ケンコーマヨネーズ:森本商店の設立と業務用マヨネーズ専門メーカーへの転換
1952年〜森本商店の食用油から業務用サラダ向けマヨネーズへ
ケンコーマヨネーズの前身は、1952年3月に設立された有限会社森本商店であるが、その創業については不明な点が多い。森本商店は1958年3月に森本油脂株式会社へ組織変更し、サラダ油の製造からマヨネーズの製造へ事業を拡張した。1961年9月には業務用サラダ向けの「ケンコーマヨネーズAS」を発売し、同時に食用油の販売を中止。1966年6月にケンコー・マヨネーズ株式会社へ商号変更し、1967年10月に神戸市灘区へ神戸工場を新設して本社を移転した。森本商店と森本油脂を興した人物の名を伝える資料は手元に無く、1970年までの経営の実態も分からない。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- [1]1952年3月、当社の前身である有限会社森本商店を設立した。
- [2]1958年3月、森本油脂株式会社に組織変更した。
- [4]1961年9月、業務用サラダ向マヨネーズ「ケンコーマヨネーズAS」の製造販売を開始し、食用油販売を中止した。
- [5]1966年6月、ケンコー・マヨネーズ株式会社に商号変更した。
- [6]1967年10月、神戸市灘区に神戸工場を新設し、本社を移転した。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [3]前身の森本油脂はサラダ油製造からマヨネーズを手がけた。
ケンコー・マヨネーズの特色は、家庭用ではなく業務用(BtoB)のマヨネーズに販路を絞って出発した点に集約される。1970年代末のマヨネーズ市場は、キユーピーと味の素の2社で9割以上を占める寡占市場だった。発足当初のケンコー・マヨネーズには、先行メーカーのブランドが並ぶ家庭用の売り場へ参入する販売力が無く、家庭用の市場でのシェア奪還は難しい状況にあった。これに対して業務用の取引は知名度よりも、味やコストの優劣で決まり、仕入れや調理の担当者が製品を直に試食して採否を判断することが購買行動につながった。1979年時点におけるケンコー・マヨネーズの得意先は、サラダを売る惣菜店、調理パン工場、ホテル、レストランといった食味を自ら評価する業務用が大半を占めた。『名前だけでは商売ができない』市場を選んだことで、知名度で劣る後発のケンコー・マヨネーズは食味の優劣で大手2社と競合できた。
- 総合食品 第9巻第11号(通巻107号・1986年4月)「ザ・メーカー メニュー提案の実績を生かし開発・開拓型企業に前進」
- [7]一般家庭用のマヨネーズではなく、スタートの段階から業務用製品に絞ってきた。
- 矢野経済研究所『食品産業白書 1979年版 業界動向編』矢野経済研究所, 1979年
- [8]マヨネーズ市場はキユーピー、味の素の2大メーカーで9割以上を占める有数の寡占市場である(1979年版)。
- 2020 AIM 第176号(2000年)「製・販の取組みによる新たな価値創造・価値開発へのチャレンジ ケンコーマヨネーズの新たな挑戦」
- [9]発足当初は既成の市販市場になかなか入っていけず、比較的参入しやすいのが業務用市場だった。
- [10]業務用の世界は知名度よりもうまいかまずいかが基本の勝負で、商品を直接持っていき仕入れや調理の担当者に判断してもらえる。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [11]得意先はサラダを売るおかず屋、調理パン工場、ホテル、レストランなどプロが大半で、それぞれ味に一家言を持つ。
参考文献[1]-[11]
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- [1]1952年3月、当社の前身である有限会社森本商店を設立した。
- [2]1958年3月、森本油脂株式会社に組織変更した。
- [4]1961年9月、業務用サラダ向マヨネーズ「ケンコーマヨネーズAS」の製造販売を開始し、食用油販売を中止した。
- [5]1966年6月、ケンコー・マヨネーズ株式会社に商号変更した。
- [6]1967年10月、神戸市灘区に神戸工場を新設し、本社を移転した。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [3]前身の森本油脂はサラダ油製造からマヨネーズを手がけた。
- [11]得意先はサラダを売るおかず屋、調理パン工場、ホテル、レストランなどプロが大半で、それぞれ味に一家言を持つ。
