第2章 年〜年

サントリーホールディングス:山崎蒸溜所でのウイスキー国産化と「角瓶」の発売

1923年〜役員全員が反対した山崎蒸溜所と、売れなかった白札

1923年10月、寿屋は本格ウイスキー工場の建設準備に入り、翌1924年4月15日に京都近郊の山崎で起工した。社内では役員全員が反対し、のちに通商産業大臣となる高碕達之助氏ら社外の知友も計画に異を唱えた。反対の根拠は、スコットランド以外に成功例が無いこと、原酒を6〜7年寝かせる間の資金と金利、樽から出すまで品質が分からないことの3点にあった。1955年刊の会社史も、資本が長く固定される点を、国内で醸造が不可能視されてきた理由に挙げている。鳥井信治郎氏は、英国でウイスキー製造を学んで帰国した竹鶴政孝氏を年俸4,000円で迎え、技術の空白を人材で補った。不況にも強い赤玉ポートワインの現金収入があったからこそ、鳥井信治郎氏は反対を押し切れたのだろう。

  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [1]山崎工場の建設準備は大正12年10月、起工式は翌年4月15日。赤玉ポートワインの成功で蓄積が生じ始めたのは大正中期で、その蓄積を数年間ウイスキーに注ぎ込み続けた
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [2]ウイスキー製造の発表に寿屋の全役員、高碕達之助、木村幸次郎、鈴木三郎助が反対。理由はスコットランド以外で成功例なし、6〜7年寝かせる資金と金利、樽を開けるまで品質が不明。竹鶴政孝を年俸4,000円で迎える
    • [3]ウイスキー製造の発表に寿屋の全役員、高碕達之助、木村幸次郎、鈴木三郎助が反対。理由はスコットランド以外で成功例なし、6〜7年寝かせる資金と金利、樽を開けるまで品質が不明。竹鶴政孝を年俸4,000円で迎える
    • [5]ウイスキー製造の発表に寿屋の全役員、高碕達之助、木村幸次郎、鈴木三郎助が反対。理由はスコットランド以外で成功例なし、6〜7年寝かせる資金と金利、樽を開けるまで品質が不明。竹鶴政孝を年俸4,000円で迎える
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
    • [4]大正12年、資本が長期間固定するため従来国内では醸造が不可能視されていた本格ウイスキーの国産化に着手

工場の立地に山崎を選んだ決め手は、水と気候である。木津川・桂川・宇治川の三川が合流する地点で霧が出やすく、空気が乾かないため、樽の中の原酒が蒸散で減りにくい。仕込み水は英国のムーア博士に送って検査を受け、醸造に適するとの回答を得た。設備はスコットランド流のポットスチル式とし、原料の大麦も英国種を摂津や山城などで栽培させた。乾燥塔のタイルや糖化機の濾過板は英国から取り寄せ、ポットスチルは国内で設計と製作を重ねた。蒸溜量は初年に約500石、2年目には3,000石余りに増えた。当時の酒税は造石税で、蒸溜の段階で課税されると貯蔵中に減った量まで税を負う。鳥井信治郎氏は貯蔵期間の課税をめぐり、税務監督局や大蔵省との交渉を重ねた。日本酒を前提にした設備と税制を、洋酒向けに組み替える作業が着手後の数年を占めたと思われる。

  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [6]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [10]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [11]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [12]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [13]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [7]山崎は三川が合流し濃霧が発生しやすく空気が乾燥しないため原酒が減りにくい。地下水をムーア博士に送り、醸造に最もふさわしい水との回答
    • [8]山崎は三川が合流し濃霧が発生しやすく空気が乾燥しないため原酒が減りにくい。地下水をムーア博士に送り、醸造に最もふさわしい水との回答
  • 実業の世界 1935年8月号
    • [9]設備一切はスコッチ流ポットスチル式。原料大麦も英国種のウイスキー用麦を摂津・山城などで栽培

