イビデン:揖斐川電力の設立と大垣工場でのカーバイド製造
1912年〜大垣の電力紡績構想から生まれた揖斐川電力と、出力3,000KWの西横山発電所
大垣の有志が最初に描いたのは電力会社で、1906年2月に社名を揖斐川電力、資本金を100万円とする案を固め、同年11月に広瀬川の水利使用許可を得た。紡績工場の誘致が不調に終わると、有志は電力と紡績を兼ねる大垣電力紡績へ計画を改めたものの、1907年の株価暴落と恐慌で設立を断念した。1910年には大東電力紡績の計画にも協力したが、不況で株式の募集が進まず、計画は実を結ばなかった。発起人は電気事業の経験者を経営に迎える方針に転じ、大垣出身で京浜電気鉄道を率いた立川勇次郎氏を選んだ。1912年11月25日の創立総会を経て立川勇次郎氏が社長に就任し、資本金100万円の揖斐川電力が大垣で最初の大企業として発足した。紡績を併せる案が2度つまずいたことで、電力単独で始める判断に落ち着いたのだろう。
- イビデン70年史(1982)「序章 設立前史」
- [1]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- [2]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- [3]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- [4]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [5]1912年11月25日創立総会、立川勇次郎が社長。資本金100万円で大垣における大企業設立の第1号
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [6]1912年11月、地元有力者の発起で資本金100万円の揖斐川電力を設立
最初の電源は揖斐川支流の広瀬川を使う西横山発電所で、起工は1913年11月19日。会社は同年12月、縦軸水車をドイツのフォイト社に、発電機や変圧器を米国のジェネラルエレクトリック社に発注した。1914年7月に第1次世界大戦が始まるとドイツ製の水車と水圧鉄管は入荷の見込みを失い、同年11月に水車2台の発注先を東京の電業社へ、水圧鉄管の発注先を石川島造船所へ切り替えた。電業社は国内で前例のない縦軸フランシス水車を1915年8月に据え付け、電気工事も同年10月に完成した。認可出力3,000KWの電力を44KVの送電線49kmで大垣と駒野の変電所へ送る設備に、揖斐川電力は建設費135万円を投じ、同年12月に最初の送電を始めた。輸入の途絶が、国産水車の採用を迫った結果とみられる。
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [7]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [8]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [9]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [10]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [11]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [12]1915年12月に処女送電を開始
送電の前に片付けるべき問題は、1907年12月に発起人が岐阜電気と交わした覚書である。発起人は大垣周辺の供給権を岐阜電気へ譲渡し、10年以内なら相当の代価で買い戻せる条件を付けていた。会社が発足して買戻しを求めると譲渡価格で折り合わず、西部逓信局長の坂野鉄治郎氏が仲裁に入った。1915年12月の決着は、揖斐川電力が200KW以上の大口電力を除く営業を岐阜電気へ無償で譲渡し、岐阜電気が1,000KWを買い入れて3万円を支払う内容である。同じ12月1日には摂津紡績大垣工場への送電が2,000KWの設備で始まり、1916年下期に供給電力は合計2,750KWに達した。岐阜電気が8年にわたり供給を続けた地域で、揖斐川電力は電灯を断念して大口の卸売に的を絞ったと考えられる。
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [13]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [14]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [15]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [16]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [17]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [18]創立と同時に工事に着手し1915年12月に処女送電を開始
参考文献[1]-[18]
- イビデン70年史(1982)「序章 設立前史」
- [1]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- [2]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- [3]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- [4]1906年2月に揖斐川電力(資本金100万円)の構想を固め同年11月に水利許可。大垣電力紡績は1907年の恐慌で断念、1910年の大東電力紡績も不首尾。発起人は大垣出身の立川勇次郎を経営者に選んだ
