第1章 年〜年

レンゴー:井上貞治郎の三成社創業と5社合併による聯合紙器の設立

1909年〜月5円の品川の借家で創業した三盛舎と、特許段ボールで得た東京電気の注文

井上貞治郎氏は1909年8月、北品川の目黒川沿いに月5円の家賃で20坪余りの平屋を借り、波形の紙を作る機械を奥の6畳間に据えて三盛舎を始めた。井上貞治郎氏はそれまで紙箱道具店の外交員やミシンの外交で暮らしを立て、人に使われず自ら作って売る仕事を探していた。当時の国産の電球包み紙は紙をジグザグに縮めただけで弾力に乏しく、半円の波形を別の紙に貼り合わせた化粧品向けの紙はすべて輸入品だった。友人の池田良栄氏の仲介で元陸軍大尉ら3人が出資し、井上貞治郎氏はこの輸入品の国産化に着手した。機械は小石川の古川鉄工所に作らせた2本の波形ロールを手で回す簡素なもので、段の不ぞろいを分銅で直すまでに約2カ月を要している。大きな設備の要らない加工業であれば、元手の乏しい個人でも輸入品の代替に挑めると見たのだろう。

  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [1]1909年8月、北品川の20坪の平屋(月5円)に古川鉄工所製の段ロール機を据えて三盛舎を始めた。なまこ紙は外来品のみ。分銅式の工夫で約2カ月後に段つけを均一にした
    • [3]1909年8月、北品川の20坪の平屋(月5円)に古川鉄工所製の段ロール機を据えて三盛舎を始めた。なまこ紙は外来品のみ。分銅式の工夫で約2カ月後に段つけを均一にした
    • [5]1909年8月、北品川の20坪の平屋(月5円)に古川鉄工所製の段ロール機を据えて三盛舎を始めた。なまこ紙は外来品のみ。分銅式の工夫で約2カ月後に段つけを均一にした
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [2]帰京後は中屋の外交員・ミシン外交などで暮らし、自ら作って売る仕事を志した。池田良栄の仲介で荒川・石郷岡・一志の3人が出資した
    • [4]帰京後は中屋の外交員・ミシン外交などで暮らし、自ら作って売る仕事を志した。池田良栄の仲介で荒川・石郷岡・一志の3人が出資した

出資者が相次いで離れたあと、井上貞治郎氏は独力で事業を続けると決め、事業名を三盛舎から三成社に改めた。同じころ、苦心して組み上げた機械と製法の実用新案が認められ、製品を特許段ボールの名で売り出した。弾力紙や波型紙などの候補から、語呂のよさで段ボールという製品名を選んだのは井上貞治郎氏自身である。最初の販売は浅草の洋紙店への200枚で、むしろ損失のほうが大きい取引。その後はレート化粧品、森永製菓、東洋製菓、伊東胡蝶園と得意先が増え、紙屋や糊屋への借金を返してわずかな利益を出せるようになった。特許の名を冠した製品名が、無名の個人商店の品に信用を添える役を果たしたとみられる。

  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [6]出資者が去った後に三成社へ改称して独立自営を決意し、製法の実用新案が認可されて「特許段ボール」として販売。レート化粧品・森永製菓などの得意先ができ借金を返済した
    • [7]出資者が去った後に三成社へ改称して独立自営を決意し、製法の実用新案が認可されて「特許段ボール」として販売。レート化粧品・森永製菓などの得意先ができ借金を返済した
    • [10]出資者が去った後に三成社へ改称して独立自営を決意し、製法の実用新案が認可されて「特許段ボール」として販売。レート化粧品・森永製菓などの得意先ができ借金を返済した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [8]製品名を「段ボール」と決めたのは井上自身。浅草の深山洋紙店への200枚が最初の販売で、損失が大きかった
    • [9]製品名を「段ボール」と決めたのは井上自身。浅草の深山洋紙店への200枚が最初の販売で、損失が大きかった