1929年4月1日、寿屋は山崎の原酒を使ったサントリーウイスキー白札を発売した。価格は4円50銭とし、1本5円前後だった輸入品を下回る水準に置いた。1955年刊の会社史も、1929年をサントリーウイスキー誕生の年に位置づけている。ところが白札は焦げ臭いと評され、限られた愛飲家は国産品を選ばなかった。ピートの焚きすぎと酵母に原因があったとされ、鳥井信治郎氏は工場長の竹鶴政孝氏を再び英国へ派遣した。1930年5月に普及版の赤札を出したものの、売れ行きは1932年になっても回復しなかった。経理担当の大川信雄氏は資金が残り6カ月しかもたないと伝え、1931年には仕込みの中止にまで追い込まれた。樽から出すまで品質が分からないという着手前の反対論が、発売後に現実の資金難となって返ってきたといえよう。

  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [14]白札サントリーウイスキーは昭和4年4月1日発売、価格4円50銭。当時の輸入ウイスキーは1本5円ぐらい
    • [15]白札サントリーウイスキーは昭和4年4月1日発売、価格4円50銭。当時の輸入ウイスキーは1本5円ぐらい
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
    • [16]昭和4年ついにサントリーウイスキーの誕生をみた
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [17]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
    • [18]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
    • [19]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
    • [20]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
参考文献[1]-[20]
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [1]山崎工場の建設準備は大正12年10月、起工式は翌年4月15日。赤玉ポートワインの成功で蓄積が生じ始めたのは大正中期で、その蓄積を数年間ウイスキーに注ぎ込み続けた
    • [6]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [10]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [11]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [12]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [13]山崎は水と風土で選ばれた。乾燥塔のタイル・糖化機の濾過板などは英国から輸入、ポットスチルの設計製作は苦労の連続。初年約500石、2年目3,000石余り。造石税のため貯蔵が製造工程であることを税務監督局・大蔵省に何度も談判
    • [14]白札サントリーウイスキーは昭和4年4月1日発売、価格4円50銭。当時の輸入ウイスキーは1本5円ぐらい
    • [15]白札サントリーウイスキーは昭和4年4月1日発売、価格4円50銭。当時の輸入ウイスキーは1本5円ぐらい
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [2]ウイスキー製造の発表に寿屋の全役員、高碕達之助、木村幸次郎、鈴木三郎助が反対。理由はスコットランド以外で成功例なし、6〜7年寝かせる資金と金利、樽を開けるまで品質が不明。竹鶴政孝を年俸4,000円で迎える
    • [3]ウイスキー製造の発表に寿屋の全役員、高碕達之助、木村幸次郎、鈴木三郎助が反対。理由はスコットランド以外で成功例なし、6〜7年寝かせる資金と金利、樽を開けるまで品質が不明。竹鶴政孝を年俸4,000円で迎える
    • [5]ウイスキー製造の発表に寿屋の全役員、高碕達之助、木村幸次郎、鈴木三郎助が反対。理由はスコットランド以外で成功例なし、6〜7年寝かせる資金と金利、樽を開けるまで品質が不明。竹鶴政孝を年俸4,000円で迎える
    • [7]山崎は三川が合流し濃霧が発生しやすく空気が乾燥しないため原酒が減りにくい。地下水をムーア博士に送り、醸造に最もふさわしい水との回答
    • [8]山崎は三川が合流し濃霧が発生しやすく空気が乾燥しないため原酒が減りにくい。地下水をムーア博士に送り、醸造に最もふさわしい水との回答
    • [17]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
    • [18]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
    • [19]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
    • [20]白札は焦げくさく売れず、ピートの焚きすぎと酵母に問題。竹鶴政孝を再び英国へ派遣。昭和5年5月に赤札を発売したが6年・7年も売れず、大川信雄が資金はあと6カ月と告げ、昭和6年には仕込み中止の窮地
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
    • [4]大正12年、資本が長期間固定するため従来国内では醸造が不可能視されていた本格ウイスキーの国産化に着手
    • [16]昭和4年ついにサントリーウイスキーの誕生をみた
  • 実業の世界 1935年8月号
    • [9]設備一切はスコッチ流ポットスチル式。原料大麦も英国種のウイスキー用麦を摂津・山城などで栽培

