第一ライフグループ:第一生命保険相互会社の設立と業界5大生保入り
1902年〜保険業法を起草した矢野恒太氏が、基金20万円で開いた日本初の相互会社
1902年9月、農商務省の初代保険課長を務めた矢野恒太氏が官を辞し、東京・日本橋で第一生命保険相互会社を基金20万円で設立した。国内では1882年以降に生保会社の設立が相次ぎ、倒産で保険金を払えない会社も現れていた。加入者の保護と会社の監督を目的に1900年に制定された保険業法には、矢野恒太氏が起草から参画し、相互会社の規定を設けた。会社数は1900年の43社から1911年の34社へ減少し、業法による淘汰の時期にあたった。利益を目的とする株式会社では保険の信用を保てず、営利を求めない相互会社こそ保険事業に適するというのが矢野恒太氏の考えだった。業法を設計した当人が、自ら設けた規定の最初の担い手になったと思われる。
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [1]明治35年9月15日、日本橋新右衛門町で日本最初の相互会社として設立。矢野は業法起草に参画し初代保険課長を経て官を辞し創設。営利会社の放漫経営を見て相互会社が最適と考えた
- [6]明治35年9月15日、日本橋新右衛門町で日本最初の相互会社として設立。矢野は業法起草に参画し初代保険課長を経て官を辞し創設。営利会社の放漫経営を見て相互会社が最適と考えた
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [2]1902年9月 当社を設立(基金20万円)、本社所在地は東京府東京市日本橋区新右衛門町
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [3]1882年以降多くの生保会社が設立され、倒産による保険金不払いが生じた
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- [4]保険業法制定の功労者矢野恒太は業法に相互会社の規定を設け、退官後の明治35年に自ら相互会社を設立
- [5]生保会社数は明治33年43社から44年34社に整理された
第一生命保険相互会社は、伯爵の柳沢保恵氏を初代社長に迎えて発足した。設立には第百銀行頭取の池田謙三氏と、のちに文部大臣となる岡野敬次郎氏が後援者として加わった。社名の「第一」は、日本で最初の相互組織の生命保険会社という意味を込めた。社章も矢野恒太氏の考案で、災難から人を守る楯を赤く描き、中央に最初の相互会社を示す「一」を置いた。世間では当初「第一相互」の名で呼ばれ、その通称は戦後まで残った。慎重堅実を旨とした経営のもと、創業当初の歩みは遅かった。当時は保険思想が十分に広まらず、生命保険を営利の手段とする会社が信用を失う事態を繰り返していた。無名の新会社には伯爵と銀行頭取の名が信用の裏づけとなったとみられる。
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [7]池田謙三(第百銀行頭取)・岡野敬次郎(のちの文部大臣)の後援で設立、初代社長は伯爵柳沢保恵。第一は日本最初の相互組織の意
- [9]池田謙三(第百銀行頭取)・岡野敬次郎(のちの文部大臣)の後援で設立、初代社長は伯爵柳沢保恵。第一は日本最初の相互組織の意
- [10]池田謙三(第百銀行頭取)・岡野敬次郎(のちの文部大臣)の後援で設立、初代社長は伯爵柳沢保恵。第一は日本最初の相互組織の意
- 『第一生命社史余録 相互主義八十五年の歩みの中で』(1987年)
- [8]初代社長は柳沢保恵伯爵
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [11]社章は赤い楯で中央の一は最初の相互会社を表し矢野の考案。慎重堅実な方針で当初の歩みは遅々としていた。保険思想が不十分で営利目的の会社が信用失墜を繰り返していた
- [13]社章は赤い楯で中央の一は最初の相互会社を表し矢野の考案。慎重堅実な方針で当初の歩みは遅々としていた。保険思想が不十分で営利目的の会社が信用失墜を繰り返していた
- [14]社章は赤い楯で中央の一は最初の相互会社を表し矢野の考案。慎重堅実な方針で当初の歩みは遅々としていた。保険思想が不十分で営利目的の会社が信用失墜を繰り返していた
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [12]当初は「第一相互」と呼ばれ、戦後の入社時もそう呼ばれていた
契約者配当は、創業5年目に日本橋通三丁目の新社屋が完成したのを機に始まった。商品は養老保険を軸とし、保険料を高めに定めて剰余を厚く還す高料高配を経営方針に掲げた。契約を長く続けるほど配当によって正味の保険料が下がる仕組みは、「長命無損害」と表された。代理店を置かずに営業費を抑えたことも、配当の原資を厚くした。経営の判断は、契約者の利益を第一に置く合理性で貫かれていた。株主配当の要らない相互会社では、その年の収益を契約者への配当に充当でき、配当率を高められる。一方で証券市場から資金を調達しにくく、先行投資は自己資本で賄う必要がある。先発の株式会社に対し、配当の厚さを後発の差別化要因に据えたと推察される。
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [15]創業5年目、日本橋通三丁目の新社屋完成を機に契約者配当を開始。保険料はやや高いが剰余を配当し長生きするほど正味保険料が安くなる「長命無損害」の仕組み
- [17]創業5年目、日本橋通三丁目の新社屋完成を機に契約者配当を開始。保険料はやや高いが剰余を配当し長生きするほど正味保険料が安くなる「長命無損害」の仕組み
