東洋紡:アクリル・ポリエステルへの参入と呉羽紡績との合併
1956年〜他社技術の取り込みで揃えた合繊4種と呉羽紡績の吸収
1956年9月、東洋紡績は住友化学工業との提携で日本エクスラン工業を立ち上げ、アクリル系繊維エクスランをもって合繊に初めて足を踏み入れた。インペリアル・ケミカル・インダストリーズとの提携を見送った同社は、合成繊維を自前で開発するのでなく、他社の技術を取り込む道を選んでいた。同業に先んじて自動連続紡績設備の開発にこぎ着けたのは1960年である。住友化学と再び組んだのは翌1961年3月で、イタリアのモンテカチーニ社からポリプロピレン繊維の特許実施権を取り、事業化に入った。ポリエステルは1964年5月に岩国工場で自社生産が始まったが、先発2社から8年遅れの参入だった。提携相手を替えながら扱う繊維を順に増やすやり方は、素材を自分で生み出す研究体制を持たない会社にとって現実的な選択だった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1956年9月、住友化学と提携して日本エクスラン工業を設立し、アクリル系合繊エクスランの紡織加工へ進出した
- [2]1960年に業界に先がけて自動連続紡績設備を開発した
- 株式会社年鑑 1963年版(東洋紡績・技術提携)
- [3]1961年3月にイタリアのモンテカチーニ社とポリプロピレン繊維の特許実施契約を締結し、住友化学と提携して企業化に着手した
- 東洋紡 有価証券報告書【沿革】
- [4]東洋紡のポリエステル参入は1964年5月の岩国工場稼働からだった
1965年11月、東洋紡績は呉羽紡績との合併を発表した。谷口豊三郎社長は狙いを『おもな合繊をすべて持った強力な紡績会社の設立』に置き、ナイロン・ポリエステル・アクリル・ポリプロピレンを一社に揃える体制の構築を掲げた。呉羽紡績は1929年設立の旧呉羽紡績を前身とし、戦時の企業整備統合令で大建産業に組み込まれたのち、1950年に第二会社として分離再発足した名門十大紡績の一社である。ナイロンは1962年6月から西独チンマー社の技術で企業化していた。折しも合繊業界は、ナイロン・フィラメントの供給過剰による初めての不況のさなかにあり、日本レイヨン・鐘淵紡績・三菱化成による日本エステル設立など再編が相次いでいた。東洋紡績が呉羽紡績を吸収して合併を完了させたのは、翌1966年4月である。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- [5]東洋紡績と呉羽紡績の合併は1965年11月に発表された
- [9]1965年の合繊不況はナイロン・フィラメントを中心とする供給過剰で起き、日本レイヨン・鐘淵紡績・三菱化成の三社が業務提携して日本エステルを設立するなど業界再編が相次いだ
- 日本経済新聞 1965年11月15日
- [6]谷口豊三郎社長は合併の最大の狙いを、おもな合繊をすべて持った強力な紡績会社の設立と語った
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [7]呉羽紡績は1929年設立の旧呉羽紡績を前身とし、企業整備統合令で大建産業を設立したのち1950年に第二会社として分離再発足した十大紡績会社の一社だった
- [8]呉羽紡績は1962年6月から西独チンマー社の技術でナイロンを企業化していた
- 東洋紡 有価証券報告書【沿革】
- [10]1966年4月に東洋紡績は呉羽紡績を吸収合併した
合併の代償はただちに数字へ表れた。1966年4月期は売上高848億円に対して当期純利益が2億5000万円まで落ち、前期の14億2000万円から8割以上減っている。合併と同時に社長へ就いた河崎邦夫氏は不良資産と不採算部門の整理を徹底し、その負担から二期にわたって無配とした。整理は1967年10月期の1割配当復活という形で実を結ぶが、合併が持ち込んだ課題はなお残った。子会社は約70社に膨れ、うち5割超を出資する会社が50社を占めるなか、同じ設備を両社が重ねて持つ二重投資が生じており、河崎氏は1968年の講演でこれを統合していく方針を示している。
- 株式会社年鑑(東洋紡績・単体)
- [11]1966年4月期の売上高は848億円、当期純利益は2億5000万円で、前期の当期純利益14億2000万円から大きく落ち込んだ
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [12]呉羽紡績との合併と同時に河崎邦夫氏が社長に就任し、不良資産と不採算部門を徹底的に整理したため二期間を無配とした
