第2章 年〜年

日産化学:石油化学からの完全撤退と中期5カ年計画による高機能材への集中

1988年〜売上高500億円と従業員300人を組織ごと渡した石油化学からの撤退

1988年6月、日産化学工業は高級アルコール事業の営業を協和発酵へ譲渡し、ポリエチレンと塩化ビニールを丸善石油化学へ渡して、1965年以来の石油化学事業から完全に退いた。渡したのは工場だけではなく、販売と開発の組織とそこで働くスタッフごとであり、ピーク時の売上高500億円、従業員300人が他社へ移籍した。撤退を迫ったのは累積損失だった。1984年3月期には累損が57億円に達し、大幅な事業再構築が避けられなくなっていた。激しい設備拡張競争と石油危機の影響で1980年代の業績は安定性を欠き、ポリエチレンと塩化ビニールをいったん合弁会社へ移す合理化を挟んだうえで、最終的に営業そのものを社外へ出す道が選ばれた。後発で参入した会社が規模の経済で先発に並ぶ見込みは立たず、部分的な縮小では損失の止まる位置が見えなかった。

  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [1]1988年6月に高級アルコール事業の営業を譲渡し、石油化学事業から撤退した
    • [4]激しい設備拡張競争と石油危機の影響で1980年代に業績の安定性が損なわれ、ポリエチレン・塩化ビニール事業を合弁会社化する合理化を経て、1988年までに営業を完全に社外へ譲渡した
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [2]高級アルコールは協和発酵へ、ポリエチレンと塩化ビニールは丸善石油化学へ、工場だけでなく販売・開発の組織とスタッフごと売却し、ピーク時の売上高500億円・従業員300人が他社へ移った
    • [3]1984年3月期に累積損失が57億円に達し、大幅な事業再構築を迫られていた

撤退を指揮した中井武夫氏は、1975年に日本興業銀行の取締役から日産化学工業へ移り、副社長と社長の任にあって3事業の整理を手掛けた。1964年に千葉石油化学連合へ加わり、翌年に日産石油化学を設けたところから始まって、1967年以降は塩ビモノマーや中低圧ポリエチレンが順に事業化されていった。畳むことになった3事業は、こうして積み上げたものである。撤退を進めるにあたり中井氏は、なぜやめねばならないのかを組織の末端まで伝え、すでに退社したOBも含めて全員に納得してもらうことを条件に置いた。事業から退くのは後ろ向きに縮むことではなく進む向きを変えることだ、と分かってもらうのが最も難しく、そのためには撤退した後の筋書きを先に見せなければならなかった。社外コンサルタントを交えた特別チームが既存事業を洗い直した。農薬を柱にファインケミカルの分野で他にない個性を備えた企業になるという行き先を示し、出直しの体制を固めている。『撤退が円滑にいった最大の理由は企業経営者として身も心も失わない撤退を心掛けたことにあります。企業のアイデンティティーを失わずに方向転換することができたからだと思います。』

  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [5]中井武夫は1975年に日本興業銀行の取締役から日産化学工業へ移り、副社長・社長として高級アルコール・ポリエチレン・塩化ビニール3事業からの撤退を手掛けた
    • [7]撤退にあたり、事業撤退の必然性を組織内部に周知徹底し、OBも含めた全員の納得を得ることを条件とした
    • [8]撤退が単なる縮小ではなく転換であると理解させるには、撤退後のシナリオを明示する必要があった
    • [9]社外のコンサルタントを加えた特別チームを編成して既存事業を洗い直し、農薬事業を核にしたファイン化路線で個性的な企業を目指す方向性を示して再スタートした
  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [6]1964年に千葉石油化学連合へ参加し、翌1965年に日産石油化学を設立して高級アルコールの生産を開始、1967年には塩ビモノマーの事業化からエチレン塩ビ・中低圧ポリエチレンへと相次いで事業化した

石油化学を手放した1988年、日産化学工業は精密化学品の部門に機能製品事業部を設けて、残した事業の一層の高付加価値化に取りかかった。翌1989年には中期5カ年計画を定め、農薬・医薬品・機能性材料の三分野へ投資を集中する方針を掲げている。周辺の都市化が進んだ王子工場は1969年に閉鎖されることになり、その主要製品の受け皿として同年8月、千葉県に袖ヶ浦工場が竣工した。新しい体制が足場にしたのはこの工場である。機能製品を袖ヶ浦が、農薬を小野田工場が担う分担により、精密化学を作る基盤は撤退の前からできあがっていた。手を引いてすぐに景気が上向き、新しい事業が育つまでの猶予を得られたことについて、中井氏は後年、運が良かったと振り返った。

