第1章 年〜年

三菱倉庫:有限責任東京倉庫会社の設立と大阪・神戸支店の開設

1880年〜深川の三菱為換店と、資本金50万円の有限責任東京倉庫会社

1880年4月1日、郵便汽船三菱会社は海運業を育てる一助として三菱為換店を開設した。本店は東京・霊岸島に置き、支店を全国に持つ金融と倉庫の混成事業である。倉庫の業務は深川だけで営み、1879年3月に安田善次郎氏から買収した小松町・富吉町の蔵所が拠点となった。預かった物品には倉庫証券を発行し、為換店の金融部門がそれを担保に貸し付けた。物品を転売する荷主には、裏書で譲渡できる小切手も出した。1884年2月に完成した大阪梅田の煉瓦造倉庫も、為換店がすぐに使い始めている。荷の保管と荷主への融資を1つの事業に収めることで、海運の集荷を後押しする狙いがあったとみられる。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「前史」
    • [1]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [2]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [3]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [4]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [5]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
    • [6]三菱の大阪梅田の煉瓦造倉庫・荷捌所は1882年3月着工・1884年2月竣工、三菱為換店も利用

三菱の海運は1883年1月に開業した共同運輸会社との競争で深く傷み、為換店も同じ苦境に置かれた。深川では倉庫会社と均融会社が一体で開業し、財界不況の中で競争が激化した結果、1884年には相手方と為換店が相次いで休業。1885年2月7日に岩崎彌太郎氏が死去し、弟の岩崎彌之助氏が社長に就任した。三菱は同年5月に為換店の金融部門を第百十九国立銀行へ移し、倉庫部門は6月に直営で再開させた。9月30日限りで海運を廃止して日本郵船へ移すと、直営の倉庫業も休止となった。江戸橋の倉庫は日本郵船へ譲渡したが、深川の倉庫は手元に残し、小松町の事務所を施設の管理拠点として置き続けた。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「前史」
    • [7]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [8]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [10]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [11]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [12]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [9]1885年2月7日岩崎彌太郎逝去、2月18日副社長岩崎彌之助が社長に就任

1887年2月、三菱社の幹部が発起人となり、有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事へ提出した。資本金は50万円で1株100円・5,000株とし、発起人7名が3,000株を引き受けた。発起人の持分は全株の5分の3に当たる。引受の最多は川田小一郎氏の600株で、荘田平五郎氏ら6名は400株ずつとなった。業務を物品の保管業と倉庫の賃貸業の2つに定め、4月15日に深川区小松町7番地で開業した。開業時の蔵所は為換店時代の4カ所で、土地と建物は全て三菱社から年2,500円で賃借する取り決め。三菱社が倉庫を直営に戻さず有限責任の別会社に切り出したのは、出資者の責任を株高までに限って事業の存続を確かめるためだったのだろう。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第一章 当社の創業」
    • [13]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [14]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [15]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [16]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [18]開業時の蔵所は為換店時代の骨格を残す4蔵所、地所・建物は全部三菱社から賃借、賃借料年2,500円
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [17]1887年4月15日、保管業と倉庫賃貸業を東京府深川区小松町7番地で開業
参考文献[1]-[18]
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「前史」
    • [1]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [2]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [3]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [4]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [5]三菱為換店は1880年4月1日開設、本店霊岸島・支店全国の金融と倉庫業の混成事業。倉庫業は深川のみ、1879年3月安田善次郎から小松町・富吉町の蔵所を買収。倉庫証券を発行し金融部門が担保に貸付
    • [7]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [8]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [10]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [11]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
    • [12]1883年1月共同運輸開業で三菱と激烈な競争。深川で倉庫会社・均融会社が開業し1884年に双方休業。1885年5月金融部門を第百十九銀行へ、6月倉庫を直営再開、9月30日限り海運廃止で倉庫も休止。江戸橋は郵船へ供出、深川は残し小松町事務所を管理事務所に存置
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
    • [6]三菱の大阪梅田の煉瓦造倉庫・荷捌所は1882年3月着工・1884年2月竣工、三菱為換店も利用
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [9]1885年2月7日岩崎彌太郎逝去、2月18日副社長岩崎彌之助が社長に就任
    • [17]1887年4月15日、保管業と倉庫賃貸業を東京府深川区小松町7番地で開業
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第一章 当社の創業」
    • [13]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [14]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [15]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [16]1887年2月有限責任東京倉庫会社の創立願を東京府知事宛提出。資本金50万円・1株100円・5,000株、発起人7名で3,000株(川田小一郎600株、荘田平五郎ら6名各400株)。業務は物品保管業と倉庫賃貸業
    • [18]開業時の蔵所は為換店時代の骨格を残す4蔵所、地所・建物は全部三菱社から賃借、賃借料年2,500円

