サントリーホールディングス:鳥井信治郎の鳥井商店創業と「赤玉ポートワイン」
1899年〜20歳で大阪・靭に開いた鳥井商店と、甘く調合し直した輸入葡萄酒
1899年、鳥井信治郎氏は20歳で大阪市西区靭中通2丁目に鳥井商店を創業し、葡萄酒の製造販売を始めた。鳥井信治郎氏は1892年に13歳で道修町の薬種問屋小西儀助商店へ奉公に入り、洋酒の調合と製法、売り方、鑑定の基礎を身につけている。父の鳥井忠兵衛氏は両替商から米屋に転じ、副業でサイダーや模造のウイスキーも扱っていた。米屋は長男が継ぎ、次男の鳥井信治郎氏には洋酒の副業を任せる心づもりで奉公に出したという。開業時の得意先は近くの川口町に住む中国商人で、日清戦争後の対中国貿易の好転に乗って商いは順調だった。1968年刊の企業史も、寿屋の起点を1899年創立の洋酒製造業、鳥井商店に置いている。家業を継がない次男にとって、薬種問屋で磨いた調合の腕を生かせる葡萄酒の店が、独立の近道だったのだろう。
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [1]1899年(数え21歳)大阪市西区靭中通2丁目に鳥井商店を開業。得意先は川口町の中国商人で日清戦争後の対中貿易好転で順調
- [5]1899年(数え21歳)大阪市西区靭中通2丁目に鳥井商店を開業。得意先は川口町の中国商人で日清戦争後の対中貿易好転で順調
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [2]1892年13歳で道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公し洋酒の調合・製法・販売・鑑定を学ぶ。父忠兵衛は両替商から米屋に転じ副業で清涼飲料・模造ウイスキーを販売、次男に副業を任せる意図
- [3]1892年13歳で道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公し洋酒の調合・製法・販売・鑑定を学ぶ。父忠兵衛は両替商から米屋に転じ副業で清涼飲料・模造ウイスキーを販売、次男に副業を任せる意図
- [4]1892年13歳で道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公し洋酒の調合・製法・販売・鑑定を学ぶ。父忠兵衛は両替商から米屋に転じ副業で清涼飲料・模造ウイスキーを販売、次男に副業を任せる意図
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [6]鳥井信治郎が洋酒製造業の鳥井商店として明治32年に創立
開業当初の商品は、輸入した生葡萄酒をもとに砂糖や香料を合わせた葡萄酒で、主に中国人の客に売っていた。1900年に父の鳥井忠兵衛氏が亡くなって家に戻ると、鳥井信治郎氏は葡萄酒づくりに本腰を入れた。神戸のスペイン人商社セレース兄弟商会からスペイン産の葡萄酒を仕入れ、瓶に詰めて売り出したものの、売れ行きは振るわなかった。欧州の葡萄酒の風味が、日本人の飲酒の習慣に合わなかったためである。鳥井信治郎氏は甘味剤と香料を買い込み、日本人の舌に合う甘い葡萄酒を目指して毎晩のように調合を重ねた。味付けを繰り返すうちに醸造の方法も会得し、葡萄を用いた葡萄酒の完成につなげた。輸入品を詰め替えて売る商いから、自分の味を持つ製造へ移る転機が、この調合の時期にあったと思われる。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [7]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [8]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [9]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [10]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [11]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [12]セレース商会の葡萄酒を日本人向きの味に改良。当時の葡萄酒は品質が悪く成績は上がらなかったが、味付けをするうちに醸造法を会得し葡萄の入った葡萄酒を完成
1906年、鳥井信治郎氏は店名を鳥井商店から寿屋洋酒店に改めた。1981年の伝記記事も、明治39年の改名と翌1907年の赤玉ポートワイン開発を続けて記している。山口瞳氏の記述では、1902年に南区安堂寺橋通へ移った時点で、西川定義氏との共同経営のもと寿屋洋酒店を名乗り始めていた。この頃の主製品は向獅子甘味葡萄酒で、店員も2人から3人へと増えた。鳥井信治郎氏は、中国人の客に売るのではなく、自ら葡萄酒をつくって日本国内に広めたいと考えるようになった。新しい屋号に葡萄酒ではなく洋酒の語を入れたのは、調合で得た販路に洋酒全般を載せて日本人の客へ広げる狙いだったと推察される。
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [13]年譜:1906年(明治39年)店名を寿屋洋酒店と改める
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [14]明治39年店名を寿屋洋酒店に改名、翌40年赤玉ポートワインを開発
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [15]明治35年南区安堂寺橋通に進出、西川定義との共同経営で寿屋洋酒店を名のる。主製品は向獅子甘味葡萄酒、店員2〜3人に。自ら葡萄酒をつくり国内に売り広めたいと考える
- [16]明治35年南区安堂寺橋通に進出、西川定義との共同経営で寿屋洋酒店を名のる。主製品は向獅子甘味葡萄酒、店員2〜3人に。自ら葡萄酒をつくり国内に売り広めたいと考える