1928年〜スモカとビール工場を譲渡して守った原酒と、12年貯蔵の角瓶

ウイスキーが現金を生まない間、鳥井信治郎氏は他の商品で運転資金を稼ぐ手立てを探った。1924年のパームカレー、1926年の歯磨スモカ、1928年のトリスソースと、食品と日用品へ品目を広げている。1928年11月には、税金の滞納で入札にかけられた横浜・鶴見の日英醸造のビール工場を101万円で落札した。年産能力5万石の小工場で、他社の1本33銭に対し新カスケードビールは29銭。京浜地方ではオラガビールの名で27銭、さらに25銭まで値を下げている。既存の大手は自社瓶制度で回収瓶の流用を封じた。キリンビールは他社瓶にラベルを貼った点を商標権の侵害として訴え、寿屋はこの裁判で劣位に置かれた。工場1つの新規参入者にとって、価格を下げるほど瓶の回収という物流の制約が重くなる構図だったとみられる。

  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [21]ウイスキーのために他の事業を拡張しなければならなかった。オラガビールの失敗は、宣伝攻勢・値下げ攻勢に音をあげた他社が自社瓶制度で妨害したため
    • [26]ウイスキーのために他の事業を拡張しなければならなかった。オラガビールの失敗は、宣伝攻勢・値下げ攻勢に音をあげた他社が自社瓶制度で妨害したため
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [22]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [23]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [24]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [25]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [27]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴

1932年11月、寿屋は収益源だったスモカの製造販売権を譲渡した。1934年1月にはビール工場を東京麦酒へ300万円で売却し、不足していた資金を補った。同じ1934年には、特売を重ねてきた赤玉ポートワインの報奨金制度も廃止。一方で同年に川上善兵衛氏の岩ノ原葡萄園の経営へ参加し、1936年には山梨県の葡萄園150町歩を取得して、原料葡萄の国産化に着手した。1934年1月にはサントリーウイスキーを初めて米国へ輸出し、翌1935年には毎月1万箱の注文が届いていた。一連の撤退は、いずれもウイスキー事業の存続を優先した措置だった。回収の早い日用品とビールを切り離し、ウイスキーと葡萄酒という酒の本業へ経営資源を寄せた選別だったと推測される。

  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [28]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
    • [30]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
    • [31]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
    • [33]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [29]オラガビール工場は昭和9年1月に東京麦酒へ300万円で売却。佐治敬三は「とどのつまりは軍資金の不足」と述べた
  • 実業の世界 1935年8月号
    • [32]昨年1月に米国へ積み出したのが最初の輸出で、本年1月に5,000箱、4月以降は毎月1万箱の注文

1937年、寿屋は12年貯蔵の原酒を使ったサントリーウイスキーの角瓶を完成させた。1940年には黒丸のオールドサントリーを加えている。白札が売れずに出荷できなかった原酒が、その間に樽の中で熟成を重ねていた。古参の社員はこの経緯を『売れへんよってに原酒が貯蔵庫に寝ることになりよる。そやから十二年もんがでけたんや』と振り返ったという。日中戦争の拡大でスコッチの輸入が制限され、英国式の伝統を持つ海軍がサントリーウイスキーを支持した。1939年から1940年には需要に原酒が追いつかず、社員には年40〜50カ月分の賞与が支給された。1944年4月には軍需会社の指定を受け、大阪工場の隣接地で航空燃料の製造を始めた。売れなかった時期の在庫が、輸入の途絶という外部の変化を受けて供給力に転じたと考えられる。