- [13]1967年10月期に1割配当を復活させた
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [14]子会社は約70社あり、うち50%以上を出資する会社が50社ほどを占め、呉羽紡績との合併で生じた二重投資を今後統合していく方針だった
参考文献[1]-[14]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1956年9月、住友化学と提携して日本エクスラン工業を設立し、アクリル系合繊エクスランの紡織加工へ進出した
- [2]1960年に業界に先がけて自動連続紡績設備を開発した
- [7]呉羽紡績は1929年設立の旧呉羽紡績を前身とし、企業整備統合令で大建産業を設立したのち1950年に第二会社として分離再発足した十大紡績会社の一社だった
- [8]呉羽紡績は1962年6月から西独チンマー社の技術でナイロンを企業化していた
- [12]呉羽紡績との合併と同時に河崎邦夫氏が社長に就任し、不良資産と不採算部門を徹底的に整理したため二期間を無配とした
- [13]1967年10月期に1割配当を復活させた
- 株式会社年鑑 1963年版(東洋紡績・技術提携)
- [3]1961年3月にイタリアのモンテカチーニ社とポリプロピレン繊維の特許実施契約を締結し、住友化学と提携して企業化に着手した
- 東洋紡 有価証券報告書【沿革】
- [4]東洋紡のポリエステル参入は1964年5月の岩国工場稼働からだった
- [10]1966年4月に東洋紡績は呉羽紡績を吸収合併した
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- [5]東洋紡績と呉羽紡績の合併は1965年11月に発表された
- [9]1965年の合繊不況はナイロン・フィラメントを中心とする供給過剰で起き、日本レイヨン・鐘淵紡績・三菱化成の三社が業務提携して日本エステルを設立するなど業界再編が相次いだ
- 日本経済新聞 1965年11月15日
- [6]谷口豊三郎社長は合併の最大の狙いを、おもな合繊をすべて持った強力な紡績会社の設立と語った
- 株式会社年鑑(東洋紡績・単体)
- [11]1966年4月期の売上高は848億円、当期純利益は2億5000万円で、前期の当期純利益14億2000万円から大きく落ち込んだ
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [14]子会社は約70社あり、うち50%以上を出資する会社が50社ほどを占め、呉羽紡績との合併で生じた二重投資を今後統合していく方針だった
1966年〜自家紡織による最終製品化と24時間三交替への設備近代化
後発で合繊に入った東洋紡績には、先発と同じ売り方ができない事情があった。ポリエステルを綿状のステープルのまま出荷しようにも先発各社の販路が先に埋まっており、自社の紡織設備を使って糸・布・加工布まで仕上げて売る方法を当初から採る。紡機を合繊向けに改良する手間を避けるためステープルよりフィラメントを伸ばしたところ、テトロンの商品名で売る先発各社がフィラメントをあまり手がけていなかったため、後発としては業績が上がった。1968年4月末の生産能力はポリエステルが日産62トン、ナイロンが日産52トンに達し、日産50トンという経済単位を越えている。工程を深くもつ紡績会社であることが、素材の遅れを一部まで埋め合わせた。
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [15]後発のため綿状での販売が難しく、自家紡織設備を使って最終の糸・布・加工布にして販売する方法を当初から採った
- [16]紡機を合繊紡向けに改良する必要からステープルよりフィラメントを伸ばし、先発各社がテトロンフィラメントをあまり手がけなかったため後発のわりに業績が上がった
- [17]1968年4月末のポリエステル設備は日産62トン、ナイロン設備は日産52トンで、合繊部門は日産50トンの経済単位を越えた
