サントリービバレッジ&フード:鳥井商店の創業と寿屋の清涼飲料参入
1899年〜米屋の副業のサイダーから出た鳥井商店と、1本38銭の赤玉ポートワイン
1899年、鳥井信治郎氏は20歳で独立し、大阪市西区靱中通二丁目に鳥井商店を開業し、葡萄酒の製造販売を始めた。生家は両替商から米屋に転業し、父の鳥井忠兵衛氏は本業の傍らでサイダーやラムネを売り、模造ウイスキーも扱った。米屋は長男が継ぐことになり、父は次男の鳥井信治郎氏に副業の飲料と洋酒を任せる考えだったとされる。そのため鳥井信治郎氏は1892年、13歳で道修町の薬種問屋である小西儀助商店へ奉公。小西儀助商店は葡萄酒やブランデーを薬として扱っており、鳥井信治郎氏が洋酒の調合や鑑定の技術を習得したのはその部門である。独立後の最初の商品はアルコールに砂糖と香料を混ぜた合成葡萄酒で、日清戦争後の対中貿易の好況を背景に中国商人へ売った。
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [1]鳥井信治郎は1899年に大阪市西区靱中通二丁目で鳥井商店を開業し、葡萄酒の製造販売を始めた
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [2]父・鳥井忠兵衛は両替屋から米屋に転じ副業でサイダー・ラムネとイミテーション・ウイスキーを販売。長男が米屋を継ぎ次男信治郎に副業を任せる考えで、1892年13歳で小西儀助商店へ奉公
- [3]父・鳥井忠兵衛は両替屋から米屋に転じ副業でサイダー・ラムネとイミテーション・ウイスキーを販売。長男が米屋を継ぎ次男信治郎に副業を任せる考えで、1892年13歳で小西儀助商店へ奉公
- [4]父・鳥井忠兵衛は両替屋から米屋に転じ副業でサイダー・ラムネとイミテーション・ウイスキーを販売。長男が米屋を継ぎ次男信治郎に副業を任せる考えで、1892年13歳で小西儀助商店へ奉公
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [5]小西儀助商店は葡萄酒・ブランデーを薬として扱い、鳥井信治郎は洋酒の調合・製造・販売・鑑定の技術を修得した
- [6]1899年に20歳で独立し、鳥井商店として合成ぶどう酒を手がけ、得意先は主に中国商人だった
1907年、鳥井信治郎氏は甘味葡萄酒の赤玉ポートワインを1本38銭で売り出した。前年の1906年には、店名を鳥井商店から寿屋洋酒店へ変更。材料は神戸でスペイン人が営むセレース商会から分けてもらい、日本人の好みに合う味へ改良した。中身の製造は摂津酒造に委託し、輸入した生葡萄酒にアルコールと砂糖を加えて甘く仕立てた。鳥井信治郎氏は自宅に瓶詰めの工場を置き、繁忙期には妻も作業を手伝った。当時の葡萄酒市場では東京の蜂印香竄葡萄酒が首位にあり、鳥井信治郎氏は同業者に例の少なかった新聞広告を重ねて追った。やがて蜂印は米国産原料に切り替えた品が店頭で破裂する事故を起こし、赤玉ポートワインがその販路に食い込んだ。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [7]赤玉ポートワインは1907年(明治40年)に1本38銭で発売された
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [8]1906年に店名を寿屋洋酒店に改め、1907年に甘味ぶどう酒・赤玉ポートワインを開発した
- [12]当時の業界首位は蜂印香竄葡萄酒で、信治郎は洋酒業界では珍しい新聞広告を打った。蜂印は米国産原料への切替後に瓶の破裂事件を起こし売れ行きが低下した
- [13]当時の業界首位は蜂印香竄葡萄酒で、信治郎は洋酒業界では珍しい新聞広告を打った。蜂印は米国産原料への切替後に瓶の破裂事件を起こし売れ行きが低下した
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [9]神戸のスペイン人が経営するセレース商会から材料を分けてもらい、日本人向きの味に改良して赤玉ポートワインとして売り出した
- 私の履歴書 経済人11「竹鶴政孝(ニッカウヰスキー・社長)」
- [10]赤玉ポートワインの中身は摂津酒造が製造し、輸入生ぶどう酒にアルコール・砂糖を加えて日本人向けにつくりかえていた。鳥井信治郎は自宅に瓶詰め工場をもち、忙しいときは夫人も手伝った
- [11]赤玉ポートワインの中身は摂津酒造が製造し、輸入生ぶどう酒にアルコール・砂糖を加えて日本人向けにつくりかえていた。鳥井信治郎は自宅に瓶詰め工場をもち、忙しいときは夫人も手伝った
1921年12月1日、鳥井信治郎氏は寿屋洋酒店を株式会社寿屋に改めた。店は1913年に合名会社寿屋洋酒店として法人化しており、これが2度目の組織変更にあたる。これに先立つ1919年には、大阪の築港に赤玉ポートワイン専用の工場が完成。鳥井信治郎氏は大正半ばまでに赤玉ポートワインを主力の収益源に育て、株式会社の設立と同時に国産ウイスキーの製造に着手した。当時の洋酒はジョニー・ウォーカーなどスコッチの輸入品が中心で、輸入額は年に約200万円に上った。鳥井信治郎氏はこの外貨の流出を惜しみ、国産で置き換える事業に挑んだ。法人化は、赤玉ポートワインの利益を回収まで年数のかかるウイスキーに投じるための会社組織を整える意味を持ったとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- [14]壽屋の設立は1921年(大正10年)12月1日
