運営が基本とされていた
    • [25]ダウ・コーニングは対等出資と販売の一元化を求め、1978年6月に改めて申し入れた
    • [26]集積回路産業の投資増加で半導体シリコンの設備投資額が年々増え、長期より短期の収支を重視するダウ・コーニングは投資負担をためらうようになった
    • [27]ダウ・コーニングは大型装置による少品種大量生産型の多結晶シリコンを重点とし、信越化学工業は多品種少量生産型の単結晶シリコンを重視した
    • [28]1979年1月にダウ・コーニングが信越半導体の合弁解消を申し入れ、3月に両社が調印した
    • [30]信越半導体は株式100%取得後に海外の販売・生産の拠点づくりと国内新工場の建設を開始した
    • [31]シリコーン事業も内外の競争激化を予想して長期計画の策定と実施を急いだ
    • [32]ファイン化率は1975年度30%、1978年度42%、1983年度以降60%超となった
    • [33]売上高1,000億円を達成した1978年度は1975年度に対する全社売上増180億円の97%をファイン部門が占めた
    • [35]1975年度から1983年度までの売上増1,548億円の約80%がファイン部門の成長によるものだった
  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
    • [29]ダウ・コーニングは1971年に米国でCZに続きFZ単結晶の製造を中止して単結晶分野から全面撤退し、1979年に優先交渉権の行使で信越半導体は完全子会社となった
  • 会社年鑑
    • [34]1979年5月期の売上高は1,015億円だった

1980年〜塩ビの構造不況と合成石英マスク基板による柱の入れ替え

国内の塩ビが3年続けて大幅赤字になる

1983年5月期の経常利益が76億円にとどまったのは、塩ビの赤字が他の利益を打ち消したためである。入れ替わりの陰で、国内の塩化ビニルは3年連続の大幅な赤字を計上していた。鹿島コンビナートに加わり最大の規模の設備を抱えたことが、原燃料の条件が急に変わった不況の局面では逆に重荷となり、国内で塩ビを続けるかどうかを問われる局面さえあった。売上に占める塩ビ関連の比率は1979年度の4割を頂点に、1981年度からは2割台に下がっている。業界は1982年に共販会社を4つ設け、信越化学工業も旭硝子・化成ビニルと組んで中央塩ビ販売をつくった。翌1983年に施行された産構法では、塩化ビニルの過剰設備を現有能力の約24%にあたる49万トンと定め、1985年3月までの処理と5年間の新増設禁止が決められた。

  • 会社年鑑
    • [36]1983年5月期の経常利益は76億円だった
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第2章「製品構成の高度化を達成」
    • [37]塩化ビニル事業の経常利益は1979年度を除き1982年度まで赤字基調で、1980〜82年度の3年間は全社の収支に重大な影響を与える大幅赤字となった
    • [38]鹿島コンビナートに参加して最大規模の設備を持ったことが原燃料条件の急変した不況期には裏目に働いた
    • [39]国内における塩化ビニル事業の存続の可能性が問われたことがあった
    • [40]塩化ビニル関連事業の売上高比率は1979年度に40%へ達したあと1981年度以降は20%台へ低下した
    • [41]1982年に塩化ビニルの共販会社4社が設立され、信越化学工業は旭硝子・化成ビニルとともに中央塩ビ販売に参加した
    • [42]1983年施行の産構法で塩化ビニルは1985年度生産見通しに対し現有設備の約24%にあたる49万トンが過剰とされ、1985年3月までの処理と5年間の新増設禁止が決められた
合成石英のマスク基板を世界で初めて量産する

同じ時期に、電子材料が新しい収益源になった。1979年に64キロビットのDRAMが登場すると、その回路を描くフォトマスクの基板に合成石英が使われ始めた。高集積化で回路の線は細くなり、露光に用いる光の波長は短くなる。高純度の合成石英は遠紫外の短波長で透過率が90%以上あり、熱による寸法の変化も極めて小さいため、基板材料として適していた。信越化学工業は世界で初めてこの合成石英マスク基板の量産化に成功する。1979年の第1次から1985年の第9次まで増設を重ね、製造能力は月産1,000枚から5万枚へ広がった。売上は5年で十数倍の約60億円に達し、これほど急に伸びた新規事業は同社の歴史に例がない。増設が速かったのは、生産を止めた旧OA工場の大きな建家をそのまま使えたからである。

  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第2章「製品構成の高度化を達成」
    • [43]1979年に64キロビットDRAMが登場し、その回路を描くフォトマスク基板に合成石英が使われ始めた
    • [44]高集積化に伴って回路の線は細くなり、リソグラフィに使用する光の波長は短くなった
    • [45]高純度合成石英は遠紫外の短波長での透過率が90%以上で熱による寸法変化が極めて小さく、マスク基板材料として最適だった
    • [46]信越化学工業は世界で初めて合成石英マスク基板の量産化に成功した
    • [47]1979年の第1次から1985年の第9次まで増設を重ね、マスク基板の製造能力は月産1,000枚から月産5万枚となった
    • [48]合成石英の売上高は5年間で十数倍に増えて1984年度に約60億円となり、これほど急激に増加した新規事業は他に例がない
    • [49]矢継ぎ早の増設は旧OA工場の大きな建家を利用して行われたため可能だった
米国の塩ビが国内で削った体力を取り返す