合繊を増やす一方で、本業の綿紡は設備をどう減らすかという問題に直面していた。1967年8月に特定繊維工業臨時措置法が施行され、過剰紡機の破砕が実施される。業界全体で100万錘を廃棄する計画で、70万〜80万錘は各社の所有錘数に比例した強制買上げ、残りは任意供出とされ、買上げ価格は1錘あたり3000円と5000〜6000円に分かれた。東洋紡績の登録錘数は110万錘から90万錘へ減るが、実働は100万錘だったため実質の減少は10万錘にとどまる。減った分は操業時間で取り返す計画で、18時間二交替を24時間三交替へ移し、1968年時点で8万錘を三交替で動かしながら、年内に26万錘へ広げる準備を6工場で進めていた。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- [18]1967年8月に特定繊維工業臨時措置法が施行され、過剰紡機の破砕や綿スフ織機などの廃棄が実施された
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [19]業界全体で100万錘を廃棄し、うち70万〜80万錘は各社の所有錘数に比例した強制買上げで1錘3000円、残る20万〜30万錘は任意供出で5000〜6000円とされた
- [20]東洋紡績の登録錘数110万錘は一括廃棄後に90万錘となるが、実働錘数は100万錘だったため実質の減少は10万錘にとどまった
- [21]18時間二交替を24時間三交替へ移し、1968年時点で8万錘を三交替で操業しながら年内に26万錘へ広げる準備を6工場で進めていた
三交替への移行は労働力の逼迫が強いた面もあった。紡績が主たる労働力としてきた中卒女子は、進学率の向上と出生率の低下で絶対数が減り、労働基準法が女子の深夜作業を禁じていたため、深夜帯は賃金水準の高い男子に頼らざるを得なかった。人を機械に置き換える投資は女子労働者1人あたり150万〜200万円を要し、紡機だけで年20億円の補修・改良費が投じられている。同じ1968年の2月には、採算の悪化した犬山工場のパルプ生産を廃止して権利を東北パルプへ譲渡し、翌3月に化成品事業部を発足させて、衣料繊維としては不成功だったポリプロピレンをフィルムへ回す判断が下された。
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [22]紡績が主たる労働力としてきた中卒女子は進学率の向上と出生率の低下で絶対数が減少していた
- [23]労働基準法により女子は深夜作業に使用できないため、24時間三交替の深夜帯は賃金水準の高い男子に頼らざるを得なかった
- [24]近代化投資は女子労働者1人を省くのに150万〜200万円を要した
- [25]紡機だけで年間20億円の補修・改良費を投じていた
- 東洋紡 有価証券報告書【沿革】
- [26]1968年2月に犬山工場のパルプ生産を廃止して権利を東北パルプへ譲渡し、同年3月に化成品事業部を発足させ、衣料繊維として不成功だったポリプロピレンをフィルム・プラスチック用途へ転じた
参考文献[15]-[26]
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [15]後発のため綿状での販売が難しく、自家紡織設備を使って最終の糸・布・加工布にして販売する方法を当初から採った
- [16]紡機を合繊紡向けに改良する必要からステープルよりフィラメントを伸ばし、先発各社がテトロンフィラメントをあまり手がけなかったため後発のわりに業績が上がった
- [17]1968年4月末のポリエステル設備は日産62トン、ナイロン設備は日産52トンで、合繊部門は日産50トンの経済単位を越えた
- [19]業界全体で100万錘を廃棄し、うち70万〜80万錘は各社の所有錘数に比例した強制買上げで1錘3000円、残る20万〜30万錘は任意供出で5000〜6000円とされた
- [20]東洋紡績の登録錘数110万錘は一括廃棄後に90万錘となるが、実働錘数は100万錘だったため実質の減少は10万錘にとどまった
- [21]18時間二交替を24時間三交替へ移し、1968年時点で8万錘を三交替で操業しながら年内に26万錘へ広げる準備を6工場で進めていた
- [22]紡績が主たる労働力としてきた中卒女子は進学率の向上と出生率の低下で絶対数が減少していた
- [23]労働基準法により女子は深夜作業に使用できないため、24時間三交替の深夜帯は賃金水準の高い男子に頼らざるを得なかった
- [24]近代化投資は女子労働者1人を省くのに150万〜200万円を要した
- [25]紡機だけで年間20億円の補修・改良費を投じていた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- [18]1967年8月に特定繊維工業臨時措置法が施行され、過剰紡機の破砕や綿スフ織機などの廃棄が実施された
- 東洋紡 有価証券報告書【沿革】