  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [34]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [36]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [37]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [39]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [40]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [35]昭和12年サントリーウイスキー12年もの(亀甲型)発売、昭和15年オールドサントリー(黒丸)発売。サントリーウイスキーは戦争中を通じて海軍の保護を受けた
    • [38]昭和12年サントリーウイスキー12年もの(亀甲型)発売、昭和15年オールドサントリー(黒丸)発売。サントリーウイスキーは戦争中を通じて海軍の保護を受けた
参考文献[21]-[40]
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [21]ウイスキーのために他の事業を拡張しなければならなかった。オラガビールの失敗は、宣伝攻勢・値下げ攻勢に音をあげた他社が自社瓶制度で妨害したため
    • [26]ウイスキーのために他の事業を拡張しなければならなかった。オラガビールの失敗は、宣伝攻勢・値下げ攻勢に音をあげた他社が自社瓶制度で妨害したため
    • [28]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
    • [30]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
    • [31]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
    • [33]昭和7年11月スモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和9年赤玉ポートワイン報奨金制度を廃止、岩ノ原葡萄園の経営に参加。昭和11年10月山梨県北巨摩郡の葡萄園150町歩を買収。すべてはサントリーウイスキーを守るためだったと見るのが正しい
    • [34]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [36]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [37]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [39]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
    • [40]12年もの角瓶は昭和12年末に完成。白札が売れず原酒が貯蔵庫に寝た。昭和14〜15年には売れすぎて困り、社員のボーナスは年40〜50カ月。昭和19年4月大阪工場隣接地に第二工場を建設し航空燃料の製造開始、軍需会社に指定
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [22]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [23]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [24]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [25]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [27]大正15年スモカ、昭和3年トリスソース。昭和3年11月税金滞納で売りに出たカスケードビール鶴見工場を101万円で落札。生産能力5万石、他社33銭に対し29銭、京浜ではオラガビール27銭、さらに25銭。キリンが商標権侵害で提訴し寿屋は敗訴
    • [29]オラガビール工場は昭和9年1月に東京麦酒へ300万円で売却。佐治敬三は「とどのつまりは軍資金の不足」と述べた
    • [35]昭和12年サントリーウイスキー12年もの(亀甲型)発売、昭和15年オールドサントリー(黒丸)発売。サントリーウイスキーは戦争中を通じて海軍の保護を受けた
    • [38]昭和12年サントリーウイスキー12年もの(亀甲型)発売、昭和15年オールドサントリー(黒丸)発売。サントリーウイスキーは戦争中を通じて海軍の保護を受けた
  • 実業の世界 1935年8月号
    • [32]昨年1月に米国へ積み出したのが最初の輸出で、本年1月に5,000箱、4月以降は毎月1万箱の注文

1945年〜進駐軍への納入と、トリスバーが広げた大衆向けウイスキー

1945年3月の大阪空襲で住吉町の本社が焼け、6月1日の空襲では大阪工場も事務所と工場の大半を失った。沖縄の航空燃料工場も全滅し、焼け残ったのは山崎工場と、横穴や地中に埋めて守った原酒の樽である。9月2日にGHQから軍需会社の指定を解かれ、10月1日にはサントリーウイスキーが占領軍への納入品に指定された。鳥井信治郎氏は原酒が尽きないよう庫出しを制限し、GHQと生産計画を立てて部隊ごとに切符で配った。将校向けのサントリーとは別に兵士向けのブルー・リボンを用意し、この銘柄がのちのトリスの前身となった。1947年3月には大分県の臼杵工場で蒸溜が始まり、原酒の供給源は2カ所に増えた。戦前に積み上げた原酒の在庫が、占領期の最初の販路を開く手札になったと推察される。