- 総合食品 第9巻第11号(通巻107号・1986年4月)「ザ・メーカー メニュー提案の実績を生かし開発・開拓型企業に前進」
- [7]一般家庭用のマヨネーズではなく、スタートの段階から業務用製品に絞ってきた。
- 矢野経済研究所『食品産業白書 1979年版 業界動向編』矢野経済研究所, 1979年
- [8]マヨネーズ市場はキユーピー、味の素の2大メーカーで9割以上を占める有数の寡占市場である(1979年版)。
- 2020 AIM 第176号(2000年)「製・販の取組みによる新たな価値創造・価値開発へのチャレンジ ケンコーマヨネーズの新たな挑戦」
- [9]発足当初は既成の市販市場になかなか入っていけず、比較的参入しやすいのが業務用市場だった。
- [10]業務用の世界は知名度よりもうまいかまずいかが基本の勝負で、商品を直接持っていき仕入れや調理の担当者に判断してもらえる。
1970年〜キユーピー工場次長の派遣と、従業員30人からの再建
1970年8月、キユーピーの製造部門で10年を過ごし工場次長になっていた松生睦氏が、業績の傾いたケンコー・マヨネーズの再建役として専務に送り込まれた。当時の同社は従業員30人・年商3億円ほどで、同業者からは1年半ももたないと見られていた。松生氏は立て直せば古巣へ戻るつもりだったが、残る社員を見て考えを改め、12月に社長へ就任するとキユーピーを退職し、神戸に自宅を買った。直前の11月には業務用マヨネーズの専門メーカーへ転じている。株はその後もキユーピー創業家の中島家が持ち、松生氏の会社として名実ともに独立したのは1994年の店頭公開で保有株を手放してもらった時である。1979年の企業紹介は、35歳で招かれた松生氏が経営権を買い取ったと伝えている。後年、松生氏はこの年を『実質創業で再スタート』と呼んだ。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」
- [12]1970年8月、キユーピーの工場次長だった松生睦氏が、ケンコーマヨネーズ再建のため同社専務として派遣された。入社から10年は製造部門に従事していた。
- [13]1970年当時のケンコーマヨネーズは従業員30人、年商3億円程度で、業界では1年半もてばよいと言われていた。
- [14]再建後は戻るつもりだったが、社員の様子を見て残る覚悟を決め、1970年12月に社長に就任。キユーピーから退職金を受け取り、神戸に家を買った。
- [16]1994年11月1日の店頭公開を機に、キユーピー創業者の中島家からケンコーマヨネーズの保有株を放出してもらい、名実ともに独立した。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- [15]1970年11月、業務用マヨネーズ専門メーカーとなった。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [17]松生社長は35歳の時に同社にスカウトされ、1970年に経営権を買い取った。
最初の壁は信用だった。品質や熱意は認めても、名の通らないメーカーの品は仕入れられないと、問屋の経営者やレストランの料理長に断られ続けた。松生睦社長が活路を求めたのは、神戸と関西の煮豆・佃煮店である。食の洋風化で煮豆・佃煮の売れ行きが鈍り始めていたのを見て、惣菜の主役はサラダへ移ると読んだ。営業担当は店を連日回り、サラダの作り方から配合、原価、売り場での見せ方までを持ち込んで、その材料に自社のマヨネーズを勧めた。製品の仕様も惣菜づくりに合わせて改めた。競合が3度通う相手には4度足を運ぶ粘りで、社員は「スッポン」とあだ名され、深夜まで営業と開発に当たる日々が1976年ごろまで続いた。売ったのは調味料ではなく、それを使う惣菜の献立だった。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」
- [18]商品の良さも熱意もわかるが信用と知名度がないとして、問屋の社長やレストランのコック長に納品を断られた。
- [24]競合より多く問屋を訪ね、取引先を奪われれば奪い返す営業で社員は「スッポン」と呼ばれた。午前1時ごろまで営業・商品開発に当たる状態が1976年ごろまで続いた。
- 総合食品 第9巻第11号(通巻107号・1986年4月)「ザ・メーカー メニュー提案の実績を生かし開発・開拓型企業に前進」
- [19]神戸・関西方面を中心に、煮豆・佃煮屋(今でいう惣菜屋)に向けて業務用製品をつくることから始めた。