- [26]1968年2月に犬山工場のパルプ生産を廃止して権利を東北パルプへ譲渡し、同年3月に化成品事業部を発足させ、衣料繊維として不成功だったポリプロピレンをフィルム・プラスチック用途へ転じた
1971年〜対米輸出規制と戦後最大の繊維不況から85年ビジョンへ
1960年代末の東洋紡績にとって輸出は再拡大すべき柱だった。1968年4月期の輸出比率は28.2%で、かつて6割に達した水準から下がってはいたが、原綿・原毛を輸入に頼る以上は外貨収支を黒字に保つ必要があり、河崎氏は早期に3割へ戻す考えを示していた。その前提を崩したのが米国の輸入規制である。1968年11月、毛と化合繊を含む全繊維品への規制拡大を公約したニクソン氏が大統領に選ばれると、規制問題は業界運動の域を脱して日米政府間の課題へ移った。1970年には19団体により日本繊維産業連盟が設立され、谷口豊三郎氏が会長として業界の納得による解決を働きかけたが、1972年1月、毛製品と人造繊維製品の貿易に関する日米間の取極が調印される。
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [27]1968年4月期の輸出比率は28.2%で、かつて60%に達した水準から下がっており、河崎邦夫社長は早期に30%へ戻す考えを示していた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- [28]1968年11月に毛と化合繊を含む全繊維品への輸入規制拡大を公約したニクソン氏が大統領に選出され、毛化合繊の輸入規制問題は日米政府間の課題へ発展した
- [29]1970年に19団体により日本繊維産業連盟が設立され、谷口豊三郎氏が会長としてガットルールに基づく業界の納得による解決を政府や国会へ働きかけた
- [30]1972年1月4日にワシントンで日米間の毛製品及び人造繊維製品の貿易に関する取極が正式に調印された
規制の実施に続いて、1971年8月のニクソンショックと同年12月の1ドル308円への切り上げが重なり、合繊輸出は伸び悩んだ。ところが1972年に発足した田中角栄内閣の列島改造政策がインフレを招くと、繊維各段階の業者が一斉に在庫を積み増し、原料価格と糸相場が急騰する。1973年度上期の綿紡9社の売上高利益率は10.0%と朝鮮戦争以来の水準に達し、東洋紡績も1974年4月期に売上高3115億円・当期純利益78億円を計上した。だがこれは実需ではなく仮需の膨張で、1974年2月以降の総需要抑制策で需給ギャップが開くと、戦後最大の繊維不況へ転じる。同年6月21日に社長へ就いた大谷一二氏を待っていたのは、翌1975年4月期の7億円の赤字だった。
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- [31]1971年8月のニクソンショックと同年12月のスミソニアン合意による1ドル308円への切り上げで、合繊輸出は1971年ごろから伸び悩み国内市況も急落した
- [32]1972年7月発足の田中角栄内閣が日本列島改造計画によるインフレ政策を進め、繊維各段階の業者の買い急ぎで原料価格と糸相場が急上昇した
- [33]1973年度上期の綿紡9社の売上高利益率は10.0%と朝鮮戦争時以来の水準に達した
- [35]1973年末の石油ショック後、1974年2月以降の金融引き締めと総需要抑制政策で需給ギャップが拡大し、構造不況ともいうべき戦後最大の繊維不況に突入した
- 株式会社年鑑(東洋紡績・単体)
- [34]1974年4月期の売上高は3115億円、当期純利益は78億円だった
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- [36]大谷一二氏は1974年6月21日に社長へ就任した
不況は長引いた。宇野收社長は、名門の会社が抱えがちな保守的な体質を改めることを課題とし、社員に『厳しい80年代の嵐に立ち向うには、リスクに挑戦する意気込み、力強い野生が必要です』と求めた。業績は1976年4月期に229億円の経常赤字へ落ち込み、1978年4月期も経常で97億円、最終で34億円の赤字が出ていた。立て直しは1978年5月から1981年4月までの3カ年計画で、「Ido運動」「チャレンジ100」と名付けて進められた。1979年4月期には経常利益103億円・当期純利益22億円を上げ、4年ぶりに黒字となった。続いて1980年に打ち出した「85年ビジョン」では、売上高4500億円、経常利益200億円、非繊維部門の比率13%を目標に掲げ、繊維から手を引くのでなく、景気の波に振られにくい繊維事業を築くことをねらった。創業100年を前に掲げられたこの目標は、10年かけて揃えた四つの合繊がもう収益の源ではなくなったという認識の裏返しでもあった。
