三菱化学:日本タール工業の発足と三菱化成工業への改称
1934年〜三菱鉱業と旭硝子が折半で出したタールの会社と、黒崎の染料工場
日本タール工業は1934年8月1日に資本金500万円で設立され、旭硝子が4万9,200株、三菱鉱業が4万8,800株を引き受けた。三菱鉱業は金属製錬と陸海軍工廠向けにコークス炉を増強したが、昭和恐慌期に操業率が低迷し、化学部門に打開策を求めていた。旭硝子は板ガラスとソーダ灰という無機の製品を収益源としており、有機化学への進出を検討していた。三菱合資社長の岩崎小彌太氏から石炭化学を託された三菱鉱業常務の池田亀三郎氏は、10年は利益も配当も出ないと岩崎小彌太社長に伝えた。池田亀三郎氏は新会社の代表取締役に就任し、三菱鉱業の牧山骸炭製造所を150万円で譲り受けて牧山工場とした。タールを出す三菱鉱業とソーダを持つ旭硝子が出資を分け合ったことで、原料から助剤までを三菱の中で賄う前提が整ったとみられる。
- 三菱化成社史(1981)2章 当社の創立--日本タールの発足(第1節 会社設立の経緯)
- [1]1934年8月1日、資本金500万円(払込200万円)で日本タール工業設立。引受株式は旭硝子4万9,200株・三菱鉱業4万8,800株(計10万株)
- [2]三菱鉱業はコークス炉を増強してきたが昭和恐慌期に低操業となり、化学部門に活路を求めていた
- [3]旭硝子は板ガラス・ソーダ灰の地盤の上に有機化学工業への展開を模索していた
- [5]代表取締役に池田亀三郎。三菱鉱業の牧山骸炭製造所を150万円で譲り受け牧山工場とした
- 経営コンサルタント (585) 1997年7月「三菱化学 生みの親 池田亀三郎」
- [4]岩崎小彌太が池田亀三郎に石炭化学を命じ、池田は10年は利益も配当もないと伝えた
日本タール工業は最初の製品に染料を選び、1935年4月に黒崎で染料試験工場の建設に着手した。1933年に三菱鉱業の鉱業研究所がまとめた検討は、染料を硫安やアルミニウムと違って段階的に企業化できる事業と位置づけた。原料も牧山のタール、直島の硫酸、旭硝子のソーダと、三菱の内部で調達できる見通しだった。黒崎の用地は製鉄大合同で製鉄所計画が消えた三菱合資の埋立地で、1934年10月に約17万5,000坪が譲渡された。池田亀三郎氏(代表取締役)は、原料の輸出入の便を考えて海沿いに広い土地を確保した。染料は1936年7月に初取引を迎え、1938年2月に本格工場が全面稼働すると年産は300tから1,350tに増えた。
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和10年)
- [6]1935年4月11日、黒崎工場地鎮祭、染料UPP建設に着手
- 三菱化成社史(1981)2章 当社の創立--日本タールの発足(第1節 会社設立の経緯)
- [7]1933年の鉱業研究所の検討結果:染料は硫安・アルミニウムと異なり段階的企業化が可能
- [8]牧山のタール・直島の硫酸・旭硝子のソーダで、すべて三菱内部の原材料で生産可能とされた
- 三菱化成社史(1981)2章 第2節 黒崎工場の建設と石炭化学の展開
- [9]製鉄大合同で黒崎製鉄所計画が消え、1934年10月25日に三菱合資が約17万5,000坪を日本タールへ譲渡する覚書
- [11]染料UPP製品は1936年7月初取引。1938年2月本格工場全運転、年産300tが1,350tに
- 経営コンサルタント (585) 1997年7月「三菱化学 生みの親 池田亀三郎」
- [10]池田亀三郎は原料の輸出入の便宜を考え海沿いに広大な土地を確保した
日本タール工業はドイツのIG社と約1カ月交渉し、アンモニアと硫安の製造技術を導入する契約に1936年2月に正式調印した。タールと中間物で先発企業に並んでも、染料の助剤となる硝酸を競合の住友化学から購入していては原価で対抗できなかった。アンモニアは一定の規模を要するため、硝酸に充てた残りで硫安を年産8万t製造する計画とした。導入したのは石炭を直接の原料とする国内初のウィンクラー炉で、有機と無機を併せ持つ工場の基盤となった。1936年5月には旭硝子会長の山田三次郎氏が初代社長に就任した。同年10月、タールの名が事業の実体を示さなくなったとして、社名を日本化成工業に改めた。
- 三菱化成社史(1981)2章 第2節2 肥料生産を計画/第3節1 日本化成へ社名変更
- [12]約1カ月の交渉で1935年12月仮調印、1936年2月にIGとアンモニア・硫安製造の技術援助契約を正式調印
- [13]原料タール・中間製品では先発と太刀打ちできたが、染料助剤の硝酸を住友化学から購入しており、競争相手から買うのでは決定的に不利だった
- [14]アンモニアは規模が要るため硝酸用の残りを硫安にする計画。能力はアンモニア年2万1,000t(硫安8万t)