三成社と東京電気の最初の取引は、下谷根岸の栄立社を通じて受けた電球包装用紙の大口注文にさかのぼる。井上貞治郎氏は東京電気と関係を深めてともに大きくなる考えを持ち、東京電気の田村貫一氏と面会した。田村貫一氏は他社の注文をすべて断るよう求め、井上貞治郎氏は既存の得意先を切れずに直接の取引を見送った。その後に栄立社から入った段つき紙の大量注文を、井上貞治郎氏はマツダランプ向けの納品と見て入念に作って納めた。1912年秋には手狭になった下谷西町から本所中ノ郷元町の家賃20円の借家へ移り、家賃は北品川の創業時の4倍になった。割れやすい電球の包装は、得意先の増産とともに量が増える需要だったと推察される。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [11]東京電気(後の東芝)とは直接のつながりはなく、下谷根岸の栄立社を通じて電球包装用紙の多量注文を受けたのが最初の縁故
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [12]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
    • [13]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
    • [14]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
    • [15]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
参考文献[1]-[15]
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [1]1909年8月、北品川の20坪の平屋(月5円)に古川鉄工所製の段ロール機を据えて三盛舎を始めた。なまこ紙は外来品のみ。分銅式の工夫で約2カ月後に段つけを均一にした
    • [3]1909年8月、北品川の20坪の平屋(月5円)に古川鉄工所製の段ロール機を据えて三盛舎を始めた。なまこ紙は外来品のみ。分銅式の工夫で約2カ月後に段つけを均一にした
    • [5]1909年8月、北品川の20坪の平屋(月5円)に古川鉄工所製の段ロール機を据えて三盛舎を始めた。なまこ紙は外来品のみ。分銅式の工夫で約2カ月後に段つけを均一にした
    • [6]出資者が去った後に三成社へ改称して独立自営を決意し、製法の実用新案が認可されて「特許段ボール」として販売。レート化粧品・森永製菓などの得意先ができ借金を返済した
    • [7]出資者が去った後に三成社へ改称して独立自営を決意し、製法の実用新案が認可されて「特許段ボール」として販売。レート化粧品・森永製菓などの得意先ができ借金を返済した
    • [10]出資者が去った後に三成社へ改称して独立自営を決意し、製法の実用新案が認可されて「特許段ボール」として販売。レート化粧品・森永製菓などの得意先ができ借金を返済した
    • [12]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
    • [13]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
    • [14]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
    • [15]井上は東京電気の田村貫一と会ったが他社の注文を断るよう求められた。栄立社からの大量注文をマツダランプ向けと見て納めた。1912年秋に本所中ノ郷元町(家賃20円)へ移転
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [2]帰京後は中屋の外交員・ミシン外交などで暮らし、自ら作って売る仕事を志した。池田良栄の仲介で荒川・石郷岡・一志の3人が出資した
    • [4]帰京後は中屋の外交員・ミシン外交などで暮らし、自ら作って売る仕事を志した。池田良栄の仲介で荒川・石郷岡・一志の3人が出資した
    • [8]製品名を「段ボール」と決めたのは井上自身。浅草の深山洋紙店への200枚が最初の販売で、損失が大きかった
    • [9]製品名を「段ボール」と決めたのは井上自身。浅草の深山洋紙店への200枚が最初の販売で、損失が大きかった
    • [11]東京電気(後の東芝)とは直接のつながりはなく、下谷根岸の栄立社を通じて電球包装用紙の多量注文を受けたのが最初の縁故

1914年〜大戦景気で追いつかなかった巻取り段ボールの注文と、5社を統合した資本金200万円の聯合紙器

井上貞治郎氏は手回しの機械による手工業のままでは先がないと考え、1913年、ドイツのミューラー社製の巻取り段ボール機械を輸入した。機械の代金は3,000円で、借入れ先の銀座の島田洋紙店への借金は利息を付けてほどなく返している。運転に慣れるまで約半年かかったが、その後は巻取りの段ボールを量産できるようになった。1914年7月に第一次世界大戦が始まると、長さ約91メートルの巻取り段ボール100本をメルボルンへ輸出し、フィリピンやビルマ、ジャワにも出荷した。旧来の手繰り機と新しい巻取り機の昼夜兼行でも追いつかないほどの、注文の増加。1915年には本所横網町に家を取得して工場を移し、大阪三成社を設立して名古屋にも支店と工場を置いた。

  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [16]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
    • [18]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
    • [19]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
    • [20]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [17]3,000円の巻取り段ボール機械をドイツから輸入し、島田洋紙店への借金は利息を付けて返済。大正4年に横網町へ工場を移し、大阪三成社を創立、名古屋に支店と工場を設置
    • [21]3,000円の巻取り段ボール機械をドイツから輸入し、島田洋紙店への借金は利息を付けて返済。大正4年に横網町へ工場を移し、大阪三成社を創立、名古屋に支店と工場を設置

