矢野恒太氏が相互会社で創業(1902年・第一ライフグループの決断)

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論点株式会社か相互会社か
株式会社の資本調達を捨て、剰余を契約者へ還す形の選択

何をなぜ決めたか:株式会社の資本調達を捨て、剰余を契約者へ還す形の選択

概要

1902年9月、矢野恒太氏が基金20万円を集めて第一生命保険相互会社を創立し、日本で最初の相互会社形態による保険会社を設立した経営判断。株主を置かず、剰余金は契約者へ配当として還す方式を採った。同年10月に東京日本橋新右衛門町で開業し、初代社長には伯爵の柳沢保恵氏が就任し、矢野恒太氏は専務取締役に入った。

背景

1881年創立の明治生命に始まる生命保険事業には会社が相次いで生まれたが、いずれも基礎薄弱で、会社組織43社の大部分が消滅した。保険を営利の手段とする会社が多く、放漫経営による信用失墜が繰り返されていた。矢野恒太氏は1891年に日本生命保険の診査医を辞して一学究として保険の研究に入り、「非射利主義生命保険会社の設立を望む」と題する論文を公にして、相互主義による保険の普及を生涯の事業と定めた。

内容

矢野恒太氏は岡野敬次郎氏の推挙で農商務省に入省して保険業法を起草し、その業法に相互会社の規定を自ら設けた。法の施行とともに初代の商工局保険課長に就任したが、念願の設立に着手すべくまもなく退官する。日本で初めての相互主義の生命保険会社であるため基金の募集は困難を窮め、第百銀行頭取の池田謙三氏の斡旋を得て、原六郎氏・服部金太郎氏・森村市左衛門氏ら財界の有力者多数が基金を醵出した。

含意

良い契約だけを引き受け、約束したとおり第5期から社員への配当を始めたのは、最大であるより最良の会社であろうとする本領に沿ったものだった。在来の生命保険会社と比べて際立っていたのは、相互主義で運営すること、剰余金を契約者へ配当すること、代理店を置かないことの三点である。保険料はやや割高だった。それでも剰余金が配当として戻るので長く生きた契約者ほど実質の保険料は下がり、この仕組みが徐々に受け入れられて1921年には五大生命に数えられるまでになった。

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考察:資本を持たない会社が持ったもの
考察

考察:資本を持たない会社が持ったもの

相互会社を選ぶという判断は、理念の表明であると同時に、当時の生命保険業が抱えた最大の欠陥への処方箋だったのだろう。会社が相次いで消え、営利の手段として保険を扱う経営が信用を失っていた市場では、資本を出した株主が利益を取るという構造そのものが不信の源だった。剰余を契約者へ返す方式は、その不信を制度の側から断つ工夫であり、代理店を置かず募集の費用を抑える方針も同じ線の上にある。株主への配当という出口を塞ぐかわりに、契約者への約束を会社の唯一の債務にしたのだといえる。

もっとも、その形は資本を外から調達する手段を持たないことと表裏だった。基金20万円は財界の有力者から募ったもので、株式のように市場で売買して積み増せる資本ではない。会社を大きくする原資は契約から生まれる剰余しかなく、成長の速度は契約者から預かった資金の厚みに縛られる。創立から5期を待って社員配当にたどり着き、長生きするほど正味保険料が安くなるという評判が積み上がるまでに要した年月は、その制約の代価であろう。1902年に選んだ形が2010年の株式会社化まで解かれなかったことは、この選択がどれほど深く会社の骨格になっていたかを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年9月
概況
参考文献

参考文献

参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史「生命保険」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968年)第3編 企業の歴史「第一生命保険」の項
  • 日本会社史総覧(1995年)「第一生命保険」の項
  • 第一生命ホールディングス 有価証券報告書「第一生命ホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】」

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