第1章 年〜年

カゴメ:蟹江一太郎のトマト栽培とカゴメ印の商標登録

1899年〜荒尾村の畑で芽吹いたトマトと、名古屋の梅澤商店へ卸したトマトソース

蟹江一太郎氏は1899年春、愛知県知多郡荒尾村の自家の畑で、トマト・キャベツ・ハクサイなどの西洋野菜の試作に取りかかった。発端は兵役中に上官から、米と麦だけの農業では先がなく西洋野菜に取り組むべきだと助言を受けたことにある。1898年11月末に除隊した蟹江一太郎氏の提案を、養父の蟹江甚之助氏は即座に受け入れ、知人の浅野末廣氏を訪ねて指導者の当てを付けた。浅野末廣氏の縁者で名古屋の農事試験場の職員である佐藤杉右衞門氏が横浜から種子を取り寄せ、荒尾村の土質を西洋野菜向きと見立てた。近在で栽培例のない作物に先んじて着手したことが、後の加工事業の原料を蟹江家にもたらしたと考えられる。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
    • [1]1899年春、蟹江一太郎が荒尾村の畑でトマト・キャベツ・ハクサイ等の西洋野菜の栽培を始めた
    • [4]1898年11月末に一太郎が帰郷、養父甚之助が提案を受け入れ知人の浅野末廣を訪ねた
    • [5]農事試験場の佐藤杉右衞門が横浜から種子を斡旋し、荒尾村の土質を西洋野菜に適すると評価した
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [2]蟹江一太郎は軍隊で上官に米麦だけでなく西洋野菜をやるよう助言され、除隊後にトマト等を作り始めた
  • 日経ビジネス 1979年1月29日号
    • [3]創業者が軍隊で上官から西洋野菜が有望と聞いたことがトマト事業の発端(蟹江一忠社長談)

栽培を始めたトマトは洋食店やホテルでも買い手が付かず、はじめの1、2年は収穫を畑で腐らせた。1902年、愛知県農事試験場に勤める技師の柘植権六氏が、米国ではトマトを加工して使うと蟹江一太郎氏に示唆した。蟹江一太郎氏は名古屋ホテルの厨房から輸入品のトマトソースを1瓶譲り受け、家族で味を確かめながら製法を推し量った。1903年7月に自宅の納屋で製造を始めた製品は、塩も香辛料も加えない現在ならトマトピューレーに分類される。初年度の56箱は販売の当てがなく、大半を名古屋の食品問屋梅澤岩吉商店が引き取り、1906年春には同商店と一手販売の契約を結んだ。梅澤岩吉商店への持ち込みを勧めたのは、最初の注文を出した名古屋の西洋料理店勝利亭を営む平野仲三郎氏だった。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
    • [6]当初トマトはホテル・西洋料理店でも売れず、最初の1〜2年は捨てるか畑で腐らせた
    • [7]1902年、農事試験場技師の柘植権六がアメリカではトマトを加工して使うと示唆した
    • [8]名古屋ホテルの厨房でトマトソースの実物を知り1瓶を入手、家族で試作した
    • [9]1903年7月、自宅納屋で製造開始。無調味で現在の規格ではトマトピューレー
    • [11]初年度56箱の大半を梅澤岩吉商店が引き取り、1906年春に一手販売契約(ビール瓶1本9銭)
    • [12]勝利亭主人の平野仲三郎が最初に製品を購入し、梅澤岩吉商店への持ち込みを勧めた
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [10]明治36年にトマトソース(現在のトマトピューレー)の試作に成功、国内初のトマト加工品