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [5]1912年11月25日創立総会、立川勇次郎が社長。資本金100万円で大垣における大企業設立の第1号
- [7]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [8]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [9]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [10]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [11]西横山発電所は1913年11月起工。水車をフォイト社・発電機をGE社に発注、大戦で独製品入荷不能となり電業社・石川島造船所へ再発注。1915年8月据付・10月電気工事完成。認可出力3,000KW、送電線49km、建設費135万円
- [13]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [14]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [15]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [16]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- [17]1907年12月の覚書で供給権を岐阜電気へ譲渡(10年内買戻し可)。価格が折り合わず坂野鉄治郎西部逓信局長が仲裁、1915年12月解決(200KW以上以外は無償譲渡、岐阜電気は1,000KW購入・3万円支払)。1915年12月1日摂津紡績へ送電開始、1916年下期供給2,750KW
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [6]1912年11月、地元有力者の発起で資本金100万円の揖斐川電力を設立
- [12]1915年12月に処女送電を開始
- [18]創立と同時に工事に着手し1915年12月に処女送電を開始
1916年〜余剰電力で始めたカーバイドと、3社合併で生まれた揖斐川電化
揖斐川電力は1916年11月にカーバイドとフェロマンガンの製造認可を得て、翌1917年1月に現在の大垣工場の敷地へ消費電力最大300KWの工場を完成させた。自家発電の電力を電気炉で使い切ることが兼営の狙いである。カーバイドは田中カーバイド商店に販売を委ね、同年2月に製造販売を始めた。認可出力3,000KWのうち2,750KWは既に外部へ供給していたため、フェロマンガンの生産には摂津紡績の火力発電所を予備として借り、同年8月にようやく着手した。大戦で輸入の途絶えた合金鉄の需要は強く、1917年下期は総収入36万7,070円・利益12万3,910円を計上し、配当を年2割に上げた。1918年上期にはカーバイドを中止してフェロマンガンに集中し、10割の配当を出した。
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [19]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [20]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [22]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [24]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [25]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [26]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- 企業の歴史 明治百年(1968)「揖斐川電気工業」
- [21]自家発電電力の有効利用のためカーバイド・合金鉄の電気炉工業を兼業
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [23]自家発電電力を有効利用するため1917年にカーバイドの製造を開始
大垣では東洋毛織や田中カーバイド商店が直接の受電を求め、出力3,900KWの西横山発電所だけでは応じきれなくなった。立川勇次郎社長は1917年10月、東横山に発電所を建てる別会社として資本金300万円の揖斐川電化工業を設け、同年12月に田中カーバイド大垣工場を譲り受けた。立川勇次郎社長は1918年4月、新電源の使い道について『今度は始めから会社自身が大部分の電力を使用して電気化学工業の仕事を始めるつもり』と説いた。同年12月に揖斐川電化工業・東海電化工業・日本電気製鉄所の3社を吸収合併し、資本金900万円の揖斐川電化へ改称した。1919年6月には日本電気黒鉛も合併して資本金は1,000万円となり、電気炉に欠かせない炭素電極の内製が可能になった。需要家の注文を待つ電力会社から、自ら電力を使う化学会社へ軸を移す構想だったと思われる。
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [27]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [28]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [29]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [30]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [32]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [31]1918年に揖斐川電化工業・東海電化工業・日本電気製鉄所を合併し揖斐川電化に改称、1919年6月日本電気黒鉛を合併し資本金1,000万円
