第2章 年〜年

三菱化学:三菱油化の設立と水島工場による石油化学への進出

1951年〜モンサントと組んだ塩化ビニルの四日市進出と、シェルとの三菱油化

1952年1月、日本化成工業は米モンサントとの折半出資でモンサント化成工業を発足させ、塩化ビニル事業を移した。四日市と名古屋の2工場を4億8,800万円と評価して現物出資し、モンサントは特許とノウハウを出資した。契約でモンサントは利益配当だけを受け取り、特許料と技術料を求めなかった。自社開発の塩化ビニルは品質に課題を残しており、他社より早く優れた製品を出す手段として、原価管理などの経営手法も取り込める提携を選んだ。1952年7月、桑田時一郎社長のもとで商号を三菱化成工業に戻した。黒崎の石炭化学に四日市の汎用樹脂を加えたことが、戦後の事業拡大の起点になったとみられる。

  • 三菱化成社史(1981)2章 既存事業の拡充と四日市進出(第3節 有機合成化学の展開)
    • [1]1952年1月にモンサントと実質折半出資・資本金12億円のモンサント化成工業が発足。当社は四日市・名古屋の塩化ビニル2工場を4億8,800万円と評価して現物出資し、モンサントは特許実施権とノウハウを現物出資
    • [2]1952年1月にモンサントと実質折半出資・資本金12億円のモンサント化成工業が発足。当社は四日市・名古屋の塩化ビニル2工場を4億8,800万円と評価して現物出資し、モンサントは特許実施権とノウハウを現物出資
    • [3]1952年1月にモンサントと実質折半出資・資本金12億円のモンサント化成工業が発足。当社は四日市・名古屋の塩化ビニル2工場を4億8,800万円と評価して現物出資し、モンサントは特許実施権とノウハウを現物出資
    • [4]自社の塩化ビニルは品質に不満足な点が残り、有機合成化学で欧米に大きく遅れていたため、他社より早く優れた製品を供給するには海外提携が必要と判断。提携は経営管理手法の導入も狙い、プロダクトグループによる原価管理制度などを取り入れた
  • 株式会社年鑑 1964年版「三菱化成工業」
    • [5]1950年6月に旧三菱化成工業の第二会社として日本化成工業を設立し、1952年7月に社名を三菱化成工業と改称。当時の社長は桑田時一郎(1950年6月〜1958年3月、社史年表)

三菱化成工業は、カーバイドから得るアセチレンで塩化ビニルを量産する拠点を三重県四日市に置き、1951年3月に工場を始業させた。北陸や高知も候補に挙がったが、石灰石と安価な電力の条件を満たさなかった。そこで1949年8月、カーバイドを生産し用地に余裕のある東邦化学と提携した。1953年7月には東邦化学を3対2の比率で吸収合併し、資本金は5億4,000万円となった。合併で約70万m2の用地とカーバイド設備を得たうえ、隣接する約198万m2の旧海軍燃料廠跡地と港湾も将来の用地に見込めた。東邦化学の工場は四日市工場となり、三菱化成工業は石炭化学からカーバイド化学へ事業を広げた。

  • 三菱化成社史(1981)2章 第2節 四日市進出と塩化ビニル企業化/第4節 石油化学への着目
    • [6]候補地の北陸・高知は石灰石と安価な電力の条件を満たさず、1949年8月にカーバイドを生産し用地にゆとりのある東邦化学と提携して四日市に進出。1950年6月に塩化ビニル月産100t規模の工場建設を始め(総工事費2億1,400万円)、1951年3月に始業
    • [7]候補地の北陸・高知は石灰石と安価な電力の条件を満たさず、1949年8月にカーバイドを生産し用地にゆとりのある東邦化学と提携して四日市に進出。1950年6月に塩化ビニル月産100t規模の工場建設を始め(総工事費2億1,400万円)、1951年3月に始業
    • [8]候補地の北陸・高知は石灰石と安価な電力の条件を満たさず、1949年8月にカーバイドを生産し用地にゆとりのある東邦化学と提携して四日市に進出。1950年6月に塩化ビニル月産100t規模の工場建設を始め(総工事費2億1,400万円)、1951年3月に始業
    • [9]東邦化学のカーバイド設備と約70万m2の用地、隣接の約198万m2の旧海軍燃料廠跡地、港湾を評価し、1953年1月に合併契約、7月1日に合併比率3対2で吸収合併。資本金は5億4,000万円に
    • [10]東邦化学のカーバイド設備と約70万m2の用地、隣接の約198万m2の旧海軍燃料廠跡地、港湾を評価し、1953年1月に合併契約、7月1日に合併比率3対2で吸収合併。資本金は5億4,000万円に
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
    • [11]1953年7月に東邦化学を合併し、同社工場は四日市工場となって、石炭化学からアセチレンなどカーバイド化学へ事業分野を広げた