- [20]1970年当時、煮豆・佃煮は食の洋風化に伴って伸び悩みをみせ始めていた。
- [21]今後の惣菜は洋風化し、煮豆・佃煮のタイプではなくサラダを中心にした洋風惣菜のほうがよいと考えた。
- [22]煮豆・佃煮屋を対象に、サラダのつくり方・配合・原価・目立つ陳列を示し、マヨネーズは当社製品を使ってほしいと毎日紹介して回った。
- [23]製品自体も、そうした惣菜をつくるのに一番適するよう改良・開発した。
提案営業の担い手は社外から集めた。松生睦社長は自分より優秀な人間を大勢そろえなければ大企業の壁は破れないと考え、学校時代の友人やつてをたどって候補を探し、見込んだ相手は1年、2年とかけて口説いた。移ってきたのは鉄材や住宅の営業出身者など食品の素人が多く、神戸で自宅を探した際に住宅展示場で最も熱心だった積水ハウスの営業担当者を引き抜いた例もある。幹部の報酬は同業より1〜2割高く据え、『人が背広3着持つ時は我々は5着持とう』と処遇の差を示した。1979年1月時点で従業員220人のうち幹部約30人がこうした中途組で、1995年には幹部40人全員が松生氏自ら招いた人材だった。
- 日経ビジネス 1979年1月29日号(第232号), p128-130
- [25]「自分より優秀な人材をどっさり集めなければ、大企業のカベは破れない」と考えてスカウトに乗り出した。
- [26]大学、高校、中学の友人とつてを求めて人を探し、これと見込んだ人物は1年、2年をかけてじっくり口説き落とした。
- [27]集まったのは食品には素人ばかりで、鉄材を販売していた人も住宅を売っていたセールスマンもおり、著名な一流企業の人材も少なくない。
- [29]幹部の収入は、同業他社のレベルより1〜2割高くしている。
- [30]「人が背広3着持つ時は我々は5着持とう。人が2DKに住むなら、我々は3DKに住もう」と松生社長は社員に呼びかける。
- [31]現在220人の従業員のうち、部長、次長、課長などの幹部約30人は人脈をたどって引き抜いた社員ばかりである(1979年1月)。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」
- [28]社長就任後に神戸で家を買った際、展示場で最も熱心に説明した積水ハウスの営業マンをスカウトした。その人物はのちに名古屋支店長を務めた。
- [32]幹部社員40人はすべて松生社長のスカウトによる(1995年)。
参考文献[12]-[32]
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」
- [12]1970年8月、キユーピーの工場次長だった松生睦氏が、ケンコーマヨネーズ再建のため同社専務として派遣された。入社から10年は製造部門に従事していた。
- [13]1970年当時のケンコーマヨネーズは従業員30人、年商3億円程度で、業界では1年半もてばよいと言われていた。
- [14]再建後は戻るつもりだったが、社員の様子を見て残る覚悟を決め、1970年12月に社長に就任。キユーピーから退職金を受け取り、神戸に家を買った。
- [16]1994年11月1日の店頭公開を機に、キユーピー創業者の中島家からケンコーマヨネーズの保有株を放出してもらい、名実ともに独立した。
- [18]商品の良さも熱意もわかるが信用と知名度がないとして、問屋の社長やレストランのコック長に納品を断られた。
- [24]競合より多く問屋を訪ね、取引先を奪われれば奪い返す営業で社員は「スッポン」と呼ばれた。午前1時ごろまで営業・商品開発に当たる状態が1976年ごろまで続いた。
- [28]社長就任後に神戸で家を買った際、展示場で最も熱心に説明した積水ハウスの営業マンをスカウトした。その人物はのちに名古屋支店長を務めた。
- [32]幹部社員40人はすべて松生社長のスカウトによる(1995年)。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- [15]1970年11月、業務用マヨネーズ専門メーカーとなった。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [17]松生社長は35歳の時に同社にスカウトされ、1970年に経営権を買い取った。
- 総合食品 第9巻第11号(通巻107号・1986年4月)「ザ・メーカー メニュー提案の実績を生かし開発・開拓型企業に前進」
