「段ボール」の命名と国産化 ── 井上貞治郎氏による三成社創業
呼び名すら無かった舶来の緩衝紙を、井上貞治郎氏はどう名づけ国産の商品に育てたか
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- 概要
- 1909年、井上貞治郎氏が東京で三成社(当初は三盛舎)を起こし、輸入品に頼っていた弾力性のある緩衝紙を手製の機械で国産化した経営判断。井上氏はこの新しい資材を「段ボール」と名づけ、機械と製法を実用新案として認可させた。
- 背景
- 当時、国内で包装に使われていた「電球包み紙」は弾力に乏しく、化粧品の輸入に使われるドイツ製の緩衝紙が波型の段で弾力を持たせていた。職を転々とした末に東京へ戻った井上氏は、この舶来品の国産化に商機を見いだした。
- 内容
- 井上氏は出資者を得て品川の借家に波型ロールの機械を据え、二ヵ月の試行の末に段のそろった緩衝紙を仕上げた。候補のなかから語呂の良い「段ボール」を選んで命名し、事業名を三盛舎から三成社へ改めて市場に出した。
- 含意
- 呼び名すら無かった資材に名称と国産の製造手段を同時に与えたことで、国内に新しい商品カテゴリーが立ち上がった。先行者としてカテゴリーの標準を握ったことが、のちの垂直統合と業界首位の土台となった。
名づけることが、市場をつくった
この判断の核心は、技術の独創よりも、輸入品を分解して国産の製造手段に置き換え、そこに呼びやすい名前を添えた点にある。井上貞治郎氏は舶来の「なまこ紙」を手製の機械で作り替え、「段ボール」という語呂の良い呼び名を与えた。呼び名すら無かった資材に名称と国産品が同時に生まれたことで、国内にそれまで存在しなかった商品カテゴリーが立ち上がったとみることができる。先行者がカテゴリーの標準を握る強さが、その後の事業の土台になった。
井上氏の出発点は、綿密な市場調査ではなく、二畳の座敷での思案と手作業の試行錯誤にあった。偶然に近い連鎖が同氏を国産初の段ボール製造へ導いた経緯には、創業期における計画と偶発の入りまじりがうかがえる。井上氏自身も後年、段ボールとの縁を「私と段ボールとをつなぐ見えない糸」と振り返った。名づけと国産化が重なったこの創業は、標準を先に握った者がのちの垂直統合や業界再編の土台を得るという道筋を、規模でも資本でもなく名称と製法という無形の先行によって、早い時期に示している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
舶来の緩衝紙と、二畳の座敷での思案
1909年(明治42年)当時、日本で包装に使われていた「電球包み紙」は、一枚の紙を山型に縮ませただけで弾力に乏しく、押せばぺしゃんこに潰れた。これに対し、化粧品の輸入などに使われていたドイツ製の緩衝紙は、波型の紙をもう一枚の紙に貼り合わせ、しかも段の型が半円形で弾力に富んでいた。井上貞治郎氏は、俗に「なまこ紙」と呼ばれたこの舶来品を見て、同じものを国産で作ろうと思い立った。木箱に代わる軽い緩衝材の需要が細く芽生えるなかで、輸入頼みだった資材を自分の手で作る道を選んだ[1]。
井上氏は播州平野の農家に生まれ、十代から職を転々として朝鮮・満州・香港を流れ歩いた末に東京へ戻り、仲御徒町の月九十銭の二畳の借間を拠点に独立の道を探していた。「紙にしようか、メリケン粉にするか」と迷い、パン屋と紙器のあいだで思案を重ねた末に紙の道を選び、二十九歳で緩衝紙づくりに踏み込んだ。綿密な市場調査に基づく起業ではなく、失うもののない者の切迫と、手元で試せる小さな元手から出発した創業であった[2]。
決断
手製の機械での試作と「段ボール」という命名
1909年、井上氏は知人の紹介で三人の出資者を得て、品川の古寺の裏にある二十坪ほどの平屋を月五円で借り、波型を刻んだロール二本を木の支柱にわたした手製の機械を据えた。これが三盛舎の工場であった。運搬役の櫛原万造氏と、日給二十銭で雇った女工おげんさんの二人を使い、しわが左右そろわず紙が扇形になる、風に当たると段が伸びるといった不具合と二ヵ月格闘した。そして秋の気配が迫るころ、段のそろった製品を仕上げた。井上氏は飛び上がって喜び、焼芋をさかなに祝杯をあげたと後年に記している[3]。
完成した緩衝紙に名前を付けるにあたり、井上氏は弾力紙・波型紙・しぼりボール・コールゲーテッド・ボードなどを候補に挙げ、最も語呂の良い「段ボール」を選んだ。まもなく機械と製法が実用新案として出願・認可され、製品は「特許段ボール」として市場に出た。井上氏は出資者が離れたのを機に事業名を三盛舎から三成社へ改めた。国内にまだ呼び名すら無かった資材へ井上氏自身が名称を与え、その製造技術まで自前で確立したことで、国産の標準語と標準品が同氏の手から形づくられた[4][5]。
結果
電球梱包から外装箱へ、広がる用途
段ボールの需要をまず支えたのは、電球をはじめとする弱電製品の梱包であった。割れやすい電球を安全に運ぶには弾力のある緩衝材が欠かせず、井上氏は下谷根岸の栄立社を通じて多量の電球包装用紙の注文を受けた。この取引は、後年に聯合紙器の設立で世話になる東京電気(後の東芝)との最初の縁ともなった。国産化した緩衝材が、伸びていく工業製品の輸送を支える裏方として、早い時期に確かな売り先を得ていた[6]。
井上氏はさらに、本町のリーガル商会からの香水包装の注文に応え、国産で初めての両面段ボールを使った紙箱を仕上げた。これは日本での外装用段ボール箱、いわゆるバッキング・ケースの最初とされる。しわを寄せただけの緩衝材が、商品を包んで運ぶ箱へと用途を広げ、弱電・食品・日用品の生産が伸びるにつれて段ボールの需要も厚みを増していった。命名で立ち上げた新しい資材が、包む対象を得て産業の一部へと根を張った[7]。
先行者利得と、業界首位への布石
売り出しは浅草の洋紙店へ二百枚が手始めで、しばらくは赤字が続き、出資者はつぎつぎと離れていった。それでも井上氏は独りで事業を続け、1913年(大正2年)には手工業にとどまらないためにドイツから巻取り段ボール機械を三千円で輸入して量産へ移った。1914年に第一次大戦が始まると、電球や日用品の梱包需要が伸び、マツダランプの箱がウラジオ経由でロシアへ広がった。呼び名すら無かった資材に名称と製造技術を同時に与えたことが、後発が容易には追えない先行者利得となった[8]。
井上氏が名づけた「段ボール」は、その後の国内で包装資材の標準語として定着した。同氏が起こした個人事業はやがて同業を束ねる会社組織へと組み替わり、概略書は1968年時点で同社を段ボールの一貫生産で業界第一位を占める企業に成長したと記している。創業期の命名で得た先行者利得を工場網と原料調達で固めなおした構造は、現在まで受け継がれた。現在のレンゴーは国内の段ボール製品で首位に立ち、国内シェアはおよそ3割を占める[9][10]。
- 私の履歴書 経済人 第3巻「井上貞治郎」(日本経済新聞社, 1980)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- レンゴー 有価証券報告書 第157期(2025年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス(2025年2月14日)「段ボールの雄、レンゴー 『臭気探知犬』も使って国内シェア3割」