1956年4月、三菱化成工業は三菱レイヨン・旭硝子と各22%を出資し、三菱商事などと資本金2億円の三菱油化を設立した。石油化学の投資額は110億円と見積もられ、単独で負うには過大と判断した。シェルとは1956年1月に基本契約を結び、1957年10月にシェルと昭和石油が三菱油化に資本参加した。三菱化成工業は幹部と男子従業員の大半を三菱油化へ派遣し、自らは1960年3月に四日市で2-エチルヘキサノールの生産を始めた。この2-エチルヘキサノールは自社で開発した技術によるもので、のちに各国へ技術を輸出した。経済知識は1969年、三菱油化の設立を主導したのは池田亀三郎社長で、三菱化成工業は時期尚早と見ていたと報じた。

  • 三菱化成社史(1981)1章 積極経営への転換と諸事業(第2節 石油化学国産化への対処/第3節2)
    • [12]投資額110億円は単独では過大で、燃料廠払い下げで三菱グループが結束した経緯もあり、1956年4月に当社22%・三菱レイヨン22%・旭硝子22%・三菱商事11%・三菱金属鉱業11%・三菱銀行10%で資本金2億円の三菱油化を設立。シェルとは1956年1月に基本契約、1957年10月にシェルと昭和石油が資本参加
    • [13]投資額110億円は単独では過大で、燃料廠払い下げで三菱グループが結束した経緯もあり、1956年4月に当社22%・三菱レイヨン22%・旭硝子22%・三菱商事11%・三菱金属鉱業11%・三菱銀行10%で資本金2億円の三菱油化を設立。シェルとは1956年1月に基本契約、1957年10月にシェルと昭和石油が資本参加
    • [14]投資額110億円は単独では過大で、燃料廠払い下げで三菱グループが結束した経緯もあり、1956年4月に当社22%・三菱レイヨン22%・旭硝子22%・三菱商事11%・三菱金属鉱業11%・三菱銀行10%で資本金2億円の三菱油化を設立。シェルとは1956年1月に基本契約、1957年10月にシェルと昭和石油が資本参加
    • [15]三菱油化へ当社から幹部と男子従業員の大半を派遣。1960年3月に当社がプロピレンを原料に2-エチルヘキサノールの生産を始め、四日市コンビナートが完成
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
    • [16]1960年に独自開発の技術で塩ビ可塑剤原料の2-エチルヘキサノールを企業化し、その技術は後に各国へ輸出された
  • 経済知識 (211) 1969年2月
    • [17]1957〜58年ごろ三菱部内で石油化学進出が論じられた際、化成側は時期尚早として動かず、池田亀三郎社長がいち早く油化設立に進んだと報道
参考文献[1]-[17]
  • 三菱化成社史(1981)2章 既存事業の拡充と四日市進出(第3節 有機合成化学の展開)
    • [1]1952年1月にモンサントと実質折半出資・資本金12億円のモンサント化成工業が発足。当社は四日市・名古屋の塩化ビニル2工場を4億8,800万円と評価して現物出資し、モンサントは特許実施権とノウハウを現物出資
    • [2]1952年1月にモンサントと実質折半出資・資本金12億円のモンサント化成工業が発足。当社は四日市・名古屋の塩化ビニル2工場を4億8,800万円と評価して現物出資し、モンサントは特許実施権とノウハウを現物出資
    • [3]1952年1月にモンサントと実質折半出資・資本金12億円のモンサント化成工業が発足。当社は四日市・名古屋の塩化ビニル2工場を4億8,800万円と評価して現物出資し、モンサントは特許実施権とノウハウを現物出資
    • [4]自社の塩化ビニルは品質に不満足な点が残り、有機合成化学で欧米に大きく遅れていたため、他社より早く優れた製品を供給するには海外提携が必要と判断。提携は経営管理手法の導入も狙い、プロダクトグループによる原価管理制度などを取り入れた
  • 株式会社年鑑 1964年版「三菱化成工業」
    • [5]1950年6月に旧三菱化成工業の第二会社として日本化成工業を設立し、1952年7月に社名を三菱化成工業と改称。当時の社長は桑田時一郎(1950年6月〜1958年3月、社史年表)
  • 三菱化成社史(1981)2章 第2節 四日市進出と塩化ビニル企業化/第4節 石油化学への着目
    • [6]候補地の北陸・高知は石灰石と安価な電力の条件を満たさず、1949年8月にカーバイドを生産し用地にゆとりのある東邦化学と提携して四日市に進出。1950年6月に塩化ビニル月産100t規模の工場建設を始め(総工事費2億1,400万円)、1951年3月に始業
    • [7]候補地の北陸・高知は石灰石と安価な電力の条件を満たさず、1949年8月にカーバイドを生産し用地にゆとりのある東邦化学と提携して四日市に進出。1950年6月に塩化ビニル月産100t規模の工場建設を始め(総工事費2億1,400万円)、1951年3月に始業
    • [8]候補地の北陸・高知は石灰石と安価な電力の条件を満たさず、1949年8月にカーバイドを生産し用地にゆとりのある東邦化学と提携して四日市に進出。1950年6月に塩化ビニル月産100t規模の工場建設を始め(総工事費2億1,400万円)、1951年3月に始業
    • [9]東邦化学のカーバイド設備と約70万m2の用地、隣接の約198万m2の旧海軍燃料廠跡地、港湾を評価し、1953年1月に合併契約、7月1日に合併比率3対2で吸収合併。資本金は5億4,000万円に
    • [10]東邦化学のカーバイド設備と約70万m2の用地、隣接の約198万m2の旧海軍燃料廠跡地、港湾を評価し、1953年1月に合併契約、7月1日に合併比率3対2で吸収合併。資本金は5億4,000万円に
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
    • [11]1953年7月に東邦化学を合併し、同社工場は四日市工場となって、石炭化学からアセチレンなどカーバイド化学へ事業分野を広げた
    • [16]1960年に独自開発の技術で塩ビ可塑剤原料の2-エチルヘキサノールを企業化し、その技術は後に各国へ輸出された
  • 三菱化成社史(1981)1章 積極経営への転換と諸事業(第2節 石油化学国産化への対処/第3節2)
    • [12]投資額110億円は単独では過大で、燃料廠払い下げで三菱グループが結束した経緯もあり、1956年4月に当社22%・三菱レイヨン22%・旭硝子22%・三菱商事11%・三菱金属鉱業11%・三菱銀行10%で資本金2億円の三菱油化を設立。シェルとは1956年1月に基本契約、1957年10月にシェルと昭和石油が資本参加
    • [13]投資額110億円は単独では過大で、燃料廠払い下げで三菱グループが結束した経緯もあり、1956年4月に当社22%・三菱レイヨン22%・旭硝子22%・三菱商事11%・三菱金属鉱業11%・三菱銀行10%で資本金2億円の三菱油化を設立。シェルとは1956年1月に基本契約、1957年10月にシェルと昭和石油が資本参加
    • [14]投資額110億円は単独では過大で、燃料廠払い下げで三菱グループが結束した経緯もあり、1956年4月に当社22%・三菱レイヨン22%・旭硝子22%・三菱商事11%・三菱金属鉱業11%・三菱銀行10%で資本金2億円の三菱油化を設立。シェルとは1956年1月に基本契約、1957年10月にシェルと昭和石油が資本参加
    • [15]三菱油化へ当社から幹部と男子従業員の大半を派遣。1960年3月に当社がプロピレンを原料に2-エチルヘキサノールの生産を始め、四日市コンビナートが完成
  • 経済知識 (211) 1969年2月
    • [17]1957〜58年ごろ三菱部内で石油化学進出が論じられた際、化成側は時期尚早として動かず、池田亀三郎社長がいち早く油化設立に進んだと報道