- [19]神戸・関西方面を中心に、煮豆・佃煮屋(今でいう惣菜屋)に向けて業務用製品をつくることから始めた。
- [20]1970年当時、煮豆・佃煮は食の洋風化に伴って伸び悩みをみせ始めていた。
- [21]今後の惣菜は洋風化し、煮豆・佃煮のタイプではなくサラダを中心にした洋風惣菜のほうがよいと考えた。
- [22]煮豆・佃煮屋を対象に、サラダのつくり方・配合・原価・目立つ陳列を示し、マヨネーズは当社製品を使ってほしいと毎日紹介して回った。
- [23]製品自体も、そうした惣菜をつくるのに一番適するよう改良・開発した。
- 日経ビジネス 1979年1月29日号(第232号), p128-130
- [25]「自分より優秀な人材をどっさり集めなければ、大企業のカベは破れない」と考えてスカウトに乗り出した。
- [26]大学、高校、中学の友人とつてを求めて人を探し、これと見込んだ人物は1年、2年をかけてじっくり口説き落とした。
- [27]集まったのは食品には素人ばかりで、鉄材を販売していた人も住宅を売っていたセールスマンもおり、著名な一流企業の人材も少なくない。
- [29]幹部の収入は、同業他社のレベルより1〜2割高くしている。
- [30]「人が背広3着持つ時は我々は5着持とう。人が2DKに住むなら、我々は3DKに住もう」と松生社長は社員に呼びかける。
- [31]現在220人の従業員のうち、部長、次長、課長などの幹部約30人は人脈をたどって引き抜いた社員ばかりである(1979年1月)。
1977年〜業界初のロングライフサラダと業務用マヨネーズのシェア5割
惣菜店の次に開拓対象としたのは、食パンを使うサンドイッチと調理パンの市場だった。サラダや卵は劣化と腐敗が速く、春から夏にかけてはパンの具材に使えなかった。マヨネーズは加熱や防腐剤なしでも日持ちするため、ケンコー・マヨネーズはこの特性をサラダの保存に生かす研究を進めた。最初の試作品は黒く変色して食感も劣化し、取引先に採用されなかった。改良を経て1977年10月、業界初のロングライフサラダ「ファッションデリカフーズ」を発売した。日持ちの鍵は、製造初期の菌数を抑えることだった。卵白を使った加工品の開発にも注力し、ゆで卵をソーセージ状に加工した具材には1カ月の品質保証を付けた。保存性と食味という相反する条件を両立させ、ケンコー・マヨネーズは調味料の納入業者から製パン業者への具材の供給元へ事業領域を広げた。
- 総合食品 第9巻第11号(通巻107号・1986年4月)「ザ・メーカー メニュー提案の実績を生かし開発・開拓型企業に前進」
- [33]次に対象にしたのがパン屋関連で、食パンを使ってサンドイッチや調理パンを出した。
- [34]春から夏場にかけては衛生・品質上、劣化・腐敗が速いサラダ類や卵類をパンにはさむことができなかった。
- [35]マヨネーズは加熱や防腐剤なしでも日持ちするため、その特性を生かせないかと研究した。
- [36]最初につくった日持ちのするサラダ類はオカラのように黒くぼそぼそになり、なかなか受け入れられなかった。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第68期・2025年3月期)【沿革】
- [37]1977年10月、業界初のロングライフサラダ「ファッションデリカフーズ」を発売開始した。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」
- [38]日持ちサラダは、最初の製造段階での初菌数を減らすことで日持ち日数を大きく延ばした。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [39]卵白を生かした加工品の開発に力を入れ、ゆで卵をソーセージ状に加工した食品は1カ月の保証付きで日持ちがよい。
ケンコー・マヨネーズは1976年1月に東京都稲城市へ稲城工場を新設し、神戸と東京の東西に生産拠点を持った。1977年9月には研究開発部門を東京本部にも置いた。売上高は1976年2月期の2,854,337千円から、1978年2月期には4,419,161千円へ伸びた。オイルショック後も年率30%の増収を続け、1979年2月期の売上高は5,500百万円、経常利益は180百万円に達した。1979年時点の資本金は1億8千万円、従業員は220人だった。この増収は、1991年度まで22年途切れなかった2ケタ成長の前半にあたる。首都圏に工場と研究部門を置いたことで、関西の惣菜店から始まった取引は全国の業務用需要を対象とする規模へ拡大した。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- [40]1976年1月、東京都稲城市に稲城工場を新設した。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [41]東京に稲城工場を完成させて東西に拠点を持ち、1977年9月に研究開発部隊を東京本部にも置いた。