1983年8月、小田切新太郎社長が退任して会長となり、専務の小坂雄太郎が社長に、田村喜八と金川千尋が副社長に就任した。9年余の在任のほとんどが不況下であり、退任の理由として小田切は経営者の若返りを挙げている。金川は1982年から海外に加えて国内の塩ビ事業も統括した。同じ製品の国内と海外を一人の長が受け持てば、双方の最適条件を突き合わせて生産と販売を決められる。米国では1986年から1991年にかけて窓枠や外壁材に塩ビ樹脂が広がり、出荷量は国内総生産の伸びの2倍以上で増えた。日本で成熟した商材と見なされた製品が、米国では成長商材だった。シンテックは増設を重ねて年産能力90万トンに達し、鹿島工場と合わせた信越化学工業の塩化ビニル生産能力は世界最大となった。国内の汎用品で失った収益を、同じ汎用品が海の向こうで取り返した形である。

  • 信越化学工業社史(1992年)第5編第1章「グローバル企業への成長を目指して」
    • [50]1983年8月に小田切新太郎社長が退任して会長となり、小坂雄太郎専務が社長、田村喜八・金川千尋両専務が副社長に就任した
    • [51]小田切新太郎の在任は9年余でそのほとんどが不況下であり、退任の理由として経営者の若返りを挙げた
    • [56]増設を重ねたシンテックの年産能力は90万トンに達し、鹿島工場の設備と合わせて信越化学工業の塩化ビニル生産能力は世界最大となった
  • Business research 1990年「国際事業のリーダーシップ――信越化学工業(株)副社長 金川千尋」
    • [52]金川千尋は1982年から海外に加え国内の塩ビ事業も統括し、同一製品は一人の長が国内・海外の両方を見たほうが双方の最適条件を踏まえた正しい選択ができると述べた
    • [53]同一製品は一人の長が国内・海外の両方を統括したほうが、日本と海外の最適条件をあわせて眺め正しい選択と判断ができる
  • 日経ビジネス 1992年12月7日号
    • [54]1986年から1991年にかけて米国で窓枠や外壁材向けに塩ビ樹脂が普及し、出荷量はGDP成長率の2倍以上で伸びた
    • [55]日本で成熟商品とされた塩ビ樹脂が米国では成長性の高い商品だった
参考文献[36]-[56]
  • 会社年鑑
    • [36]1983年5月期の経常利益は76億円だった
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第2章「製品構成の高度化を達成」
    • [37]塩化ビニル事業の経常利益は1979年度を除き1982年度まで赤字基調で、1980〜82年度の3年間は全社の収支に重大な影響を与える大幅赤字となった
    • [38]鹿島コンビナートに参加して最大規模の設備を持ったことが原燃料条件の急変した不況期には裏目に働いた
    • [39]国内における塩化ビニル事業の存続の可能性が問われたことがあった
    • [40]塩化ビニル関連事業の売上高比率は1979年度に40%へ達したあと1981年度以降は20%台へ低下した
    • [41]1982年に塩化ビニルの共販会社4社が設立され、信越化学工業は旭硝子・化成ビニルとともに中央塩ビ販売に参加した
    • [42]1983年施行の産構法で塩化ビニルは1985年度生産見通しに対し現有設備の約24%にあたる49万トンが過剰とされ、1985年3月までの処理と5年間の新増設禁止が決められた
    • [43]1979年に64キロビットDRAMが登場し、その回路を描くフォトマスク基板に合成石英が使われ始めた
    • [44]高集積化に伴って回路の線は細くなり、リソグラフィに使用する光の波長は短くなった
    • [45]高純度合成石英は遠紫外の短波長での透過率が90%以上で熱による寸法変化が極めて小さく、マスク基板材料として最適だった
    • [46]信越化学工業は世界で初めて合成石英マスク基板の量産化に成功した
    • [47]1979年の第1次から1985年の第9次まで増設を重ね、マスク基板の製造能力は月産1,000枚から月産5万枚となった
    • [48]合成石英の売上高は5年間で十数倍に増えて1984年度に約60億円となり、これほど急激に増加した新規事業は他に例がない
    • [49]矢継ぎ早の増設は旧OA工場の大きな建家を利用して行われたため可能だった
  • 信越化学工業社史(1992年)第5編第1章「グローバル企業への成長を目指して」
    • [50]1983年8月に小田切新太郎社長が退任して会長となり、小坂雄太郎専務が社長、田村喜八・金川千尋両専務が副社長に就任した
    • [51]小田切新太郎の在任は9年余でそのほとんどが不況下であり、退任の理由として経営者の若返りを挙げた
    • [56]増設を重ねたシンテックの年産能力は90万トンに達し、鹿島工場の設備と合わせて信越化学工業の塩化ビニル生産能力は世界最大となった
  • Business research 1990年「国際事業のリーダーシップ――信越化学工業(株)副社長 金川千尋」
    • [52]金川千尋は1982年から海外に加え国内の塩ビ事業も統括し、同一製品は一人の長が国内・海外の両方を見たほうが双方の最適条件を踏まえた正しい選択ができると述べた
    • [53]同一製品は一人の長が国内・海外の両方を統括したほうが、日本と海外の最適条件をあわせて眺め正しい選択と判断ができる
  • 日経ビジネス 1992年12月7日号
    • [54]1986年から1991年にかけて米国で窓枠や外壁材向けに塩ビ樹脂が普及し、出荷量はGDP成長率の2倍以上で伸びた
    • [55]日本で成熟商品とされた塩ビ樹脂が米国では成長性の高い商品だった