- [33]1918年に揖斐川電化工業・東海電化工業・日本電気製鉄所を合併し揖斐川電化に改称、1919年6月日本電気黒鉛を合併し資本金1,000万円
1920年4月の株式暴落に始まる反動不況で、フェロアロイは需要の減少と米英の鉄輸出解禁が重なって値を崩した。揖斐川電化は1921年上期以降、フェロアロイと鋼鉄の製造を中止。売上高は1919年上期の224万3,527円から1921年上期に74万3,644円へ減少し、会社は同年2月に社名を揖斐川電気に改めて電気事業を主体とする再建を選んだ。兼営工場向けに計画した東横山発電所の電力は大阪の宇治川電気へ売電することにし、1921年6月に5,000KW、翌年4月には9,000KWの送電を始めた。1922年6月には地元の要請を受けて養老鉄道を合併し、1923年4月に全線の電化を終えた。電鉄は立川勇次郎社長が長く手がけた事業で、余る電力の新たな使い道にもなると判断したのだろう。
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [34]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [35]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [36]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [38]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [39]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [37]1921年2月揖斐川電気と改称、1922年に養老鉄道を合併して鉄道を兼営し電化に切り替えた
- [40]1921年2月揖斐川電気と改称、1922年に養老鉄道を合併して鉄道を兼営し電化に切り替えた
参考文献[19]-[40]
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [19]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [20]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [22]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [24]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [25]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [26]余剰電力の利用と成績向上のため兼営に参入。1916年11月認可、1917年1月工場完成(最大300KW)、2月カーバイド販売開始、8月フェロマンガン。1917年下期総収入36万7,070円・利益12万3,910円・2割配当、1918年上期10割配当
- [27]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [28]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [29]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [30]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [32]電力需要増に西横山3,900KWでは応じられず。1917年10月揖斐川電化工業(300万円)設立、12月田中カーバイド大垣工場譲受。1918年12月3社合併で資本金900万円の揖斐川電化。1919年6月日本電気黒鉛合併で1,000万円、炭素電極の自給
- [34]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [35]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [36]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [38]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- [39]1920年4月恐慌でフェロアロイ価格急落(需要減退と米英の鉄輸出解禁)、1921年上期以降フェロアロイ・鋼鉄を製造中止。売上高224万3,527円→74万3,644円。1921年2月揖斐川電気へ改称。東横山の電力を宇治川電気へ5,000KW(1921年6月)・9,000KW(1922年4月)。1922年6月養老鉄道合併、1923年4月全線電化
- 企業の歴史 明治百年(1968)「揖斐川電気工業」
- [21]自家発電電力の有効利用のためカーバイド・合金鉄の電気炉工業を兼業
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [23]自家発電電力を有効利用するため1917年にカーバイドの製造を開始
- [31]1918年に揖斐川電化工業・東海電化工業・日本電気製鉄所を合併し揖斐川電化に改称、1919年6月日本電気黒鉛を合併し資本金1,000万円
- [33]1918年に揖斐川電化工業・東海電化工業・日本電気製鉄所を合併し揖斐川電化に改称、1919年6月日本電気黒鉛を合併し資本金1,000万円
- [37]1921年2月揖斐川電気と改称、1922年に養老鉄道を合併して鉄道を兼営し電化に切り替えた
- [40]1921年2月揖斐川電気と改称、1922年に養老鉄道を合併して鉄道を兼営し電化に切り替えた
1926年〜東邦電力の傘下で建てた川上・西平発電所と、日本合成化学へ送ったカーバイド