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [15]1913年に組織を法人に改め合名会社寿屋洋酒店とした
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [16]1919年(大正8年)に築港工場が赤玉専用工場となった
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [17]大正半ばに地盤を築き、1921年に株式会社寿屋を創立して国産ウイスキー製造に着手。洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだことが動機
- [18]大正半ばに地盤を築き、1921年に株式会社寿屋を創立して国産ウイスキー製造に着手。洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだことが動機
- [19]大正半ばに地盤を築き、1921年に株式会社寿屋を創立して国産ウイスキー製造に着手。洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだことが動機
参考文献[1]-[19]
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [1]鳥井信治郎は1899年に大阪市西区靱中通二丁目で鳥井商店を開業し、葡萄酒の製造販売を始めた
- [15]1913年に組織を法人に改め合名会社寿屋洋酒店とした
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [2]父・鳥井忠兵衛は両替屋から米屋に転じ副業でサイダー・ラムネとイミテーション・ウイスキーを販売。長男が米屋を継ぎ次男信治郎に副業を任せる考えで、1892年13歳で小西儀助商店へ奉公
- [3]父・鳥井忠兵衛は両替屋から米屋に転じ副業でサイダー・ラムネとイミテーション・ウイスキーを販売。長男が米屋を継ぎ次男信治郎に副業を任せる考えで、1892年13歳で小西儀助商店へ奉公
- [4]父・鳥井忠兵衛は両替屋から米屋に転じ副業でサイダー・ラムネとイミテーション・ウイスキーを販売。長男が米屋を継ぎ次男信治郎に副業を任せる考えで、1892年13歳で小西儀助商店へ奉公
- [7]赤玉ポートワインは1907年(明治40年)に1本38銭で発売された
- [16]1919年(大正8年)に築港工場が赤玉専用工場となった
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [5]小西儀助商店は葡萄酒・ブランデーを薬として扱い、鳥井信治郎は洋酒の調合・製造・販売・鑑定の技術を修得した
- [6]1899年に20歳で独立し、鳥井商店として合成ぶどう酒を手がけ、得意先は主に中国商人だった
- [8]1906年に店名を寿屋洋酒店に改め、1907年に甘味ぶどう酒・赤玉ポートワインを開発した
- [12]当時の業界首位は蜂印香竄葡萄酒で、信治郎は洋酒業界では珍しい新聞広告を打った。蜂印は米国産原料への切替後に瓶の破裂事件を起こし売れ行きが低下した
- [13]当時の業界首位は蜂印香竄葡萄酒で、信治郎は洋酒業界では珍しい新聞広告を打った。蜂印は米国産原料への切替後に瓶の破裂事件を起こし売れ行きが低下した
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [9]神戸のスペイン人が経営するセレース商会から材料を分けてもらい、日本人向きの味に改良して赤玉ポートワインとして売り出した
- [17]大正半ばに地盤を築き、1921年に株式会社寿屋を創立して国産ウイスキー製造に着手。洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだことが動機
- [18]大正半ばに地盤を築き、1921年に株式会社寿屋を創立して国産ウイスキー製造に着手。洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだことが動機
- [19]大正半ばに地盤を築き、1921年に株式会社寿屋を創立して国産ウイスキー製造に着手。洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだことが動機
- 私の履歴書 経済人11「竹鶴政孝(ニッカウヰスキー・社長)」
- [10]赤玉ポートワインの中身は摂津酒造が製造し、輸入生ぶどう酒にアルコール・砂糖を加えて日本人向けにつくりかえていた。鳥井信治郎は自宅に瓶詰め工場をもち、忙しいときは夫人も手伝った
- [11]赤玉ポートワインの中身は摂津酒造が製造し、輸入生ぶどう酒にアルコール・砂糖を加えて日本人向けにつくりかえていた。鳥井信治郎は自宅に瓶詰め工場をもち、忙しいときは夫人も手伝った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- [14]壽屋の設立は1921年(大正10年)12月1日