蟹江一太郎氏は1906年春、屋敷の脇に約60坪の工場を建て、トマトソースの製造を本格化した。近在でトマトを栽培する農家は蟹江家のほかになく、蟹江家の田畑は約1町3反。原料を確保するため、同じ年に収穫の全量を引き取る約束で近隣農家へトマトの栽培を委託した。工場の稼働は7月中旬から10月初めのトマトの季節に限られ、1907年に近隣で栽培の多いエンドウ豆のグリンピース缶詰を加えた。1908年に梅澤岩吉商店の指導を受けて新たに製造したのが、ウスターソースとトマトケチャップである。季節を問わず製造できるウスターソースは、初年からトマトソースの4倍を超える売上を記録した。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
    • [13]1906年春、屋敷の傍に約60坪の最初の工場を建てた
    • [14]1905年まで愛知県で蟹江家以外にトマト栽培農家はなく、蟹江家の田畑は約1町3反
    • [15]1906年、近隣農家と全量引き取りの約束で委託栽培を始めた
    • [16]トマトソース製造は7月中旬〜10月初めの季節作業で、遊休期間の活用に1907年グリンピース缶詰を開始
    • [17]1908年、梅澤岩吉商店の指導と協力でトマトケチャップとウスターソースを創製
    • [19]ウスターソースは初年からトマトソースの4倍以上の売上を記録(蟹江甚之助『売上記入帳』)
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [18]明治41年にトマトケチャップ、ウスターソースの製造を開始
参考文献[1]-[19]
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
    • [1]1899年春、蟹江一太郎が荒尾村の畑でトマト・キャベツ・ハクサイ等の西洋野菜の栽培を始めた
    • [4]1898年11月末に一太郎が帰郷、養父甚之助が提案を受け入れ知人の浅野末廣を訪ねた
    • [5]農事試験場の佐藤杉右衞門が横浜から種子を斡旋し、荒尾村の土質を西洋野菜に適すると評価した
    • [6]当初トマトはホテル・西洋料理店でも売れず、最初の1〜2年は捨てるか畑で腐らせた
    • [7]1902年、農事試験場技師の柘植権六がアメリカではトマトを加工して使うと示唆した
    • [8]名古屋ホテルの厨房でトマトソースの実物を知り1瓶を入手、家族で試作した
    • [9]1903年7月、自宅納屋で製造開始。無調味で現在の規格ではトマトピューレー
    • [11]初年度56箱の大半を梅澤岩吉商店が引き取り、1906年春に一手販売契約(ビール瓶1本9銭)
    • [12]勝利亭主人の平野仲三郎が最初に製品を購入し、梅澤岩吉商店への持ち込みを勧めた
    • [13]1906年春、屋敷の傍に約60坪の最初の工場を建てた
    • [14]1905年まで愛知県で蟹江家以外にトマト栽培農家はなく、蟹江家の田畑は約1町3反
    • [15]1906年、近隣農家と全量引き取りの約束で委託栽培を始めた
    • [16]トマトソース製造は7月中旬〜10月初めの季節作業で、遊休期間の活用に1907年グリンピース缶詰を開始
    • [17]1908年、梅澤岩吉商店の指導と協力でトマトケチャップとウスターソースを創製
    • [19]ウスターソースは初年からトマトソースの4倍以上の売上を記録(蟹江甚之助『売上記入帳』)
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [2]蟹江一太郎は軍隊で上官に米麦だけでなく西洋野菜をやるよう助言され、除隊後にトマト等を作り始めた
    • [10]明治36年にトマトソース(現在のトマトピューレー)の試作に成功、国内初のトマト加工品
    • [18]明治41年にトマトケチャップ、ウスターソースの製造を開始
  • 日経ビジネス 1979年1月29日号
    • [3]創業者が軍隊で上官から西洋野菜が有望と聞いたことがトマト事業の発端(蟹江一忠社長談)

1909年〜関西府県聯合共進会への出品と、不況の末に設立した愛知トマトソース製造合資会社

蟹江一太郎氏は1910年春、名古屋市鶴舞公園を会場とする第10回関西府県聯合共進会に自家製のトマトソースを出展した。出品に際して三ツ星の家紋を図案化した三星印を定め、製品は品質を評価されて褒賞状を得た。出品物に添えた案内書で蟹江一太郎氏は、洋風の食材の需要が年々増え、買い手から供給を催促されていると記した。同じ案内書には、専業化による過剰生産の危険を避け、加工を農家の副業にとどめる方針も並ぶ。1903年の試作から7年を経て、トマトソースは買い手から求められる商品になった。一方で上野村や大高町では1910年ごろからトマトを加工する農家が現れ、明治の末年には50戸に達した。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
    • [20]1910年春、名古屋市鶴舞公園の第10回関西府県聯合共進会にトマトソースを出品
    • [21]出品に際し三ツ星家紋を模した三星印を作成、トマトソースは品質優良で褒賞状を授与
    • [22]共進会『案内書』に洋風食材料の需要増進と需要者からの供給催促を記した
    • [23]案内書で、専業は危険が多いため家内労働力を活かす農家の副業として少量製造すると説明
    • [25]上野村・大高町近在のトマト加工農家が明治43〜44年頃から急増し、明治末年に50戸
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [24]明治36年にトマトソースの試作に成功