- [42]東京に稲城工場を完成させて東西に拠点を持ち、1977年9月に研究開発部隊を東京本部にも置いた。
- [43]売上高は1976年2月期2,854,337千円、1977年2月期3,621,417千円、1978年2月期4,419,161千円。
- [44]オイル・ショック後も年率30%の割合で伸びた。
- 矢野経済研究所『食品産業白書 1979年版 業界動向編』矢野経済研究所, 1979年
- [45]1979年2月期の売上高5,500百万円、経常利益180百万円(経常利益率3.3%)。
- [46]資本金1億8千万円、従業員数220人(1979年版)。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」
- [47]ケンコーマヨネーズは1991年度まで22年間2ケタ成長を続けた。
1979年時点で、ケンコー・マヨネーズは業務用マヨネーズ市場で50%を超えるシェアを握り、キユーピーと味の素を抑えた。ただしマヨネーズ市場全体でのシェアは5%にとどまった。国内の使用量は業務用で約2万トン、家庭用で約15万トンと推定され、大手メーカーも業務用の顧客基盤の切り崩しを狙った。ケンコー・マヨネーズはシェアの拡大に向け、1979年11月に神奈川県厚木市へ厚木工場を新設した。販売でもマヨネーズ料理を実演する展示会方式を打ち出した。松生睦社長は『業務筋の完全制覇』を当面の目標に掲げ、家庭用への進出は業務用を固めたのちの課題に据えた。家庭用の寡占を避けて業務用へ経営資源を集中したことが、後発のケンコー・マヨネーズを業務用市場の首位へ押し上げた。
- 矢野経済研究所『食品産業白書 1979年版 業界動向編』矢野経済研究所, 1979年
- [48]業務用市場だけでみると当社のシェアは50%を超え、キユーピー、味の素を完全に抑えている(1979年版)。
- [49]業務用を中心に急速にシェアを伸ばし、マヨネーズ市場全体で5%のシェアを占めるまでに成長した(1979年版)。
- [52]最近では「展示会方式」の新戦術を打ち出し、マヨネーズ料理の実演をしている。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [50]日本のマヨネーズ使用量は業務用で約2万トン、家庭用で約15万トンと推定され、大手メーカーもケンコーマヨネーズの"城"を崩そうと虎視たんたんとしている。
- [53]業務筋の完全制覇を当面の目標とし、業務筋を固めたうえで家庭用に進みたいとした。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- [51]1979年11月、神奈川県厚木市に厚木工場を新設した。
参考文献[33]-[53]
- 総合食品 第9巻第11号(通巻107号・1986年4月)「ザ・メーカー メニュー提案の実績を生かし開発・開拓型企業に前進」
- [33]次に対象にしたのがパン屋関連で、食パンを使ってサンドイッチや調理パンを出した。
- [34]春から夏場にかけては衛生・品質上、劣化・腐敗が速いサラダ類や卵類をパンにはさむことができなかった。
- [35]マヨネーズは加熱や防腐剤なしでも日持ちするため、その特性を生かせないかと研究した。
- [36]最初につくった日持ちのするサラダ類はオカラのように黒くぼそぼそになり、なかなか受け入れられなかった。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第68期・2025年3月期)【沿革】
- [37]1977年10月、業界初のロングライフサラダ「ファッションデリカフーズ」を発売開始した。
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」
- [38]日持ちサラダは、最初の製造段階での初菌数を減らすことで日持ち日数を大きく延ばした。
- [47]ケンコーマヨネーズは1991年度まで22年間2ケタ成長を続けた。
