高峰譲吉
経歴1887〜1890年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1887年主要役職の状況(推定含む目安)1890年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 日産化学(旧・東京人造肥料会社) | 1887 | 設立 | ||
| 1890 | 退任 |
社長就任までの出自
出自
1854年、加賀藩医の家に生まれ、長崎や大阪の適塾で学んだのち、工部大学校化学科を卒業した。工部大学校の第1回生として官途に就任し、1880年2月から英国に留学して、欧州の化学肥料工業に初めて触れた。帰国後は農商務省の技師となり、在官のまま肥料会社の設立を主導した。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
高峰譲吉氏は英国留学中、ニューカッスル・アポン・タインの化学工場で過燐酸石灰の製造を実地に学び、燐酸肥料の知識を携えて帰国した。1884年にはニューオーリンズ万国博覧会の日本事務官として再び海を渡り、南カロライナ州が出品した燐鉱石が英国の工場の原料と同じ種類であると見て、日本での工業化を思い立った。帰国の際に過燐酸石灰6トンと燐鉱石4トンを買い入れ、農商務省を通じて全国の希望者と府県に配ったところ、結果は良好だったという。
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 2 東京人造肥料会社の誕生
- [4]彼は留学中,ニュー・キャッスル・オン・タインにある化学工場で製造実習も行なったので,燐酸肥料についての知識をもって帰国した
- [5]明治17年,高峰は北米ニュー・オルリンズで開催された万国博覧会の日本事務官として2度目の海外渡航をした。南カロライナ州出品の燐鉱石の陳列を見た。これは高峰がイギリスで製造を実習した工場の原料と同じ種類であった。帰国に際してサンプルとして過燐酸石灰6トン,燐鉱石4トンを買い求めた。わが国で初めて輸入した過燐酸石灰を,高峰は農商務省にはかって全国の希望者と府県に分与したが,結果は良好であったという
- [6]明治17年,高峰は北米ニュー・オルリンズで開催された万国博覧会の日本事務官として2度目の海外渡航をした。南カロライナ州出品の燐鉱石の陳列を見た。これは高峰がイギリスで製造を実習した工場の原料と同じ種類であった。帰国に際してサンプルとして過燐酸石灰6トン,燐鉱石4トンを買い求めた。わが国で初めて輸入した過燐酸石灰を,高峰は農商務省にはかって全国の希望者と府県に分与したが,結果は良好であったという
企業化に向けて、高峰譲吉氏はまず益田孝氏を口説き、賛同した益田孝氏の紹介で渋沢栄一氏に構想を持ち込んだ。在来の下肥や堆肥は効き目が薄く、耕地の狭い日本で集約農業を進めるには有効成分だけを調合した人造肥料が要る、というのが高峰譲吉氏の主張であった。渋沢栄一氏は国益にかない営利事業としても見込みがあると判断して高峰譲吉氏と計画を練り、大倉喜八郎氏、浅野総一郎氏、安田善次郎氏ら親交のある財界人から出資の約束を取りつけた。1887年2月28日、資本金25万円(うち払込10万円)の東京人造肥料会社が設立され、創立総会は第一国立銀行の楼上で開かれた。
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 2 東京人造肥料会社の誕生
- [7]化学肥料の工業化につき高峰は益田孝を説得,共鳴した益田は高峰を渋沢栄一に紹介した。高峰は渋沢に,従来の人糞や堆肥は漢方薬の草根木皮のように効き目が薄い,国土が狭く集約農法に依らなければならぬ日本では人造肥料の使用を奨励して生産率を高める必要がある,と熱心に説いた(青渕回顧録 上)
- [8]化学肥料の工業化につき高峰は益田孝を説得,共鳴した益田は高峰を渋沢栄一に紹介した。高峰は渋沢に,従来の人糞や堆肥は漢方薬の草根木皮のように効き目が薄い,国土が狭く集約農法に依らなければならぬ日本では人造肥料の使用を奨励して生産率を高める必要がある,と熱心に説いた(青渕回顧録 上)
- [9]渋沢は「国家の為めに実に有益なる事業であるのみでなく,営利事業としても亦将来有望であらう」として高峰と2人で計画をたて,益田孝をはじめ渋沢喜作,蜂須賀茂韶,大倉喜八郎,浅野総一郎,三井武之助,安田善次郎,馬越恭平らの有力財界人と企業化を相談し,出資協力を得た。明治20年2月28日に東京人造肥料会社が設立され,第一国立銀行楼上で創立総会が開かれた。資本金は25万円,うち10万円を払い込みとした
- [10]渋沢は「国家の為めに実に有益なる事業であるのみでなく,営利事業としても亦将来有望であらう」として高峰と2人で計画をたて,益田孝をはじめ渋沢喜作,蜂須賀茂韶,大倉喜八郎,浅野総一郎,三井武之助,安田善次郎,馬越恭平らの有力財界人と企業化を相談し,出資協力を得た。明治20年2月28日に東京人造肥料会社が設立され,第一国立銀行楼上で創立総会が開かれた。資本金は25万円,うち10万円を払い込みとした