- [17]明治35年南区安堂寺橋通に進出、西川定義との共同経営で寿屋洋酒店を名のる。主製品は向獅子甘味葡萄酒、店員2〜3人に。自ら葡萄酒をつくり国内に売り広めたいと考える
参考文献[1]-[17]
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [1]1899年(数え21歳)大阪市西区靭中通2丁目に鳥井商店を開業。得意先は川口町の中国商人で日清戦争後の対中貿易好転で順調
- [5]1899年(数え21歳)大阪市西区靭中通2丁目に鳥井商店を開業。得意先は川口町の中国商人で日清戦争後の対中貿易好転で順調
- [13]年譜:1906年(明治39年)店名を寿屋洋酒店と改める
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [2]1892年13歳で道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公し洋酒の調合・製法・販売・鑑定を学ぶ。父忠兵衛は両替商から米屋に転じ副業で清涼飲料・模造ウイスキーを販売、次男に副業を任せる意図
- [3]1892年13歳で道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公し洋酒の調合・製法・販売・鑑定を学ぶ。父忠兵衛は両替商から米屋に転じ副業で清涼飲料・模造ウイスキーを販売、次男に副業を任せる意図
- [4]1892年13歳で道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公し洋酒の調合・製法・販売・鑑定を学ぶ。父忠兵衛は両替商から米屋に転じ副業で清涼飲料・模造ウイスキーを販売、次男に副業を任せる意図
- [7]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [8]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [9]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [10]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [11]1900年父の死で家に戻り本格的に葡萄酒製造。当初は中国人相手。セーレス兄弟商会のスペイン産葡萄酒を瓶詰で売ったが不振、日本人の飲酒習慣と風味が合わず、甘味剤・香料で調合を重ねた
- [15]明治35年南区安堂寺橋通に進出、西川定義との共同経営で寿屋洋酒店を名のる。主製品は向獅子甘味葡萄酒、店員2〜3人に。自ら葡萄酒をつくり国内に売り広めたいと考える
- [16]明治35年南区安堂寺橋通に進出、西川定義との共同経営で寿屋洋酒店を名のる。主製品は向獅子甘味葡萄酒、店員2〜3人に。自ら葡萄酒をつくり国内に売り広めたいと考える
- [17]明治35年南区安堂寺橋通に進出、西川定義との共同経営で寿屋洋酒店を名のる。主製品は向獅子甘味葡萄酒、店員2〜3人に。自ら葡萄酒をつくり国内に売り広めたいと考える
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [6]鳥井信治郎が洋酒製造業の鳥井商店として明治32年に創立
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [12]セレース商会の葡萄酒を日本人向きの味に改良。当時の葡萄酒は品質が悪く成績は上がらなかったが、味付けをするうちに醸造法を会得し葡萄の入った葡萄酒を完成
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [14]明治39年店名を寿屋洋酒店に改名、翌40年赤玉ポートワインを開発
1907年〜一本38銭の赤玉ポートワインと、赤玉専用にした築港工場
1907年、寿屋洋酒店が甘味葡萄酒の赤玉ポートワインを1本38銭で発売。当時の甘味葡萄酒では、東京の神谷伝兵衛氏が1880年に発売した蜂印香竄葡萄酒が、薬用酒として他を圧していた。香竄の名をかたる類似品が出回り、葡萄酒といえば香竄と受け止められるほどだった。鳥井信治郎氏は、蜂印を上回る銘柄を新製品の条件に据えた。名はギルビー社のポートワインのラベル隅にあった小さな赤い丸から着想し、太陽と日の丸に重ねて大きな赤い玉を描いた。1968年刊の企業史は、赤玉ポートワインを寿屋の本命商品と位置づけている。国旗を思わせる図柄と甘い味を組み合わせ、薬用酒の蜂印とは別の入口から日本人の客を獲得しようとしたとみられる。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [18]赤玉ポートワインは明治40年に1本38銭で発売。蜂印香竄葡萄酒が圧倒的売行きで、新製品は蜂印を抜くものでなければならなかった。ギルビー社ラベルの赤い丸から着想、太陽・日の丸に重ねた
- [21]赤玉ポートワインは明治40年に1本38銭で発売。蜂印香竄葡萄酒が圧倒的売行きで、新製品は蜂印を抜くものでなければならなかった。ギルビー社ラベルの赤い丸から着想、太陽・日の丸に重ねた
- [22]赤玉ポートワインは明治40年に1本38銭で発売。蜂印香竄葡萄酒が圧倒的売行きで、新製品は蜂印を抜くものでなければならなかった。ギルビー社ラベルの赤い丸から着想、太陽・日の丸に重ねた
- 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
- [19]蜂印香竄葡萄酒は神谷伝兵衛の製品で明治13年発売以来薬用酒として独走。鍵印香竄などの類似品が出回り葡萄酒といえば香竄と通っていた
- [20]蜂印香竄葡萄酒は神谷伝兵衛の製品で明治13年発売以来薬用酒として独走。鍵印香竄などの類似品が出回り葡萄酒といえば香竄と通っていた
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [23]明治40年に本命商品の国産ぶどう酒「赤玉ポートワイン」を発売