1961年〜直江津のアルミニウムと水島の自前エチレン、30万t時代の設備大型化

1958年3月、常務取締役の柴田周吉氏が桑田時一郎氏の後任として社長に就任した。柴田周吉社長のもと、1959年11月の常務会は年率20%の成長目標を掲げ、アルミニウムと石油化学、3大合成繊維原料を新規事業に定めた。アルミニウムの需要は日用品から自動車・電気通信などへ移り、既存3社の増設が遅れて輸入で不足を補う状態が続いていた。1961年2月、三菱化成工業はペシネーの技術と天然ガス発電の電力を使う年産6万tの製錬工場を新潟県直江津に建てる計画を公表した。直江津工場は1963年5月に操業を始め、東京オリンピック前の需要増が業績の伸長に寄与した。1965年、三菱化成工業は売上高で国内化学工業の首位に立った。

  • 三菱化成社史(1981)年表・歴代社長
    • [18]1958年3月28日、取締役社長桑田時一郎が会長に、常務取締役柴田周吉が社長に就任。柴田周吉の社長在任は1958年3月〜1963年9月、後任の佐藤止戈夫は1963年9月〜1964年7月
  • 三菱化成社史(1981)1章 第1節 高度成長の胎動
    • [19]1959年11月の常務会が年率20%の成長目標を決め、アルミニウム・石油化学・3大合成繊維原料の新規事業化を固めた。1965年に売上高でわが国化学工業のトップ企業となった
    • [23]1959年11月の常務会が年率20%の成長目標を決め、アルミニウム・石油化学・3大合成繊維原料の新規事業化を固めた。1965年に売上高でわが国化学工業のトップ企業となった
  • 三菱化成社史(1981)2章 アルミニウム,石油化学の展開(第1節 アルミニウム事業への進出)
    • [20]アルミ進出の理由は需要構造が日用品から耐久消費財・構造材へ移り既存3社の増設が遅れ輸入で不足を賄っていたこと等。1961年2月24日の臨時中央経営協議会でペシネー技術・天然ガス発電による年産6万tの直江津製錬工場計画を石油化学計画とともに発表
    • [21]アルミ進出の理由は需要構造が日用品から耐久消費財・構造材へ移り既存3社の増設が遅れ輸入で不足を賄っていたこと等。1961年2月24日の臨時中央経営協議会でペシネー技術・天然ガス発電による年産6万tの直江津製錬工場計画を石油化学計画とともに発表
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
    • [22]1963年5月にアルミ専門工場の直江津工場が操業を開始し、オリンピック景気に乗って業績の伸長に貢献した