1892年〜大阪支店の開設と、東京倉庫株式会社への改組

1892年1月1日、東京倉庫は三菱社大阪支店の建物内に事務所を置き、大阪出張所を開業した。三菱社は1891年1月から第百十九銀行の代理店事務を大阪で始めており、為換店の事業を銀行と倉庫で再興するため東京倉庫を新事務所へ招いた。開業準備では支配人の生島一徳氏が1891年10月に大阪へ出張し、三菱社大阪支店支配人の寺西成器氏と段取りを詰めた。梅田では日本郵船と倉庫を共同経営し、収入の3分の2を郵船、3分の1を東京倉庫が受け取る条件とした。3月24日には三菱社が購入した中之島の旧蔵屋敷へ本拠を移し、名称を大阪支店に改めた。出張所の段階は3カ月に満たず、関西の拠点は三菱社の用意した施設の上に立ち上がったと言える。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
    • [19]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
    • [20]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
    • [21]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
    • [22]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [23]1892年3月24日大阪出張所を北区玉江町(中之島)へ移し大阪支店と改称

大阪支店は1892年11月に料金制を改め、評価額の2,000分の1を取る従価率の保管料と従量率の蔵敷料を併用し、計算期は従来どおり2期とした。先に1883年5月から中之島で営業していた大阪倉庫会社が従価率を併用しており、荷主からも同じ方式を望む声があった。改定に合わせて従量率は若干引き下げた。日歩1厘5毛の火災保険料は、なお別建てで徴収を続ける。1896年1月には保管料を保険料込みで2,000分の1とし、蔵敷料は同業者との協定で定める方式へ移行。開業当初の主な保管貨物は穀類と綿花で、東京で扱った海産肥料は大阪では扱えず、紡績糸・綿布・砂糖も取扱いが始まった程度だった。後発の東京倉庫にとって、料金体系で先発に並ぶことが蔵所を埋める前提になったと推察される。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
    • [24]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [25]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [27]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [29]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [30]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [26]大阪倉庫会社は1883年5月10日中之島で開業。1892年11月大阪支店が従量率蔵敷料と従価率保管料の併用に変更、火災保険料は別途徴収を継続
    • [28]大阪倉庫会社は1883年5月10日中之島で開業。1892年11月大阪支店が従量率蔵敷料と従価率保管料の併用に変更、火災保険料は別途徴収を継続

東京倉庫は1893年12月22日、商号を東京倉庫株式会社に改めた。同年7月1日に施行された商法の規定に合わせて株式組織とすることが、改定の主な動機だった。原始定款は商法の規定がない時期に作られたため手続事項まで盛り込み、99箇条に及ぶ。会社と株主が争う場合に備え、特別の仲裁人の制度まで設けた。12月5日の臨時株主総会で改定案を可決し、東京府庁を経て主務官庁の農商務省へ認可を申請した。農商務省は審査の段階で、払込未了の株式の登録拒否を定めた第21条など、従来は認められていた2箇条の削除を求めた。改組は実質的に社名の変更にとどまり、この商号は1918年3月まで24年余り続いた。