寿屋洋酒店は1907年7月19日に初めて新聞広告を出し、葡萄酒の販売に紙面を使った。同業者からは、たかが葡萄酒に新聞広告は大げさだと嘲笑された。続く広告では赤玉ポートワインを薬用の葡萄酒とうたい、1911年5月の広告には医学博士4人らの推薦名を並べた。鳥井信治郎氏は、競走用の自転車で得意先を回った。大阪と東京の大商店との取引が成立し、販売網が整った。蜂印の広告が新聞に出ると、予定日を待たずに臨時広告を打つことも珍しくなかった。同じ頃、原料を米国産に切り替えた蜂印の瓶が小売店で破裂する事故が起き、蜂印の評判は低下した。知名度で先行する蜂印に対し、広告の量と医師の推薦で信用を補ったことが、赤玉の販路拡大を支えたと考えられる。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [24]明治40年7月19日に寿屋が初の新聞広告(洋酒問屋…出荷迅速ナリ)。信治郎は競走用自転車で得意先を回る
- [27]明治40年7月19日に寿屋が初の新聞広告(洋酒問屋…出荷迅速ナリ)。信治郎は競走用自転車で得意先を回る
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [25]新聞広告は同業者の嘲笑を買った。大阪・東京の大商店との取引で販売網を確立。蜂印が原料を米国産に替え瓶が破裂する事件で売行きと名声が低下
- [28]新聞広告は同業者の嘲笑を買った。大阪・東京の大商店との取引で販売網を確立。蜂印が原料を米国産に替え瓶が破裂する事件で売行きと名声が低下
- [30]新聞広告は同業者の嘲笑を買った。大阪・東京の大商店との取引で販売網を確立。蜂印が原料を米国産に替え瓶が破裂する事件で売行きと名声が低下
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [26]2回目以降の広告で薬用葡萄酒を強調、明治44年5月の広告に医学博士4人・薬学博士・陸軍軍医総監の推薦名
- 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
- [29]蜂の広告が新聞に出ると予定日を待てず臨時広告を掲載することが珍しくなかった
1919年、寿屋は大阪の築港に本工場を建て、この工場を赤玉ポートワイン専用とした。1968年刊の企業史も、1919年の大阪工場完成を記している。翌1920年、赤玉ポートワインの生産は月産2万打に達した。それまでの寿屋は、1912年に西川定義氏との共同経営を解いて東区住吉町に移り、表を事務所、裏を作業場として瓶詰とラベル貼りをしていた。自宅での製造が追いつかなくなると、斜め向かいの川沿いの約100坪の土地を工場に充てた。1913年には組織を法人に改め、合名会社寿屋洋酒店とした。1920年は大戦後の反動で不況の兆しが出たが、赤玉ポートワインの売れ行きは好調を保った。手作業の瓶詰では注文に追いつけなくなり、専用工場へ切り替える判断に至ったと推測される。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [31]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [33]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [34]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [35]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [37]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [32]大正8年に大阪工場が完成
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [36]年譜:1913年組織を法人に改め合名会社寿屋洋酒店とする
参考文献[18]-[37]
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [18]赤玉ポートワインは明治40年に1本38銭で発売。蜂印香竄葡萄酒が圧倒的売行きで、新製品は蜂印を抜くものでなければならなかった。ギルビー社ラベルの赤い丸から着想、太陽・日の丸に重ねた
- [21]赤玉ポートワインは明治40年に1本38銭で発売。蜂印香竄葡萄酒が圧倒的売行きで、新製品は蜂印を抜くものでなければならなかった。ギルビー社ラベルの赤い丸から着想、太陽・日の丸に重ねた
- [22]赤玉ポートワインは明治40年に1本38銭で発売。蜂印香竄葡萄酒が圧倒的売行きで、新製品は蜂印を抜くものでなければならなかった。ギルビー社ラベルの赤い丸から着想、太陽・日の丸に重ねた
- [24]明治40年7月19日に寿屋が初の新聞広告(洋酒問屋…出荷迅速ナリ)。信治郎は競走用自転車で得意先を回る
- [27]明治40年7月19日に寿屋が初の新聞広告(洋酒問屋…出荷迅速ナリ)。信治郎は競走用自転車で得意先を回る
- [31]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [33]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [34]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [35]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- [37]大正8年築港工場が赤玉専用、同9年月産2万打。明治45年西川定義との共同経営を解き東区住吉町へ、表が事務所・裏が作業場、斜め向かいの約100坪を工場に。大正9年は反動不況の兆しでも赤玉は好調
- 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
- [19]蜂印香竄葡萄酒は神谷伝兵衛の製品で明治13年発売以来薬用酒として独走。鍵印香竄などの類似品が出回り葡萄酒といえば香竄と通っていた