加工農家が増えた結果、明治の末年から製品の生産が過剰になり、トマトソースの価格は暴落した。1912年7月の明治天皇崩御の後は梅澤商店からの注文が途絶え、1913年の春になっても出荷の見通しが立たなかった。1914年8月には金融恐慌が名古屋に及び、蟹江一太郎氏の事業は存続を危ぶまれるまで追い込まれた。1914年12月、蟹江一太郎氏は上野村の同業の成田源太郎氏・蟹江友太郎氏らと愛知トマトソース製造合資会社を設立した。社長には、資本金3,000円のうち1,500円を出資した最大の出資者の蟹江一太郎氏が就任。後年の講演で蟹江一太郎氏は、不況期の苦労が設立を決めさせたと振り返った。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
    • [26]明治末に加工農家が増え生産過剰と製品価格の暴落が起きた
    • [28]1914年8月に名古屋へ金融恐慌が波及、事業は壊滅寸前まで追い込まれた
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)二章 合資会社の時代
    • [27]明治天皇崩御後、梅澤商店への注文がなくなり大正2年春になっても荷が出なかった(一太郎の昭和32年講演)
    • [29]1914年12月初め、上野村の成田源太郎・蟹江友太郎らを集め資本金3,000円で愛知トマトソース製造合資会社を設立
    • [31]資本金3,000円のうち1,500円を一太郎が出資、最大出資者として社長に就任
    • [32]不況期の苦労が合資会社設立を決意させたと一太郎が後年の講演(1957年5月23日)で語った
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [30]大正3年に愛知トマトソース製造合資会社を設立

不況のさなかに蟹江一太郎氏が1913年に大阪の松下商店を、1914年に東京の鈴木洋酒店を訪ねたのは、名古屋の外の販路開拓のためである。1914年12月の合資会社の発足と同時に梅澤商店との一手販売契約を解消し、各地の問屋と直接の取引口座を開設した。同年8月に始まった第一次世界大戦で輸入品が途絶え、国産の洋風調味料を試す需要が生まれた。1916年のトマトソースの納入価格はビール瓶4ダース入り1箱5円70銭で、従来より約3割高い。1916年の売上高は21,700円81銭4厘で1912年の5,010円04銭を大きく上回り、約47%を関西と関東が占めた。1916年ごろまでに、販路は東京・名古屋・大阪の3大都市に広がった。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)二章 合資会社の時代
    • [33]1913年に大阪の松下商店、1914年に東京の鈴木洋酒店を訪ね関西・関東の市場開拓を始めた
    • [34]1914年12月の合資会社設立と同時に梅澤商店との一手販売契約を解消し、各地問屋と直接取引
    • [36]第一次大戦勃発に伴う輸入途絶が国産品の需要を掘り起こした
    • [37]1916年のトマトソース納入価格はビール瓶4ダース入り1箱5円70銭、従来比約3割高
    • [38]1916年売上高21,700円81銭4厘(1912年は5,010円04銭)、約47%が関西・関東
    • [39]大正5年頃までに市場が東京・名古屋・大阪の三大都市に広がった
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [35]大正3年に愛知トマトソース製造合資会社を設立
参考文献[20]-[39]
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
    • [20]1910年春、名古屋市鶴舞公園の第10回関西府県聯合共進会にトマトソースを出品
    • [21]出品に際し三ツ星家紋を模した三星印を作成、トマトソースは品質優良で褒賞状を授与
    • [22]共進会『案内書』に洋風食材料の需要増進と需要者からの供給催促を記した
    • [23]案内書で、専業は危険が多いため家内労働力を活かす農家の副業として少量製造すると説明
    • [25]上野村・大高町近在のトマト加工農家が明治43〜44年頃から急増し、明治末年に50戸
    • [26]明治末に加工農家が増え生産過剰と製品価格の暴落が起きた
    • [28]1914年8月に名古屋へ金融恐慌が波及、事業は壊滅寸前まで追い込まれた
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [24]明治36年にトマトソースの試作に成功
    • [30]大正3年に愛知トマトソース製造合資会社を設立
    • [35]大正3年に愛知トマトソース製造合資会社を設立
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)二章 合資会社の時代
    • [27]明治天皇崩御後、梅澤商店への注文がなくなり大正2年春になっても荷が出なかった(一太郎の昭和32年講演)
    • [29]1914年12月初め、上野村の成田源太郎・蟹江友太郎らを集め資本金3,000円で愛知トマトソース製造合資会社を設立
    • [31]資本金3,000円のうち1,500円を一太郎が出資、最大出資者として社長に就任
    • [32]不況期の苦労が合資会社設立を決意させたと一太郎が後年の講演(1957年5月23日)で語った
    • [33]1913年に大阪の松下商店、1914年に東京の鈴木洋酒店を訪ね関西・関東の市場開拓を始めた
    • [34]1914年12月の合資会社設立と同時に梅澤商店との一手販売契約を解消し、各地問屋と直接取引
    • [36]第一次大戦勃発に伴う輸入途絶が国産品の需要を掘り起こした
    • [37]1916年のトマトソース納入価格はビール瓶4ダース入り1箱5円70銭、従来比約3割高
    • [38]1916年売上高21,700円81銭4厘(1912年は5,010円04銭)、約47%が関西・関東
    • [39]大正5年頃までに市場が東京・名古屋・大阪の三大都市に広がった