  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [31]1893年12月22日東京倉庫株式会社と商号変更、1918年3月三菱倉庫(株)へ変更するまで24年余の社名。改組は実質的には社名の変更
    • [37]1893年12月22日東京倉庫株式会社と商号変更、1918年3月三菱倉庫(株)へ変更するまで24年余の社名。改組は実質的には社名の変更
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第二章 社名変更(東京倉庫株式会社)と定款の改定」
    • [32]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [33]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [34]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [35]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [36]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
参考文献[19]-[37]
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
    • [19]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
    • [20]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
    • [21]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
    • [22]三菱社は1891年1月から第百十九銀行代理店事務を大阪で開始、為換店事業の再興を期し新事務所へ東京倉庫を招致。1891年10月生島支配人が出張し寺西成器支配人と打合せ。1892年1月1日大阪出張所として開業。梅田倉庫は郵船と共同経営、収入3分の2郵船・3分の1倉庫
    • [24]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [25]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [27]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [29]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
    • [30]同業の大阪倉庫会社が従価率を併用、貨主の希望もあり1892年11月から従価2,000分の1の保管料と従量率の蔵敷料を併用、従量率は若干引下げ。1896年1月保管料を保険料込み2,000分の1、蔵敷料は同業者協定。主要保管貨物は穀類と綿花、海産肥料は扱えず。計算期は2期。紡績糸・綿布・砂糖は取扱いの緒についた程度
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [23]1892年3月24日大阪出張所を北区玉江町(中之島)へ移し大阪支店と改称
    • [26]大阪倉庫会社は1883年5月10日中之島で開業。1892年11月大阪支店が従量率蔵敷料と従価率保管料の併用に変更、火災保険料は別途徴収を継続
    • [28]大阪倉庫会社は1883年5月10日中之島で開業。1892年11月大阪支店が従量率蔵敷料と従価率保管料の併用に変更、火災保険料は別途徴収を継続
    • [31]1893年12月22日東京倉庫株式会社と商号変更、1918年3月三菱倉庫(株)へ変更するまで24年余の社名。改組は実質的には社名の変更
    • [37]1893年12月22日東京倉庫株式会社と商号変更、1918年3月三菱倉庫(株)へ変更するまで24年余の社名。改組は実質的には社名の変更
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第二章 社名変更(東京倉庫株式会社)と定款の改定」
    • [32]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [33]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [34]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [35]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定
    • [36]原始定款は商法の規定がなく99箇条。1893年7月1日施行の商法により株式組織とし東京倉庫株式会社に改めるのが主な動機。12月5日臨時株主総会で可決、府庁経由で主務官庁農商務省へ申請、第21条・第32条の削除を求められた。原始定款は会社と株主の争いに備える特別の仲裁人の制を規定

1902年〜約1万2千坪を加えた日本貿易倉庫の買収と、神戸高浜の岸壁

1902年11月14日、東京倉庫は取締役会長の豊川良平氏の名で、神戸の日本貿易倉庫と資産の売買契約を結んだ。代価は42万円で、山陽鉄道に対する債務の残額20万6,964円50銭も引き受けた。日本貿易倉庫は1896年に資本金150万円で設立され、1900年6月末には所管坪数1万6,000坪を数える同業である。ところが財界不況で業績が悪化し、借庫の返却や門司支店の廃止を経て身売りの話が起こった。12月8日に相生町へ神戸支店を置き、兵庫支店は神戸支店兵庫出張所と改めた。買収で神戸の所管坪数は約1万2,000坪増え、1896年10月開業の兵庫支店時代の約3倍に拡大した。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
    • [38]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [40]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [41]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [42]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [43]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [44]買収で神戸の所管坪数は約1万2千坪増え、兵庫支店時代の約3倍の規模
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [39]1902年11月14日神戸の日本貿易倉庫の買収で売買契約。兵庫支店は1896年10月1日開設

日露戦争期の貿易拡大を受け、東京倉庫は1905年春から神戸港高浜の地先を埋め立てて航洋本船を着ける計画を練った。6月には予算を添えて三菱合資会社の社長に上申したものの、決裁の前に綿業界から綿花荷捌の施設を求める声が強まった。東京倉庫は高浜の計画を保留し、三菱合資会社が神戸造船所のために埋め立てた和田の未利用地を使うことにした。和田では1906年6月に綿花の陸揚場を設け、1907年11月から大桟橋に本船を着けて荷を揚げた。1908年5月24日には和田ターミナルの披露式を催し、本邦初の近代的な海陸連絡施設とうたった。高浜は1910年8月29日に埋立の許可を得て、1912年5月24日に第1船の接岸荷役を迎えた。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第一章 海陸連絡業への発足」
    • [45]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [46]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [47]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [48]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [50]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [49]1908年5月24日神戸支店が本邦初の近代的海陸連絡施設として和田ターミナルの披露式。1910年8月29日高浜の公有水面埋立を兵庫県庁が許可
    • [51]1908年5月24日神戸支店が本邦初の近代的海陸連絡施設として和田ターミナルの披露式。1910年8月29日高浜の公有水面埋立を兵庫県庁が許可