1922年〜竹鶴政孝氏を迎えた山崎の蒸溜所と、販売が振るわなかった白札
1923年6月、寿屋はスコットランドでウイスキー製造を学んだ竹鶴政孝氏を技師として迎え入れた。鳥井信治郎氏は当初、三井物産を通じて英国からムーア博士を招く計画を立てていた。その過程で帰国したばかりの竹鶴政孝氏を知り、年俸4000円で採用した。竹鶴政孝氏は空気・川・夏の気温を条件に、宝塚や紀州、滋賀まで候補地を見て歩いた。大阪近辺で最適と判断した山崎について、1923年10月に土地買収を終えた。山崎は三つの川が合流して霧が出やすく、樽の中の原酒が乾燥で減りにくい土地である。1924年4月に起工した山崎工場は日本で初めて本格ウイスキーの製造に取り組む工場で、創業24年目の寿屋が全資産を投じた事業だった。
- 私の履歴書 経済人11「竹鶴政孝(ニッカウヰスキー・社長)」
- [20]竹鶴政孝は1923年6月に寿屋に入社し、工場の立地を探して山崎を選び、1923年10月に土地買収を終え、1924年4月に起工式を行った
- [23]竹鶴政孝は1923年6月に寿屋に入社し、工場の立地を探して山崎を選び、1923年10月に土地買収を終え、1924年4月に起工式を行った
- [24]竹鶴政孝は1923年6月に寿屋に入社し、工場の立地を探して山崎を選び、1923年10月に土地買収を終え、1924年4月に起工式を行った
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [21]鳥井信治郎は三井物産を通じムーア博士招聘を計画中に竹鶴政孝を知り年俸4000円で迎えた。山崎は三川合流で霧が発生しやすく原酒の減少が少ない
- [22]鳥井信治郎は三井物産を通じムーア博士招聘を計画中に竹鶴政孝を知り年俸4000円で迎えた。山崎は三川合流で霧が発生しやすく原酒の減少が少ない
- [25]鳥井信治郎は三井物産を通じムーア博士招聘を計画中に竹鶴政孝を知り年俸4000円で迎えた。山崎は三川合流で霧が発生しやすく原酒の減少が少ない
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [26]1923年の関東大震災後に山崎工場を建設し日本初の本格ウイスキー製造に着手、創業24年目の全資産を賭けた冒険だった
1929年4月1日、寿屋は山崎の原酒で造った初の本格ウイスキー、サントリーウイスキー白札を発売した。試作品を口にした鳥井信治郎氏は、焦げたような臭いの強さに渋い顔を見せた。原因はピートの焚きすぎにあり、近隣のビール会社から分けてもらった酵母にも問題があった。白札は値段も高く、国産を敬遠する愛飲家の支持を得られずに終わった。1930年5月に普及版の赤札を出したものの、1932年になっても売れ行きは戻らなかった。1931年にはウイスキーの仕込みを中止し、経理担当の大川信雄氏は資金が残り6カ月分しかないと鳥井信治郎氏に告げた。白札の出来ばえは作り手の満足にも届かず、寿屋は以後も改良を重ねた。売れ残った原酒は貯蔵庫で熟成を重ね、のちの商品の土台になったと考えられる。
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [27]1929年に本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [28]試作品は焦げくさく、原因はピートの焚きすぎで、大日本麦酒から分けてもらった酵母にも問題があった
- [29]試作品は焦げくさく、原因はピートの焚きすぎで、大日本麦酒から分けてもらった酵母にも問題があった
- [30]白札(1929年4月1日発売)は値も高く売れず、1930年5月の赤札も売れなかった。1931年に仕込み中止、大川信雄が資金はあと6カ月と告げた
- [31]白札(1929年4月1日発売)は値も高く売れず、1930年5月の赤札も売れなかった。1931年に仕込み中止、大川信雄が資金はあと6カ月と告げた
- [32]白札(1929年4月1日発売)は値も高く売れず、1930年5月の赤札も売れなかった。1931年に仕込み中止、大川信雄が資金はあと6カ月と告げた
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [33]白札の出来ばえは満足いくものではなく、改良を重ねた