井上貞治郎氏は1920年5月、資本金200万円の聯合紙器株式会社を設立した。背景には大戦景気で競合が相次ぎ、資本金1,000万円に拡大した日本紙業が三成社の独占してきた段ボール製造機械を導入したことがある。株式会社への改組を検討していた井上貞治郎氏に、東京電気が応分の支援を申し出た。統合したのは三成社と大阪三成社、帝国紙器に、東京電気へ包装用段ボールを納めていた栄立社と東紙器を加えた5社である。1920年3月の戦後恐慌で東京電気の大株主への割当株が集まらず、井上貞治郎氏が50%近くを引き受け、芝の豊国銀行から融資を得た。社名は東京電気の傍系会社である帝国聯合電球から取った。

  • 『会社銀行八十年史』(1955年)聯合紙器
    • [22]大正9年5月、三成社に東紙器製作所・栄立社・帝国紙器を統合して資本金200万円で設立
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [23]日本紙業の躍進に対抗して株式会社化を図り、東京電気の肩入れの申し出を受けて栄立社・東紙器・大阪三成社・帝国紙器を統合。恐慌で割当株が集まらず井上が50%近くを引き受け、豊国銀行から融資を得て大正9年5月2日に資本金200万円で発足
    • [25]日本紙業の躍進に対抗して株式会社化を図り、東京電気の肩入れの申し出を受けて栄立社・東紙器・大阪三成社・帝国紙器を統合。恐慌で割当株が集まらず井上が50%近くを引き受け、豊国銀行から融資を得て大正9年5月2日に資本金200万円で発足
    • [26]日本紙業の躍進に対抗して株式会社化を図り、東京電気の肩入れの申し出を受けて栄立社・東紙器・大阪三成社・帝国紙器を統合。恐慌で割当株が集まらず井上が50%近くを引き受け、豊国銀行から融資を得て大正9年5月2日に資本金200万円で発足
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [24]東京電気からもすすめられて大正9年に聯合紙器を創立。社名は東京電気の傍系会社・帝国聯合電球から取った
    • [27]東京電気からもすすめられて大正9年に聯合紙器を創立。社名は東京電気の傍系会社・帝国聯合電球から取った

聯合紙器は1920年5月2日、資本金200万円で営業を始めた。創立当初の業績は戦後不況の影響を受け、予期した水準に達しなかった。井上貞治郎氏は1921年、米国ラングストン社から新しい貼合機械を輸入して東京工場を増設し、旧来の川崎工場を廃してコンクリート造の工場を新築した。同じ1921年に大阪工場を天満同心町へ移し、東京電気小倉工場の需要増に合わせて小倉市に製造工場を新設。木箱に代わる紙の荷造り箱は1921年に鉄道省から貨物包装として公認され、1922年5月期には東京方面の工場が昼夜兼行で供給するほど需要が増えた。工場は東京・日暮里・川崎・名古屋・大阪・小倉の6カ所となり、全従業員は警備員を含めて約150名だった。新鋭機の導入と得意先の近くへの工場の配置が、不況下でも受注を積み増す手立てになったと考えられる。