  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [10]1988年に機能製品事業部を設け、一層の高付加価値化をはかることとした
    • [12]精密化学の拠点となる袖ヶ浦工場が1969年8月に千葉県で竣工した
    • [13]主力工場の一つだった王子工場は周辺の都市化により1969年に閉鎖され、主要製品は袖ヶ浦工場などへ引き継がれて、袖ヶ浦工場は機能製品を、小野田工場は農薬を中心にファインケミカルの拠点となった
  • 日産化学 有価証券報告書【沿革】/日産化学工業百年史
    • [11]1989年に中期5カ年計画を策定し、農薬・医薬品・機能性材料の三分野へ集中投資する方針を掲げた
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [14]撤退後に好況が来て新規事業が立ち上がるまでの時間を稼げた幸運があったと中井武夫は述べた
参考文献[1]-[14]
  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [1]1988年6月に高級アルコール事業の営業を譲渡し、石油化学事業から撤退した
    • [4]激しい設備拡張競争と石油危機の影響で1980年代に業績の安定性が損なわれ、ポリエチレン・塩化ビニール事業を合弁会社化する合理化を経て、1988年までに営業を完全に社外へ譲渡した
    • [6]1964年に千葉石油化学連合へ参加し、翌1965年に日産石油化学を設立して高級アルコールの生産を開始、1967年には塩ビモノマーの事業化からエチレン塩ビ・中低圧ポリエチレンへと相次いで事業化した
    • [10]1988年に機能製品事業部を設け、一層の高付加価値化をはかることとした
    • [12]精密化学の拠点となる袖ヶ浦工場が1969年8月に千葉県で竣工した
    • [13]主力工場の一つだった王子工場は周辺の都市化により1969年に閉鎖され、主要製品は袖ヶ浦工場などへ引き継がれて、袖ヶ浦工場は機能製品を、小野田工場は農薬を中心にファインケミカルの拠点となった
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [2]高級アルコールは協和発酵へ、ポリエチレンと塩化ビニールは丸善石油化学へ、工場だけでなく販売・開発の組織とスタッフごと売却し、ピーク時の売上高500億円・従業員300人が他社へ移った
    • [3]1984年3月期に累積損失が57億円に達し、大幅な事業再構築を迫られていた
    • [5]中井武夫は1975年に日本興業銀行の取締役から日産化学工業へ移り、副社長・社長として高級アルコール・ポリエチレン・塩化ビニール3事業からの撤退を手掛けた
    • [7]撤退にあたり、事業撤退の必然性を組織内部に周知徹底し、OBも含めた全員の納得を得ることを条件とした
    • [8]撤退が単なる縮小ではなく転換であると理解させるには、撤退後のシナリオを明示する必要があった
    • [9]社外のコンサルタントを加えた特別チームを編成して既存事業を洗い直し、農薬事業を核にしたファイン化路線で個性的な企業を目指す方向性を示して再スタートした
    • [14]撤退後に好況が来て新規事業が立ち上がるまでの時間を稼げた幸運があったと中井武夫は述べた
  • 日産化学 有価証券報告書【沿革】/日産化学工業百年史
    • [11]1989年に中期5カ年計画を策定し、農薬・医薬品・機能性材料の三分野へ集中投資する方針を掲げた

1989年〜中央研究所と生物科学研究所が生んだ自社開発農薬の連打

農薬は戦後すぐに始めた事業である。植物防疫法が成立した1950年にわが国初の合成農薬2,4-Dの生産を始め、小野田工場を拠点に有機燐系殺虫剤のEPNとエルサンを中心として、原体の合成から製剤までを一貫して手がけた。研究体制が整ったのはその後で、1971年に千葉へ中央研究所を開き、1982年には埼玉の生物科学研究所を拡充して農薬の研究開発機能を厚くした。中井氏の見方では、会社が存亡の瀬戸際に立ったことで社員の意気がむしろ上がり、農薬の分野で出来のよい新製品を4つ生み出して販売まで持っていけた。石油化学から手を引く作業が一段落した頃から、自社で開発した大型農薬が続けて世に出る。まず海外向けの畑作用除草剤タルガが1984年12月に発売された。続いて水稲用除草剤シリウスが1989年11月、果樹用殺ダニ剤サンマイトが1991年4月に市場へ出ている。