- [17]1936年10月の臨時株主総会で日本化成工業へ改称を決定(10月29日改称)。日本タールの社名は実体を示さなくなっていた
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- [15]IG社の技術で直接石炭を原料とするわが国最初のウインクラー炉を建設し、有機・無機の総合化学工場の基盤を確立
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和11年)
- [16]1936年5月20日、取締役山田三次郎(旭硝子会長)が取締役社長に就任
参考文献[1]-[17]
- 三菱化成社史(1981)2章 当社の創立--日本タールの発足(第1節 会社設立の経緯)
- [1]1934年8月1日、資本金500万円(払込200万円)で日本タール工業設立。引受株式は旭硝子4万9,200株・三菱鉱業4万8,800株(計10万株)
- [2]三菱鉱業はコークス炉を増強してきたが昭和恐慌期に低操業となり、化学部門に活路を求めていた
- [3]旭硝子は板ガラス・ソーダ灰の地盤の上に有機化学工業への展開を模索していた
- [5]代表取締役に池田亀三郎。三菱鉱業の牧山骸炭製造所を150万円で譲り受け牧山工場とした
- [7]1933年の鉱業研究所の検討結果:染料は硫安・アルミニウムと異なり段階的企業化が可能
- [8]牧山のタール・直島の硫酸・旭硝子のソーダで、すべて三菱内部の原材料で生産可能とされた
- 経営コンサルタント (585) 1997年7月「三菱化学 生みの親 池田亀三郎」
- [4]岩崎小彌太が池田亀三郎に石炭化学を命じ、池田は10年は利益も配当もないと伝えた
- [10]池田亀三郎は原料の輸出入の便宜を考え海沿いに広大な土地を確保した
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和10年)
- [6]1935年4月11日、黒崎工場地鎮祭、染料UPP建設に着手
- 三菱化成社史(1981)2章 第2節 黒崎工場の建設と石炭化学の展開
- [9]製鉄大合同で黒崎製鉄所計画が消え、1934年10月25日に三菱合資が約17万5,000坪を日本タールへ譲渡する覚書
- [11]染料UPP製品は1936年7月初取引。1938年2月本格工場全運転、年産300tが1,350tに
- 三菱化成社史(1981)2章 第2節2 肥料生産を計画/第3節1 日本化成へ社名変更
- [12]約1カ月の交渉で1935年12月仮調印、1936年2月にIGとアンモニア・硫安製造の技術援助契約を正式調印
- [13]原料タール・中間製品では先発と太刀打ちできたが、染料助剤の硝酸を住友化学から購入しており、競争相手から買うのでは決定的に不利だった
- [14]アンモニアは規模が要るため硝酸用の残りを硫安にする計画。能力はアンモニア年2万1,000t(硫安8万t)
- [17]1936年10月の臨時株主総会で日本化成工業へ改称を決定(10月29日改称)。日本タールの社名は実体を示さなくなっていた
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- [15]IG社の技術で直接石炭を原料とするわが国最初のウインクラー炉を建設し、有機・無機の総合化学工場の基盤を確立
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和11年)
- [16]1936年5月20日、取締役山田三次郎(旭硝子会長)が取締役社長に就任
1937年〜戦時統制下の合成樹脂・軽金属と、新興人絹・旭硝子との合併で生まれた三菱化成工業
1939年6月、山田三次郎社長の死去を受けて、常務取締役の池田亀三郎氏が社長に就任した。1937年の統制3法で融資は鉄鋼や航空機が優先され、民需に近い事業は新規の企業化を抑えられた。染料の第2期計画は1940年9月に着工したが資材不足で遅れ、1943年12月の一部出荷から1年足らずで転用を迫られた。硫安はアンモニアが爆薬原料の硝酸へ優先されたため、1941年前後の年6万tから生産が急減した。代わって増えたのは軍需品で、1942年に爆薬と尿素接着剤、1943年にカーボンブラック、1944年にロケット発射薬の生産が始まった。資材と原料の配給を受けられる品目が軍需に限られ、事業の広がり方は軍の注文の順序にそろっていったのだろう。
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和14年)
- [18]1939年6月23日山田三次郎死去、6月29日常務池田亀三郎が社長就任
- 三菱化成社史(1981)3章 戦時下の事業拡大(第1〜2節)