1964年7月1日、三菱化成工業は全額出資の化成水島で、岡山県水島のナフサ分解設備に火を入れた。水島進出の理由は、『当社が化学企業として発展を続けるためには,独自に石油化学工業へ進出することが不可欠であった』という判断にあった。計画はアクリロニトリルの原料をカーバイド法から石油化学法へ移す検討から始まり、1960年5月に水島立地が決まった。アクリロニトリルはアクリル繊維向けの需要が急増し、年産7,200tの当初計画を1万4,400tに引き上げて建設した。ポリエチレンは三菱油化が手掛けるため、水島はプロピレン製品と合成繊維原料を中心に運営された。火入れ直後に佐藤止戈夫社長が死去し、1964年7月8日に副社長の篠島秀雄氏が社長に就任した。

  • 三菱化成社史(1981)2章 第2節 石油化学で水島進出/第3節 3大合成繊維原料部門
    • [24]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
    • [25]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
    • [26]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
    • [27]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
  • 経済知識 (213) 1969年5月
    • [28]三菱油化との調整からポリエチレン関係は油化が手掛けるため、化成の水島センターはプロピレン製品や合成繊維原料中心の運営だった
  • 三菱化成社史(1981)年表・歴代社長
    • [29]1964年7月7日に取締役社長佐藤止戈夫が死去し、7月8日に取締役副社長篠島秀雄が社長に就任

1968年7月、三菱化成工業は旭化成と日本鉱業が設立した山陽石油化学と折半で水島エチレンを設立した。通産省は1967年、資本自由化に備えてエチレン設備の新設基準を年産10万tから30万tへ引き上げていた。三菱化成工業は単独の計画を進めていたが、同じ水島で30万t計画を持つ旭化成に共同化を呼びかけた。経済知識は1969年2月、直江津のアルミへの投資で独力の30万t建設に資金の余裕がなく、系列内の引取先も三菱油化が押さえていたと報じた。1968年1月の篠島秀雄社長と旭化成の宮崎輝社長の合意を経て、第1プラントは1970年7月に本格運転に入った。コークスでは香川県坂出に新工場を建て、1969年8月に炉へ火を入れた。