1925年12月14日に立川勇次郎社長が64歳で死去し、副社長の桜内幸雄氏が第2代社長に就任。株価は同年に30円を割り、財閥の後ろ盾も持たなかったため、桜内幸雄社長は5大電力の一角である東邦電力の副社長、松永安左ヱ門氏に大株主となるよう打診した。1926年10月の協定で東邦電力は発行株式の27%にあたる11万559株を持ち、11月には田中徳次郎氏が代表取締役に入って経営の主導権は東邦電力へ移った。新経営陣は1927年10月に鉄道部門を養老電気鉄道へ譲渡する契約を結び、1928年4月に従業員209人とともに引き渡しを終えた。続いて年80万円の配当が重荷だった優先株式を1928年と1929年の2回で買入消却し、1930年2月に資本金を550万円へ減らした。
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [41]1925年12月14日立川勇次郎死去、桜内幸雄が第2代社長。株価30円割れ。桜内が東邦電力松永安左ヱ門副社長に打診、1926年10月協定、東邦電力が11万559株(27%)を所有、11月田中徳次郎が代表取締役
- [42]1925年12月14日立川勇次郎死去、桜内幸雄が第2代社長。株価30円割れ。桜内が東邦電力松永安左ヱ門副社長に打診、1926年10月協定、東邦電力が11万559株(27%)を所有、11月田中徳次郎が代表取締役
- [43]1925年12月14日立川勇次郎死去、桜内幸雄が第2代社長。株価30円割れ。桜内が東邦電力松永安左ヱ門副社長に打診、1926年10月協定、東邦電力が11万559株(27%)を所有、11月田中徳次郎が代表取締役
- イビデン70年史(1982)「2章 恐慌と戦時下の事業活動」
- [44]1927年10月養老電気鉄道への鉄道譲渡契約、1928年4月従業員209人とともに完了。優先株式27万株(年80万円の配当)を1928年6月・1929年12月に買入消却、資本金550万円
- [46]1927年10月養老電気鉄道への鉄道譲渡契約、1928年4月従業員209人とともに完了。優先株式27万株(年80万円の配当)を1928年6月・1929年12月に買入消却、資本金550万円
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [45]1927年10月鉄道部門を養老電気鉄道へ譲渡、1930年2月資本金を550万円に減額
- [47]1927年10月鉄道部門を養老電気鉄道へ譲渡、1930年2月資本金を550万円に減額
1927年、日本合成化学研究所の野口信吉氏と伊藤晴一氏が大垣工場の空き建屋を借りたいと申し出て、専務取締役の久留島政治氏は電力とカーバイドの供給も引き受けた。揖斐川電気は日本合成化学工業の増産要請に応じ、1929年1月に年1万2,000tの供給契約を結んで生産能力を8,000tから2万2,000tへ広げた。1933年6月には藤山常一博士の連続式電極を用いる電気炉を増設し、年産は1937年に1万9,400tとなって、うち1万4,000〜1万6,000tが隣の日本合成化学工業へ流れた。1935年3月には石灰窒素の生産にも入った。電源も1935年12月に川上、1940年3月に西平の発電所を完成させ、5発電所の出力は合計3万7,100KWに達した。
- イビデン70年史(1982)「2章 恐慌と戦時下の事業活動」
- [48]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [49]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [50]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [51]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [53]川上発電所1935年12月完成(2,950KW)、西平発電所1940年3月竣工(11,200KW)
- 企業の歴史 明治百年(1968)「揖斐川電気工業」
- [52]1935年から石灰窒素の肥料事業を兼業
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [54]1940年には5水力発電所(出力合計3万7,100KW)を保有
カーバイドとカーボンの伸びにより、揖斐川電気の副業収入は1938年上期に電力収入を上回った。会社は1939年12月26日の株主総会で商号を揖斐川電気工業へ改めると決め、1940年1月12日に登記した。この間の1939年6月には、東邦電力の松永安左ヱ門社長の求めで元大同電力取締役の宮寺敏雄氏が専務取締役に迎えられた。1938年4月の電力管理法に続いて1941年4月に法改正が行われると、発送配電設備の出資命令は時間の問題となった。兼営工場の自家消費は年約1億2,000万KWHで、一般向け供給の約5,000万KWHを大きく上回る。社長の久留島政治氏は1941年6月7日、川上・広瀬・東横山の3発電所を自家用に残し、西横山と西平を出資の対象とするよう逓信大臣に陳情した。
- イビデン70年史(1982)「2章 恐慌と戦時下の事業活動」
- [55]副業収入が1938年上期に電力収入を上回る。1939年12月26日総会で揖斐川電気工業へ商号変更を決定、1940年1月12日登記。1939年6月宮寺敏雄(元大同電力取締役)が専務
- [56]副業収入が1938年上期に電力収入を上回る。1939年12月26日総会で揖斐川電気工業へ商号変更を決定、1940年1月12日登記。1939年6月宮寺敏雄(元大同電力取締役)が専務
- [58]副業収入が1938年上期に電力収入を上回る。1939年12月26日総会で揖斐川電気工業へ商号変更を決定、1940年1月12日登記。1939年6月宮寺敏雄(元大同電力取締役)が専務
- [60]1938年4月電力管理法、1941年4月改正で出資命令が時間の問題に。自家消費年約1億2,000万KWH、一般供給約5,000万KWH。1941年6月7日久留島政治社長が川上・広瀬・東横山を自家用に残すよう逓信大臣に陳情
