相互会社を選ぶという判断は、理念の表明であると同時に、当時の生命保険業が抱えた最大の欠陥への処方箋だったのだろう。会社が相次いで消え、営利の手段として保険を扱う経営が信用を失っていた市場では、資本を出した株主が利益を取るという構造そのものが不信の源だった。剰余を契約者へ返す方式は、その不信を制度の側から断つ工夫であり、代理店を置かず募集の費用を抑える方針も同じ線の上にある。株主への配当という出口を塞ぐかわりに、契約者への約束を会社の唯一の債務にしたのだといえる。
もっとも、その形は資本を外から調達する手段を持たないことと表裏だった。基金20万円は財界の有力者から募ったもので、株式のように市場で売買して積み増せる資本ではない。会社を大きくする原資は契約から生まれる剰余しかなく、成長の速度は契約者から預かった資金の厚みに縛られる。創立から5期を待って社員配当にたどり着き、長生きするほど正味保険料が安くなるという評判が積み上がるまでに要した年月は、その制約の代価であろう。1902年に選んだ形が2010年の株式会社化まで解かれなかったことは、この選択がどれほど深く会社の骨格になっていたかを示している。