  • 三菱化成社史(1981)3章 設備大型化の推進(第1〜2節・第4節)
    • [30]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [31]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [32]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [34]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [35]鉄鋼業の高炉増強でコークス需要増が見込まれ、黒崎工場は用地の制約で年産200万t以上の増設が困難なため坂出に進出。1969年8月12日に坂出工場のコークス炉火入れ式、1971年10月に第1期アルミニウム製造開始
  • 経済知識 (211) 1969年2月
    • [33]水島の6万t→12万tでは国際規模に及ばず、直江津アルミ等への投資で独力で30万tに着工する資金余裕がなく、三菱系列内の需要先はほぼ油化が先に押さえていたため、通産省の共同投資指導は化成にとって渡りに舟だったと報道
参考文献[18]-[35]
  • 三菱化成社史(1981)年表・歴代社長
    • [18]1958年3月28日、取締役社長桑田時一郎が会長に、常務取締役柴田周吉が社長に就任。柴田周吉の社長在任は1958年3月〜1963年9月、後任の佐藤止戈夫は1963年9月〜1964年7月
    • [29]1964年7月7日に取締役社長佐藤止戈夫が死去し、7月8日に取締役副社長篠島秀雄が社長に就任
  • 三菱化成社史(1981)1章 第1節 高度成長の胎動
    • [19]1959年11月の常務会が年率20%の成長目標を決め、アルミニウム・石油化学・3大合成繊維原料の新規事業化を固めた。1965年に売上高でわが国化学工業のトップ企業となった
    • [23]1959年11月の常務会が年率20%の成長目標を決め、アルミニウム・石油化学・3大合成繊維原料の新規事業化を固めた。1965年に売上高でわが国化学工業のトップ企業となった
  • 三菱化成社史(1981)2章 アルミニウム,石油化学の展開(第1節 アルミニウム事業への進出)
    • [20]アルミ進出の理由は需要構造が日用品から耐久消費財・構造材へ移り既存3社の増設が遅れ輸入で不足を賄っていたこと等。1961年2月24日の臨時中央経営協議会でペシネー技術・天然ガス発電による年産6万tの直江津製錬工場計画を石油化学計画とともに発表
    • [21]アルミ進出の理由は需要構造が日用品から耐久消費財・構造材へ移り既存3社の増設が遅れ輸入で不足を賄っていたこと等。1961年2月24日の臨時中央経営協議会でペシネー技術・天然ガス発電による年産6万tの直江津製錬工場計画を石油化学計画とともに発表
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
    • [22]1963年5月にアルミ専門工場の直江津工場が操業を開始し、オリンピック景気に乗って業績の伸長に貢献した
  • 三菱化成社史(1981)2章 第2節 石油化学で水島進出/第3節 3大合成繊維原料部門
    • [24]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
    • [25]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
    • [26]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
    • [27]独自に石油化学へ進出することが化学企業としての発展に不可欠と判断。アクリロニトリルの原料転換の検討から1960年5月にエチレン・プロピレン法による水島立地計画を確定。1964年1月に全額出資の化成水島(資本金15億円)を設立し、7月1日にナフサ分解設備の火入れ式。アクリロニトリルはアクリル繊維向け需要の急増で当初の年産7,200tから1万4,400tで建設
  • 経済知識 (213) 1969年5月
    • [28]三菱油化との調整からポリエチレン関係は油化が手掛けるため、化成の水島センターはプロピレン製品や合成繊維原料中心の運営だった
  • 三菱化成社史(1981)3章 設備大型化の推進(第1〜2節・第4節)
    • [30]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [31]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [32]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [34]1967年5〜6月に通産省がエチレン新設基準を年産10万tから30万tに引き上げ。当社は水島第3期を単独で準備していたが、通産省の指導もあり旭化成・日本鉱業グループに呼びかけ、1968年1月に篠島秀雄・宮崎輝両社長が合意、7月に山陽石油化学と折半で水島エチレン(資本金7億5,000万円)を設立。1970年6月試運転、7月本格運転。1969年11月に第2プラントの山陽エチレンを設立
    • [35]鉄鋼業の高炉増強でコークス需要増が見込まれ、黒崎工場は用地の制約で年産200万t以上の増設が困難なため坂出に進出。1969年8月12日に坂出工場のコークス炉火入れ式、1971年10月に第1期アルミニウム製造開始
  • 経済知識 (211) 1969年2月
    • [33]水島の6万t→12万tでは国際規模に及ばず、直江津アルミ等への投資で独力で30万tに着工する資金余裕がなく、三菱系列内の需要先はほぼ油化が先に押さえていたため、通産省の共同投資指導は化成にとって渡りに舟だったと報道

1971年〜設立20周年の生命科学研究所と、石油危機のあとの体質強化

1971年6月、篠島秀雄社長のもとで三菱化成工業は三菱化成生命科学研究所を設立した。石油化学とアルミニウム、コークスの量産体制は1970年から1971年にかけてほぼ整っていた。鈴木永二専務は1970年、既存の製品と技術を住宅・公害防止・情報・医療へ結びつける総合システム企業を目指すと表明していた。1972年3月には定款を改め、医薬部外品や食品添加物、生命科学の研究とコンサルティングを事業目的に加えた。江上不二夫所長は1978年、研究所は生命現象を物理と化学で説明する基礎研究を担い、企業化は中央研究所が受け持つと説明した。素材の量を追う事業の外に、技術の種を探す窓口を先に置いたと思われる。

  • 三菱化成社史(1981)1章 激動期への対応(第2節 新事業分野への進出)
    • [36]石油化学・アルミニウム・コークスなど基礎資材の量産体制がほぼ完成した1970〜71年に新規事業開発へ。1971年6月1日に三菱化成生命科学研究所を設立。1972年3月に定款を変更し医薬部外品・食品添加物、生命科学の研究・調査・コンサルティングなどを追加
    • [37]石油化学・アルミニウム・コークスなど基礎資材の量産体制がほぼ完成した1970〜71年に新規事業開発へ。1971年6月1日に三菱化成生命科学研究所を設立。1972年3月に定款を変更し医薬部外品・食品添加物、生命科学の研究・調査・コンサルティングなどを追加
    • [39]石油化学・アルミニウム・コークスなど基礎資材の量産体制がほぼ完成した1970〜71年に新規事業開発へ。1971年6月1日に三菱化成生命科学研究所を設立。1972年3月に定款を変更し医薬部外品・食品添加物、生命科学の研究・調査・コンサルティングなどを追加
  • 証券アナリストジャーナル 1970年(鈴木永二)
    • [38]鈴木永二は1970年、総合化学会社だけでなく総合システム企業のイメージを強めたいとし、既存の製品・技術・関連会社を住宅・公害防止・情報・医療・食品化学などへ展開する方針を説明
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号(江上不二夫 所長)
    • [40]江上不二夫所長は、研究所の目的は生命現象を物理や化学で説明できるようにする研究で、企業化は三菱化成の中央研究所の役割と説明。年間経費は10数億円、研究員は補助員を含め120人前後