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [16]当時の経営方針は養老保険の高料高配主義で、代理店を置かず営業コストを削減。契約者の利益を第一とする合理的な方針
- [18]当時の経営方針は養老保険の高料高配主義で、代理店を置かず営業コストを削減。契約者の利益を第一とする合理的な方針
- [19]当時の経営方針は養老保険の高料高配主義で、代理店を置かず営業コストを削減。契約者の利益を第一とする合理的な方針
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [20]相互会社は株主配当が不要で収益を契約者配当にでき配当率が高い。半面、証券市場からの調達がしにくく自己資本で賄う
- [21]相互会社は株主配当が不要で収益を契約者配当にでき配当率が高い。半面、証券市場からの調達がしにくく自己資本で賄う
参考文献[1]-[21]
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [1]明治35年9月15日、日本橋新右衛門町で日本最初の相互会社として設立。矢野は業法起草に参画し初代保険課長を経て官を辞し創設。営利会社の放漫経営を見て相互会社が最適と考えた
- [6]明治35年9月15日、日本橋新右衛門町で日本最初の相互会社として設立。矢野は業法起草に参画し初代保険課長を経て官を辞し創設。営利会社の放漫経営を見て相互会社が最適と考えた
- [11]社章は赤い楯で中央の一は最初の相互会社を表し矢野の考案。慎重堅実な方針で当初の歩みは遅々としていた。保険思想が不十分で営利目的の会社が信用失墜を繰り返していた
- [13]社章は赤い楯で中央の一は最初の相互会社を表し矢野の考案。慎重堅実な方針で当初の歩みは遅々としていた。保険思想が不十分で営利目的の会社が信用失墜を繰り返していた
- [14]社章は赤い楯で中央の一は最初の相互会社を表し矢野の考案。慎重堅実な方針で当初の歩みは遅々としていた。保険思想が不十分で営利目的の会社が信用失墜を繰り返していた
- [15]創業5年目、日本橋通三丁目の新社屋完成を機に契約者配当を開始。保険料はやや高いが剰余を配当し長生きするほど正味保険料が安くなる「長命無損害」の仕組み
- [17]創業5年目、日本橋通三丁目の新社屋完成を機に契約者配当を開始。保険料はやや高いが剰余を配当し長生きするほど正味保険料が安くなる「長命無損害」の仕組み
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [2]1902年9月 当社を設立(基金20万円)、本社所在地は東京府東京市日本橋区新右衛門町
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [3]1882年以降多くの生保会社が設立され、倒産による保険金不払いが生じた
- [7]池田謙三(第百銀行頭取)・岡野敬次郎(のちの文部大臣)の後援で設立、初代社長は伯爵柳沢保恵。第一は日本最初の相互組織の意
- [9]池田謙三(第百銀行頭取)・岡野敬次郎(のちの文部大臣)の後援で設立、初代社長は伯爵柳沢保恵。第一は日本最初の相互組織の意
- [10]池田謙三(第百銀行頭取)・岡野敬次郎(のちの文部大臣)の後援で設立、初代社長は伯爵柳沢保恵。第一は日本最初の相互組織の意
- [16]当時の経営方針は養老保険の高料高配主義で、代理店を置かず営業コストを削減。契約者の利益を第一とする合理的な方針
- [18]当時の経営方針は養老保険の高料高配主義で、代理店を置かず営業コストを削減。契約者の利益を第一とする合理的な方針
- [19]当時の経営方針は養老保険の高料高配主義で、代理店を置かず営業コストを削減。契約者の利益を第一とする合理的な方針
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- [4]保険業法制定の功労者矢野恒太は業法に相互会社の規定を設け、退官後の明治35年に自ら相互会社を設立
- [5]生保会社数は明治33年43社から44年34社に整理された
- 『第一生命社史余録 相互主義八十五年の歩みの中で』(1987年)
- [8]初代社長は柳沢保恵伯爵
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [12]当初は「第一相互」と呼ばれ、戦後の入社時もそう呼ばれていた
- [20]相互会社は株主配当が不要で収益を契約者配当にでき配当率が高い。半面、証券市場からの調達がしにくく自己資本で賄う
- [21]相互会社は株主配当が不要で収益を契約者配当にでき配当率が高い。半面、証券市場からの調達がしにくく自己資本で賄う
1912年〜関西系に挑んだ北海道ほかの地方部と、創業19年での5大生保入り
1912年、創立10年目の第一生命保険相互会社は主要都市に地方部(のちの支部)を置き、地方進出を本格化した。設置先は大阪・京都・神戸・名古屋のほか、東北・九州・台湾の主要都市に及んだ。創業からの10年間、営業の舞台は首都圏の都市部に絞られ、相互主義に賛同する加入者を増やすことに力が注がれた。一方、1889年に大阪財界が設立した日本生命など関西系の会社は大阪を本拠としていた。東京で創業した第一生命保険相互会社にとって、この地盤の差は小さくない不利となった。のちに北海道が同社の契約で業界首位の地域となったのも、この地方進出が始まりだった。関西系の本拠で正面から争うより、各地に一斉に拠点を置いて地方の契約を獲得する策だったのだろう。
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [22]1912年から地方進出を積極化し、主要都市に地方部(後の支部)を設けた