  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [15]植物防疫法が成立した1950年にわが国初の合成農薬2,4-Dの生産を開始し、小野田工場を拠点に有機燐系殺虫剤のEPN・エルサンを中心として原体・製剤の一貫メーカーとして業界の先導的地位を確立した
    • [16]1971年に千葉へ中央研究所を開設し、1982年に埼玉の生物科学研究所を拡充して農薬の研究開発機能を強化した
    • [18]1984年12月に海外向け畑作用除草剤タルガ、1989年11月に水稲用除草剤シリウス、1991年4月に果樹用殺ダニ剤サンマイトと自社開発の大型農薬を相次いで発売した
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [17]会社存亡の危機のもとで社員の士気が高まり、農薬事業で優れた新製品を4つ開発・販売した

自社で開発した剤を抱えたことで、販路を国外へ伸ばす条件が整った。海外との関わりは1979年に韓国へ設けた合弁会社の瑞韓化学から始まっていたが、これは農薬原体の製造を担う拠点であって、販売の足場ではなかった。1989年10月、日産化学工業は米国にNissan Chemical America Corporationを設立し、製品輸出と製造技術の供与で済ませてきた形を現地法人へ切り替えた。1991年4月には西ドイツにも現地法人を置いている。単独で市場を開く手だけに頼らず、すでに現地を持つ同業と組む形も並行して採った。1992年にはスペインで住友化学の現地農薬会社ケノガード社へ出資し、1993年10月には住友化学およびローヌプーラン社とフランスに合弁の農薬会社を発足させている。

  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [19]1979年に韓国へ農薬原体の製造を担う合弁会社・瑞韓化学を設立し、そのほかは製品輸出と製造技術供与の形で海外と関わっていた
    • [21]1991年4月に西ドイツへ現地法人を設立した
    • [22]1992年にスペインの住友化学の現地農薬会社ケノガード社へ出資し、1993年10月に住友化学・ローヌプーランとフランスで合弁農薬会社を発足させた
  • 日産化学 有価証券報告書【沿革】/日産化学工業百年史
    • [20]1989年10月に米国へNissan Chemical America Corporationを設立した

医薬品は農薬の隣から立ち上げた事業だった。農薬の探索技術と安全性評価の技術をそのまま土台に使えるという見立てから、1982年に生物科学研究所の内部へ医薬研究棟を設け、1985年7月に医家向け消炎鎮痛剤エパテックを発売して医薬品市場に参入した。職場の身近な課題を自ら考えて改善を提案する小集団活動は、15年以上続いて全社に根づいた運動になっていた。この活動が社員の間に参画の意識を広げていた。その後の医薬品開発は循環器・呼吸器系を軸とし、1994年4月には自社開発品の第1号として血圧降下剤を売り出した。中井氏は、撤退というつらい決断こそが個々人の力を引き出し、組織に活気をもたらしたとみていた。

  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [23]農薬探索技術や安全性評価技術を基盤として1982年に生物科学研究所内へ医薬研究棟を設置し、1985年に医家向け消炎鎮痛剤エパテックを発売して医薬事業へ進出した
    • [24]職場の身近な問題を考え改善提案する小集団活動を15年以上にわたって実施し、全社的運動として定着させて社員の参画意識を高めた
    • [25]循環器・呼吸器系医薬品を中心に開発を推進した
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [26]1994年4月に医薬部門で自社開発第1号となる血圧降下剤を発売した
    • [27]撤退というつらい決断によって個人の能力を引き出す組織の活性化ができたと中井武夫は述べた
参考文献[15]-[27]
  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [15]植物防疫法が成立した1950年にわが国初の合成農薬2,4-Dの生産を開始し、小野田工場を拠点に有機燐系殺虫剤のEPN・エルサンを中心として原体・製剤の一貫メーカーとして業界の先導的地位を確立した
    • [16]1971年に千葉へ中央研究所を開設し、1982年に埼玉の生物科学研究所を拡充して農薬の研究開発機能を強化した
    • [18]1984年12月に海外向け畑作用除草剤タルガ、1989年11月に水稲用除草剤シリウス、1991年4月に果樹用殺ダニ剤サンマイトと自社開発の大型農薬を相次いで発売した
    • [19]1979年に韓国へ農薬原体の製造を担う合弁会社・瑞韓化学を設立し、そのほかは製品輸出と製造技術供与の形で海外と関わっていた
    • [21]1991年4月に西ドイツへ現地法人を設立した
    • [22]1992年にスペインの住友化学の現地農薬会社ケノガード社へ出資し、1993年10月に住友化学・ローヌプーランとフランスで合弁農薬会社を発足させた
    • [23]農薬探索技術や安全性評価技術を基盤として1982年に生物科学研究所内へ医薬研究棟を設置し、1985年に医家向け消炎鎮痛剤エパテックを発売して医薬事業へ進出した
    • [24]職場の身近な問題を考え改善提案する小集団活動を15年以上にわたって実施し、全社的運動として定着させて社員の参画意識を高めた
    • [25]循環器・呼吸器系医薬品を中心に開発を推進した
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [17]会社存亡の危機のもとで社員の士気が高まり、農薬事業で優れた新製品を4つ開発・販売した
    • [26]1994年4月に医薬部門で自社開発第1号となる血圧降下剤を発売した
    • [27]撤退というつらい決断によって個人の能力を引き出す組織の活性化ができたと中井武夫は述べた
  • 日産化学 有価証券報告書【沿革】/日産化学工業百年史
    • [20]1989年10月に米国へNissan Chemical America Corporationを設立した