- [20]蜂印香竄葡萄酒は神谷伝兵衛の製品で明治13年発売以来薬用酒として独走。鍵印香竄などの類似品が出回り葡萄酒といえば香竄と通っていた
- [29]蜂の広告が新聞に出ると予定日を待てず臨時広告を掲載することが珍しくなかった
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [23]明治40年に本命商品の国産ぶどう酒「赤玉ポートワイン」を発売
- [32]大正8年に大阪工場が完成
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [25]新聞広告は同業者の嘲笑を買った。大阪・東京の大商店との取引で販売網を確立。蜂印が原料を米国産に替え瓶が破裂する事件で売行きと名声が低下
- [28]新聞広告は同業者の嘲笑を買った。大阪・東京の大商店との取引で販売網を確立。蜂印が原料を米国産に替え瓶が破裂する事件で売行きと名声が低下
- [30]新聞広告は同業者の嘲笑を買った。大阪・東京の大商店との取引で販売網を確立。蜂印が原料を米国産に替え瓶が破裂する事件で売行きと名声が低下
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭
- [26]2回目以降の広告で薬用葡萄酒を強調、明治44年5月の広告に医学博士4人・薬学博士・陸軍軍医総監の推薦名
- [36]年譜:1913年組織を法人に改め合名会社寿屋洋酒店とする
1920年〜資本金200万円の株式会社寿屋と、赤玉の裸婦ポスター
1921年12月1日、鳥井信治郎氏は資本金200万円で株式会社寿屋を設立した。1968年刊の企業史も、1921年に資本金200万円の寿屋が設立されたと記している。大正半ばには赤玉の売上が寿屋の経営を支えるようになり、株式会社の設立と同時に国産ウイスキーの製造に着手した。洋酒の輸入で年約200万円の外貨が流れ出ることを惜しんだのが、鳥井信治郎氏の動機だった。ただし設立時の資本金を100万円とする資料もあり、上の2資料とは食い違う。同じ1921年、寿屋は東京・有楽町に出張所を開設し、本社十数人、東京4人の店員で構えた。ウイスキーは仕込みから出荷まで資金が長く寝るため、個人商店のままでは資金を調達しきれないと判断した可能性が高い。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- [38]設立大正10年12月1日。個人経営・合資会社時代を経て資本金200万円の株式会社寿屋を創立
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [39]大正10年に資本金200万円の寿屋が設立
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [40]大正半ばに強固な地盤、大正10年資本金百万円で株式会社寿屋を創立し同時に国産ウイスキー製造に着手。動機は洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだこと
- [41]大正半ばに強固な地盤、大正10年資本金百万円で株式会社寿屋を創立し同時に国産ウイスキー製造に着手。動機は洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだこと
- [42]大正半ばに強固な地盤、大正10年資本金百万円で株式会社寿屋を創立し同時に国産ウイスキー製造に着手。動機は洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだこと
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [43]大正10年有楽町に東京出張所を開設。本社店員十数人、東京4人
寿屋の広告は、1919年に入社した片岡敏郎氏が担った。片岡敏郎氏は電通と森永製菓を経た文案家で、初任給は大学卒の10倍にあたる300円。鳥井信治郎氏は兼ねていた宣伝部長の職を片岡敏郎氏に譲り、社長でも広告に干渉しないという条件をのんだ。1921年初春、片岡敏郎氏は上半身の肌を見せた女性を撮り、赤玉ポートワインのポスターに仕立てた。鳥井信治郎氏は葡萄酒の赤の刷り直しを重ねさせ、ポスターはドイツの世界ポスター展で1等に入った。1922年春には赤玉楽劇団を結成し、有楽座で旗揚げして全国を巡り、販売店主や愛飲者を招いた。劇団は経費がかさみ1年で解散したが、鳥井信治郎氏は『葡萄酒もウイスキーも外国のもんや。異国情緒かもしださなあかん』と劇団の存続にこだわった。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [44]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [45]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [46]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [47]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [48]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [50]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
- [49]片岡敏郎の発案で赤玉楽劇団を結成、有楽座で旗揚げし全国を巡演、販売店主・愛飲者を招待し5日のうち3日は一般に開放