1917年〜三星印から替えたカゴメ印と、自動裏漉機を入れた上野工場

合資会社は1916年12月に資本金を6,000円へ倍増し、同じ年に米国のトマト加工を調べた農商務省の元技官、關虎雄氏を技術顧問に招いた。市場が関東と関西に広がって競争者も増えたので、合資会社は未登録だった商標の登録に着手した。蟹江一太郎氏は兵役中の上官との縁を記念して五角の星を申請したものの、陸軍の象徴であるとして認められなかった。六角の星も退けられ、三角形を2つ重ねた籠目の図案に改めた商標が、1917年4月4日にカゴメ印として登録された。1920年、缶詰類の商標もすべてカゴメ印へ統一。登録を急いだ背景には、広がった市場の問屋に自社の製品を見分けてもらう必要があったのだろう。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)二章 合資会社の時代
    • [40]1916年12月、最初の増資で資本金を倍額の6,000円とし出資社員を6名に
    • [41]1916年、米国で農産加工を研究した元農商務省技官の關虎雄を技術顧問に招聘
    • [42]関東・関西への市場拡大と競争激化を受け、未登録だった商標の登録を思い立った
    • [43]軍隊での西山中尉との縁を記念し五角の星で申請したが陸軍の象徴のため不許可
    • [45]六角の星も却下、三角形2つを組み合わせたカゴメに改め1917年4月4日に登録(第84997号)
    • [46]1920年に缶詰類一切を丸囲みなしのカゴメ印に変更
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [44]蟹江一太郎は軍隊で上官から西洋野菜を勧められた

蟹江一太郎氏は關虎雄氏から米国の加工技術を聞き、副業の手工業では輸入品や新たな競争者に対抗できないと判断した。合資会社は1918年1月に資本金を12,000円とし、問屋の梅澤商店から中村米三郎氏を、大阪から小西儀助氏を出資社員に迎えた。1919年春、蟹江一太郎氏は田畑や屋敷のほぼ全財産を担保に銀行から借入れ、上野村荒尾の675坪の敷地に120坪の工場を建てた。1919年6月に完成した工場への本社移転が、トマト加工を専業とする体制への切り替えにあたる。1903年の試作以来の手作業の裏漉しは、關虎雄氏の指導で1921年に自動裏漉機へ置き換わった。同じころまでに上野の工場にはボイラーを動力源に、破砕機・蒸煮装置・濃縮装置を配置した。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)二章 合資会社の時代
    • [47]關顧問の話を聞き、副業の手工業ではアメリカ業者などとの競争に弱いと認識し専業化を決意
    • [48]1918年1月26日に資本金12,000円へ再増資、梅澤商店の中村米三郎・小西儀助商店の小西儀助が出資
    • [49]1919年春、ほぼ全財産を担保に銀行借入し675坪の敷地に120坪の工場を建設
    • [50]1919年6月に新工場が完成し本社を移転、副業から本業へ
    • [52]關顧問の指導で自動裏漉機を導入、1921年に稼働
    • [53]1921年頃までに上野新工場にボイラー、動力破砕機、蒸煮装置、濃縮装置を配置
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [51]明治36年にトマトソースの試作に成功