1910年10月1日、神戸支店は船内荷役業者のクリステンセン商会から営業権と艀を取得した。それまでの船内荷役の契約先は、英印汽船・日本郵船・大阪商船の3社にとどまる。この買収により、太平洋汽船と東洋汽船の荷役も引き受けた。取得物件は小蒸汽船2隻と艀17隻などで、借艀に依存していた海上の作業を自前の船で回せるようになった。1911年上期には綿花の取扱が和田荷捌所の開設以来の記録となり、関税引上げを見越した鉄類の輸入で高浜構内の空地も埋まった。1912年上期は米綿の輸入がさらに増え、和田に800坪の仮上屋を急いで建てた。倉庫と岸壁と荷役を一続きで持つ神戸の体制が、三菱倉庫への改称を迎える次の時代の事業の土台になったと考えられる。

  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第一章 海陸連絡業への発足」
    • [52]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [54]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [55]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [56]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [57]1911年上期綿花取扱が荷捌所開設以来の記録、関税引上げ見越しの鉄類輸入で高浜構内の空地も不足。1912年上期米綿増加で和田に800坪の仮上屋を急設
    • [58]1911年上期綿花取扱が荷捌所開設以来の記録、関税引上げ見越しの鉄類輸入で高浜構内の空地も不足。1912年上期米綿増加で和田に800坪の仮上屋を急設
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [53]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会の営業権と艀などを取得
参考文献[38]-[58]
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
    • [38]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [40]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [41]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [42]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [43]東京倉庫取締役会長豊川良平と日本貿易倉庫社長鳴瀧幸恭の物件売買契約、代価42万円+山陽鉄道への債務残額20万6,964円50銭の承継。日本貿易倉庫は1896年2月資本金150万円設立、1900年6月末所管1万6,000坪、不況で縮小・門司支店廃止後に身売り。1902年12月8日相生町に神戸支店、兵庫支店を兵庫出張所に
    • [44]買収で神戸の所管坪数は約1万2千坪増え、兵庫支店時代の約3倍の規模
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」
    • [39]1902年11月14日神戸の日本貿易倉庫の買収で売買契約。兵庫支店は1896年10月1日開設
    • [49]1908年5月24日神戸支店が本邦初の近代的海陸連絡施設として和田ターミナルの披露式。1910年8月29日高浜の公有水面埋立を兵庫県庁が許可
    • [51]1908年5月24日神戸支店が本邦初の近代的海陸連絡施設として和田ターミナルの披露式。1910年8月29日高浜の公有水面埋立を兵庫県庁が許可
    • [53]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会の営業権と艀などを取得
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第一章 海陸連絡業への発足」
    • [45]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [46]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [47]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [48]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [50]1905年春から高浜地先を埋め立て岸壁を築く計画、6月7日合資会社社長に上申。綿業界の要望で和田の造船所埋立地の未利用部分に綿花荷捌施設を造る方針へ、高浜計画は保留。1906年6月和田に陸揚場、1907年11月大桟橋に本船を維繋。高浜は1912年5月24日第一船接岸
    • [52]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [54]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [55]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [56]1910年10月1日神戸支店が船内荷役業者クリステンセン商会を買収。従来の契約先は英印汽船・日本郵船・大阪商船、新たに太平洋汽船・東洋汽船の船内荷役を引受。取得物件は小蒸汽船2隻・艀17隻ほか、従来は小蒸汽船2隻・艀7隻で借艀に依存
    • [57]1911年上期綿花取扱が荷捌所開設以来の記録、関税引上げ見越しの鉄類輸入で高浜構内の空地も不足。1912年上期米綿増加で和田に800坪の仮上屋を急設
    • [58]1911年上期綿花取扱が荷捌所開設以来の記録、関税引上げ見越しの鉄類輸入で高浜構内の空地も不足。1912年上期米綿増加で和田に800坪の仮上屋を急設

出典・参考

6件
出典・参考
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「前史」
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第三章 関西進出とその頃」
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第一章 当社の創業」
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第二章 社名変更(東京倉庫株式会社)と定款の改定」
  • 三菱倉庫七十五年史(1962)「第一章 海陸連絡業への発足」
  • 三菱倉庫百年史(1988)「年表」

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