1974年7月、経理部長を経た副社長の鈴木永二氏が社長に就任し、篠島秀雄氏は会長となった。国産ナフサはkl当たり6,000円前後から1976年4月に2万9,000円へ上がり、年270万klを調達する三菱化成工業の原価を押し上げた。原材料の値上がりは、1974年8月から1975年1月までの半期だけで約400億円に達した。1976年1月期には支払利息・割引料414億2,100万円が営業利益358億5,200万円を上回り、自己資本比率は9%台に低下した。鈴木永二社長は1975年11月、全従業員に『明日に生き抜くために職域を拡充しよう』と題する書簡を送った。人員と設備の約2割を生み出して事業領域の拡大に充てる運動を、1976年1月から全社で進めた。

  • 日経ビジネス 1974年9月30日号
    • [41]鈴木永二は1937年日本化成工業入社、1958年12月経理部長、1973年11月副社長を経て1974年7月30日に社長就任。篠島秀雄は会長に
  • 三菱化成社史(1981)1章 第5節 石油危機を契機に
    • [42]国産ナフサはkl当たり6,000円前後から1976年4月に2万9,000円へ。当社はナフサを年270万kl購入(全国消費の約1割)。原材料コストアップは第49期(1974年8月〜1975年1月)だけで約400億円
    • [43]国産ナフサはkl当たり6,000円前後から1976年4月に2万9,000円へ。当社はナフサを年270万kl購入(全国消費の約1割)。原材料コストアップは第49期(1974年8月〜1975年1月)だけで約400億円
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [44]前1月期(1976年1月期)の営業利益358億5,200万円は支払利息と割引料414億2,100万円で消え、自己資本比率は1975年7月末の10%から1976年1月末に9%台へ。長短借入金は総資産の53%
  • 三菱化成社史(1981)2章 80年代への体制整備(第1節3 新規事業の展開/第2節)
    • [45]1974年7月に社長に就任した鈴木永二は1975年10月の中央経営協議会で全社運動を呼び掛け、11月に全従業員へ書簡を送付。生産力・設備・労働力の約2割の戦力を生み出して事業領域の拡大・充実に振り向ける職域拡充運動を1976年1月から展開
    • [46]1974年7月に社長に就任した鈴木永二は1975年10月の中央経営協議会で全社運動を呼び掛け、11月に全従業員へ書簡を送付。生産力・設備・労働力の約2割の戦力を生み出して事業領域の拡大・充実に振り向ける職域拡充運動を1976年1月から展開

1976年4月、三菱化成工業はアルミニウム製錬を、三菱グループ各社と需要家が出資する三菱軽金属工業に移した。国内の製錬は重油火力に依存し、石油危機後にエネルギーコストが従来の4〜5倍へ上がって欧米との差が決定的になっていた。1976年時点でアルミ部門の売上構成比は7%にとどまり、借入金は7月末に約4,900億円に達していた。同じ1976年、横浜市鴨志田に総合研究所を完成させ、複数の拠点にあった研究部門をここへ集約した。総合研究所には情報機材を扱う理化研究所と医薬・農薬の生化研究所を置き、複写機用トナーや印刷用PS版の事業化を支えた。電力を大量に使う素材を切り離し、研究所から付加価値の高い製品を育てる体制が、1980年代の機能製品への移行の前提になったのだろう。