山崎の原酒が熟成を待つ間、鳥井信治郎氏はビールと食品に品目を広げて収益源を増やした。山崎工場は毎年麦を仕入れても製品を出荷できず、赤玉ポートワインで得た利益を費やし続けた。横浜工場の前身は、1928年に寿屋が買収した横浜の日英醸造で、経営に行き詰まっていた会社である。竹鶴政孝氏はウイスキーとビールの両工場長を兼ね、1929年に新カスケードビールを他社より安い1本29銭で投入した。1930年には、当時の流行語にちなんで商品名をオラガビールに改めた。食品では1928年にトリスソースと糖化カスを原料とする醤油、1930年12月にトリス胡椒、1931年にトリス紅茶を発売した。鳥井信治郎氏はウイスキーとビールの二本建てを理想に掲げた。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [34]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [35]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [36]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [39]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [40]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- 私の履歴書 経済人11「竹鶴政孝(ニッカウヰスキー・社長)」
- [37]竹鶴政孝はウイスキーとビールの両工場長を兼任し、1929年に新カスケードビールを1本29銭で発売、1930年にオラガビールと改名
- [38]竹鶴政孝はウイスキーとビールの両工場長を兼任し、1929年に新カスケードビールを1本29銭で発売、1930年にオラガビールと改名
参考文献[20]-[40]
- 私の履歴書 経済人11「竹鶴政孝(ニッカウヰスキー・社長)」
- [20]竹鶴政孝は1923年6月に寿屋に入社し、工場の立地を探して山崎を選び、1923年10月に土地買収を終え、1924年4月に起工式を行った
- [23]竹鶴政孝は1923年6月に寿屋に入社し、工場の立地を探して山崎を選び、1923年10月に土地買収を終え、1924年4月に起工式を行った
- [24]竹鶴政孝は1923年6月に寿屋に入社し、工場の立地を探して山崎を選び、1923年10月に土地買収を終え、1924年4月に起工式を行った
- [37]竹鶴政孝はウイスキーとビールの両工場長を兼任し、1929年に新カスケードビールを1本29銭で発売、1930年にオラガビールと改名
- [38]竹鶴政孝はウイスキーとビールの両工場長を兼任し、1929年に新カスケードビールを1本29銭で発売、1930年にオラガビールと改名
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [21]鳥井信治郎は三井物産を通じムーア博士招聘を計画中に竹鶴政孝を知り年俸4000円で迎えた。山崎は三川合流で霧が発生しやすく原酒の減少が少ない
- [22]鳥井信治郎は三井物産を通じムーア博士招聘を計画中に竹鶴政孝を知り年俸4000円で迎えた。山崎は三川合流で霧が発生しやすく原酒の減少が少ない
- [25]鳥井信治郎は三井物産を通じムーア博士招聘を計画中に竹鶴政孝を知り年俸4000円で迎えた。山崎は三川合流で霧が発生しやすく原酒の減少が少ない
- [28]試作品は焦げくさく、原因はピートの焚きすぎで、大日本麦酒から分けてもらった酵母にも問題があった
- [29]試作品は焦げくさく、原因はピートの焚きすぎで、大日本麦酒から分けてもらった酵母にも問題があった
- [30]白札(1929年4月1日発売)は値も高く売れず、1930年5月の赤札も売れなかった。1931年に仕込み中止、大川信雄が資金はあと6カ月と告げた
- [31]白札(1929年4月1日発売)は値も高く売れず、1930年5月の赤札も売れなかった。1931年に仕込み中止、大川信雄が資金はあと6カ月と告げた
- [32]白札(1929年4月1日発売)は値も高く売れず、1930年5月の赤札も売れなかった。1931年に仕込み中止、大川信雄が資金はあと6カ月と告げた
- [34]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [35]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [36]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [39]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- [40]ウイスキーのために他事業を拡張。1928年に日英醸造を買収し横浜工場に、同年トリスソースと糖化カス由来の醤油、1930年12月トリス胡椒、1931年トリス紅茶を発売。ウイスキーとビールの二本建てが理想
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [26]1923年の関東大震災後に山崎工場を建設し日本初の本格ウイスキー製造に着手、創業24年目の全資産を賭けた冒険だった
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [27]1929年に本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [33]白札の出来ばえは満足いくものではなく、改良を重ねた
1932年〜昭和7年に売り出した清涼飲料と、濃縮ジュース・150町歩の山梨農場