委員互選で委員長(社長に相当)に就任したのは渋沢栄一氏であり、高峰譲吉氏は社長に就任せず、技師長として製造部門の全責任を負った。設立直後の1887年3月には機械を買い付けるため益田孝氏の洋行に同行し、農商務省に籍を置いたまま11月に帰国、翌1888年3月に退官して東京人造肥料会社の業務に専念した。深川の釜屋堀に構えた工場は1888年11月末に完成し、過燐酸石灰の生産を目的とする国内初の工場となった。
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 2 東京人造肥料会社の誕生・3 創業期の苦難
- [11]12月12日に委員改選の結果,渋沢栄一,渋沢喜作,益田孝が選ばれ,委員互選で渋沢栄一が委員長に就任した。委員長は社長である。高峰譲吉は東京人造肥料会社設立の提案者であり,製造部門の総責任者(技師長)であった
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 2 東京人造肥料会社の誕生
- [12]当社設立そうそうの明治20年3月,益田孝は洋行することになったが,高峰は機械買入れのためこの洋行に同行した。政府は在官のまま自費洋行を認めたが,彼はその年の11月に帰国,翌21年3月退官のうえ東京人造肥料会社に専任することになった
- [13]明治20年12月,深川方面の東京府南葛飾郡大島村の土地を買い入れた。アメリカに注文した機械類は21年2月末から次第に到着,11月末に工場は完成した。日本最初の過燐酸石灰の生産を目的とした東京人造肥料会社釜屋堀工場はこのようにして誕生した
販路の開拓では農学校の出身者を雇い入れて各地へ送り、新しい肥料の効き目と使い方を説かせた。しかし農家は慣れた肥料の使用を改めず、従来の肥料を扱う商人も新製品を警戒したため、23カ月にわたる第1回決算は売上高1万2,346円に対して4,039円の欠損に終わった。
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 3 創業期の苦難
- [14]創設者高峰譲吉,支配人和田格太郎らは市場開拓に努力し,農学校出身者数名を雇入れて販路開拓のため効用や施用の説明に各地に派遣した。一般農家は旧慣にとらわれて新しい肥料を採用せず,肥料商も販売に支障が出ることをおそれて中傷した。第1回決算(明治20年2月から21年12月の23カ月決算)は売上高1万2,346円38銭9厘に対し4,039円11銭6厘の欠損
- [15]創設者高峰譲吉,支配人和田格太郎らは市場開拓に努力し,農学校出身者数名を雇入れて販路開拓のため効用や施用の説明に各地に派遣した。一般農家は旧慣にとらわれて新しい肥料を採用せず,肥料商も販売に支障が出ることをおそれて中傷した。第1回決算(明治20年2月から21年12月の23カ月決算)は売上高1万2,346円38銭9厘に対し4,039円11銭6厘の欠損
事業が採算を確保する前の1890年11月、高峰譲吉氏は退職と渡米を申し出た。米国で自らの醸造法を米国人の手で実施する話が持ち上がり、そこへ妻の母の重病の知らせが重なったためである。渋沢栄一氏は技師長を失う痛手に強く反発したものの、会社をたたむと人造肥料そのものへの信用が損なわれると考えて事業の継続を選び、後任に西ケ原農事試験場の森要太郎氏を迎えた。高峰譲吉氏が発案した過燐酸石灰の事業は、その後の合併を経て大日本人造肥料、さらに日産化学へと引き継がれた。
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 3 創業期の苦難
- [16]高峰譲吉が渡米のため当社を退職するという申し入れが明治23年11月に出た。高峰の祝辞:北米合衆国より得た高峰式醸造法の実施を米人によって行うこととなり渡米を要求され,さらに妻の母の重病を伝える報があった
- [17]高峰譲吉が渡米のため当社を退職するという申し入れが明治23年11月に出た。高峰の祝辞:北米合衆国より得た高峰式醸造法の実施を米人によって行うこととなり渡米を要求され,さらに妻の母の重病を伝える報があった
- [18]渋沢は高峰に対し「何故初めにこんな事業を起すように私に勧めたか」と難詰した。会社をつぶせば一般農民に人造肥料は駄目なものだという観念を植えつけるおそれがあると懸念し,後任者として西ケ原農事試験場の森要太郎の推薦をうけて事業を継続した
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)序・第2部第1章 創業期 1 まえがき
- [19]当社は,明治20年,渋沢栄一,益田孝,高峰譲吉氏等明治の先覚者の手により創立された東京人造肥料会社を前身とする。関東酸曹は大正12年に大日本人造肥料,日本化学肥料と合併した
参考文献3件
参考文献
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」高峰譲吉
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 2 東京人造肥料会社の誕生
- 日産化学工業『八十年史』(日産化学工業, 1969)第2部第1章 創業期 3 創業期の苦難
事実根拠:出所(日産化学)