  • 三菱化成社史(1981)2章 80年代への体制整備(第1節3 新規事業の展開/第2節)
    • [47]石油危機後にエネルギーコストが従来の4〜5倍に急騰し、重油火力に依存する国内製錬と欧米の電力コスト格差が決定的に。1976年3月に分離を決め、4月2日に三菱グループ各社・需要家の出資で三菱軽金属工業を設立。総合研究所は理化研究所(情報機材)・生化研究所(医薬・農薬)など6研究所で構成。1975年5月にトナー製造設備、1978年10月に鹿島でPS版設備が稼働
    • [48]石油危機後にエネルギーコストが従来の4〜5倍に急騰し、重油火力に依存する国内製錬と欧米の電力コスト格差が決定的に。1976年3月に分離を決め、4月2日に三菱グループ各社・需要家の出資で三菱軽金属工業を設立。総合研究所は理化研究所(情報機材)・生化研究所(医薬・農薬)など6研究所で構成。1975年5月にトナー製造設備、1978年10月に鹿島でPS版設備が稼働
    • [51]石油危機後にエネルギーコストが従来の4〜5倍に急騰し、重油火力に依存する国内製錬と欧米の電力コスト格差が決定的に。1976年3月に分離を決め、4月2日に三菱グループ各社・需要家の出資で三菱軽金属工業を設立。総合研究所は理化研究所(情報機材)・生化研究所(医薬・農薬)など6研究所で構成。1975年5月にトナー製造設備、1978年10月に鹿島でPS版設備が稼働
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
    • [49]1976年時点の製品構成は炭素製品31%・有機合成51%・無機11%・アルミ7%。広義の借入金は1976年7月末で合計4,900億円。1976年3月に横浜市鴨志田に総合研究所を設立し分散していた研究機関を統合
    • [50]1976年時点の製品構成は炭素製品31%・有機合成51%・無機11%・アルミ7%。広義の借入金は1976年7月末で合計4,900億円。1976年3月に横浜市鴨志田に総合研究所を設立し分散していた研究機関を統合
参考文献[36]-[51]
  • 三菱化成社史(1981)1章 激動期への対応(第2節 新事業分野への進出)
    • [36]石油化学・アルミニウム・コークスなど基礎資材の量産体制がほぼ完成した1970〜71年に新規事業開発へ。1971年6月1日に三菱化成生命科学研究所を設立。1972年3月に定款を変更し医薬部外品・食品添加物、生命科学の研究・調査・コンサルティングなどを追加
    • [37]石油化学・アルミニウム・コークスなど基礎資材の量産体制がほぼ完成した1970〜71年に新規事業開発へ。1971年6月1日に三菱化成生命科学研究所を設立。1972年3月に定款を変更し医薬部外品・食品添加物、生命科学の研究・調査・コンサルティングなどを追加
    • [39]石油化学・アルミニウム・コークスなど基礎資材の量産体制がほぼ完成した1970〜71年に新規事業開発へ。1971年6月1日に三菱化成生命科学研究所を設立。1972年3月に定款を変更し医薬部外品・食品添加物、生命科学の研究・調査・コンサルティングなどを追加
  • 証券アナリストジャーナル 1970年(鈴木永二)
    • [38]鈴木永二は1970年、総合化学会社だけでなく総合システム企業のイメージを強めたいとし、既存の製品・技術・関連会社を住宅・公害防止・情報・医療・食品化学などへ展開する方針を説明
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号(江上不二夫 所長)
    • [40]江上不二夫所長は、研究所の目的は生命現象を物理や化学で説明できるようにする研究で、企業化は三菱化成の中央研究所の役割と説明。年間経費は10数億円、研究員は補助員を含め120人前後
  • 日経ビジネス 1974年9月30日号
    • [41]鈴木永二は1937年日本化成工業入社、1958年12月経理部長、1973年11月副社長を経て1974年7月30日に社長就任。篠島秀雄は会長に
  • 三菱化成社史(1981)1章 第5節 石油危機を契機に
    • [42]国産ナフサはkl当たり6,000円前後から1976年4月に2万9,000円へ。当社はナフサを年270万kl購入(全国消費の約1割)。原材料コストアップは第49期(1974年8月〜1975年1月)だけで約400億円
    • [43]国産ナフサはkl当たり6,000円前後から1976年4月に2万9,000円へ。当社はナフサを年270万kl購入(全国消費の約1割)。原材料コストアップは第49期(1974年8月〜1975年1月)だけで約400億円
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [44]前1月期(1976年1月期)の営業利益358億5,200万円は支払利息と割引料414億2,100万円で消え、自己資本比率は1975年7月末の10%から1976年1月末に9%台へ。長短借入金は総資産の53%
  • 三菱化成社史(1981)2章 80年代への体制整備(第1節3 新規事業の展開/第2節)
    • [45]1974年7月に社長に就任した鈴木永二は1975年10月の中央経営協議会で全社運動を呼び掛け、11月に全従業員へ書簡を送付。生産力・設備・労働力の約2割の戦力を生み出して事業領域の拡大・充実に振り向ける職域拡充運動を1976年1月から展開
    • [46]1974年7月に社長に就任した鈴木永二は1975年10月の中央経営協議会で全社運動を呼び掛け、11月に全従業員へ書簡を送付。生産力・設備・労働力の約2割の戦力を生み出して事業領域の拡大・充実に振り向ける職域拡充運動を1976年1月から展開
    • [47]石油危機後にエネルギーコストが従来の4〜5倍に急騰し、重油火力に依存する国内製錬と欧米の電力コスト格差が決定的に。1976年3月に分離を決め、4月2日に三菱グループ各社・需要家の出資で三菱軽金属工業を設立。総合研究所は理化研究所(情報機材)・生化研究所(医薬・農薬)など6研究所で構成。1975年5月にトナー製造設備、1978年10月に鹿島でPS版設備が稼働
    • [48]石油危機後にエネルギーコストが従来の4〜5倍に急騰し、重油火力に依存する国内製錬と欧米の電力コスト格差が決定的に。1976年3月に分離を決め、4月2日に三菱グループ各社・需要家の出資で三菱軽金属工業を設立。総合研究所は理化研究所(情報機材)・生化研究所(医薬・農薬)など6研究所で構成。1975年5月にトナー製造設備、1978年10月に鹿島でPS版設備が稼働
    • [51]石油危機後にエネルギーコストが従来の4〜5倍に急騰し、重油火力に依存する国内製錬と欧米の電力コスト格差が決定的に。1976年3月に分離を決め、4月2日に三菱グループ各社・需要家の出資で三菱軽金属工業を設立。総合研究所は理化研究所(情報機材)・生化研究所(医薬・農薬)など6研究所で構成。1975年5月にトナー製造設備、1978年10月に鹿島でPS版設備が稼働
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
    • [49]1976年時点の製品構成は炭素製品31%・有機合成51%・無機11%・アルミ7%。広義の借入金は1976年7月末で合計4,900億円。1976年3月に横浜市鴨志田に総合研究所を設立し分散していた研究機関を統合
    • [50]1976年時点の製品構成は炭素製品31%・有機合成51%・無機11%・アルミ7%。広義の借入金は1976年7月末で合計4,900億円。1976年3月に横浜市鴨志田に総合研究所を設立し分散していた研究機関を統合