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [23]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- [24]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- [26]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- [27]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- [25]日本生命は明治22年に大阪財界で設立
柳沢保恵氏が社長を務めた時代、官吏だった石坂泰三氏が矢野恒太氏の招きに応じて第一生命保険相互会社へ移った。官界から保険会社への転職には家族の反対も強く、夫人の言葉は『私は官吏の女房になりましたが、保険屋の女房になったのではありません』というものだった。石坂泰三氏はのちに第3代社長となり、戦後は経団連の会長を務めた。官界の人材を迎え入れた背景には、企業は人であるとする矢野恒太氏の考えがあった。社長の柳沢保恵氏は職員一人ひとりの消息を気にかけ、自邸での集いを亡くなる直前まで20年以上続けた。伯爵の柳沢保恵氏が社の顔となり、創業者の矢野恒太氏が官界から実務の人材を招いて経営の層を厚くした構図と考えられる。
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [28]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- [29]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- [30]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- [31]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- 『第一生命社史余録 相互主義八十五年の歩みの中で』(1987年)
- [32]柳沢伯爵は職員の消息を気にかけ、自邸での集いを亡くなる直前まで20年以上続けた。石坂泰三が柳沢社長の人柄を回顧
1921年、第一生命保険相互会社は業界9位から5位へ上がり、後発ながら5大生保の一角に入った。同じ年に京橋で新本社を建設。大きく伸び始めたのは、1914年から1918年の第一次世界大戦の後だった。業界全体でも大戦中に契約が急増し、1920年の契約高は26億円に達した。1916年には政府が簡易生命保険を始め、民間会社の脅威となった。それでも業界の成長を支えたのは大戦景気だった。保険料はやや高くとも剰余を配当で還す仕組みが、この時期に世間の支持を得た。相互組織も1904年に慶応義塾系の人々が千代田生命保険相互会社を設立し、第一生命保険相互会社だけの形ではなくなっていた。10年かけて築いた地方部の網と配当の厚さが、好況で広がった保険需要を取り込んだとみるのが自然だろう。
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [33]大正10年、京橋に新本社を建設した年に業界9位から5位へ。相互組織と長命無損害の仕組みが世に迎えられた
- [34]大正10年、京橋に新本社を建設した年に業界9位から5位へ。相互組織と長命無損害の仕組みが世に迎えられた
- [39]大正10年、京橋に新本社を建設した年に業界9位から5位へ。相互組織と長命無損害の仕組みが世に迎えられた
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [35]第一次大戦(大正3〜7年)後に大きく飛躍し、大正10年に後発ながら五大生保の一社
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- [36]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
- [37]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
- [38]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
- [40]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
参考文献[22]-[40]
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [22]1912年から地方進出を積極化し、主要都市に地方部(後の支部)を設けた
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [23]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- [24]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- [26]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- [27]1912年、大阪・京都・神戸・名古屋・東北・九州・台湾の主要都市に地方部を置いた。それまで10年は関東で地盤固め。日本生命・住友生命は大阪本拠の関西系で東京創業のハンディ。北海道の業界制覇地域はこの積極策が契機
- [28]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- [29]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- [30]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- [31]3代目社長の石坂泰三は官吏から矢野の招聘に応じ第一生命に転職。夫人の反対があった。戦後は経団連会長。矢野は「企業は人である」と言った