筆者考察

1970年代の信越化学工業がしたのは、国内で人と設備を削減することと、その最中に米国で買い増すことを同時に進めることだった。1975年の一時帰休は5月に2,146人へ達し、同じ期の決算は戦後最悪となる。それでも翌1976年、合弁相手のロビンテックから約1,200万ドルを払ってシンテックの残る株を引き取った。四半期の出荷が30万トンを割り続けた日本の塩ビ市場と、住宅と建材の需要が伸び続けた米国の塩ビ市場は、同じ樹脂を扱いながら別の局面にあった。小田切新太郎社長が一部取締役の反対を押して決めたのは、この局面の差へ資金を投じることである。

合弁を解くという同じ手が、3年後に半導体で繰り返された。ダウ・コーニングは短期の収支を重んじて設備投資の負担をためらい、信越化学工業は多品種少量の単結晶を事業の中心にしていた。1979年に全株を取ったあと、信越半導体は海外の拠点づくりと国内の新工場へ投資を一気に回す。ファイン部門の比率は1975年度の3割から1983年度に6割を超え、その間の売上増1,548億円の8割がこの部門から出た。合弁とは、相手の資金と技術を借りる代わりに、投資の速さを相手の判断へ預ける仕組みである。二度の解消は、その速さを自分の手に戻す作業だった。

ファイン部門が売上に占める比率 1975年度から1983年度まで(%)

30 1975年度 42 1978年度 60 1983年度
  • ファイン部門はシリコーン・半導体シリコン・電子材料・セルロースの4部門。コモディティ部門は塩化ビニル・化成品・酢酸ビニル及びポバール・国際事業ほか。
  • 1983年度は60%超。出所は信越化学工業社史(1992年)第4編第2章。

1973年〜1989年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1973年05月期 単体 533 n/a 38 15 2.9% 信越半導体がS.E.H.マレーシア社を設立(1973)
1974年05月期 単体 761 +42.6% 68 25 3.3% n/a
1975年05月期 単体 774 +1.7% 22 16 2.1% n/a
1976年05月期 単体 837 +8.1% 8 13 1.6% n/a
1977年05月期 単体 964 +15.2% 20 13 1.3% n/a
1978年05月期 単体 956 ▲0.8% 17 12 1.3% n/a
1979年05月期 単体 1,015 +6.2% 42 16 1.6% 信越半導体がシンエツハンドウタイアメリカを米国に設立(1979/03)
1980年05月期 単体 1,375 +35.5% 79 36 2.6% n/a
1981年05月期 単体 1,390 +1.1% 42 24 1.7% n/a
1982年05月期 単体 1,498 +7.8% 37 19 1.3% n/a
1983年05月期 単体 1,576 +5.2% 76 43 2.7% n/a
1984年05月期 単体 2,061 +30.8% 150 78 3.8% 信越半導体がシンエツハンドウタイヨーロッパを英国に設立(1984/05)信越半導体の白河工場が完成(1984)
1985年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a シンエツシリコーンズ・オブ・アメリカ社を設立(1985)
1986年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a シンエツシリコーンズ・ヨーロッパ社をオランダに設立(1989)

出所:会社年鑑 1976年版、1986年版、会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第1章「資源情勢の急変で"再構築"を急ぐ」
  • 信越化学工業社史(1992年)第4編第2章「製品構成の高度化を達成」
  • 信越化学工業社史(1992年)第5編第1章「グローバル企業への成長を目指して」
  • 会社年鑑
  • 証券アナリストジャーナル 1976年 第14巻第11号
  • 日経ビジネス 1992年12月7日号
  • Business research 1990年「国際事業のリーダーシップ――信越化学工業(株)副社長 金川千尋」

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