  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [41]昭和20年3月の第1回大阪空襲で住吉町の本社が焼失、6月1日の空襲で大阪工場の事務所と工場の大半が焼失、沖縄工場は全滅。山崎工場の原酒は横穴や土中に埋めてあり、残ったのは山崎工場だけ
    • [42]昭和20年3月の第1回大阪空襲で住吉町の本社が焼失、6月1日の空襲で大阪工場の事務所と工場の大半が焼失、沖縄工場は全滅。山崎工場の原酒は横穴や土中に埋めてあり、残ったのは山崎工場だけ
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [43]昭和20年9月2日にGHQより軍需会社指定を解除、10月1日に司令部へのサントリーウイスキー納入が指令された。臼杵工場で最初のウイスキーが蒸溜されたのは昭和22年3月3日
    • [46]昭和20年9月2日にGHQより軍需会社指定を解除、10月1日に司令部へのサントリーウイスキー納入が指令された。臼杵工場で最初のウイスキーが蒸溜されたのは昭和22年3月3日
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [44]10月1日にサントリーは占領軍の納入品に指定。原酒のストックがゼロにならないよう庫出制限をし、GHQと生産計画を立てて部隊ごとに切符を配給。将校用とは別に兵隊用にブルー・リボンを作り、これがトリスの前身となった
    • [45]10月1日にサントリーは占領軍の納入品に指定。原酒のストックがゼロにならないよう庫出制限をし、GHQと生産計画を立てて部隊ごとに切符を配給。将校用とは別に兵隊用にブルー・リボンを作り、これがトリスの前身となった

戦後の闇市には焼酎に色を付けた偽のウイスキーが出回り、酒税法はウイスキーの中身をほとんど定めていなかった。等級の線引きを相談された鳥井信治郎氏は一級を貯蔵7年以上とする案を示したが、他社の反対を受けて貯蔵3年以上で決着した。二級はモルトの混和率に下限が置かれず、モルトを含まない製品もウイスキーと名乗れた。鳥井信治郎氏は当初、トリスを原酒の貯蔵資金を稼ぐ商品とみていた。洋食とウイスキーの消費が広がる兆しを見て、入門用の酒として売る方針に改めた。1950年4月、公定価格の撤廃に合わせ、「うまい、やすい」を掲げてトリスウイスキーを打ち出した。翌1951年1月には、戦後初の新聞全面広告も出している。粗悪品と同じ等級で売る以上、品質の差を手頃な価格で示すことが競争優位の源泉になったとみられる。

  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [47]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [48]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [49]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [50]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [51]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [52]昭和25年4月、公定価格の撤廃に「うまい、やすい」のキャッチフレーズでトリスウイスキーが登場。翌26年1月に戦後最初の新聞1ページ広告
    • [53]昭和25年4月、公定価格の撤廃に「うまい、やすい」のキャッチフレーズでトリスウイスキーが登場。翌26年1月に戦後最初の新聞1ページ広告

1950年代半ば、都市部にはトリスを手頃な値段で出すバーが急増し、トリスバーと呼ばれた。1955年には寿屋が納める酒税が年30億円を超え、同年の年売上高は約60億円に達した。1956年3月、寿屋はサントリーバーとトリスバーを系列店として組織し、本社による支援を始めた。同年4月には月刊のPR誌、洋酒天国を創刊し、系列バーを通じて客へ無料で配った。1958年のトリスの販売数量は84万ケース、トリスバーは1,183軒。同じ年の資本金は1億9,200万円、従業員は1,165名で、関東の拠点として川崎市に多摩川工場を構えた。バーで覚えたウイスキーが家庭へ持ち込まれ、その酒税と売上の伸びが1960年代の大型投資の原資を用意した可能性が高い。