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- [39]卵白を生かした加工品の開発に力を入れ、ゆで卵をソーセージ状に加工した食品は1カ月の保証付きで日持ちがよい。
- [41]東京に稲城工場を完成させて東西に拠点を持ち、1977年9月に研究開発部隊を東京本部にも置いた。
- [42]東京に稲城工場を完成させて東西に拠点を持ち、1977年9月に研究開発部隊を東京本部にも置いた。
- [43]売上高は1976年2月期2,854,337千円、1977年2月期3,621,417千円、1978年2月期4,419,161千円。
- [44]オイル・ショック後も年率30%の割合で伸びた。
- [50]日本のマヨネーズ使用量は業務用で約2万トン、家庭用で約15万トンと推定され、大手メーカーもケンコーマヨネーズの"城"を崩そうと虎視たんたんとしている。
- [53]業務筋の完全制覇を当面の目標とし、業務筋を固めたうえで家庭用に進みたいとした。
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- [40]1976年1月、東京都稲城市に稲城工場を新設した。
- [51]1979年11月、神奈川県厚木市に厚木工場を新設した。
- 矢野経済研究所『食品産業白書 1979年版 業界動向編』矢野経済研究所, 1979年
- [45]1979年2月期の売上高5,500百万円、経常利益180百万円(経常利益率3.3%)。
- [46]資本金1億8千万円、従業員数220人(1979年版)。
- [48]業務用市場だけでみると当社のシェアは50%を超え、キユーピー、味の素を完全に抑えている(1979年版)。
- [49]業務用を中心に急速にシェアを伸ばし、マヨネーズ市場全体で5%のシェアを占めるまでに成長した(1979年版)。
- [52]最近では「展示会方式」の新戦術を打ち出し、マヨネーズ料理の実演をしている。
筆者考察
後発のケンコー・マヨネーズは、大手が本気で取りに来ない客を選んで寡占市場に参入した。1970年代末のマヨネーズ市場はキユーピーと味の素が9割以上を握り、先行メーカーのブランドが並ぶ家庭用の売り場に、発足したばかりのケンコー・マヨネーズが入り込む余地はない。残っていた業務用は、知名度ではなく味と原価で採否が決まり、仕入れや調理の担当者に現物を食べさせれば後発でも大手と競える市場だった。1970年にキユーピーの工場次長から再建役として送り込まれた35歳の松生睦が、信用の無さで問屋に門前払いされた末に訪ねたのは、食の洋風化で頭打ちになりかけていた神戸と関西の煮豆・佃煮店である。そこで売ったのはマヨネーズではなく、サラダの作り方と配合と原価と陳列の仕方だった。
この売り方は、商品よりも人を要した。松生睦は自分より優秀な人間を集めなければ大企業の壁は破れないと考え、鉄材や住宅を売っていた食品の素人を1年も2年もかけて口説き、同業より1割から2割高い報酬で引き留めた。1979年の幹部約30人は、そうして外から集めた中途社員である。彼らが調理場でその場でサラダを作ってみせる営業と、日持ちしないサラダを日持ちさせるロングライフサラダの技術が噛み合って、業務用マヨネーズの5割を握るに至った。ただし市場全体で見れば5%にすぎない。業務用の首位という位置は、家庭用の寡占を避けた見返りであると同時に、その外へ出られない天井でもあった。
- 1979年2月期は1979年1月時点の見通し。
出典・参考
8件
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第49期・2006年3月期)【沿革】
- ケンコーマヨネーズ 有価証券報告書(第68期・2025年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1979年1月29日号(第232号), p128-130
- 総合食品 第9巻第11号(通巻107号・1986年4月)「ザ・メーカー メニュー提案の実績を生かし開発・開拓型企業に前進」
- 2020 AIM 第176号(2000年)「製・販の取組みによる新たな価値創造・価値開発へのチャレンジ ケンコーマヨネーズの新たな挑戦」
- 日本経済新聞神戸支社 編『神戸の中堅百三十社』日本経済新聞社, 1979年, p76-77
- 矢野経済研究所『食品産業白書 1979年版 業界動向編』矢野経済研究所, 1979年
- 徳永卓三『ドラマを創った企業家たち』日経BP社, 1995年「弱い会社の悲哀を味わった男の「大きくて強い会社」への執念」