1932年6月、寿屋は濃縮リンゴジュースのコーリンを発売し、飲料の品目を加えた。きっかけは、生産過剰に陥った青森のリンゴをどうにかしてほしいという相談である。リンゴは埼玉の川口リンゴ社を経て横浜工場にも運ばれ、コーリンはリンゴ35個分の栄養をうたって売り出された。同じ1932年には合成清酒の千代田を発売し、11月には主力商品だったスモカ歯磨の製造販売権を譲渡した。スモカの譲渡は白札の不振で資金繰りが悪化したためで、1934年にはビール工場の売却も続いた。寿屋は1955年時点で洋酒や合成清酒に加え、果汁と清涼飲料を事業に掲げた。資金繰りが悪化するなか、果実飲料は既存の工場と原料で始められる品目だったと推察される。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [41]1932年6月に濃縮リンゴジュース「コーリン」を発売。青森のリンゴ生産過剰の相談を受け、川口リンゴ社を経て横浜工場へ。リンゴ35個分の栄養と宣伝
- [42]1932年6月に濃縮リンゴジュース「コーリン」を発売。青森のリンゴ生産過剰の相談を受け、川口リンゴ社を経て横浜工場へ。リンゴ35個分の栄養と宣伝
- [43]1932年6月に濃縮リンゴジュース「コーリン」を発売。青森のリンゴ生産過剰の相談を受け、川口リンゴ社を経て横浜工場へ。リンゴ35個分の栄養と宣伝
- [44]1932年5月合成清酒「千代田」発売、11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。白札の不振で1932年にスモカ、1934年にビール工場を売った
- [45]1932年5月合成清酒「千代田」発売、11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。白札の不振で1932年にスモカ、1934年にビール工場を売った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- [46]1955年時点の壽屋の事業は洋酒・合成清酒・焼酎・イースト・果汁・清涼飲料
1936年8月、寿屋は濃縮ジュースのトリスグレープジュースとトリスオレンジジュースを製造・発売した。同年10月に山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収して開いたのが山梨農場である。山梨農場では葡萄の栽培と葡萄酒の醸造を始めた。寿屋はそれに先立つ1934年6月に株式会社寿葡萄園を設立し、葡萄栽培に参入した。1935年にはリンゴ酒のポンパンと生葡萄酒のヘルメスデリカワインを醸造・発売し、果実を酒と飲料の双方に振り向けた。香りの弱いリンゴ酒にはコーリンの果汁を使い、葡萄酒を加えて香りを補った。原料の葡萄を自前で確保し、赤玉ポートワインとジュースの双方の原料を安定させる狙いがあったのだろう。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [47]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [48]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [50]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [51]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [52]ポンパンはリンゴの香りが弱く、コーリンのジュースにアルコールと葡萄酒を加えて香りを補った
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [49]1936年に葡萄園を買収して山梨農場とし、葡萄栽培と葡萄酒醸造を開始
1937年末、12年ものと呼ばれたサントリーウイスキー角瓶が発売された。白札の発売から8年を経て、改良を重ねた末に作り手が納得できる品質に仕上がった。古参の社員は、白札が売れずに原酒が貯蔵庫に残ったからこそ長期熟成の原酒が得られたと振り返った。角瓶に至るまでの間、寿屋は紅茶・ソース・醤油・カレーから撤退し、スモカ歯磨の権利も譲渡した。これらの撤退は角瓶の発売とは別の話で、白札の不振で資金繰りが悪化し、ドル箱の事業を売却しなければ会社を守れない時期の出来事である。ビール事業は1934年2月に分離し、大日本麦酒がその株式を取得した。同じ1937年12月には宮城県亘理郡に葡萄酒醸造の山下作業場を設け、洋酒と果実の事業は拡大を続けた。品目を洋酒と果実飲料に絞った寿屋は、その体制のまま戦時期を迎えることになったと思われる。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [53]12年ものといわれる角瓶は1937年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に残ったから12年ものができたと古い社員は言う
- [55]12年ものといわれる角瓶は1937年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に残ったから12年ものができたと古い社員は言う