- [35]第一次大戦(大正3〜7年)後に大きく飛躍し、大正10年に後発ながら五大生保の一社
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- [25]日本生命は明治22年に大阪財界で設立
- [36]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
- [37]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
- [38]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
- [40]欧州大戦中に生保業は未曽有の発展、大正9年の契約高26億円。大正5年に政府が簡易生命保険を開始。明治37年慶応義塾派が千代田生命保険相互会社を設立
- 『第一生命社史余録 相互主義八十五年の歩みの中で』(1987年)
- [32]柳沢伯爵は職員の消息を気にかけ、自邸での集いを亡くなる直前まで20年以上続けた。石坂泰三が柳沢社長の人柄を回顧
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [33]大正10年、京橋に新本社を建設した年に業界9位から5位へ。相互組織と長命無損害の仕組みが世に迎えられた
- [34]大正10年、京橋に新本社を建設した年に業界9位から5位へ。相互組織と長命無損害の仕組みが世に迎えられた
- [39]大正10年、京橋に新本社を建設した年に業界9位から5位へ。相互組織と長命無損害の仕組みが世に迎えられた
1922年〜保有契約高10億円で得た業界2位と、剰余100万円で興した保生会
1932年8月、第一生命保険相互会社の保有契約高は10億円に達し、業界2位に進んだ。2年前の1930年には、すでに業界3位へ上がっていた。昭和初年の金融恐慌に続く不況で業界の契約高は伸び悩み、生保会社は1930年の40社から1933年の33社へ減少した。同じころ、住友が1925年に日之出生命を、三井が1926年に高砂生命を買収し、財閥系の生保参入が相次いでいる。1931年の満州事変以降は保険への国家統制が強まり、運用資金の一部で公債を保有するよう求められた。財閥の後ろ盾を持たない相互会社が順位を上げた背景には、配当の厚さで積み上げた契約者の信用があったのではないか。
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [41]1932年に保有契約高10億円、業界第2位の地位を確保(年表1932.8)
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [42]大正10年に五大生保、昭和7年に業界2位
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [43]昭和5年に業界3位、7年に保有契約10億円突破で業界2位
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- [44]昭和初年の金融恐慌で契約高増加が停頓、生保会社は昭和5年40社から8年33社。大正14年住友が日之出生命、15年三井が高砂生命を買収。昭和6年の満州事変以来国家統制が強まり運用資金の一部で公債保有を強制
- [45]昭和初年の金融恐慌で契約高増加が停頓、生保会社は昭和5年40社から8年33社。大正14年住友が日之出生命、15年三井が高砂生命を買収。昭和6年の満州事変以来国家統制が強まり運用資金の一部で公債保有を強制
- [46]昭和初年の金融恐慌で契約高増加が停頓、生保会社は昭和5年40社から8年33社。大正14年住友が日之出生命、15年三井が高砂生命を買収。昭和6年の満州事変以来国家統制が強まり運用資金の一部で公債保有を強制
1934年、第一生命保険相互会社は剰余金のうち100万円を拠出し、これを基金に財団法人保生会を設立した。狙いは、当時の国民病だった結核への対策。設立を主導したのは創業者の矢野恒太氏で、保生会は結核療養所と健康相談所を運営した。保生会の施設はのちに財団法人結核予防会が設けられた際に同会へ寄付され、長く活動の母体となった。第一生命保険相互会社の社会事業は、戦後の保健文化賞(1950年)や心臓血管研究所(1959年)へとつながった。創業50周年の1953年には財団法人矢野恒太記念会も設立し、「国勢図会」の刊行を始めた。剰余の使い道を、配当として還すことから契約者の命を脅かす病の予防へ広げた試みといえよう。
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [47]1934年、結核予防のため剰余金の一部100万円を支出し財団法人保生会(後の結核予防会の母体)を設立。保健文化賞1950年、心臓血管研究所1959年
- [51]1934年、結核予防のため剰余金の一部100万円を支出し財団法人保生会(後の結核予防会の母体)を設立。保健文化賞1950年、心臓血管研究所1959年
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [48]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
- [49]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
- [50]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