1920年前後の鳥井信治郎氏の課題は、赤玉ポートワインの次の製品探し。輸入洋酒の樽に詰めておいた質の悪いアルコールを試しに飲むと、貯蔵の間に味が良くなっていた。鳥井信治郎氏はこれをトリスウイスキーの名で売り出したが、1樽限りですぐ品切れになった。ウイスキーの炭酸割りを瓶に詰めたウイスタンも出したものの、売れ行きは振るわなかった。当時、本格ウイスキーの国産品は無く、すべてが輸入品である。市場を占めていたのはジョニー・ウォーカーやホワイト・ラベルなどスコッチの銘柄だった。鳥井信治郎氏は後年、『酒ちゅうもんは生きてま。どんな酒かて置いてみなはれ』という言葉を残しており、樽の一件が国産の本格ウイスキーに取り組む発想の起点になった。
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [51]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [52]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [53]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [54]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [57]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [55]当時本格ウイスキーは国産品が皆無で全て輸入品
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [56]当時の洋酒はジョニー・ウォーカー、ホワイト・ラベルなどスコッチ物が多く年間輸入高約200万円
参考文献[38]-[57]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- [38]設立大正10年12月1日。個人経営・合資会社時代を経て資本金200万円の株式会社寿屋を創立
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- [39]大正10年に資本金200万円の寿屋が設立
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- [40]大正半ばに強固な地盤、大正10年資本金百万円で株式会社寿屋を創立し同時に国産ウイスキー製造に着手。動機は洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだこと
- [41]大正半ばに強固な地盤、大正10年資本金百万円で株式会社寿屋を創立し同時に国産ウイスキー製造に着手。動機は洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだこと
- [42]大正半ばに強固な地盤、大正10年資本金百万円で株式会社寿屋を創立し同時に国産ウイスキー製造に着手。動機は洋酒の年間輸入高約200万円の外貨流出を惜しんだこと
- [56]当時の洋酒はジョニー・ウォーカー、ホワイト・ラベルなどスコッチ物が多く年間輸入高約200万円
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- [43]大正10年有楽町に東京出張所を開設。本社店員十数人、東京4人
- [44]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [45]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [46]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [47]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [48]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [50]片岡敏郎は大正8年入社、初任給300円(大卒30円の時代)、電通・森永製菓を経る。信治郎は宣伝部長を片岡に譲り、社長も広告に干渉しない条件。大正10年初春にヌードポスター撮影、赤の刷り直しを重ね初夏に完成、ドイツの世界ポスター展で1等。赤玉楽劇団は経費がかさみ1年で解散
- [51]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [52]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [53]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [54]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- [57]大正9年頃、輸入洋酒の樽に詰めた不出来なアルコールが貯蔵で良い味に。これをトリスウイスキーとして発売、1樽で品切れ。ウイスタン(ハイボール瓶詰)は不振。これが後の本格ウイスキーの発想につながる
- 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
- [49]片岡敏郎の発案で赤玉楽劇団を結成、有楽座で旗揚げし全国を巡演、販売店主・愛飲者を招待し5日のうち3日は一般に開放
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- [55]当時本格ウイスキーは国産品が皆無で全て輸入品
出典・参考
7件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
- 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「サントリー」
- 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
- 事務と経営 1981年「国産ウイスキーづくりに賭けた情熱(鳥井信治郎 サントリー)」志村嘉門
- 近代企業リサーチ 1988年4月10日「ウイスキーを造った男――洋酒王・鳥井信治郎」山西尭