- [19]統制3法(1937年)で融資は鉄鋼・自動車・航空機を優先、民需産業は新規事業化を抑えられた
- [20]染料第2期計画は1940年9月着工、資材不足で遅延、1943年12月一部出荷、1年も稼働せず転用
- 三菱化成社史(1981)1章 戦後復興と新発足(第1〜2節)
- [21]戦時中アンモニアは硝酸製造に優先され、硫安生産は1941・42年の6万t前後から急低下
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- [22]1942年に合成ゴム・尿素接着剤・爆薬、1943年カーボンブラック、1944年高級潤滑油・ロケット発射薬を生産
日本化成工業は1942年8月1日に新興人絹を合併し、広島県大竹と岐阜のスフ工場を引き継いだ。三菱は繊維に有力企業を持たず、三菱合資社長の岩崎小彌太氏は化学繊維企業の取得を望んでいた。日本化成工業は1937年11月、新興人絹の株式20万株のうち3万株を引き受けて筆頭株主となった。1942年2月の人絹スフ製造工業の整理統合要綱で、資本金3,000万円未満の会社は統合を勧奨された。資本金1,500万円の新興人絹は日本化成工業との合併を選び、合併後の日本化成工業の資本金は7,890万円となった。スフの製造は硫酸と苛性ソーダを大量に使うため、化学会社の中に入ることが設備整理の下で工場を残す手立てになったと思われる。
- 三菱化成社史(1981)3章 第4節1 新興人絹と合併
- [23]1942年8月1日を合併期日として新興人絹と合併、大竹・岐阜工場を独立事業所とした
- [24]三菱は繊維部門に有力企業がなく、岩崎小彌太は化学繊維企業の取得を心掛けていた
- [25]1937年11月、新興人絹株式20万株中3万株を引き受け筆頭株主に
- [26]1942年2月「人絹スフ製造工業ノ整理統合要綱」、資本金3,000万円未満の会社は統合を勧奨
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱レイヨン」
- [27]新興人絹は1941年11月に1,500万円へ増資。1942年に日本化成工業に合併し、日本化成は資本金7,890万円に
日本化成工業は1944年4月1日に出資元の旭硝子を合併し、社名を三菱化成工業に改めた。1943年12月の軍需省令は、アンモニア法ソーダの4社を化学会社と結び付け、旭硝子の相手を日本化成工業と定めた。ソーダは公定価格の据え置きで赤字が続き、1944年のアンモニア法ソーダの生産は最盛期の26%まで減った。徳山曹達と宇部曹達が資本提携にとどまるなか、旭硝子と日本化成工業は合併まで進んだ。合併の背景には、『化学工業の一大総合会社を設立して我国斯業の独立に裨補せんとする』という岩崎小彌太氏(三菱本社社長)の素願があった。旭硝子はその弟の岩崎俊彌氏が1907年に創業し、窓ガラスの輸入代替からソーダ灰の製造へ進んだ会社だった。合併後の資本金は1億1,079万円となり、事業は板ガラス・ソーダ・耐火煉瓦にまで広がった。
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和19年)
- [28]1944年4月1日旭硝子と合併し三菱化成工業と改称
- 三菱化成社史(1981)3章 第4節3 三菱化成の発足
- [29]1943年12月軍需省令「アンモニア法曹達工業整備要領」で旭硝子は日本化成、宇部曹達は三井化学、徳山曹達は住友化学と合同または資本提携
- [30]公定価格据え置きで各社赤字累積。1944年のアンモニア法ソーダ生産は最盛期(1938〜39年)の26%
- [31]徳山・宇部は単なる資本提携にとどまり、旭硝子・日本化成は合併まで進んだ
- [32]合併は有機・無機を一丸とした総合化学会社を求める岩崎小彌太の素願に基づくところが大きい。旭硝子は小彌太の弟・岩崎俊彌が1907年(明治40年)に創設し、輸入に頼っていた窓ガラスの製造から始めてソーダ灰の製造に進んだ(合併時の小彌太の告示)
- [33]合併は有機・無機を一丸とした総合化学会社を求める岩崎小彌太の素願に基づくところが大きい。旭硝子は小彌太の弟・岩崎俊彌が1907年(明治40年)に創設し、輸入に頼っていた窓ガラスの製造から始めてソーダ灰の製造に進んだ(合併時の小彌太の告示)
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- [34]旭硝子合併で資本金1億1,079万円、事業範囲はガラス・ソーダ・耐火煉瓦に及んだ
参考文献[18]-[34]
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和14年)
- [18]1939年6月23日山田三次郎死去、6月29日常務池田亀三郎が社長就任
- 三菱化成社史(1981)3章 戦時下の事業拡大(第1〜2節)