- [52]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
1938年11月、東京・日比谷に新本社の第一生命館が完成した。本社は創業地の日本橋新右衛門町から、創業5年目の日本橋通三丁目、1921年の京橋と移っており、日比谷はその4つ目にあたる。業界2位を確保した後に建てた本館で、のちの社史でも戦前の最盛期の建物と位置づけられている。保有契約高は1932年の10億円から伸び続け、1944年には100億円に達した。1945年9月には第一生命館がGHQの庁舎として接収され、のちの世代まで「GHQの跡地」として知られた。順位を上げるたびに本社を移してきた会社にとって、日比谷の本館は業界上位の地位を示す拠点だったと推測される。
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [53]1938年11月、日比谷に第一生命館(現本社)完成。1944年保有契約高100億円、終戦で資産に損害。1945年9月GHQ庁舎として接収
- [56]1938年11月、日比谷に第一生命館(現本社)完成。1944年保有契約高100億円、終戦で資産に損害。1945年9月GHQ庁舎として接収
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [54]明治35年日本橋新右衛門町で設立、創業5年目に日本橋通三丁目に新社屋、大正10年京橋に新本社、昭和13年日比谷の新本社完成
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [55]第一生命館は戦前の最盛期に建てたもので、GHQの跡地として知られた
- [57]第一生命館は戦前の最盛期に建てたもので、GHQの跡地として知られた
参考文献[41]-[57]
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」
- [41]1932年に保有契約高10億円、業界第2位の地位を確保(年表1932.8)
- [47]1934年、結核予防のため剰余金の一部100万円を支出し財団法人保生会(後の結核予防会の母体)を設立。保健文化賞1950年、心臓血管研究所1959年
- [51]1934年、結核予防のため剰余金の一部100万円を支出し財団法人保生会(後の結核予防会の母体)を設立。保健文化賞1950年、心臓血管研究所1959年
- [53]1938年11月、日比谷に第一生命館(現本社)完成。1944年保有契約高100億円、終戦で資産に損害。1945年9月GHQ庁舎として接収
- [56]1938年11月、日比谷に第一生命館(現本社)完成。1944年保有契約高100億円、終戦で資産に損害。1945年9月GHQ庁舎として接収
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- [42]大正10年に五大生保、昭和7年に業界2位
- [48]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
- [49]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
- [50]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
- [52]昭和9年、矢野恒太が国民病の結核対策に保生会を設立、結核療養所と健康相談所を運営。施設は結核予防会設立時に寄付され母体となった。創業50周年の昭和28年に矢野恒太記念会を設立し『国勢図会』を刊行
- [55]第一生命館は戦前の最盛期に建てたもので、GHQの跡地として知られた
- [57]第一生命館は戦前の最盛期に建てたもので、GHQの跡地として知られた
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- [43]昭和5年に業界3位、7年に保有契約10億円突破で業界2位
- [54]明治35年日本橋新右衛門町で設立、創業5年目に日本橋通三丁目に新社屋、大正10年京橋に新本社、昭和13年日比谷の新本社完成
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- [44]昭和初年の金融恐慌で契約高増加が停頓、生保会社は昭和5年40社から8年33社。大正14年住友が日之出生命、15年三井が高砂生命を買収。昭和6年の満州事変以来国家統制が強まり運用資金の一部で公債保有を強制
- [45]昭和初年の金融恐慌で契約高増加が停頓、生保会社は昭和5年40社から8年33社。大正14年住友が日之出生命、15年三井が高砂生命を買収。昭和6年の満州事変以来国家統制が強まり運用資金の一部で公債保有を強制
- [46]昭和初年の金融恐慌で契約高増加が停頓、生保会社は昭和5年40社から8年33社。大正14年住友が日之出生命、15年三井が高砂生命を買収。昭和6年の満州事変以来国家統制が強まり運用資金の一部で公債保有を強制
出典・参考
6件
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- 『第一生命社史余録 相互主義八十五年の歩みの中で』(1987年)
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「生命保険」
- 『企業の歴史 明治百年』(1968年)3編「第一生命保険」
- ポケット社史『幸せづくりの一生涯のパートナー 第一生命』(1991年10月)
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社、1995年)「第一生命保険」