  • 『会社銀行八十年史』(1955年)聯合紙器
    • [28]大正9年5月2日設立、資本金200万円
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [29]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [30]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [31]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [32]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [33]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
参考文献[16]-[33]
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [16]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
    • [18]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
    • [19]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
    • [20]大正2年、島田洋紙店の出資(1,500円)を得てドイツのミューラー社製巻取り段ボール機械を輸入、約半年で完全に運転。大戦でメルボルン等へ輸出し、手繰り機と巻取り機を昼夜兼行で動かしても注文に追いつかなかった
    • [23]日本紙業の躍進に対抗して株式会社化を図り、東京電気の肩入れの申し出を受けて栄立社・東紙器・大阪三成社・帝国紙器を統合。恐慌で割当株が集まらず井上が50%近くを引き受け、豊国銀行から融資を得て大正9年5月2日に資本金200万円で発足
    • [25]日本紙業の躍進に対抗して株式会社化を図り、東京電気の肩入れの申し出を受けて栄立社・東紙器・大阪三成社・帝国紙器を統合。恐慌で割当株が集まらず井上が50%近くを引き受け、豊国銀行から融資を得て大正9年5月2日に資本金200万円で発足
    • [26]日本紙業の躍進に対抗して株式会社化を図り、東京電気の肩入れの申し出を受けて栄立社・東紙器・大阪三成社・帝国紙器を統合。恐慌で割当株が集まらず井上が50%近くを引き受け、豊国銀行から融資を得て大正9年5月2日に資本金200万円で発足
    • [29]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [30]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [31]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [32]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
    • [33]創立当初は戦後不況で予期した成績を上げられず。大正10年に米ラングストン社の貼合機械を輸入し東京工場を増設、川崎工場を廃しコンクリート工場を建設、大阪工場移転・小倉工場新設。木箱代用荷造函が鉄道省公認。6工場・約150名
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [17]3,000円の巻取り段ボール機械をドイツから輸入し、島田洋紙店への借金は利息を付けて返済。大正4年に横網町へ工場を移し、大阪三成社を創立、名古屋に支店と工場を設置
    • [21]3,000円の巻取り段ボール機械をドイツから輸入し、島田洋紙店への借金は利息を付けて返済。大正4年に横網町へ工場を移し、大阪三成社を創立、名古屋に支店と工場を設置
    • [24]東京電気からもすすめられて大正9年に聯合紙器を創立。社名は東京電気の傍系会社・帝国聯合電球から取った
    • [27]東京電気からもすすめられて大正9年に聯合紙器を創立。社名は東京電気の傍系会社・帝国聯合電球から取った
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)聯合紙器
    • [22]大正9年5月、三成社に東紙器製作所・栄立社・帝国紙器を統合して資本金200万円で設立
    • [28]大正9年5月2日設立、資本金200万円

1923年〜日本製紙の合併で得た製紙から製函への一貫と、倍額増資で東京電気に渡した過半数

聯合紙器は1923年11月、大阪の板紙会社である日本製紙を合併し、製紙から製函までを一貫する基礎を得た。日本製紙は1918年ごろ創立された新興企業で業績が振るわず、日本紙器を興した田島志一氏が入手して段ボール工場にしようとしていた。井上貞治郎氏は知人の保有する日本製紙株2,100株を取得して合併を働きかけ、田島志一氏側の反対で臨時総会の流会が重なるなか、1923年8月に合併決議を得た。9月1日の関東大震災で東京工場と本社事務所、日暮里工場を失い、損害は30万円に上る。社内に合併への反対が出たが、井上貞治郎氏は私財を銀行に差し出して資金を工面し、合併を実現させた。合併で資本金は220万円となり、旧日本製紙は千船工場として再出発した。

  • 『会社銀行八十年史』(1955年)聯合紙器
    • [34]大正12年11月に日本製紙を合併し、製紙より製函への一貫作業の基礎を確立
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [35]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [36]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [37]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [38]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [39]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場

淀川製紙工場が1936年夏に完成したのち、最大の得意先の東京電気が製紙から製函まで包装を自社で手がける計画を進め、埼玉県川口に用地を求めた。東京電気との資本関係は、1923年の日本製紙の合併を機にいったん切れていた。井上貞治郎氏は大得意先と正面から争うのは得策でないと判断し、聯合紙器の側から提携を申し入れた。提携は、聯合紙器が倍額増資をして新株の過半数を東京電気に渡し、東京電気の川口工場の事業計画を聯合紙器が引き継ぐ内容である。井上貞治郎氏は後年、『握ったものを放さぬためには、これくらいの辛抱も仕方がなかった』と当時の心境を書き残している。増資で資本金は600万円となり、聯合紙器は川口の2万3,000坪の土地建物を得た。

  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [40]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [42]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [43]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [44]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [45]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [41]日本製紙の合併が契機となって東京電気との資本関係は一応切れた形となった