- [19]統制3法(1937年)で融資は鉄鋼・自動車・航空機を優先、民需産業は新規事業化を抑えられた
- [20]染料第2期計画は1940年9月着工、資材不足で遅延、1943年12月一部出荷、1年も稼働せず転用
- 三菱化成社史(1981)1章 戦後復興と新発足(第1〜2節)
- [21]戦時中アンモニアは硝酸製造に優先され、硫安生産は1941・42年の6万t前後から急低下
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- [22]1942年に合成ゴム・尿素接着剤・爆薬、1943年カーボンブラック、1944年高級潤滑油・ロケット発射薬を生産
- [34]旭硝子合併で資本金1億1,079万円、事業範囲はガラス・ソーダ・耐火煉瓦に及んだ
- 三菱化成社史(1981)3章 第4節1 新興人絹と合併
- [23]1942年8月1日を合併期日として新興人絹と合併、大竹・岐阜工場を独立事業所とした
- [24]三菱は繊維部門に有力企業がなく、岩崎小彌太は化学繊維企業の取得を心掛けていた
- [25]1937年11月、新興人絹株式20万株中3万株を引き受け筆頭株主に
- [26]1942年2月「人絹スフ製造工業ノ整理統合要綱」、資本金3,000万円未満の会社は統合を勧奨
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱レイヨン」
- [27]新興人絹は1941年11月に1,500万円へ増資。1942年に日本化成工業に合併し、日本化成は資本金7,890万円に
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和19年)
- [28]1944年4月1日旭硝子と合併し三菱化成工業と改称
- 三菱化成社史(1981)3章 第4節3 三菱化成の発足
- [29]1943年12月軍需省令「アンモニア法曹達工業整備要領」で旭硝子は日本化成、宇部曹達は三井化学、徳山曹達は住友化学と合同または資本提携
- [30]公定価格据え置きで各社赤字累積。1944年のアンモニア法ソーダ生産は最盛期(1938〜39年)の26%
- [31]徳山・宇部は単なる資本提携にとどまり、旭硝子・日本化成は合併まで進んだ
- [32]合併は有機・無機を一丸とした総合化学会社を求める岩崎小彌太の素願に基づくところが大きい。旭硝子は小彌太の弟・岩崎俊彌が1907年(明治40年)に創設し、輸入に頼っていた窓ガラスの製造から始めてソーダ灰の製造に進んだ(合併時の小彌太の告示)
- [33]合併は有機・無機を一丸とした総合化学会社を求める岩崎小彌太の素願に基づくところが大きい。旭硝子は小彌太の弟・岩崎俊彌が1907年(明治40年)に創設し、輸入に頼っていた窓ガラスの製造から始めてソーダ灰の製造に進んだ(合併時の小彌太の告示)
1945年〜コークスと硫安から始めた戦後復興と、集中排除で3社に割れた日本化成工業
三菱化成工業は敗戦後、黒崎工場のコークス炉の火を保ちつつ、アンモニアと硫安の設備の復旧を優先した。1946年のコークス生産は19万t弱で、1940年の45万tの42%にとどまった。政府が1946年12月に傾斜生産方式を決めると1947年春から原料炭事情が好転し、同年7月にはコークス炉の全炉操業を再開した。硫安の生産は1946年の2万720tから1947年に4万3,976tへ増えた。黒崎工場の肥料生産は、再開時の月300tから1948年には月6,000tに回復した。社長は1946年3月に池田亀三郎氏から常務取締役の森本貫一氏へ代わり、同年12月には森規矩夫氏が社長に就任した。
- 三菱化成社史(1981)1章 戦後復興と新発足(第1〜2節)
- [35]終戦後もコークス炉の操業を維持し、アンモニア・硫安・硫酸など主要プラントの復興を優先
- [36]1946年のコークス生産は19万t弱、最高の1940年45万tの42%
- [37]1946年12月傾斜生産方式、1947年春から石炭事情好転、1947年7月以降全炉操業
- [38]硫安生産 1946年2万720t、1947年4万3,976t(第41表)
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- [39]黒崎工場の肥料は戦後再開時月300tから1948年に月6,000tへ回復
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和21年)
- [40]1946年3月30日池田亀三郎退任・常務森本貫一が社長、同年12月30日森規矩夫が社長