- 『80年代わが社の戦略』(1980年)東洋紡績
- [37]宇野收社長は名門企業にありがちな保守的な体質を一新しようと社員の意識改革に力を入れ、リスクに挑戦する意気込みを求めた
- [39]1978年5月から1981年4月までの3カ年計画に「Ido運動」「チャレンジ100」のスローガンで取り組み、1979年4月期に4年ぶりの黒字となった
- 株式会社年鑑(東洋紡績・単体)
- [38]1976年4月期の経常損益は229億円の赤字、1978年4月期は97億円の経常赤字と34億円の当期純損失だった
- 証券アナリストジャーナル 1982年 第20巻第8号
- [40]85年ビジョンは売上高4500億円・経常利益200億円・非繊維部門比率13%を目標とした
- [41]85年ビジョンの狙いは、繊維から逃げ出すのではなく好況不況に影響されにくい収益性の安定した繊維事業を確立することにあった
参考文献[27]-[41]
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- [27]1968年4月期の輸出比率は28.2%で、かつて60%に達した水準から下がっており、河崎邦夫社長は早期に30%へ戻す考えを示していた
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- [28]1968年11月に毛と化合繊を含む全繊維品への輸入規制拡大を公約したニクソン氏が大統領に選出され、毛化合繊の輸入規制問題は日米政府間の課題へ発展した
- [29]1970年に19団体により日本繊維産業連盟が設立され、谷口豊三郎氏が会長としてガットルールに基づく業界の納得による解決を政府や国会へ働きかけた
- [30]1972年1月4日にワシントンで日米間の毛製品及び人造繊維製品の貿易に関する取極が正式に調印された
- [31]1971年8月のニクソンショックと同年12月のスミソニアン合意による1ドル308円への切り上げで、合繊輸出は1971年ごろから伸び悩み国内市況も急落した
- [32]1972年7月発足の田中角栄内閣が日本列島改造計画によるインフレ政策を進め、繊維各段階の業者の買い急ぎで原料価格と糸相場が急上昇した
- [33]1973年度上期の綿紡9社の売上高利益率は10.0%と朝鮮戦争時以来の水準に達した
- [35]1973年末の石油ショック後、1974年2月以降の金融引き締めと総需要抑制政策で需給ギャップが拡大し、構造不況ともいうべき戦後最大の繊維不況に突入した
- 株式会社年鑑(東洋紡績・単体)
- [34]1974年4月期の売上高は3115億円、当期純利益は78億円だった
- [38]1976年4月期の経常損益は229億円の赤字、1978年4月期は97億円の経常赤字と34億円の当期純損失だった
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- [36]大谷一二氏は1974年6月21日に社長へ就任した
- 『80年代わが社の戦略』(1980年)東洋紡績
- [37]宇野收社長は名門企業にありがちな保守的な体質を一新しようと社員の意識改革に力を入れ、リスクに挑戦する意気込みを求めた
- [39]1978年5月から1981年4月までの3カ年計画に「Ido運動」「チャレンジ100」のスローガンで取り組み、1979年4月期に4年ぶりの黒字となった
- 証券アナリストジャーナル 1982年 第20巻第8号
- [40]85年ビジョンは売上高4500億円・経常利益200億円・非繊維部門比率13%を目標とした
- [41]85年ビジョンの狙いは、繊維から逃げ出すのではなく好況不況に影響されにくい収益性の安定した繊維事業を確立することにあった
筆者考察
揃えた代償は、どれも後発だったことである。ポリエステルを綿状で売ろうにも先発の販路は先に埋まっており、東洋紡績は自社の紡織設備で糸と布まで仕上げて出す道を選んだ。先発が手薄だったフィラメントへ回ったのもそのためで、後発の位置が工程の深さを強いた形になる。だが1972年の対米輸出規制と1974年以降の繊維不況は、工程の深さでは吸収できない規模の需要減だった。1976年4月期に経常赤字229億円を出したあと、宇野收が1980年の85年ビジョンで非繊維13%を掲げたのは、10年かけて揃えた四つの合繊そのものが、もう収益の源ではなくなったという認識からだろう。