- [56]1934年2月ビール事業を分離し大日本麦酒が株式を取得。1937年12月宮城県に山下作業場。紅茶・ソース・醤油・カレーから退き、スモカとビールを譲渡
- [57]1931年にウイスキーの仕込みを中止する窮地に陥り、1932年にドル箱のスモカの製造販売権、1934年にビール工場を売らなければ会社を守れなかった
- [58]1934年2月ビール事業を分離し大日本麦酒が株式を取得。1937年12月宮城県に山下作業場。紅茶・ソース・醤油・カレーから退き、スモカとビールを譲渡
- [59]1934年2月ビール事業を分離し大日本麦酒が株式を取得。1937年12月宮城県に山下作業場。紅茶・ソース・醤油・カレーから退き、スモカとビールを譲渡
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [54]白札から8年を経た1937年に自他ともに満足のいくサントリーウイスキー角瓶を発売
参考文献[41]-[59]
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [41]1932年6月に濃縮リンゴジュース「コーリン」を発売。青森のリンゴ生産過剰の相談を受け、川口リンゴ社を経て横浜工場へ。リンゴ35個分の栄養と宣伝
- [42]1932年6月に濃縮リンゴジュース「コーリン」を発売。青森のリンゴ生産過剰の相談を受け、川口リンゴ社を経て横浜工場へ。リンゴ35個分の栄養と宣伝
- [43]1932年6月に濃縮リンゴジュース「コーリン」を発売。青森のリンゴ生産過剰の相談を受け、川口リンゴ社を経て横浜工場へ。リンゴ35個分の栄養と宣伝
- [44]1932年5月合成清酒「千代田」発売、11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。白札の不振で1932年にスモカ、1934年にビール工場を売った
- [45]1932年5月合成清酒「千代田」発売、11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。白札の不振で1932年にスモカ、1934年にビール工場を売った
- [47]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [48]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [50]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [51]1934年6月寿葡萄園設立で葡萄栽培に進出、1935年ポンパン・ヘルメスデリカワイン発売、1936年8月トリスグレープ・オレンジジュース発売、10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収し山梨農場とした
- [52]ポンパンはリンゴの香りが弱く、コーリンのジュースにアルコールと葡萄酒を加えて香りを補った
- [53]12年ものといわれる角瓶は1937年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に残ったから12年ものができたと古い社員は言う
- [55]12年ものといわれる角瓶は1937年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に残ったから12年ものができたと古い社員は言う
- [56]1934年2月ビール事業を分離し大日本麦酒が株式を取得。1937年12月宮城県に山下作業場。紅茶・ソース・醤油・カレーから退き、スモカとビールを譲渡
- [57]1931年にウイスキーの仕込みを中止する窮地に陥り、1932年にドル箱のスモカの製造販売権、1934年にビール工場を売らなければ会社を守れなかった
- [58]1934年2月ビール事業を分離し大日本麦酒が株式を取得。1937年12月宮城県に山下作業場。紅茶・ソース・醤油・カレーから退き、スモカとビールを譲渡
- [59]1934年2月ビール事業を分離し大日本麦酒が株式を取得。1937年12月宮城県に山下作業場。紅茶・ソース・醤油・カレーから退き、スモカとビールを譲渡
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- [46]1955年時点の壽屋の事業は洋酒・合成清酒・焼酎・イースト・果汁・清涼飲料
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [49]1936年に葡萄園を買収して山梨農場とし、葡萄栽培と葡萄酒醸造を開始
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [54]白札から8年を経た1937年に自他ともに満足のいくサントリーウイスキー角瓶を発売
出典・参考
7件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- 私の履歴書 経済人11「竹鶴政孝(ニッカウヰスキー・社長)」
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