1992年〜精密化学品が全売上高の5割強を占める収益構造への組み替え

袖ヶ浦工場が受け持った機能製品は、完成品ではなく他社の製造工程へ入り込む素材だった。無水珪酸のスノーテックスは1951年4月の上市で、コロイダルシリカという素材を早くから商品として抱えていたことが、機能製品事業部の出発点にあたる。1988年の事業部設置以降は、電子・自動車・紙・繊維の各産業へ向けて素材の改質と高機能付与を担う製品を並べ、無水珪酸と液晶配向膜用のポリイミドを軸に多様な製品群を揃えるに至った。1995年の時点で、農薬をはじめとする機能製品と医薬品を含む精密化学品は全売上高の5割強を占め、従業員は1611人であった。連結売上高は1995年3月期で1334億円を計上している。日本興業銀行系の化学会社として、高機能・高付加価値製品の研究開発へ資源を寄せる会社と位置づけられていた。

  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [28]1951年4月に無水珪酸スノーテックスを上市した
    • [29]袖ヶ浦工場を拠点として、電子・自動車・紙・繊維などの改質・高機能付与材として無水珪酸や液晶配向膜用ポリイミドなど多様な製品群を揃えた
    • [30]1995年時点で全売上高の5割強を農薬はじめ機能製品および医薬品を含む精密化学品が占め、従業員は1611人であった
    • [32]日本興業銀行系の化学会社として、農医薬や機能材料などの高機能・高付加価値製品の研究開発に注力していた
  • 日産化学工業 会社年鑑
    • [31]1995年3月期の連結売上高は1334億円であった

化学品の側でも、汎用品から外れる方向へ品目が組み替えられた。高山工場と名古屋工場では半導体工場向けの高純度薬品を製造し、環境化学品と建設化学品にも参入して、いずれも高付加価値品への指向を強めた。米国向けに輸出が伸びていた環境化学品ハイライトは、1991年に現地で調達する形へ切り替えている。1996年7月には米国のヒューストンにNissan Chemical Houston Corporationを設立し、北米での供給体制を厚くした。輸出で伸ばした製品を現地生産へ移すという手順は、1989年10月の米国現地法人設立から農薬で先に踏んでおり、化学品はその道筋をたどった。

  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [33]化学品事業部門では高山工場・名古屋工場で半導体工場向け高純度薬品を製造し、環境化学品や建設化学品など高付加価値品への指向を強めた
    • [34]1991年に米国向けへ輸出が伸びていた環境化学品ハイライトの現地調達化を図った
  • 日産化学 有価証券報告書【沿革】/日産化学工業百年史
    • [35]1996年7月に米国へNissan Chemical Houston Corporationを設立した
    • [36]農薬では1989年10月の米国現地法人設立が先行し、化学品では1991年のハイライト現地調達化と1996年7月のヒューストン現地法人設立が続いた

撤退で身軽になった会社の売上は、1990年代を通じて伸びなかった。連結売上高は1992年3月期の1338億円から1999年3月期の1299億円まで1,300億円前後で足踏みし、当期純利益も17億円から32億円の幅を出なかった。業界は大きく揺れる局面に入った、というのが1994年時点の同社の認識だった。そのもとで、創業以来の肥料部門の整理が進められていた。それに先立つ1991年には、中間発行増資と総額145億円の転換社債発行を行い、事業と財務の足腰を固めてある。企業合併も選択肢から外さないとしつつ、そこで働く人々を心身ともにすり減らす判断は避けるとも付け加えた。売上の規模を取り戻すより利益が出る事業だけを残す選択を続けたことが、それから10年の出発点となる。

