佐治敬三
経歴1945〜1990年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1945年主要役職の状況(推定含む目安)1999年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間企業 | |||||
| 民間企業 | 寿屋(現サントリーホールディングス) | 1945 | 入社 | ||
| 1949 | 専務取締役 | ||||
| 1961 | 社長 | ||||
| 1990 | 社長 退任(会長へ) | ||||
| 1990 | 会長 | ||||
社長就任までの出自
社長に選ばれた経緯
抜擢
寿屋では、副社長を務めていた長兄の鳥井吉太郎氏が1940年9月に病で亡くなっていた。佐治敬三氏は1949年11月に専務取締役に就任し、専務の時期には、のちに作家となる開高健氏の才能を認めて宣伝部に迎えている。1961年5月30日、82歳の鳥井信治郎氏は佐治敬三氏を社長に推し、自らは社長を退任して取締役会長に就任した。ブレンドなど最上位の決定権は、会長の手に留め置かれた。佐治敬三氏は41歳で、引き継いだ会社の売上高は250億円だった。
中興ストーリー
中興ストーリー
佐治敬三氏が社長に就任した1961年、寿屋のウイスキーはオールドとトリスを軸に、洋酒ブームと呼べる追い風を受けていた。それでも佐治敬三氏は、このままでは会社の先行きが危ういとみて、社員を引き締める狙いも込めてビールへの参入を決めた。父の鳥井信治郎氏は1928年に横浜の日英醸造を買い取ってビールに進んだが、1934年に撤退しており、ビールは父が果たせなかった事業だった。当時の市場は原料が割当制で、東京と横浜を除く全国の卸がキリン、サッポロ、アサヒのいずれかと専売の契約を結んでいた。
- 佐治敬三『へんこつなんこつ 私の履歴書』(日本経済新聞社、1994年)
- [11]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [12]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [13]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [14]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
佐治敬三氏はまず、技術者を連れてドイツからデンマークへビールの産地を回った。コペンハーゲンで飲んだ樽生に惹かれてデンマーク型の味に決め、カールスバーグ社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士に技術の指導を仰いだ。卸の専売契約という壁は、朝日麦酒の山本為三郎社長に助けを求めて越えた。サントリーのビールを朝日のブランドの一つとして朝日の卸に流す代わりに、工場の新設や増設には朝日の承認を要し、値段も朝日にそろえるという条件だった。1963年4月の発売とともに、社名を寿屋からサントリーに改めた。
- 佐治敬三『へんこつなんこつ 私の履歴書』(日本経済新聞社、1994年)
- [15]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [16]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [17]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [18]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [19]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
発売したビールは、色も中身も薄いと酷評された。評判がよかったのはビアホールの生ビールで、佐治敬三氏は生の路線に絞り、米国の濾過の設備を導入して1967年に「純生」を出した。販売では流通の川下にあたるバーや料亭を自社で開拓する方針を立て、専任の部隊を盛り場に投じた。1976年には、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち、ビールの販売を手伝う作戦も始めている。発売時に掲げた5年でシェア1割という目標に対し、1975年のシェアは5.4%にとどまった。
- 佐治敬三『へんこつなんこつ 私の履歴書』(日本経済新聞社、1994年)
- [20]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [21]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [22]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- [23]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [24]ビールを始めた時に5年間に1割のシェア確保と言った
- 日経ビジネス 1976年7月19日号