- [61]1938年4月電力管理法、1941年4月改正で出資命令が時間の問題に。自家消費年約1億2,000万KWH、一般供給約5,000万KWH。1941年6月7日久留島政治社長が川上・広瀬・東横山を自家用に残すよう逓信大臣に陳情
- [62]1938年4月電力管理法、1941年4月改正で出資命令が時間の問題に。自家消費年約1億2,000万KWH、一般供給約5,000万KWH。1941年6月7日久留島政治社長が川上・広瀬・東横山を自家用に残すよう逓信大臣に陳情
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [57]1940年1月社名を揖斐川電気工業に改めた
- 企業の歴史 明治百年(1968)「揖斐川電気工業」
- [59]宮寺敏雄は1939年に大同電力取締役から専務として入り化学工業へ切り換えた
参考文献[41]-[62]
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- [41]1925年12月14日立川勇次郎死去、桜内幸雄が第2代社長。株価30円割れ。桜内が東邦電力松永安左ヱ門副社長に打診、1926年10月協定、東邦電力が11万559株(27%)を所有、11月田中徳次郎が代表取締役
- [42]1925年12月14日立川勇次郎死去、桜内幸雄が第2代社長。株価30円割れ。桜内が東邦電力松永安左ヱ門副社長に打診、1926年10月協定、東邦電力が11万559株(27%)を所有、11月田中徳次郎が代表取締役
- [43]1925年12月14日立川勇次郎死去、桜内幸雄が第2代社長。株価30円割れ。桜内が東邦電力松永安左ヱ門副社長に打診、1926年10月協定、東邦電力が11万559株(27%)を所有、11月田中徳次郎が代表取締役
- イビデン70年史(1982)「2章 恐慌と戦時下の事業活動」
- [44]1927年10月養老電気鉄道への鉄道譲渡契約、1928年4月従業員209人とともに完了。優先株式27万株(年80万円の配当)を1928年6月・1929年12月に買入消却、資本金550万円
- [46]1927年10月養老電気鉄道への鉄道譲渡契約、1928年4月従業員209人とともに完了。優先株式27万株(年80万円の配当)を1928年6月・1929年12月に買入消却、資本金550万円
- [48]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [49]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [50]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [51]1927年日本合成化学研究所に大垣工場の建屋を賃貸し電力・カーバイドを供給。1929年1月年1万2,000tの契約で能力8,000t→2万2,000t。1933年6月藤山式電気炉増設、1937年生産1万9,400t、日本合成化学向け1万4,000〜1万6,000t。1935年3月石灰窒素生産
- [53]川上発電所1935年12月完成(2,950KW)、西平発電所1940年3月竣工(11,200KW)
- [55]副業収入が1938年上期に電力収入を上回る。1939年12月26日総会で揖斐川電気工業へ商号変更を決定、1940年1月12日登記。1939年6月宮寺敏雄(元大同電力取締役)が専務
- [56]副業収入が1938年上期に電力収入を上回る。1939年12月26日総会で揖斐川電気工業へ商号変更を決定、1940年1月12日登記。1939年6月宮寺敏雄(元大同電力取締役)が専務
- [58]副業収入が1938年上期に電力収入を上回る。1939年12月26日総会で揖斐川電気工業へ商号変更を決定、1940年1月12日登記。1939年6月宮寺敏雄(元大同電力取締役)が専務
- [60]1938年4月電力管理法、1941年4月改正で出資命令が時間の問題に。自家消費年約1億2,000万KWH、一般供給約5,000万KWH。1941年6月7日久留島政治社長が川上・広瀬・東横山を自家用に残すよう逓信大臣に陳情
- [61]1938年4月電力管理法、1941年4月改正で出資命令が時間の問題に。自家消費年約1億2,000万KWH、一般供給約5,000万KWH。1941年6月7日久留島政治社長が川上・広瀬・東横山を自家用に残すよう逓信大臣に陳情
- [62]1938年4月電力管理法、1941年4月改正で出資命令が時間の問題に。自家消費年約1億2,000万KWH、一般供給約5,000万KWH。1941年6月7日久留島政治社長が川上・広瀬・東横山を自家用に残すよう逓信大臣に陳情
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- [45]1927年10月鉄道部門を養老電気鉄道へ譲渡、1930年2月資本金を550万円に減額
- [47]1927年10月鉄道部門を養老電気鉄道へ譲渡、1930年2月資本金を550万円に減額
- [54]1940年には5水力発電所(出力合計3万7,100KW)を保有
- [57]1940年1月社名を揖斐川電気工業に改めた
- 企業の歴史 明治百年(1968)「揖斐川電気工業」
- [52]1935年から石灰窒素の肥料事業を兼業
- [59]宮寺敏雄は1939年に大同電力取締役から専務として入り化学工業へ切り換えた
出典・参考
5件
- イビデン70年史(1982)「序章 設立前史」
- イビデン70年史(1982)「1章 電気事業会社として誕生」
- イビデン70年史(1982)「2章 恐慌と戦時下の事業活動」
- 会社銀行八十年史(1955)「揖斐川電気工業」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「揖斐川電気工業」