  • 日産化学工業 会社年鑑
    • [37]連結売上高は1992年3月期1338億円、1999年3月期1299億円で推移し、当期純利益は1995年3月期の17億円から1997年3月期の32億円の範囲にあった
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [38]1994年時点で業界が大きな激動期に入ったとの認識のもと、肥料部門のリストラを進めていた
    • [40]企業合併も選択肢の一つとしながら、働いている人たちが身も心もなくなるような決断だけはしないと中井武夫は述べた
  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [39]事業基盤と財務体質の強化を図るため、1991年に中間発行増資と総額145億円の転換社債発行を実施した
参考文献[28]-[40]
  • 『日本会社史総覧』(1995年)
    • [28]1951年4月に無水珪酸スノーテックスを上市した
    • [29]袖ヶ浦工場を拠点として、電子・自動車・紙・繊維などの改質・高機能付与材として無水珪酸や液晶配向膜用ポリイミドなど多様な製品群を揃えた
    • [30]1995年時点で全売上高の5割強を農薬はじめ機能製品および医薬品を含む精密化学品が占め、従業員は1611人であった
    • [32]日本興業銀行系の化学会社として、農医薬や機能材料などの高機能・高付加価値製品の研究開発に注力していた
    • [33]化学品事業部門では高山工場・名古屋工場で半導体工場向け高純度薬品を製造し、環境化学品や建設化学品など高付加価値品への指向を強めた
    • [34]1991年に米国向けへ輸出が伸びていた環境化学品ハイライトの現地調達化を図った
    • [39]事業基盤と財務体質の強化を図るため、1991年に中間発行増資と総額145億円の転換社債発行を実施した
  • 日産化学工業 会社年鑑
    • [31]1995年3月期の連結売上高は1334億円であった
    • [37]連結売上高は1992年3月期1338億円、1999年3月期1299億円で推移し、当期純利益は1995年3月期の17億円から1997年3月期の32億円の範囲にあった
  • 日産化学 有価証券報告書【沿革】/日産化学工業百年史
    • [35]1996年7月に米国へNissan Chemical Houston Corporationを設立した
    • [36]農薬では1989年10月の米国現地法人設立が先行し、化学品では1991年のハイライト現地調達化と1996年7月のヒューストン現地法人設立が続いた
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号
    • [38]1994年時点で業界が大きな激動期に入ったとの認識のもと、肥料部門のリストラを進めていた
    • [40]企業合併も選択肢の一つとしながら、働いている人たちが身も心もなくなるような決断だけはしないと中井武夫は述べた

筆者考察

主力を手放すという判断は、たいてい追い詰められた末の縮小として実行される。日産化学工業が1988年に選んだのは、その逆の順序だった。高級アルコールを協和発酵へ、ポリエチレンと塩化ビニールを丸善石油化学へ渡すとき、工場という資産だけでなく販売と開発の組織ごと、従業員300人をそのまま移籍させている。ピーク時の売上高500億円は、手をつけずに済ませたい規模である。それでも中井武夫氏は、撤退の必然性をOBまで含めて周知し、社外のコンサルタントを交えて残る事業を洗い直したうえで、農薬を核とするファイン化路線という行き先を先に示した。畳む前に行き先を決めたからこそ、この撤退は縮小ではなく転換になった。

残した事業に共通していたのは、市場の大きさではなく、顧客の工程に入り込む深さだった。小野田工場と二つの研究所が探索から製剤までを担う農薬は、シリウスやサンマイトのように自社で見つけた化合物を製品まで運べる。袖ヶ浦工場の無水珪酸や液晶配向膜用ポリイミドは、電子や自動車の製造工程に組み込まれてはじめて値が付く。どちらも汎用樹脂のように数量と価格だけで競う市場ではなく、採用されれば顧客の工程ごと固定される。1990年代の連結売上高が1,300億円前後で動かなかったのは、規模を追う事業を持たなくなったからである。石油化学を手放した代償は売上の停滞に、その果実は精密化学品の比率に、それぞれ表れた。

1988年〜2000年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 1,338 n/a 23 1.7% n/a
1993年03月期 連結 1,313 ▲1.9% 23 1.8% n/a
1994年03月期 連結 1,243 ▲5.3% 21 1.7% n/a
1995年03月期 連結 1,334 +7.3% 17 1.3% n/a
1996年03月期 連結 1,294 ▲3.0% 28 2.2% n/a
1997年03月期 連結 1,375 +6.3% 32 2.3% n/a
1998年03月期 連結 1,350 ▲1.8% 25 1.9% n/a
1999年03月期 連結 1,299 ▲3.8% 26 2.0% n/a
2000年03月期 連結 1,297 ▲0.2% 15 1.2% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

4件
出典・参考
  • 日産化学 有価証券報告書【沿革】/日産化学工業百年史
  • 『日本会社史総覧』(1995年)
  • 日産化学工業 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1994年5月2日号

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