- [25]49年度を初年度とする5カ年計画。洋酒は2倍程度にとどめ、ビール・食品・海外を伸ばす。ビールのシェアは50年に5.4%、これを10%に引き上げる計画
赤字のビールを抱えたまま、事業の幅は洋酒の外へ広がった。1974年度からの5カ年計画は、洋酒の伸びを2倍程度に抑え、ビール、食品、海外を伸ばす配分だった。1979年には医薬品事業に参入し、帝人で薬品の研究を率いた野口照久博士を迎えた。佐治敬三氏はこれらの多角化を「生活文化企業」という理念で統括したが、1985年3月期にはその要だったオールドの販売量が前期より34%減少した。オールドは1銘柄で洋酒部門の売上の約4割を占めていた。
- 日経ビジネス 1976年7月19日号
- [26]49年度を初年度とする5カ年計画。洋酒は2倍程度にとどめ、ビール・食品・海外を伸ばす。ビールのシェアは50年に5.4%、これを10%に引き上げる計画
- [27]49年度を初年度とする5カ年計画。洋酒は2倍程度にとどめ、ビール・食品・海外を伸ばす。ビールのシェアは50年に5.4%、これを10%に引き上げる計画
- 佐治敬三『へんこつなんこつ 私の履歴書』(日本経済新聞社、1994年)
- [28]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- 日経ビジネス 1984年1月23日号
- [29]医薬品事業を54年に抱え込んだ。常務・医薬事業本部長の野口照久
- 日経ビジネス 1985年4月29日号
- [30]オールドの販売量は前3月期に対前期比34%も減った。オールドは洋酒部門の売り上げの約4割を占める。多角化を統括する理念が「生活文化企業」で、その要がオールドだった
- [31]オールドの販売量は前3月期に対前期比34%も減った。オールドは洋酒部門の売り上げの約4割を占める。多角化を統括する理念が「生活文化企業」で、その要がオールドだった
1990年3月、佐治敬三氏は29年務めた社長を、亡くなった長兄・鳥井吉太郎氏の遺児である鳥井信一郎氏に譲り、会長に就任した。1999年11月に死去したとき、同社は連結で1兆円を超えるグループとなり、事業はウイスキーとビールに加えて清涼飲料、ワイン、医薬、花に広がっていた。
- 佐治敬三『へんこつなんこつ 私の履歴書』(日本経済新聞社、1994年)
- [32]それまでのウイスキー事業はオールド、トリスを基軸に第一次洋酒ブームの順風に恵まれていたが、このままでは会社の将来が不安だ、社員にカツを入れるためにもビール事業に挑戦しようと決意した。昭和三年に父は日英醸造を買収してビール界に出たが昭和九年に軍門に降った。原料は割当制、全国の卸屋(東京・横浜を除く)はキリン、サッポロ、アサヒいずれかの特約卸で専売契約に縛られていた。ベルリンからデンマークまでビール銘醸地を回り、コペンハーゲンでカールスバーグの樽生に魅了され、同社の紹介でヨルゲンセン研究所のヘルム博士の指導を得た。朝日麦酒社長山本為三郎氏が、サントリービールを朝日のひとつのブランドとして扱い卸の専売契約をクリアーする代わりに、工場の増設・新設は朝日の承認を受け、値段など販売条件は朝日と同一とする条件で助力した。昭和三十八年四月発売、社名をサントリーに改めた。世評は「色がうすい、中身もうすい」と散々だったが、ビアホールの生ビールは好評で「生」路線を決め、米国のミクロフィルターの設備を導入し昭和四十二年四月に「純生」。流通の川下のバー・レストラン・料亭等の業務店を自らの手で攻略する精鋭部隊「新撰組」を盛り場に投入。昭和五十一年、全社員が職場を離れて近くの酒販店の店頭に立ち販売を手伝う「全社員一日セールスマン作戦」を発動。超酒類企業・生活文化企業の将来図を描くなかで医薬への道が現れ、日本曹達ついで帝人の薬品分野で業績をあげた野口照久博士がサントリーの医薬事業の祖となった。兄吉太郎は昭和十五年に死去、サントリーの現社長信一郎はその遺児
- 日経ビジネス 1994年12月5日号
- [33]鳥井信一郎氏 90年3月 同社社長就任
- 日経ビジネス 1999年11月15日号 三宅誠一
- [34]1990年1月、29年間務めた社長の座を譲った会見で「口やかましい姑型会長」を自ら宣言した。ウイスキーから出発、ビールに進出した後も清涼飲料、ワイン、医薬、花など事業を積極的に多角化した。61年に社長に就任し、売上高250億円の企業を連結で1兆円も超えるグループに育て上げた
- [35]1990年1月、29年間務めた社長の座を譲った会見で「口やかましい姑型会長」を自ら宣言した。ウイスキーから出発、ビールに進出した後も清涼飲料、ワイン、医薬、花など事業を積極的に多角化した。61年に社長に就任し、売上高250億円の企業を連結で1兆円も超えるグループに育て上げた
在任中の主な施策
参考文献4件
参考文献
- 佐治敬三『へんこつなんこつ 私の履歴書』(日本経済新聞社、1994年)
- サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
- 日経ビジネス 1985年2月4日号「佐治敬三・サントリー社長 洋酒文化築いた二代目の教養」
- 日経ビジネス 1994年12月5日号「編集長インタビュー 鳥井信一郎氏(サントリー社長)消費者はやがて品質本位に戻る」
事実根拠:出所(サントリーホールディングス)