合資会社は1923年4月に愛知トマト製造株式会社へ改組し、公称資本金50万円のうち12万5,000円を払い込んだ。社長には蟹江一太郎氏が就任し、当初の株主55名の大部分はトマトの契約栽培を担う近隣の農家だった。1924年に口約束の栽培契約を文書へ改めた際の取り決めは、トマト耕作組合に農家1戸当たり年50銭の育成費を支給するものである。文書化で遠隔地の農家とも契約を結べるようになり、契約栽培は原料を安定して確保する方式として定着した。震災後の不況期には愛知・静岡から茨城までの安値のトマトソースを引き受け、全国市場の価格の主導権をほぼ握った。量と質の揃った原料を持つことが、次のトマトジュースの足場になったと推察される。

  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)三章 株式会社の時代
    • [54]1923年4月、愛知トマト製造株式会社に改組。公称資本金50万円、払込12万5,000円
    • [56]社長に蟹江一太郎を選任、当初株主55名の大部分は栽培契約を結ぶ近隣農家
    • [57]1924年、トマト耕作組合に1戸年50銭の育成費を支給し、契約を文書化して圃場に標識を立てた
    • [58]契約の文書化で遠隔地の農家とも契約でき、栽培地域が拡大した
    • [60]不況期に愛知・静岡から茨城まで安値のトマトソースを買い集め、全国市場の価格主導権をほぼ手中にした
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [55]大正12年に株式会社に組織変更
  • 証券 30(11) 1978年 新規上場会社紹介
    • [59]原料トマトの契約栽培方式は創業以来続き、安定確保の基盤となった
参考文献[40]-[60]
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)二章 合資会社の時代
    • [40]1916年12月、最初の増資で資本金を倍額の6,000円とし出資社員を6名に
    • [41]1916年、米国で農産加工を研究した元農商務省技官の關虎雄を技術顧問に招聘
    • [42]関東・関西への市場拡大と競争激化を受け、未登録だった商標の登録を思い立った
    • [43]軍隊での西山中尉との縁を記念し五角の星で申請したが陸軍の象徴のため不許可
    • [45]六角の星も却下、三角形2つを組み合わせたカゴメに改め1917年4月4日に登録(第84997号)
    • [46]1920年に缶詰類一切を丸囲みなしのカゴメ印に変更
    • [47]關顧問の話を聞き、副業の手工業ではアメリカ業者などとの競争に弱いと認識し専業化を決意
    • [48]1918年1月26日に資本金12,000円へ再増資、梅澤商店の中村米三郎・小西儀助商店の小西儀助が出資
    • [49]1919年春、ほぼ全財産を担保に銀行借入し675坪の敷地に120坪の工場を建設
    • [50]1919年6月に新工場が完成し本社を移転、副業から本業へ
    • [52]關顧問の指導で自動裏漉機を導入、1921年に稼働
    • [53]1921年頃までに上野新工場にボイラー、動力破砕機、蒸煮装置、濃縮装置を配置
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
    • [44]蟹江一太郎は軍隊で上官から西洋野菜を勧められた
    • [51]明治36年にトマトソースの試作に成功
    • [55]大正12年に株式会社に組織変更
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)三章 株式会社の時代
    • [54]1923年4月、愛知トマト製造株式会社に改組。公称資本金50万円、払込12万5,000円
    • [56]社長に蟹江一太郎を選任、当初株主55名の大部分は栽培契約を結ぶ近隣農家
    • [57]1924年、トマト耕作組合に1戸年50銭の育成費を支給し、契約を文書化して圃場に標識を立てた
    • [58]契約の文書化で遠隔地の農家とも契約でき、栽培地域が拡大した
    • [60]不況期に愛知・静岡から茨城まで安値のトマトソースを買い集め、全国市場の価格主導権をほぼ手中にした
  • 証券 30(11) 1978年 新規上場会社紹介
    • [59]原料トマトの契約栽培方式は創業以来続き、安定確保の基盤となった

出典・参考

6件
出典・参考
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)一章 家業の時代
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)二章 合資会社の時代
  • カゴメ八十年史 トマトと共に(1978)三章 株式会社の時代
  • 証券アナリストジャーナル 17(1) 1979年 下浦静平
  • 日経ビジネス 1979年1月29日号
  • 証券 30(11) 1978年 新規上場会社紹介

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