三菱化成工業は1950年6月1日に解散し、事業は日本化成工業、旭硝子、新光レイヨンの3社に分割された。三菱化成工業は1946年12月に持株会社の指定を受け、1947年に関係会社の株式を譲渡して三菱本社から独立した。GHQの分割案は3分割から8〜9社への細分割に変わり、1社1業の原則を当てはめれば黒崎工場も4分割される恐れがあった。1948年2月に受けた過度経済力集中排除法の指定は1949年4月に解除されたが、3分割の方針は変わらなかった。旧財閥商号が禁じられたため、化学部門は資本金2億5,000万円の日本化成工業として発足し、桑田時一郎社長が黒崎工場を引き継いだ。合併で得た繊維とガラスを失ったことで、日本化成工業の成長は黒崎の石炭化学をどこまで広げられるかにかかったと推察される。
- 三菱化成社史(1981)1章 第4節1 3社分離と日本化成の新発足
- [41]1950年6月1日、日本化成・新光レイヨン・旭硝子の3社が新発足し三菱化成は清算会社に
- [42]1946年12月持株会社の第3次指定、1947年3月・10月に関連会社の持株を譲渡し三菱本社から独立
- [43]GHQ内示は3分割から8〜9社の細分割案に変わり、1社1業の原則では黒崎工場は4分割となる
- [45]旧商号禁止で日本化成の社名。資本金2億5,000万円、社長桑田時一郎、黒崎工場を継承
- 株式会社年鑑 1950年版「三菱化成工業」
- [44]1948年2月集排指定、1949年4月指定解除。三社の第二会社を設立して解散する整備計画を申請中
参考文献[35]-[45]
- 三菱化成社史(1981)1章 戦後復興と新発足(第1〜2節)
- [35]終戦後もコークス炉の操業を維持し、アンモニア・硫安・硫酸など主要プラントの復興を優先
- [36]1946年のコークス生産は19万t弱、最高の1940年45万tの42%
- [37]1946年12月傾斜生産方式、1947年春から石炭事情好転、1947年7月以降全炉操業
- [38]硫安生産 1946年2万720t、1947年4万3,976t(第41表)
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- [39]黒崎工場の肥料は戦後再開時月300tから1948年に月6,000tへ回復
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和21年)
- [40]1946年3月30日池田亀三郎退任・常務森本貫一が社長、同年12月30日森規矩夫が社長
- 三菱化成社史(1981)1章 第4節1 3社分離と日本化成の新発足
- [41]1950年6月1日、日本化成・新光レイヨン・旭硝子の3社が新発足し三菱化成は清算会社に
- [42]1946年12月持株会社の第3次指定、1947年3月・10月に関連会社の持株を譲渡し三菱本社から独立
- [43]GHQ内示は3分割から8〜9社の細分割案に変わり、1社1業の原則では黒崎工場は4分割となる
- [45]旧商号禁止で日本化成の社名。資本金2億5,000万円、社長桑田時一郎、黒崎工場を継承
- 株式会社年鑑 1950年版「三菱化成工業」
- [44]1948年2月集排指定、1949年4月指定解除。三社の第二会社を設立して解散する整備計画を申請中
出典・参考
17件
- 三菱化成社史(1981)2章 当社の創立--日本タールの発足(第1節 会社設立の経緯)
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和10年)
- 三菱化成社史(1981)2章 第2節 黒崎工場の建設と石炭化学の展開
- 三菱化成社史(1981)2章 第2節2 肥料生産を計画/第3節1 日本化成へ社名変更
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和11年)
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和14年)
- 三菱化成社史(1981)3章 戦時下の事業拡大(第1〜2節)
- 三菱化成社史(1981)1章 戦後復興と新発足(第1〜2節)
- 三菱化成社史(1981)3章 第4節1 新興人絹と合併
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和19年)
- 三菱化成社史(1981)3章 第4節3 三菱化成の発足
- 三菱化成社史(1981)年表(昭和21年)
- 三菱化成社史(1981)1章 第4節1 3社分離と日本化成の新発足
- 株式会社年鑑 1950年版「三菱化成工業」
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱化成工業」
- 会社銀行八十年史(1955)「三菱レイヨン」
- 経営コンサルタント (585) 1997年7月「三菱化学 生みの親 池田亀三郎」