1951年〜1979年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1951年01月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年01月期 単体 108 n/a 8 n/a 3 3.3% n/a
1953年01月期 単体 109 +0.5% 8 n/a 3 3.0% n/a
1954年01月期 単体 109 ▲0.0% 10 n/a 3 3.6% n/a
1955年01月期 単体 114 +5.0% 10 n/a 4 3.6% n/a
1956年01月期 単体 130 +13.7% 9 n/a n/a n/a n/a
1957年01月期 単体 165 +26.7% 16 n/a n/a n/a n/a
1958年01月期 単体 198 +19.8% 20 n/a n/a n/a n/a
1959年01月期 単体 202 +2.2% 18 n/a n/a n/a n/a
1960年01月期 単体 278 +37.7% 26 n/a n/a n/a n/a
1961年01月期 単体 404 +45.2% n/a n/a n/a n/a n/a
1962年01月期 単体 455 +12.6% n/a n/a n/a n/a n/a
1963年01月期 単体 474 +4.1% n/a n/a n/a n/a n/a
1964年01月期 単体 564 +19.0% n/a n/a 24 4.3% n/a
1965年01月期 単体 744 +31.8% n/a n/a 26 3.6% n/a
1966年01月期 単体 873 +17.4% n/a n/a 29 3.3% n/a
1967年01月期 単体 1,095 +25.4% n/a n/a 32 2.9% n/a
1968年01月期 単体 1,217 +11.2% n/a n/a 36 3.0% n/a
1969年01月期 単体 1,427 +17.2% n/a n/a 41 2.9% n/a
1970年01月期 単体 1,702 +19.2% n/a n/a 49 2.9% n/a
1971年01月期 単体 2,130 +25.1% n/a 83 61 2.9% n/a
1972年01月期 単体 2,393 +12.3% n/a 65 51 2.2% n/a
1973年01月期 単体 2,676 +11.9% n/a 57 44 1.7% n/a
1974年01月期 単体 3,392 +26.7% n/a 78 55 1.6% n/a
1975年01月期 単体 5,337 +57.3% n/a 158 96 1.8% n/a
1976年01月期 単体 5,888 +10.3% n/a 47 42 0.7% n/a
1977年01月期 単体 5,993 +1.8% 359 73 50 0.8% n/a
1978年01月期 単体 5,463 ▲8.8% 264 65 50 0.9% n/a
1979年01月期 単体 5,144 ▲5.8% n/a 30 22 0.4% n/a

出所:上場会社総覧 1956年版、1959年版、上場会社総覧 1959年版、会社年鑑 1963年版、上場会社総覧 1961年版、1967年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1971年版、会社年鑑 1976年版、会社年鑑

出典・参考

19件
出典・参考
  • 三菱化成社史(1981)2章 既存事業の拡充と四日市進出(第3節 有機合成化学の展開)
  • 三菱化成社史(1981)2章 第2節 四日市進出と塩化ビニル企業化/第4節 石油化学への着目
  • 三菱化成社史(1981)1章 積極経営への転換と諸事業(第2節 石油化学国産化への対処/第3節2)
  • 三菱化成社史(1981)年表・歴代社長
  • 三菱化成社史(1981)1章 第1節 高度成長の胎動
  • 三菱化成社史(1981)2章 アルミニウム,石油化学の展開(第1節 アルミニウム事業への進出)
  • 三菱化成社史(1981)2章 第2節 石油化学で水島進出/第3節 3大合成繊維原料部門
  • 三菱化成社史(1981)3章 設備大型化の推進(第1〜2節・第4節)
  • 三菱化成社史(1981)1章 激動期への対応(第2節 新事業分野への進出)
  • 三菱化成社史(1981)1章 第5節 石油危機を契機に
  • 三菱化成社史(1981)2章 80年代への体制整備(第1節3 新規事業の展開/第2節)
  • 株式会社年鑑 1964年版「三菱化成工業」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年(鈴木永二)
  • 日経ビジネス 1974年9月30日号
  • 証券アナリストジャーナル 1976年
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号(江上不二夫 所長)
  • 経済知識 (211) 1969年2月
  • 経済知識 (213) 1969年5月

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