日中戦争が始まった1937年以降、聯合紙器は大陸に進出し、1937年11月に上海紙器と上海紙業を、1939年6月に奉天支店を改組した満州紙器を発足させた。子会社は上海のほか天津、台北、札幌、京城にも設けた。国内では1938年2月に本社を淀川工場へ移し、同年6月に千船工場と子会社2社を合わせた日本紙器を設立して、低価格品の製造を移した。1942年9月時点で製紙工場は淀川・千船・葛飾の3、加工工場は淀川・今宮・東京・川崎・川口など10に及んだ。戦災で東京ほか5工場が被災し、終戦で在外資産をすべて失った。井上貞治郎氏は残った工場で、軍から払い下げられた梱包用原紙を使って衣装箱を作り、家財を失った人々に売り出した。外地を失った聯合紙器にとって、国内に残った製紙と加工の工場網が戦後の出発点になったと思われる。

  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [46]昭和12年11月に上海紙器・上海紙業、14年6月に満州紙器を発足。13年2月に本社を淀川工場へ移転、6月に千船工場と帝国紙業・神戸紙業を合併し日本紙器を設立して下級品を移管
    • [48]昭和12年11月に上海紙器・上海紙業、14年6月に満州紙器を発足。13年2月に本社を淀川工場へ移転、6月に千船工場と帝国紙業・神戸紙業を合併し日本紙器を設立して下級品を移管
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)聯合紙器
    • [47]昭和12年以降、上海・天津・台北・札幌・京城等に子会社を設立。昭和17年9月当時、製紙3工場・加工10工場。東京ほか5工場が戦災、終戦で在外資産を喪失
    • [49]昭和12年以降、上海・天津・台北・札幌・京城等に子会社を設立。昭和17年9月当時、製紙3工場・加工10工場。東京ほか5工場が戦災、終戦で在外資産を喪失
    • [50]昭和12年以降、上海・天津・台北・札幌・京城等に子会社を設立。昭和17年9月当時、製紙3工場・加工10工場。東京ほか5工場が戦災、終戦で在外資産を喪失
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [51]終戦で外地の工場は接収され、残った工場で軍払下げの一九式梱包用原紙を使い衣装ばこを作って売り出した
参考文献[34]-[51]
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)聯合紙器
    • [34]大正12年11月に日本製紙を合併し、製紙より製函への一貫作業の基礎を確立
    • [47]昭和12年以降、上海・天津・台北・札幌・京城等に子会社を設立。昭和17年9月当時、製紙3工場・加工10工場。東京ほか5工場が戦災、終戦で在外資産を喪失
    • [49]昭和12年以降、上海・天津・台北・札幌・京城等に子会社を設立。昭和17年9月当時、製紙3工場・加工10工場。東京ほか5工場が戦災、終戦で在外資産を喪失
    • [50]昭和12年以降、上海・天津・台北・札幌・京城等に子会社を設立。昭和17年9月当時、製紙3工場・加工10工場。東京ほか5工場が戦災、終戦で在外資産を喪失
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
    • [35]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [36]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [37]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [38]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [39]日本製紙を田島志一が入手し段ボール工場にしようとしたため、井上は2,100株を買って買収運動を始め大正12年8月に合併決議。震災で東京工場・本社・日暮里工場を焼失(損害30万円)。反対を退け私財を提供し、11月に合併。資本金220万円、千船工場
    • [40]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [42]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [43]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [44]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [45]淀川工場(昭和11年夏完成)の後、東京電気が包装事業の自社化を計画し川口に用地を求めた。井上は提携を申し入れ、倍額増資で新株の過半数を東京電気に渡し、川口工場の計画を聯合紙器が実行。資本金600万円、2万3,000坪の土地建物を取得
    • [46]昭和12年11月に上海紙器・上海紙業、14年6月に満州紙器を発足。13年2月に本社を淀川工場へ移転、6月に千船工場と帝国紙業・神戸紙業を合併し日本紙器を設立して下級品を移管
    • [48]昭和12年11月に上海紙器・上海紙業、14年6月に満州紙器を発足。13年2月に本社を淀川工場へ移転、6月に千船工場と帝国紙業・神戸紙業を合併し日本紙器を設立して下級品を移管
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)
    • [41]日本製紙の合併が契機となって東京電気との資本関係は一応切れた形となった
    • [51]終戦で外地の工場は接収され、残った工場で軍払下げの一九式梱包用原紙を使い衣装ばこを作って売り出した

出典・参考

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出典・参考
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)聯合紙器
  • ポケット社史『段ボールひとすじに』(聯合紙器, 1970年)
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人3』井上貞治郎(聯合紙器・社長)

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