1956年〜1981年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1956年04月期 | 単体 | 458 | n/a | n/a | 25 | 5.6% | INDUSTRIAS UNIDAS, S.A.を設立(1955/12) |
| 1957年04月期 | 単体 | 513 | +12.0% | n/a | 55 | 10.8% | n/a |
| 1958年04月期 | 単体 | 467 | ▲9.0% | n/a | 28 | 6.2% | n/a |
| 1959年04月期 | 単体 | 406 | ▲13.1% | n/a | 7 | 1.7% | n/a |
| 1960年04月期 | 単体 | 525 | +29.3% | n/a | 22 | 4.3% | n/a |
| 1961年04月期 | 単体 | 538 | +2.5% | n/a | 21 | 4.1% | n/a |
| 1962年04月期 | 単体 | 621 | +15.4% | n/a | 13 | 2.1% | n/a |
| 1963年04月期 | 単体 | 622 | +0.2% | n/a | 14 | 2.3% | n/a |
| 1964年04月期 | 単体 | 745 | +19.8% | n/a | 17 | 2.4% | n/a |
| 1965年04月期 | 単体 | 852 | +14.4% | n/a | 14 | 1.7% | n/a |
| 1966年04月期 | 単体 | 848 | ▲0.5% | n/a | 2 | 0.3% | n/a |
| 1967年04月期 | 単体 | 1,422 | +67.7% | n/a | 1 | 0.1% | n/a |
| 1968年04月期 | 単体 | 1,557 | +9.5% | n/a | 27 | 1.8% | n/a |
| 1969年04月期 | 単体 | 1,714 | +10.1% | n/a | 32 | 1.9% | n/a |
| 1970年04月期 | 単体 | 1,926 | +12.4% | n/a | 37 | 1.9% | n/a |
| 1971年04月期 | 単体 | 2,027 | +5.2% | n/a | 38 | 1.9% | n/a |
| 1972年04月期 | 単体 | 2,057 | +1.5% | n/a | 21 | 1.0% | n/a |
| 1973年04月期 | 単体 | 2,271 | +10.4% | n/a | 32 | 1.4% | n/a |
| 1974年04月期 | 単体 | 3,115 | +37.2% | n/a | 78 | 2.5% | n/a |
| 1975年04月期 | 単体 | 2,534 | ▲18.7% | n/a | ▲7 | ▲0.3% | n/a |
| 1976年04月期 | 単体 | 2,803 | +10.6% | ▲229 | ▲10 | ▲0.4% | n/a |
| 1977年04月期 | 単体 | 2,380 | ▲15.1% | ▲98 | 18 | 0.8% | n/a |
| 1978年04月期 | 単体 | 2,117 | ▲11.1% | ▲97 | ▲34 | ▲1.6% | n/a |
| 1979年04月期 | 単体 | 2,149 | +1.5% | 103 | 22 | 1.0% | n/a |
| 1980年04月期 | 単体 | 2,475 | +15.2% | 90 | 32 | 1.3% | n/a |
| 1981年04月期 | 単体 | 2,639 | +6.6% | 23 | 21 | 0.8% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
10件
- 東洋紡 有価証券報告書【沿革】
- 株式会社年鑑 1963年版(東洋紡績・技術提携)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 日本産業史(日経文庫)第3巻 繊維「繊維-輸入規制で打撃」
- 株式会社年鑑(東洋紡績・単体)
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- 証券アナリストジャーナル 1982年 第20巻第8号
- 日本経済新聞 1965年11月15日
- 『80年代わが社の戦略』(1980年)東洋紡績