  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [54]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
    • [55]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
    • [57]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
    • [60]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
  • 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
    • [56]寿屋 資本金4,800万円、年売上高約60億円、従業員約1,000名、工場数11
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [58]昭和31年4月に月刊PR誌『洋酒天国』を発刊し、サントリーバー・トリスバーを通じて愛飲家に無料配布。昭和33年のトリスの販売数量は84万ケース、トリスバーの数は1,183軒
    • [59]昭和31年4月に月刊PR誌『洋酒天国』を発刊し、サントリーバー・トリスバーを通じて愛飲家に無料配布。昭和33年のトリスの販売数量は84万ケース、トリスバーの数は1,183軒
参考文献[41]-[60]
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
    • [41]昭和20年3月の第1回大阪空襲で住吉町の本社が焼失、6月1日の空襲で大阪工場の事務所と工場の大半が焼失、沖縄工場は全滅。山崎工場の原酒は横穴や土中に埋めてあり、残ったのは山崎工場だけ
    • [42]昭和20年3月の第1回大阪空襲で住吉町の本社が焼失、6月1日の空襲で大阪工場の事務所と工場の大半が焼失、沖縄工場は全滅。山崎工場の原酒は横穴や土中に埋めてあり、残ったのは山崎工場だけ
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
    • [43]昭和20年9月2日にGHQより軍需会社指定を解除、10月1日に司令部へのサントリーウイスキー納入が指令された。臼杵工場で最初のウイスキーが蒸溜されたのは昭和22年3月3日
    • [46]昭和20年9月2日にGHQより軍需会社指定を解除、10月1日に司令部へのサントリーウイスキー納入が指令された。臼杵工場で最初のウイスキーが蒸溜されたのは昭和22年3月3日
    • [52]昭和25年4月、公定価格の撤廃に「うまい、やすい」のキャッチフレーズでトリスウイスキーが登場。翌26年1月に戦後最初の新聞1ページ広告
    • [53]昭和25年4月、公定価格の撤廃に「うまい、やすい」のキャッチフレーズでトリスウイスキーが登場。翌26年1月に戦後最初の新聞1ページ広告
    • [54]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
    • [55]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
    • [57]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
    • [60]トリスバーという国民酒場が広がった。昭和30年に寿屋の酒税は年間30億円を突破、31年3月にサントリーバー・トリスバーのチェーン支援体制。昭和33年6月20日現在の資本金1億9,200万円、従業員1,165名、関東進出の拠点として多摩川工場(川崎市)
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健
    • [44]10月1日にサントリーは占領軍の納入品に指定。原酒のストックがゼロにならないよう庫出制限をし、GHQと生産計画を立てて部隊ごとに切符を配給。将校用とは別に兵隊用にブルー・リボンを作り、これがトリスの前身となった
    • [45]10月1日にサントリーは占領軍の納入品に指定。原酒のストックがゼロにならないよう庫出制限をし、GHQと生産計画を立てて部隊ごとに切符を配給。将校用とは別に兵隊用にブルー・リボンを作り、これがトリスの前身となった
    • [47]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [48]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [49]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [50]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [51]戦後は焼酎に色をつけた偽ウイスキーが氾濫し、酒税法は洋酒の規定が穴だらけ。信治郎は一級を貯蔵7年以上と主張したが反対が続出し貯蔵3年以上で決着。二級はモルトの下限がなくゼロでもウイスキーと名乗れた。信治郎はトリスをサントリーを寝かせる財源と考えていたが、ウイスキー人口の増加の芽を見て入門書としてのトリスを飲んでもらう必要を感じた
    • [58]昭和31年4月に月刊PR誌『洋酒天国』を発刊し、サントリーバー・トリスバーを通じて愛飲家に無料配布。昭和33年のトリスの販売数量は84万ケース、トリスバーの数は1,183軒
    • [59]昭和31年4月に月刊PR誌『洋酒天国』を発刊し、サントリーバー・トリスバーを通じて愛飲家に無料配布。昭和33年のトリスの販売数量は84万ケース、トリスバーの数は1,183軒
  • 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
    • [56]寿屋 資本金4,800万円、年売上高約60億円、従業員約1,000名、工場数11

出典・参考

6件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955)「壽屋」
  • 企業の現代史 1965「サントリーのすべて」
  • 実業の世界 1935年8月号
  • 社会人 74 1955年「寿屋社長 鳥井信治郎伝」岡田文夫
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦前編」山口瞳
  • サントリーの70年1 やってみなはれ(1969)「やってみなはれ 戦後編」開高健

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